プロローグ
窓の外では、イオーズ祭の
通りを渡す
片づけられず、骨組みだけを残した屋台。
誰にも外されないまま、
ヨートゥルムの街が数日前まで祭りの熱に包まれていたのだと、景色だけが語っていた。
だが、その隣では崩れた壁が積まれ、割れた窓に板が打ちつけられていた。
荷車はガレキを積んで行き交い、職人たちの声が荒く飛ぶ。
華やぎの残骸と、魔王被害の傷跡が、同じ通りに同居していた。
その景色を窓から見ているのは、一人の赤毛の少女。
修道服を脱ぎ、ホテルのアメニティであるパジャマを着た、ジェーン・ドウだった。
宿の個室で、彼女はベッドに身を預けたまま上半身だけを起こし、外の景色を見つめていた。
今の街に、余った部屋などほとんどない。
祭りの客に加え、家を失った者、復旧に来た者、騒ぎを聞きつけた者が街へ集まっている。
部屋が足りない中で、ジェーンには特別に個室が与えられていた。
魔王討伐に関わった功労者、という名目だ。
勇者扱いされるのは、どうにも落ち着かなかった。
本当に
しかし、今のこの身は復旧に
タラスクを召喚した反動で、足には力が入らない。立つことも、歩くことも、今はまだできない。
戦いが終わった後の静けさは、彼女の
窓から空を見上げると、あの2人が飛んでいった時の光景が自然とよみがえる。
思い出すのは、小柄な少女が銀髪の青年を
感動的な救出劇とは言いがたい。どちらかといえば、拾った荷物を抱えて退散する姿だった。
共に行動した時間など、短いものだった。
なのに記憶は、どれもやけに濃く、騒がしい。
魔女だ、魔人だ、魔王だ、勇者だと、息つくヒマもないほど事態が転がっていった。
あんな面倒な連中とは、もう二度と会えないかもしれない。
そう思った瞬間、小さく胸を締めつけられた。
──コン、コン。
控えめなノックが、物思いを断ち切る。
「入っていいわよ」
扉が開くと、修道士姿の男が室内へ入ってきた。
「久しぶりですね、ジェーン」
黒を基調とした、聖職者めいた装い。
柔らかい目元をした緑髪の男で、声を荒げる姿は想像しにくい。
それでもジェーンの目は、彼の穏やかな顔ではなく、黒衣の内側を追った。
腰元に革の
顔に視線を戻す。見覚えがあった。だが、肝心の名前がすぐには浮かばない。
「……ごめん。顔は覚えてるんだけど、名前忘れちゃった」
率直すぎる言葉に気を悪くした様子もなく、男は小さく笑った。
「構いません。覚えられるほど目立つ働きはしていませんから。
僕はヘクトールです。
「ああ、ヘクトール!
確かに、そんな名前だったわね」
軽いやり取りを終えると、ヘクトールはイスを引き、腰を下ろした。
彼は備えつけの小机に紙を広げ、羽根ペンを手に取った。
「それで、今回の任務と、それに付随する報告があるとの話ですが……。
今、話せますか? 無理なら後日にします」
「体はこの通りだけど、口まで動かなくなったわけじゃないわ。
話せるから、『
「助かります」
ヘクトールは、柔らかな仕草で
報告に入る前に、ジェーンは静かに呼吸を整える。
「それじゃあ、エリス・タークトッドの件についてだけど──」
それからジェーンは、数日前に起きたことを要点だけに絞って語った。
エリスの討伐。魔人の発見。そして、ガーノスヴァイエ討伐の
報告は、できる限り簡潔に済ませた。感情を挟む余地はない。
その報告の中で、ジェーンは協力者の名を口にする。
「その場には、ハルスフォート・ジェスベインってヤツがいたわ」
その名を聞いた瞬間、ヘクトールは目だけを紙面から上げた。
表情に変化はない。羽根ペンを持つ手も、まったく乱れなかった。
わずかな反応だった。
ジェーンはそれを深く追わず、ヘクトールの言葉を待った。
「その男は、どんな姿でしたか?」
「銀髪に青い目。年は20前後に見えるわ。
剣を帯びた魔剣士。口は悪いし、態度も最悪。けれど──少なくとも、子供を見捨てはしなかったわ」
ヘクトールは、間を置かずに尋ねた。
「魔王を討伐したリスティさんとハルスフォートは一緒に逃げたとのことですが、逃走先は?」
ジェーンは、一拍置いてから答えた。
「……正確には分からないわ。
けど、
ヨートゥルムから見て、南東方面よ」
「分かりました」
話し終えた途端、ジェーンは力を抜き、枕へ背を沈めた。
疲れを悟らせまいと、声の調子だけは保っていた。
しかし、話し終えた身体には、奥底から力を抜かれたような疲れが残った。
ヘクトールは、書き終えた記録を閉じる。
「報告は預かりました。あとは
「ええ。お願い」
穏やかな笑みを残し、ヘクトールは静かに立ち上がる。
「無理はしないでください、ジェーン」
「善処するわ」
ぱたり。
小さな音を立てて、扉が閉じる。
扉の向こうで、ヘクトールの足音が廊下を離れていった。
身じろぎもせず、ジェーンは遠ざかる気配に意識を澄ませる。
足音が遠のき、やがて同じ階にあったヘクトールの気配が完全に薄れた。
彼が階下へ降りたと確信してから、ジェーンは胸元に手を当てた。
胸の中には、確信と呼ぶには
このざらつきを放っておけず、ジェーンはベッド脇のパイプに手を伸ばす。
宿泊客がフロントを呼ぶために備えつけられた、簡易の伝声管だった。
ジェーンはパイプを
返事を待つ間、彼女の視線は部屋の隅に向けられていた。
考えすぎであれば、それで構わない。冷静であるべき思考の奥に、
──あの2人には、生きていて欲しい。
ほどなくして、扉の向こうから従業員のノックが聞こえた。
「お呼びでしょうか」
ジェーンは大したことではないような顔で、微笑んだ。
「少し、頼みたいことがあるの。
受取人は――ハルスフォート・ジェスベインよ」
* * *
ジェーンの部屋を出てから、数分後のことだった。
ヘクトールはすでに宿の階下にいた。
先ほどと変わらぬ顔つきで、従業員に声をかけている。
「仕事の書き物があるので、一時間ほど個室のラウンジを借りられますか?」
「ええ、はい。有償になります」
「100
ヘクトールは先んじて、従業員の手に100
「そうです。それでは、こちらへ」
紙幣を受け取った従業員は慌てて頭を下げ、商談用の個室ラウンジまでヘクトールを案内した。
商談用というだけあって、部屋は清潔に整えられていた。
艶のある木目を見せる机。
机を挟んで置かれた、客用のイス。
机上には羽根ペンとインクが置かれ、すぐに書き物を始められるようになっていた。
「それでは、失礼します」
「はい。案内ありがとうございます」
従業員が去り、ヘクトールは個室の扉を閉じた。
個室とはいえ、扉一枚で外の騒がしさが消えるわけではない。
外の騒ぎは壁越しに染みこみ、部屋の空気をわずかに乱していた。
ヘクトールはイスに座り、黒衣の内側から一枚の薄紙を取り出した。
彼は備えつけの羽根ペンにインクを含ませ、ただの紙に見える薄紙へ、静かに文字を刻み始めた。
任務、レイワズ王国のエリス・タークトッド事案及び、ヨートゥルムで発生した魔王案件について。
黒いインクが、紙の
しばらくすると、黒い文字の下に、赤いインクが
こちら、
報告を続けよ。
赤いインクで示された指示に従い、ヘクトールは筆を進めた。
この紙は、「
元は一枚の厚紙であり、そこから分かたれた薄紙同士は互いにつながっている。
片方に文字を書けば、もう片方にも同じ文字が浮かぶ仕組みだ。
遠隔地と情報をやり取りするための、ごく一般的な手段の一つだった。
彼の筆運びに、迷いはない。
エリス・タークトッドの討伐完了。
ヨートゥルムにて魔王ガーノスヴァイエ発生。討伐完了。
事務的に筆を進めた末に、ヘクトールは報告の結びを書きつける。
両件について、協力者としてリスティ・クノケウスと
なお、リスティ・クノケウスとその旅人は、ヨートゥルムより南東方面に逃亡。
筆先には、ためらいの影すらない。
ハルスフォート・ジェスベインの名も、その特徴も、
やがて、何もなかった余白にインクがじわりと浮かび上がる。
受領。
短い返答を読み終えるなり、ヘクトールは
報告は終わり、「
そして、渡さないと決めた名だけは、胸の内に
先ほどまで人当たりのよかった眼差しから、温度とまばたきが抜け落ちた。
「……ようやく見つけた」
──誰にも渡さない。あれは、自分が仕留めるべき獲物だ。
そこにあったのは、聖職者の目ではない。
獲物を見据える、