第1話
時は、ガーノスヴァイエ討伐が行われた早朝へと巻き戻る。
「ぎゃあああああああっ!?」
白み始めた空に、静寂を引き裂く悲鳴が響き渡った。
死を目前にした青年と少女が奏でる、情けなく切実な二重奏だった。
レイワズ王国、首都ヨートゥルム上空。
2人は今、
それは、魔剣士の青年ハルスフォートと、魔術師の少女リスティだった。
ハルスフォートは国家反逆の罪人として、リスティは対魔王兵器たる勇者として、王国に囚われる寸前だった。
その土壇場で、リスティはヨートゥルムからの一か八かの脱出に賭けた。
用いたのは、空を跳ぶ魔術──
だが、彼女に宿る桁違いの魔力は、その出力を過大に発揮した。
撃ち出された砲丸もかくやという勢いで、2人は王国の魔の手から逃れることには成功した。
そして今──
自由を得たはずの胸は、落下の感覚と死の気配に冷え、勝利の熱など跡形もなく吹き飛んでいた。
「おい! もう一度
「使ったとしても、また同じことになります!
再浮上と降下を繰り返していたら、いずれ海に出てしまうかも……」
「クソッ、おれがやるしかないか……!」
ハルスフォートは下から押し寄せる風圧に顔をそむけながら、口を開いた。
焦る精神を自らなだめすかし、彼は一語ずつ詠唱を引きずり出す。
「木々を渡る西風よ! 我が足先に羽根はあり、
彼の足元に、1つの
ハルスフォートの右半身は、
彼はその右腕でリスティを抱き寄せ、力強く叫ぶ。
「飛び立て──
足裏から、反発力が生じた。
落下速度は、わずかに減速する。
だが、遥かな高所から転じた運動エネルギーは、ハルスフォートの魔術で完全に止められるほど生易しくなかった。
彼の
「くっ……せめてどこに落ちるか選ばせろ!」
猛烈な風切り音の中、眼下に座す岩山が視界に迫る。
あの硬い岩盤に激突すれば、2人仲良く潰れて即死だ。
ハルスフォートは生存確率を少しでも上げるため、
岩山を避け、せめて
地面に迫る中、リスティはマントの下から革袋を取り出した。
革袋の口から硬貨がジャラリと
「なにをしてるんだ!?」
「生き残るための事後策です!」
彼女の意図をこれ以上問いただす余裕などなく、ハルスフォートは最後の警告を放った。
「あの森に突入する! 体を守れ!」
「分かりました!」
2人は、それぞれのマントで身を包んだ。
迫ってくるのは、生い茂る広葉樹の海。
ガザガザバギヅッ!
全身を打ち据える衝撃。マントを突き破り、肌を切る痛み。
ガズッ!
その終着点。腐葉土に
「痛ッ!」
不幸中の幸いは、頭から落ちなかったことだった。
しかし──体のあちこちに、肉の見える傷。
脚の具合からして、骨折もしているだろう。
痛みに掻き乱される心を
「慈愛の雫、息吹の熱。我が束ねて
手の平から光が
だが、効果はそれだけだった。
ハルスフォートの魔力量で治せるのは、
ハルスフォートは隣を見た。リスティも命に別条はなさそうだが、足を見れば
その痛みに耐えきれなかったのか、意識がない。
仮に起きたとしても、未熟なリスティは痛みに精神を散らし、
医者にかかる必要があった。
だが、ここはどことも知れない森の中だった。
互いに歩けない状態で、どう助けを呼べばいいのか。
「逃げ出せたとはいえ……どうにもできんぞ……!」
その呟きを最後に、視界の端から黒い闇が
夜通し動き続けたことによる疲労。墜落による消耗。
激痛すらも麻痺させる睡魔が、ハルスフォートの意識を闇に閉ざした。
冷たい雫が、頬を叩いた。
「ん……」
リスティが起き上がり、自身の頬を撫でる。
頬を撫でた手は、透明な水に濡れていた。
見上げた先で葉先がきらめき、そこからこぼれた
それ以外に、覚醒を促す要素はない。
痛みがなかった。
「えっ?」
リスティはハッとして、自分の足へと視線を落とした。
気絶する前には確かに折れていた足が、何もなかったかのように真っ直ぐ伸びていた。
腕や腹をえぐるような傷もない。
残っているのは、傷の痕跡を示す血痕つきのマントだけだった。
「夢じゃない……」
リスティは周囲を見回した。
木漏れ日が差しこむ、朝の森。
そんな平穏を破るように、折れた枝が散乱している。
おそらく、墜落の際に巻きこんだものだろう。
墜落したのは事実だ。しかし、その際に負った傷が自然治癒するはずはない。
その回答になり得るものは、開けた場所に張られた、見覚えのないテントだった。
テントは、木と木の間に渡したロープへ布を被せる形で建てられている。
リスティは立ち上がると、テントへ歩み寄った。
指先で入口の布を持ち上げ、彼女は息を潜めて中を
その中には、男が2人いた。
一人はハルスフォートだった。
彼の負傷も癒えていたが、
上半身の服とマントは脱がされ、無造作に畳んで置かれていた。
もう一人は、見知らぬ男だった。
年の頃は30歳前後。浅黒い肌に、
彼は
リスティが声をかけようか迷ったそのとき、男が先んじて口を開いた。
「ちょっかいは出すなよ。術が狂う」
男のぞんざいな言葉に、リスティは異論もなく従う。
しかし興味と不安から、彼女は覗くことを止めず、様子を見守った。
男は、自身のマントを
マントには、細く薄い刃物や皿、薬草、アンプルなどがくくりつけられていた。
男は皿と、無色透明な薬液を封じたアンプルを手に取る。
アンプルを折って薬液を皿に空けると、男はそれを指につけ、ハルスフォートの体に塗り始めた。
塗り方は不均一だった。透明な薬液が、指で紋様を描くように肌を這っていく。
右半身と左半身とで同じ軌跡を描いた後、男は天体図を参照しながら、テントの
男は右手でハルスフォートの右半身に触れ、左手で魔術書のページをめくる。
「──天極に
左手の指は、ページに記された星と道の発音表を素早くなぞり、
その様子を見て、リスティは確信に至った。
これは儀式魔術だ。
魔術には様々な分類があるが、実行内容による分類として、「詠唱魔術」と「儀式魔術」の二大分類がある。
普段、ハルスフォートやリスティが使うのは詠唱魔術だ。
対して儀式魔術は、薬、図形、星、場──あらゆる要素を術式へ縫い込む。
占星術、薬学、紋章学を用いた高度な儀式魔術。その目的は──魔術的変質の正常化だった。
「──上の如く、下も
男の詠唱が結ばれるのを合図に、テントの天井に描かれた紋様と、ハルスフォートの体に塗布された薬液が、呼応するように赤く染まる。
赤く変色した薬液は淡い光を明滅させ、変質していた右半身の肉を波立たせた。
「う……」
ハルスフォートが
肉が脈動し、あるべき姿へ戻っていく。
正常に近づくにつれてハルスフォートの表情は苦悶の色を増し、ついに──。
「
ハルスフォートがガバッ! と上半身を起こす。
薬液はもとの透明さを取り戻し、彼の体からは傷も
ハルスフォートの無事を認めたリスティは、テントの入り口をくぐって駆け寄った。
「ハルスフォートさん!」
「……さっきまでメチャクチャ痛かったが……いつの間に治ってる? どういうことだ?」
ハルスフォートは痛みに顔をしかめながら、自分の体を見回した。
そして、皿の薬液をぬぐってマントにしまう男に気づく。どうやら後始末の最中らしい。
「……あんたが、やってくれたのか?」
「そうだ。意識障害はないようだな」
男は魔術書を閉じながら、鼻を鳴らした。
相手は恩人である。2人は揃って頭を下げ、感謝の意を表した。
「助けていただき、ありがとうございます!」
「礼を言う。まさか、目覚めたら完治しているとは思っていなかった」
2人の素直な態度に、男は満足げに頬を上げる。
「当然だ。私にかかれば、大抵の症状を治療できる。
まあ、君の魔術的変質については苦労したがね。
星の巡りが悪ければ、10日後まで待つところだったよ」
男は広げた天体図を指し、肩を
「しかし、どうして森の中から、おれたちを見つけられたんだ?」
「それはだな──」
ハルスフォートの疑問に、男はマントの内側から革袋を引っぱり出した。
男は革袋に手を突っこみ、硬貨をジャラリと手の平に広げる。
「──事情があってな、早朝の森を歩いていた。
すると地面に光るものがある。拾えば硬貨だ。
それも一枚や二枚ではない。全部を拾い集めていくうちに、君たち2人に行き当たったというワケさ」
「なるほど……」
ハルスフォートは納得して息を吐き、リスティへ視線を流した。
落下直前、彼女が硬貨を
その策が、こうして実を結んだのだ。
「さて──」
男は硬貨を革袋へ戻し、その口元にゆっくりと笑みを浮かべる。
それは打算的な笑みだった。
「私は旅の
この硬貨を
さて、ここからが本題だ。交渉の話をするとしよう」
「ああ。さすがにタダで治してもらおうなんて、図々しいことは言わないさ」
ハルスフォートが話に乗ると、男は指折り数え上げる。
「消費した魔法薬に、術式の難度。
治療報酬を考慮すれば──2人合わせて2万Gといった所か」
『2万G!?』
異口同音に、ハルスフォートとリスティがその額を復唱する。
2万G。一軒家が建つ額である。
「払えないか?」
足元を見るように、男はニヤリと笑う。
2人は顔を見合わせ、深くため息を吐いた後──決心したように
「手痛い出費だが、出先の治療なら妥当だ。仕方ない」
「はい。現金の手持ちはないのですが──」
「そうだ。君たちには到底払えない額だろう?」
男が「計画通り」と言わんばかりにほくそ笑む。
それに対し、2人はそれぞれ別の物を差し出した。
ハルスフォートの手には装飾紙。
リスティの手には、液体をたたえた小瓶が数本あった。
「
多分リスティより、おれの方が治療報酬は高いだろう。おれの分の額を書いてくれ」
「え?」
男は泡を食ったように目を丸くする。
追い打ちをかけるように、リスティは手の中の小瓶をそっと前へ差し出した。
「魔法薬です。現金ではなく申し訳ないですが……金額相当以上の分をお取り下さい。
「は?」
男は、差し出される価値に戸惑い、受け取ることもできずに視線を迷わせた。
「どうした? もしかして口座を持ってないのか?」
「もし商売が苦手でしたら、わたしが代わりにしましょうか?
少しだけ、同行していただく形にはなりますが……」
「…………」
2人の豊かな懐事情を知った男は、これまでの態度を一変させ、頭を下げた。
「スミマセン。治療費の代わりに、どうか依頼を受けていただけないでしょうか……」