「ギィィィィィッ!」
森を揺らす怒号が、木々の枝葉を震わせた。
「クソッ!」
ザッ!
ハルスフォートは剣を構え直し、目覚めた雷ドレイクの前へ出る。
「グルルル……」
低く唸りながら、ドレイクはゆっくりと頭を巡らせる。
ドレイクの瞳に、リスティが映った。
「……っ」
リスティは息を呑み、その場で身を固くした。
その背後では、メスを握ったままのワローが、青ざめた顔で一歩後ずさる。
ドレイクは二人を見据えたあと、最後にハルスフォートへ顔を向けた。
ハルスフォートの衣服には、囮となるために浴びた鹿の血が、まだべったりとこびりついている。
濃密な血臭を嗅ぎ取ったドレイクの瞳が、細く
「……そうだ。おまえの相手はおれだ」
ハルスフォートは呟き、剣の切っ先をわずかに下げる。
彼はドレイクから目を逸らさないまま、声を張り上げた。
「リスティ!
「は、はい!」
リスティは即座に返事をし、一歩だけ後ろへ下がった。
彼女は喉元へ手を当て、息を吸う。
「原始の槍。極北の大海を統べる青──」
凛とした詠唱が始まる。
同時に、雷ドレイクの頭が低く沈んだ。
「グウギュッ!」
ザグッ!
後脚の爪が、地面を掻き蹴った。
ズンッ!
巨体が一息に間合いを潰す。
「ギャアアアァッ!」
ハルスフォートの上半身へ食らいつかんと、牙の並んだ大口が開かれる。
牙が噛み合う寸前、ハルスフォートは身を沈めた。
ガチンッ!
頭上で、鋭い牙が空を噛む音。
雷ドレイクの下顎すれすれを潜り抜け、その長い首の脇へ滑り込む。
ハルスフォートは低い姿勢のまま、ドレイクの胴体に沿って駆けた。
狙うのは、巨体を支える右の後脚。
「そこだ!」
ザシュッ!
「ギャアッ!?」
青い血が飛び散る。
雷ドレイクの右脚から力が抜け、巨体が大きく傾いた。
ズズンッ!
ハルスフォートの背後で、リスティの詠唱が続いている。
──まだだ。
詠唱の完了にも、腱を断ち切るにも、まだ浅い。
動きを鈍らせることはできても、あれだけの巨体を止めるには至らない。
「グギュアアァッ!」
雷ドレイクは倒れかけた体を、片翼で支えた。
翼が地面を打ち、土と落ち葉を巻き上げる。
羽毛に覆われたその翼はハルスフォートの胴回りよりも太い。
飛ぶための腕であると同時に、獲物を殴り殺すには十分すぎる凶器だった。
ドレイクが体を捻る。
地面についていた翼とは反対の翼が、横薙ぎに振るわれた。
ブオンッ!
「ちっ!」
広範囲の攻撃。
ハルスフォートは後ろへ跳ぶのではなく、ドレイクの懐へ踏み込んだ。
翼の先端ほど速度は増す。
ならば、付け根へ近づく方が威力は弱まる。
だが、完全には避けきれない。
ドガッ!
「ぐっ!」
翼の関節部分から生えた爪が、ハルスフォートの左腕から肩を掠めた。
服が裂け、皮膚に鋭い痛みが走る。
ザッ!
衝撃に押され、足が横へ流れた。
ハルスフォートの靴が、地面に広がる青い液体を跳ね上げる。先ほど倒したドレイクの血の海だ。
ハルスフォートは血の
ザンッ!
刃が羽毛を裂き、翼の付け根へ深く食い込んだ。
「ギャアアァッ!?」
ドレイクが絶叫する。
振るわれていた翼から力が失われ、だらりと地面へ落ちた。
右の後脚から青い血を流し、片翼も満足に動かせない。
それでも、ドレイクは倒れない。
「グゥゥゥゥ……!」
痛みに震えながら頭をもたげ、ハルスフォートを睨みつける。
その青い瞳が、燃え上がるような怒りに染まっていた。
バヂッ!
ドレイクの青い尾で、紫電が爆ぜた。
「──っ!」
ハルスフォートが息を呑む。
身を斬られた痛みに、ドレイクは最大の攻撃手段で復讐しようとしていた。
狙いを定める素振りすらない。怒りのまま尾を跳ね上げ、その先端へ雷を集めていく。
バヂッ、バヂヂッ!
火花が鱗の上を駆け、周囲の空気を震わせる。
逆立った羽毛の間からも、細い雷光が漏れ出していた。
──来る!
ハルスフォートは即座に
先の戦闘と同じだ。
雷撃が放たれるより前に剣を地面へ突き立て、電気を地中へ逃がす。
「グギャアアァッ!」
雷ドレイクが尾を振り抜く。
ハルスフォートは両手で剣の柄を握り、足元へ刃を突き立てた。
ザグッ!
ダッ!
すぐにバックステップし、避雷針から身を離す。
直後、紫色の雷が迸る。
バヂィィィィッ!
耳をつんざく音とともに、雷撃が剣へ吸い寄せられた。
剣身を伝った雷光が、地面へ落ちる。
──防いだ。
ハルスフォートが思った瞬間、そして自らの足が地面に触れた瞬間。
グジュッ。
足元の嫌な感覚と共に、気づいた。
両の靴は、先ほど倒したドレイクの血に沈んでいる。
剣を突き立てた場所も。
自分が立つ場所も。
すべて、同じ血の海の中だった。
「まずい──!」
バヂンッ!
剣から血へ、電流が伝う。
細い雷光が、血の海を走った。
青い水面を這う稲光は、瞬く間にハルスフォートの足元へ殺到する。
バヂチヂチッ!
「があっ!?」
両脚から、焼けるような衝撃が駆け上がる。
筋肉が意思を無視して強張り、背が反り返った。
息を吐くことも、声を上げることもできない。
「あ──」
視界が白く染まる。
直立したまま、ハルスフォートの全身が一度だけ大きく震えた。
そのまま彼は、青い血の中へ前のめりに倒れ込んだ。
──クソッ、しくじった……!
悪態を吐く時間もなく、意識が途切れた。
* * *
ハルスフォートの体が、前のめりに倒れた。
バシャッ!
青い血が跳ね、その姿が血だまりの中へ沈む。
「ハルスフォートさん!? 大丈夫ですかっ!?」
リスティが詠唱を途切れさせ、その名を呼ぶ。
返事はない。
倒れたまま、ただ小指だけがぴくり、とだけ
「死んだと決まったわけじゃない……!」
助けに行きたい気持ちをこらえ、リスティは冷静に努めようとする。
震える指先が、無意識に胸元へ伸びた。
服の上から、首飾りに通した指輪へ触れる。
「……落ち着いて」
ハルスフォートは動けない。
ワローは戦えない。
今、雷ドレイクを止められるのは、自分しかいない。
まずは、この場にいる全員が生き残ること。
「ギャオオオオオォッ!」
ドレイクが咆哮した。
ハルスフォートを倒したことを誇るように頭をもたげ、翼を大きく広げる。
空気が震え、リスティの髪が揺れた。
「ひっ!」
喉の奥から、かすかな声が漏れた。
指輪を握る手に、力が入る。
──この指輪を使えば、すぐに巨大な炎の柱を生み出せる。
詠唱が間に合わないと判断した時は、迷わず使う。
そう心得て、リスティは指輪を握ったまま、喉元へもう片方の手を添えた。
途切れた魔術は、最初から唱え直さなければならない。
「……げ、原始の槍。極北の大海を統べる青──」
かすかに震える声で、
「グルルル……」
咆哮を終えたドレイクが、ゆっくりと頭を下ろした。
血だまりに倒れたハルスフォートから、視線を外す。
青い瞳が、詠唱を続けるリスティへ向けられた。
「……っ」
指輪を握る手に、汗が滲む。
それでもリスティは言葉を止めなかった。
「凍て付け
カサッ……。
その視界の端で、何かが動いた。
「……私は逃げるぞ」
こっそりとつぶやいたのは、リスティの背後にいたワローだ。
青ざめた顔で息を殺し、ドレイクから目を離さないまま、そろりと片脚を引く。
「────」
リスティは絶句し、詠唱を一瞬止める。
薄情な、とは少し思うものの、そもそもリスティとハルスフォートは討伐依頼の任を負った戦闘要員だ。依頼人の逃亡を咎める立場にはない。
スッ。
リスティはワローをかばうように、片手を横へ広げた。
「……すまん」
彼はカバンを胸元へ抱え、音を立てないよう慎重に距離を取っていく。
「グゥゥ……」
ドレイクが低く唸り、翼を持ち上げる。
その動作に、ワローはビクッ! と肩を揺らし、弾かれたように背を向けた。
恐らく、恐怖に屈したのだろう。
ダッ!
森の奥へ向かって、一気に走り出す。
「ギュウゥ!?」
ドレイクの頭が、跳ねるように動いた。
逃げていくワローへ、青い瞳が向けられている。
「ギイィッ!」
ドレイクが地面を蹴った。
ドッ!
傷ついた右の後脚が一瞬だけ沈み、巨体が傾く。
しかし、無事な脚で強引に地面を蹴り直し、ワローを追って駆け出した。
「うおおおおぉぉぉぉぉっ!?」
野太い悲鳴を上げながら、ワローは森の奥へと逃げ続ける。
背後から迫る足音に、ワローが振り返る。
すぐそこまで、ドレイクの牙が迫っていた。
「ま、待て! 私は若くないから旨くない──」
ガブッ!
牙が噛みついたのは、ワローの体ではなかった。
背中へ垂れたマントの裾だ。
「……は?」
ブオンッ!
「ひぎゃあああぁぁぁっ!?」
ドレイクが首を振り、ワローの体を宙へ持ち上げた。
両脚が地面から離れる。
ドレイクは獲物を仕留めようとはせず、咥えたマントを振り回し、ワローを縦回転させる。
ブンッ! ブンッ!
「あああぁぁぁぁぁっ!?」
振り回され、ワローの悲鳴が木霊する。
カバンも、体の動きに遅れて激しく振り回された。
ガチッ!
カバン金具が鳴り、留め具が衝撃に耐えきれず外れた。
バサッ!
開いたカバンの口から、中身が宙へ飛び散る。
その中の一つが、地面へ落ちた。
ドサッ!
厚い表紙を跳ねさせながら、魔術書がリスティの足元で止まった。
リスティは足元へ落ちた魔術書を見下ろした。
「これは……」
戦闘を始める前、ワローから借りて読んだ本だ。
その中に書かれていた初級魔術の一つ、雷の初級魔術、
そして、ワローが言っていた言葉。
──デンキウナギだって、自分の雷で感電する。
少なくとも、体内まで完全に絶縁されているわけではない……!
先ほど眠っていたドレイクも、メスを通して体内へ雷を受けたことで目を覚ました。
雷を操る生き物でも、雷が効かないわけではない。
とはいえ、ドレイクの体は自ら生み出す雷へ耐えられるようにできている。
ならば、リスティの膨大な魔力で
けれど、雷なら。
殺さずに、気絶に留められる可能性がある。
「もしかしたら……ドレイクを殺さずに、依頼を果たせるかもしれない!」
成功する保証はない。
だがリスティは希望を見出し、魔術書へ手を伸ばした。
本を拾い上げ、表紙を開いた。
以前に読んだ攻撃魔術の項目は、確か後半にあった。
付箋を指で追いながら、急いでページをめくる。
「あった!」
リスティの指が
左手に広げた魔術書を、右手に指輪を構えた。
そこで登場する公式詠唱の発音は、どれもリスティが知っているものだ。
「行ける」と踏み、リスティが文字を辿りながら詠み始めた。
「──
その間にも、ワローはドレイクの口元で縦に振り回され続けていた。
「うあああああぁぁぁっ!?」
ブンッ! ブンッ!
ドレイクは首を上下させ、玩具を振るうように何度もワローを回転させる。
図らずも、ワローは囮として活躍していた。
そして、充分に遊んだとでもいうように──。
「ギュウッ!」
勢いをつけたまま、大きく口を開いた。
「え──」
ヒュンッ!
遠心力から解放されたワローの体が、森の中へ放り出される。
「うわああああぁぁぁっ!?」
マントをはためかせながら、ワローは宙を飛んだ。
ドガッ!
背中から木の幹へ激突する。
幹が震え、枝葉がざわめいた。
ワローの体はそのまま地面へ落ち、木の根元に崩れ落ちる。
声を上げたい所をぐっと堪え、リスティは続けた。
「天帝、息吹は凶を告ぐ──」
震える息を吸い込んだ。
「ギュルル……」
ドレイクは木の根元に倒れたワローを見た。
口には、千切れたマントの裾が残っている。
ブンッ!
煩わしそうに首を振り、布切れを地面へ吐き捨てた。
背後から響き続ける声に、ドレイクの首が動く。
「ギュ……?」
青い瞳が、魔術書を片手に詠唱するリスティを捉えた。
リスティは本から目を上げない。
文字を一つでも読み違えれば、魔術は発動しない。
喉は震え、呼吸は浅い。
それでも、詠唱を止めることだけはしなかった。
「グルルル……!」
ドレイクがリスティへ向き直る。
傷ついた右の後脚を引き、地面へ身を低く沈めた。
ダンッ!
後脚が土を蹴る。
リスティは魔術書へ視線を落としたまま、胸元の指輪を強く握った。
まだ時間はある。
指輪は、最後の手段だ。
詠唱が間に合う限り、使わない。
「ギィィッ!」
一歩ごとに巨体が近づく。
青い血が後脚から滴り、土の上へ点々と跡を残した。
「
リスティは詠唱文を追う。
もう残りはわずか。
しかし、ドレイクとの距離も、急速に失われていく。
ズンッ!
地面が揺れた。
視界の端へ、ドレイクの青い巨体が迫る。
荒い息遣い。
土を削る爪の音。
開かれた口の奥に並ぶ鋭い牙。
──間に合わない。
胸元の指輪を握る手に、力を込める。
詠唱を捨て、炎の柱を放つ。
その覚悟を決めた瞬間。
グキッ!
「ギャッ!?」
ドレイクの右の後脚が、折れるように崩れた。
前へ傾いた巨体を、傷ついた翼で支えることもできない。
ズズンッ!
ドレイクは地面へ倒れ込み、そのまま勢いよく滑った。
土と落ち葉を押しのけながら、巨大な頭がリスティへ迫る。
「──っ!」
リスティはその場から動かなかった。
ドレイクの巨体は、彼女の数歩手前で止まった。
静止したのは、ほんの一瞬。
「グ、ギィ……!」
ドレイクは無傷の翼を地面へつき、残った後脚へ力を込める。
首を持ち上げ、再び起き上がろうともがいた。
ハルスフォートの与えた傷による、稼いだ時間。
──間に合う!
リスティは魔術書に記された最後の言葉を目で捉える。
「震天、
顔を上げる。
リスティは起き上がろうとするドレイクを正面から見据え、開いていた魔術書を胸元へ抱き寄せた。
「──
リスティが力強く術名を叫ぶ。
バヂィッ!
周囲の空気が震え、彼女の前方に紫色の雷光が生まれた。
それは初級魔術と呼ぶには、あまりにも巨大だった。
128個の
バヂヂヂヂヂッ!
魔力が解き放たれた風圧に、リスティの髪とマントが激しくなびいた。
「くっ……!」
魔術書を胸元に抱えたまま、一歩だけ後ずさる。
それでも、敵から目は逸らさない。
起き上がりかけていた巨体へ、紫電が一直線に突き進む。
ドンッ!
閃光が、雷ドレイクを呑み込んだ。
「──!」
雷ドレイクは声を上げる間もなく、首を持ち上げた姿勢のまま硬直した。
無傷の翼を地面へつき、残った後脚で体を支えたまま、全身が動きを止める。
紫色の光が羽毛の間から漏れ、ウロコを白く照らした。
……パチィッ。
残滓のような雷音が、辺りで何度も跳ね回った。
やがて、静寂が戻る。
ドレイクを支えていた翼から、力が抜けた。
ズシンッ。
ドレイクが横倒しになり、鈍い地響きが足元を伝う。
リスティは倒れた巨体から最後まで目を逸らさなかった。
指輪に触れたまま、リスティは静かに息を吐いた。