第9話 巨怪の怒り
「──
街道を歩きながら、リスティの声が響く。
途中まで一定のリズムだったが、
隣を歩くハルスフォートを見上げると、彼は唇を尖らせて指摘した。
「
ノドの奥を震わせて、そのまま息を舌の裏へ滑らせる」
「あ、ありがとうございます」
彼女はぺこぺこと頭を下げてから、再び前を向いた。
左右には草原が広がり、その間を一本の街道が南東へ伸びている。
朝にワローと別れてから、2人はひたすらシステリム町へ向かって歩き続けていた。
今日中に町へ着くことはできない。
このまま進めば、到着は明日になる見込みだ。
「じゃあ、もう一回──」
「待て。そろそろクールタイムに入った方がいい」
「分かりました」
ハルスフォートが制止し、リスティは口を閉じる。
逆を言えば、短時間に
詠唱や
短時間のうちに
意図しない形で詠唱が繋がり、未知の魔術として成立してしまう危険性がある。
過去にはそれによって爆発や変質が生じ、術者だけでなく周囲を巻き込んだ例もある。
ただ、これに対する対処法もある。
「ただでさえ、おまえさんは魔力が高い。その力で未知の魔術が暴発すれば十中八九事故になる。
制御不能な力は、ただ周りを傷つけるだけだ」
「……肝に銘じます」
風に揺れる草の音と、2人分の足音だけが街道に残る。
しばらくの沈黙を挟み、ハルスフォートは指揮のように指を振った。
「やるぞ」
「はい!」
今度は少し弾んだ返事をして、リスティは息を吸いこんだ。
歩きながら詠唱し、少し経てば普通の会話でクールタイムを設け、また詠唱をし──。
そうして何度か繰り返しているうちに、街道へ落ちる2人の影が随分と長くなっていた。
「──日が落ちてきましたね」
乾いたノドを水筒で潤し、リスティがぽつりと呟いた。
「ああ、今日はここまでだろう」
陽はすでに地平へ近づき、空には薄い橙が差している。
まだ歩けないほど暗くはないが、野宿の準備を始めるなら頃合いだった。
リスティは肩に掛けていた荷物へ手を回し、中から折り畳んだ地図を取り出す。
「現在地はこの右下の辺りですね。
そうなると、北の方角に川があるはずです」
足を止め、道端で地図を広げる。
ハルスフォートも隣から覗き込み、周囲の地形と見比べた。
「川までは、そう遠くなさそうだな」
ハルスフォートは顔を上げ、街道の脇へ視線を向ける。
2人が歩いている街道は、森の中を通っている。
道の上だけは木々が途切れて空が覗いているが、一歩外れればすぐに幹と下草の広がる林間だ。
「じゃあ、行きましょう」
リスティは地図を畳み、荷物へ戻す。
2人は街道を外れ、北へ向かって木々の間へ入っていった。
剣の柄に手を置くハルスフォートを先頭に、リスティが彼に続く。
道を離れた途端、足元は踏み固められた土から、枯れ葉と伸びた草に変わる。
木々に遮られ、夕陽も街道にいたときより幾分暗く感じられた。
「川が見つかったら、今日はそこで野宿ですね」
「ああ。薪になりそうなのも拾っとけ」
「分かりました」
リスティは歩きながら、目についた乾いた枝を拾っていく。
「明日はシステリムですね」
「予定通りならな」
「着いたら、まず宿を取りますね。
ヨートゥルムの時のように、宿に難儀するかもしれませんし」
「宿についてはおまえに任せる。おれは銀行と買い出しに行く」
「待ち合わせは噴水広場にしましょう。
システリムは水と霧の町らしいですよ」
そんな取り留めのない会話を交わしながら、2人は街道から離れて森の奥へ進んでいった。
川の音は、まだ聞こえない。
ハルスフォートは木々の隙間へ視線を巡らせながら、歩みを進めた。
「──ん?」
不意に、その足が緩む。
「どうしました?」
少し後ろを歩いていたリスティも立ち止まり、彼の背を見上げる。
ハルスフォートは答えず、正面からやや左──何本もの木々が重なる向こうへ目を凝らす。
幹と枝葉の隙間。
夕暮れの薄暗い森の中に、周囲とは明らかに色の違うものがあった。
「……何かいるな」
「何か?」
リスティも同じ方向を見るが、すぐには見つけられないらしい。
「どこですか?」
「あの太い木の奥……明るい色の、動いてるヤツが見えるだろ」
「明るい……?」
言われて目を細めるものの、リスティにはまだ何があるのか判別できないようだ。
獣にしては妙に背が高く、横幅がない。
かといって、木の幹や岩とも違う。
微かに動いたことで、少なくとも生き物だとは分かった。
そのとき──向こうの動きも止まった。
こちらを向いたように見える。
「気づかれたな」
「クマですか?」
「さあな」
人影らしい形ではある。
だが、森の中で擬態できない色が剥き出しになっているのは不自然だ。
ハルスフォートは腰の剣をいつでも抜けるよう、意識を向けたまま歩き出す。
「いつでも逃げられるようにしていろ」
「分かりました……」
2人は縦に列をつくり、木々の間を進む。
向こうにいる何かも逃げようとはしなかった。
むしろあちらも警戒しているようで、こちらをじっと見ている。
距離が縮まるにつれて、その輪郭が少しずつ明瞭になっていった。
「……人か?」
歩みは緩めず、ハルスフォートが呟く。
もう少し近づき、木の幹に遮られていた全身が見えるようになる。
銀髪の女だ。
年頃としては20歳弱か。
すらりと伸びた脚に、引き締まった腰。滑らかな白肌に、豊かなカーブを描く胸。
しかし何故、それを一目見ただけで分かったかと言えば──。
「…………」
ハルスフォートの足が止まった。
女は、何も身につけていなかったからだ。
夕暮れの森の中、文字通りの裸身を晒して立っている。
「ハルスフォートさん?」
何が見えたのか分からないリスティが、彼の横からひょこりと顔を出そうとする。
ハルスフォートは即座に片手を伸ばし、その頭を押し返した。
「見るな!」
「わっ!? なんですか!?」
リスティは困惑しながらも、頭を押さえる手を退けようとはしなかった。
ハルスフォートは彼女の視界を塞いだまま、改めて裸の女を見る。
見間違いではなく、すっぽんぽんだった。
そして女の方もまた、自分がどう見えているのか理解しているらしい。
先ほどまでの警戒した動作に、明らかな焦りが混じっていた。
ハルスフォートは眉間にシワを寄せ、深くため息を吐く。
「……また変態か」
思わず、口から零れた。
ハルスフォートの脳裏に、金髪のシーツ男や、スリル狂いの少女がよぎる。
「ち、違う! 誤解だ!」
即座に怒声が返ってくる。
聞こえていたらしい。
「大きく括られるのがイヤなのか? なら裸族と的確に言うぞ」
「これは好きでやってるわけじゃない!」
女は言い返しながらも、裸身を隠そうとはしなかった。
それどころか、羞恥よりも別の何かに気を取られているように見える。
視線が落ち着かず、時折、自分の胸元へ意識を向けていた。
チャキッ。
不自然な動作に、ハルスフォートが剣を抜く。
「じゃあ何なんだ?」
「事情は後で話すから! ただ、今は──」
そこで女が、不意に言葉を詰まらせた。
片手で胸元を押さえ、わずかに身体を屈める。
「自分から離れて!」
女は顔を上げ、今度は懇願するように叫んだ。
ハルスフォートは眉をひそめる。
意味は分からないが、少なくとも虚勢や時間稼ぎには見えなかった。
「……リスティ、聞いてたか?」
「はい。……なにか不穏そうですね」
ハルスフォートは彼女の頭から手を離した。
「下がれ、離れろ。ゆっくりでいい」
「……分かりました」
彼の真面目な声音に、リスティは問い返さず数歩後ろへ退いた。
ハルスフォートも女へ剣先を向けたまま、一歩ずつ後退する。
背を見せない。
何が起きるか分からない以上、視線を外すつもりもなかった。
「これでいいか?」
問いかけに、女は答えない。
「……っ、ぁ……」
いや、答えられないようだった。
胸を押さえたまま、さらに深く身体を折る。
銀髪が顔へ垂れ落ち、肩が大きく上下する。
「ぐっ……ぁ、あ……!」
次の瞬間。
ズズッ……。
白い背中を、銀灰色の獣毛が覆った。
肩口から背中へ。
腰から脚へ。
「ハルスフォートさん、あの人……!」
「見りゃ分かる!」
女の身体が、目に見えて膨れ上がっていく。
ボコッ!
細かった腕に筋肉が隆起し、肩幅が広がる。
脚も太くなり、地面を踏む足が見る間に巨大化していく。
「っ──!」
ハルスフォートが剣を握り直す。
女の背丈は、すでに先ほどまでとは比べものにならない。
丸めていた背が盛り上がり、四肢の均衡そのものが人間の形から外れていく。
体長5メートルほどの、ツノの生えたオオカミ。
女──であった巨怪が、こちらを向いて威嚇を上げた。
「ガアアァッ!」
巨怪が咆哮し、地面を蹴った。
「リスティ、下がれ!」
ハルスフォートが叫んだ直後、巨怪が一気に間合いを潰す。
ガギィン!
振り抜かれた爪を剣で受け流す。
腕に重い衝撃が走り、ハルスフォートの身体が数歩押された。
「速いうえに、重いな……!」
続けて牙が迫る。
その間へ剣を差し込み、噛みつきを押し留めた。
純粋な力では分が悪い。
「
ズガアッ!
「グウッ!?」
地面から突き上がった土塊が腹部を打ち、巨怪のアゴを跳ね上げる。
ハルスフォートはその隙に剣を抜き、後ろに跳んで離れた。
「こいつはおれが引き受ける! 声が聞こえる程度まで離れてろ!」
「はい!」
「ガアアッ!」
巨怪が即座に復帰し、再び飛びかかる。
ザッ!
今度は爪を躱し、すれ違いざまに前脚を斬った。
ザシュッ!
「ギャウッ!」
銀灰色の毛皮が裂け、血が散る。
浅い。肉にも腱にも届いていない。
だが、剣を心臓に突き刺すことは
──自分から離れて!
巨怪になる直前、あの女は確かにそう言った。
自分が危険になると知っていて、2人を逃がそうとしたのだ。
「いきなり首を落とすのも寝覚めが悪い……!」
殺すのは最後の手段。
まずは動きを止める。
そう考え、ハルスフォートが次の攻撃をいなした時だった。
「……!」
先ほど斬った前脚に目を向ける。
傷が──消えていた。
裂けた肉は瞬く間に繋がり、流れていた血も止まっていく。
「おいおい……」
人間から異形へ変貌する身体。
異常な再生能力。
「こいつ……魔人か?」
確証はないが、普通の人間でないことだけは間違いなかった。
ギィンッ! ガキッ! ドズッ!
その後、数回攻撃を交わす。
「なんとかいなせる。負けることはないが……」
牙を剣で押し退け、間合いを切る。
「勝つこともない、か」
ハルスフォートは舌打ちした。
「リスティ!」
「はい!」
「
「──っ」
返事が一瞬遅れた。
「……殺すんですか?」
「ああ! このままじゃ、どうにもならん!」
「でも、あの人……わたしたちに離れろって言いました!」
ギリィッ!
ハルスフォートは巨怪の爪を受け流す。
「分かってる! だが、おれたちまで殺されてどうする!
何も準備してなきゃ、必要になった時に選ぶことすらできねえぞ!」
「それも分かります!」
リスティは唇を結んだ。
そして、胸元へ手を伸ばす。
緊急用の指輪──
「……わたしが言いたいのは──最後の手段だということです。
完成してもすぐには撃ちません。どうしようもなくなったらその時にだけ、撃ちます」
リスティの覚悟に、ハルスフォートが口端を吊り上げる。
「そうだ。その判断でいい!」
リスティが息を吸う。
「原始の槍。極北の大海を統べる青。
凍て付け
詠唱が始まった。
ハルスフォートはその間、巨怪の前へ立ち続ける。
巨怪がリスティへ向かおうとすれば、その進路へ割り込み、振り下ろされる爪を剣でいなす。
「ガアァッ!」
ブンッ!
ザグッ!
続く牙を身を沈めてかわし、すれ違いざまに脇腹を斬りつける。
傷はすぐに塞がったが、注意をこちらへ引き戻すには充分だった。
「よそ見する余裕なんて与えん。相手はこのおれだ」
「グウウッ!」
再び襲いかかる巨怪を、ハルスフォートは正面から迎え撃つ。
やがて、背後の詠唱が終わりへ近づいた。
「あと少しなら──」
ハルスフォートは再び地面へ魔力を流す。
「
ズゴゥッ!
土のツタが巨怪の四肢へ絡みつき、その身体を地面へ縫い止めた。
だが、
「ガアアアァッ!」
バギィン!
拘束が力任せに弾け飛ぶ。
「なっ──!」
ゴオッ!
その勢いのまま巨怪が襲いかかった。
ギンッ!
ハルスフォートは剣で受け止めるが、今度は軌道を逸らす余裕がない。
「ぐっ……!」
純粋な
ズシンッ!
巨怪が上から覆い被さり、大口を開いた。
「ギャアァッ!」
「ちっ!」
ガギンッ!
「ぐ……ぅっ!」
グッ……!
仰向けのまま、両腕で剣を押し上げる。
だが、牙はじわじわと顔へ近づいてくる。
その時。
「──ハルスフォートさん! 準備完了しました!
巻き込まれる可能性があります、何か──
リスティの言葉に、
「ムリだ……!」
ハルスフォートは歯を食いしばる。
上から押さえ込まれ、両手も塞がっている。
離脱するだけの余裕がない。
グウゥッ……!
さらに牙が沈む。
「一か八か、やるしかない……!」
「……っ」
リスティは息を呑んだ。
撃てば、ハルスフォートまで巻き込むかもしれない。
だが撃たなければ、牙が届く。
「……分かりました」
指輪を握る手から、震えが消える。
「絶対に、耐えてくださいね」
「注文が無茶だな……!」
それでも、他に手はない。
リスティが巨怪へ狙いを定める。
「
その瞬間。
「……ッ」
巨怪の力が、不意に弱まった。
「え……?」
ズッ……。
巨大な身体が縮んでいく。
銀灰色の獣毛が消え、ツノが沈み、鋭い牙も失われていく。
「な、なんだ……?」
先ほどまで両腕でも支えるのが精一杯だった重量が、急速に軽くなる。
やがて──。
シュンッ。
「……あ」
巨怪は、元の銀髪の女へ戻っていた。
力を失った裸身が、そのまま前へ倒れる。
「おわっ──」
ドサッ。
女は、仰向けのハルスフォートへ覆い被さった。
「わわっ!」
リスティは口を閉ざし、全裸の女から目を逸らす。
「…………」
ハルスフォートも動かなかった。
胸元には銀髪の女が覆い被さり、完全に体重を預けている。
「……おい」
返事はない。
先ほどまでの巨怪が嘘だったかのように、女は目を閉じたまま身動き一つしなかった。
「気絶してるんでしょうか……?」
「たぶんな」
ハルスフォートが女を退かそうと片手を伸ばす。
「ん……」
女の眉がわずかに動いた。
ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。
焦点の合わない瞳が数度瞬き──。
「…………」
「…………」
ハルスフォートと目が合った。
互いの顔まで、ほんのわずかな距離。
女はしばらく呆然と彼を見つめる。
次いで、自分が何に乗っているのかを確認するように視線を下げた。
ハルスフォート。
その上に覆い被さっている自分。
そして──何一つ身につけていない身体。
「……あ」
女の顔が、みるみる固まった。
ハルスフォートは無言で顔を横へ逸らす。
「……で、どういう了見だ」
「ご、ごめん!」
バッ!
胸元を腕で隠しながら跳ね起き、ハルスフォートの上から飛び退く。
ハルスフォートは寝転がったまま、律儀に反対側を見ていた。
女はしゃがみ込み、両腕でどうにか身体を隠す。
「……あの」
少し離れた場所から、リスティが遠慮がちに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……ではある」
女は答え、それから周囲を見渡す。
へし折れた枝。
抉られた地面。
散らばった土塊。
そして、戦いの跡が残るハルスフォート。
女の表情から、羞恥とは別の意味で血の気が引いた。
「その……自分のせいで迷惑をかけて、ごめん」
絞り出すように言う。
ハルスフォートは返事をせず、ゆっくりと上体を起こした。
変貌する直前、この女は2人を遠ざけようとした。
そして元へ戻った今も、襲いかかるどころか真っ先に謝罪している。
「……殺し合う気はなさそうだな」
チャキン。
ハルスフォートは剣を鞘へ収めた。
女がわずかに安堵する。
「ただし、説明はしてもらうぞ」
「もちろん。そのつもりだ」
女は神妙に頷いた。
「とはいえ……」
ハルスフォートは彼女の姿を
「その格好で話されても落ち着かん」
バサッ。
ハルスフォートは肩に掛けていたマントを外し、投げてよこす。
「えっ──」
女は慌てて片手を伸ばし、どうにか受け止める。
「……いいの?」
「そのままよりはマシだろ」
「それは、そうだけど……」
女は少し戸惑いながらマントを広げた。
身体を包むように肩から羽織る。
「……度々、ありがとう」
先ほどよりも深く、女は頭を下げた。
そしてマントの
「まず、名乗ってなかった。自分はラニアだ」
「ハルスフォートだ。こっちはリスティ」
「よろしくお願いします」
リスティが軽く頭を下げる。
ラニアもそれに倣ったあと、少し言いづらそうに口を開いた。
「さっきのことだけど……自分は、呪いを受けてるんだ」
「呪い?」
「うん。さっき見せてしまった通りに、巨大な獣になる呪いだ」
ハルスフォートが眉を上げる。
「聞いたことがないな」
「うん。魔力を使ったり、身体の中に魔力が溜まりすぎたりすると……ああなるんだ」
ラニアは先ほどまで暴れ回った場所へ目を向けた。
「獣になってる間は意識も、理性もない。
何をしたのかも、元に戻ってからじゃないと分からない」
「だから、わたしたちに離れろって……」
「経験則で分かるんだ。そろそろ来る、って」
ラニアは申し訳なさそうに頷いた。
「今日はそれが近かったから、人がいないところまで来てた。
服も……そのままだと破れるから、荷物と一緒に離れた場所へ置いてたんだけど」
「それで全裸だったわけか」
「そう。だから自分は変態でも裸族でもない」
リスティは苦笑しながら、話を戻した。
「その呪い……治す手段はあるんですか?」
「自分は、それを探して旅してる。だからシステリムに──」
会話中の不意に──。
ヒュッ。
風を切る音が、森の中を走った。
「──っ!」
ハルスフォートが反応する。
飛んできたのは一本の矢。
木々の隙間を抜け、一直線にこちらへ迫る。
狙いは──ラニア。
だが。
パシッ!
「え?」
乾いた音が響いた。
矢は、ラニアの顔のすぐ横で止まっている。
その手に掴まれて。
「…………」
ラニアは片手で矢柄を握り、飛んできた方向へ鋭く目を向けた。
ハルスフォートも反射的に剣の柄へ手を掛ける。
「今度は何だ……?」
「ごめん、自分にも分からない」
ラニアは掴んだ矢を見下ろす。
狩猟用らしい、ありふれた矢だ。
偶然こちらへ飛んできた──とは考えにくい。
軌道は明らかに、ラニアの胸元を狙っていた。
「誰かいるんですか?」
リスティが周囲を見回す。
その言葉に応えるように。
ガサッ。
少し離れた茂みの奥で、枝葉が揺れた。
「…………」
3人の視線が集まる。
やがて木の陰から、一人の男が姿を現した。
背には矢筒。手には弓という、いかにもという猟師姿だった。
「…………」
ギッ。
弓へ次の矢を番えながら、じっとラニアだけを睨んでいる。
「おい」
ハルスフォートが一歩前へ出た。
「いきなり人に矢を撃っといて、だんまりはないだろ」
「ヨソ者か……」
男の口から、低い声が漏れる。
ラニアが眉をひそめた。
「自分に何か用があるの?」
「しらばっくれるな!」
男は吐き捨てる。
「最初から見てたぞ!」
「……最初から?」
ラニアの表情が変わった。
「おまえが獣の姿で暴れていたところも──」
男の手が弓を引く。
「そこの男を組み伏せて、そのあと人間の姿に戻ったところもな」
「…………」
ハルスフォートが男を見据える。
どうやら、ただの通りすがりが、シカと勘違いして矢を射た──という話ではなさそうだった。
ラニアがマントの前を押さえながら、一歩前へ出る。
「ごめん、何か勘違いしてる。自分は──」
「黙れ!」
男が怒鳴った。
ギリッ、と弓弦がさらに引かれる。
「さっきまで獣だったくせに、よく言う!
目の前で見たんだ! 巨大な獣が、人間の女に戻るところを!」
事情を知らない者から見れば、男の結論はむしろ自然だった。
ハルスフォートが魔人を疑ったのと、同じ理由で。
「獣の本性を持つ魔人め! ようやく見つけたぞ!」