夕方の森は、張り詰めた緊張に包まれていた。
裸をマントで隠している美女──ラニアに、猟師が弓矢を向けている。
「自分は、魔人じゃない」
身体に巻いたマントの襟元を片手で押さえながら、弓を構える猟師へまっすぐ視線を向ける。
「さっきの姿は、呪いによるもの。
自分は、巨大な獣になる呪いがある」
「呪いだと?」
猟師は鼻で笑った。
「そんな言い訳を、誰が信じるか。
魔人は人の姿を
矢の先が、ラニアの胸元へ向けられる。
「おまえの本性が、さっきの巨怪だろうが」
「…………」
ラニアの唇が引き結ばれた。
その横で、ハルスフォートは猟師の言葉を頭の中で
──人ならざる本性。
その言葉から思い浮かんだのは、魔女エリス・タークトッドだった。
ハルスフォートたちと戦った魔人。
追い詰められたエリスの肉体は、最後には無数のネズミへと変じた。
一人の女性という形を捨て、その本性を露わにしたのだ。
確かに、魔人には人間とは異なる姿がある。
だが──。
「その理屈じゃ、こいつが魔人だって証明にはならん」
ハルスフォートが口を挟む。
猟師の視線が、ラニアから彼へ移った。
「なんだと?」
「魔人が本性を晒す状況には、いくつかある」
ハルスフォートは猟師の弓を警戒しながら、指を1本立てる。
「まず、瀕死に追い込まれたとき。
人間の姿を保つ余裕がなくなり、本性が露出する」
2本目の指を立てる。
「次に、身体の一部を切り離されたときだ。
骨を含んだ部位が切断されたとき、その部分だけが本性に変じる」
最後に、3本目。
「そして、自分から本性を晒すとき」
猟師は眉間に深いシワを刻む。
「だったら、そいつが本性を出しただけだろうが」
「話を最後まで聞け」
ハルスフォートは面倒そうに眉を寄せた。
「ラニアは瀕死じゃなかった。身体の一部を切り離されてもいない。
それに、自分からおれたちを襲うために本性を晒したワケでもない」
「なぜ、そう言い切れる?」
「巨怪になる直前、こいつはおれたちに『自分から離れろ』と言った。
最初から襲うつもりなら、わざわざ獲物を遠ざける理由がない」
「……ケッ」
猟師の弓を引く力は緩まない。
男はハルスフォート、ラニアの順に睨みつけたあと、強く首を横へ振った。
「俺は最初から見ていた。
そいつが巨怪になって暴れ回るところからな」
猟師の視線が、ハルスフォートを射抜く。
「だが、オレは遠くから見張っていたんだ。
そいつが変わる前に何を言ったかなんて、聞こえちゃいねえ」
矢尻が、わずかに持ち上がる。
「『離れろ』と言ったかどうかは、全部オマエたちの証言だろうが。
オマエらがグルなら、口裏を合わせるくらい簡単だ」
即座に返され、ハルスフォートは片眉を上げた。
互いに、自分が見聞きしたものを根拠にしている。
そして相手の証言を裏づける物証は、どこにもない。
「……ダメだな、平行線だ」
ハルスフォートは深いため息を吐いた。
その言葉を区切りと受け取ったのか、猟師は片手を弓から離した。
もっとも、警戒を解いたわけではない。
「なら、話は終わりだ」
腰の荷物へ手を伸ばし、丸めていた縄を引き出す。
「そいつは村まで連れていく。村のやつらの
「…………」
ラニアは縄へ視線を落とす。
ハルスフォートが見るに、その表情には──力に任せて逃げるか否か、という逡巡の色が見えた。
彼女はしばらく縄を見つめた後、小さく息を吐く。
「……分かった」
ラニアは、素直に両手を前へ差し出した。
「抵抗しねえのか?」
「ここで暴れて逃げて、そのまま魔人と思われるのもシャクだからね」
「分かってるじゃねえか」
猟師は皮肉げに吐き捨て、差し出された手首へ縄を巻き始める。
ギュッ。
粗い麻縄が、ラニアの白い肌へ食い込んだ。
ラニアは顔をしかめたものの、文句は言わない。
猟師が結び目を締め終えようとしたところで、ラニアが口を開いた。
「一つ、頼みがある」
「あ?」
「自分の装備を、近くの川沿いに置いてあるんだ。
せめて、それを取りに行かせてほしいな」
ラニアは、自分の身体へ巻いたマントを見下ろす。
今の彼女が身につけているものは、ハルスフォートから借りた
「ダメだ。装備を取り戻した隙に、逃げるつもりだろうが。
こっちはな、何ヶ月も魔人のおまえに苦しめられてるんだぞ!」
「……何ヶ月?」
ラニアが眉を寄せる。
「狩猟の糧を横取りされて、家を壊されて、森へ入った奴が怪我して帰ってくる。
それが今日になって、ようやく見つかったんだ。逃がすつもりはねぇからな」
ラニアは少しだけうつむき、考える素振りを見せたあと、顔を上げた。
「……では、その魔人が自分とは別にいると証明できればいいんだね?」
「あ?」
「自分ではない誰かが、村を荒らしている。
それを証明できれば、自分への疑いは晴れるんだろう?」
猟師は鼻を鳴らす。
「おう、証明できるんならな」
「……分かった」
ラニアは小さく頷くと、今度はハルスフォートたちへ顔を向けた。
「それなら、2人に頼みを回したい」
「川の装備を取りにいくって話だろ?」
「うん。ここから北へ行くと、川がある。
その川沿いに西方面に行けば、ものすごく大きなトロールブナが一本立っているんだ。
根元に、自分の装備が置いてあるはず」
ラニアは縛られた両手をわずかに持ち上げ、木の幹を抱えるような仕草をする。
「もちろん、タダとは言わないよ。
無事に持ってきてくれたら、ささやかだけど報酬は出すから」
「ほう」
報酬という言葉に、ハルスフォートの眉がわずかに上がった。
「話は終わったか?」
猟師が急かすように縄を引く。
「いつまでも付き合ってられねえ。行くぞ」
「……うん」
ラニアは素直に従った。
裸身を隠すハルスフォートのマントを翻しながら、猟師に引かれて森の中へ歩き出す。
猟師が向く先は、北東。
木々の間へ消える直前、ラニアが一度だけ振り返った。
「できたら、よろしくね」
その言葉を最後に、2人の姿は森の奥へ消えていった。
「……あれ?」
リスティが、首を傾げた。
「どうした?」
リスティは荷物から地図を取り出した。
折り畳まれていた紙を広げ、現在地と思われる場所へ指を置く。
「猟師さん、ラニアさんを村へ連れていくと言っていましたよね?」
「ああ」
「でも……」
指先が、地図の上を北東へ滑る。
「この方向に、村はないはずなんです」
ハルスフォートも横から地図を覗きこんだ。
確かに、現在地から北東へ進んだ先に、集落を示す記号は見当たらない。
「ここから一番近い町村は、システリム町です。
だからこそ、わたしたちはシステリム町を目指しているのですが──あの人たちが向かった方角とは違います」
「地図が古いんじゃないのか?」
「この地図は古本市で買ったものなので、その可能性もあります」
ハルスフォートはしばらく考えた後、肩を竦める。
「まあ、今考えても分からん」
「そうですね、新しくできた村かもしれませんし」
ハルスフォートは、ラニアたちが消えた森の奥から視線を外した。
「なにはともあれ、乗りかかった船だ。
荷物を運ぶだけで駄賃が貰えるなら、やって損はない。
それに──」
「それに?」
「おれのマントを返してもらわなきゃならん」
川沿いに到着した時、既に辺りは薄暗がりに支配されていた。
夕陽は森の向こうへ沈みかけ、川面には赤みを帯びた光が細く揺れている。
「これぐらいがいいでしょうかね」
バキッ。
リスティは、近くの木の枝を折った。
枝の先端に、剥がした樹皮をくくりつけ、シカの脂を塗る。
「できました」
「ああ、
ボウッ。
火が
ハルスフォートとリスティは、ラニアに言われた通り、川を西へ辿っていた。
「……あれじゃないですか?」
先を歩くリスティが、足を止める。
彼女の指差した先。
川岸から少し離れた場所に、周囲の木々を圧する大木が立っていた。
「確かに、分かりやすいな」
トロールブナという名前の通り、
装備を回収しようと距離を縮めたところで、ハルスフォートが目を細めた。
「……ん?」
巨大な根元に、なにかがある。
荷物らしい小さな影ではない。
薄暗さの中でも分かるほど、太く、長い。
「なんでしょう?」
「さあな……」
さらに近づくと、その正体が明らかになった。
「……剣?」
リスティが呟く。
それは剣と言うには、あまりにも大きすぎた。
大きく、ぶ厚く、重く、そして大雑把すぎた。
それは、正に鉄塊だった。
巨大な両手剣は、トロールブナの根元へ墓碑のように突き立っている。
「…………」
ハルスフォートは剣の前に立ち、その全長を下から上まで眺めた。
「これ……ラニアさんの装備でしょうか?」
「ここにある以上、そうなんだろうが……」
ハルスフォートは眉間にシワを寄せる。
「あの女、こんなもん持って歩いてたのか?」
「巨怪の呪いのせいで、人間の姿でも怪力なのかもしれません」
「まあ、そうなんだろう」
そう言いながら、ハルスフォートは両手剣の柄を握った。
両足を開き、腰を落とす。
両腕へ力を込めた。
「ふんっ!」
「…………」
何も起こらなかった。
剣は地面から抜けるどころか、わずかに揺れる様子すらない。
「……深く刺さっているし、重さもある。
これは置いていくしかない」
「さすがに、ハルスフォートさんでもムリですね……他の装備は回収しましょう」
2人はトロールブナの根元を見回した。
「あ。ちゃんとありますね」
巨大な両手剣に目を奪われて気づかなかった。
張り出した根の陰に、いくつか荷物がまとめて置かれている。
そこには、折り畳まれた服や硬貨の入った革袋、水筒や干し肉などがまとめられていた。
そして、その荷物の傍ら。
黒い金属の塊が2つ、並べるように置かれていた。
「……これは?
「珍しいな、
「けんじゅう?」
首を傾げるリスティをよそに、ハルスフォートが屈んで二挺を手に収める。
「拳銃は、手持ちの大砲だ。
ここを見てみろ。穴が空いているだろ? ここから砲丸を撃ち出すんだ」
「へえ……こんなにちっちゃい大砲があるんですね」
リスティがラニアの荷物をまとめながら感嘆する。
二挺拳銃を手から提げ、ハルスフォートが呼びかけた。
「こっちはなんとか持っていく。行くぞ」
「はい」
2人はラニアの荷物を分担し、トロールブナを後にする。
両手剣だけを残し、猟師とラニアが向かった東方面を目指して歩き始めた。
川を左手に見ながら進んでいた、その時。
──ガサッ。
「…………」
ハルスフォートが足を止めた。
「どうしました?」
「警戒しろ」
短く告げ、川の向こう側を見る。
ガサッ、ガサッ……。
対岸の茂みが揺れていた。
リスティも気づき、松明を持ったまま身構えた。
次の瞬間。
バキッ!
枝をへし折り、茂みの奥から巨大な獣が飛び出した。
「ガアァッ!」
獣は高く跳躍し、川すら飛び越え2人に襲いかかる。
ハルスフォートは剣へ手を伸ばそうとして──やめた。
両手には、既に武器がある。
「魔銃士というのも、悪くないか」
銃口を獣へ向け、引き金へ指をかける。
──ドンッ!
「わっ!?」
リスティも悲鳴を上げる轟音が、川沿いに響き渡った。
「ギャウッ!?」
獣が悲鳴を上げる。
硝煙の先には、大きなオオカミらしき獣が、右前脚の先を吹き飛ばされていた。
「……ヤバい威力だな」
引き金を引いておきながら、ハルスフォートが冷や汗を垂らす。
「グウゥッ……!」
獣は一瞬だけこちらを睨みつけると、身を翻した。
「あっ、逃げます!」
ダッ!
傷ついた右前脚を庇いながら、再び川を跨いで対岸の森へ駆けこんでいく。
「待て!」
ハルスフォートは反射的に追おうとした。
だが、目の前には川がある。
泳いで渡っていては間に合わない。
「……チッ」
ハルスフォートは拳銃を片手へまとめると、空いた手を前へ突き出した。
「リスティ、ここで待ってろ! すぐ戻る!」
「分かりました。なにかあれば合図します!」
ハルスフォートは息を吸った。
「木々を渡る西風よ──」
詠唱を口ずさむ僅かな間に、負傷した獣の姿は森の奥へ消えた。
「
タッ!
ハルスフォートが地面を蹴り、空を駆ける。
対岸の草むらへ着地し、すぐに周囲を見回した。
「……どこだ?」
獣の姿はもうないが、逃げた痕跡までは消えていなかった。
踏み荒らされた草。
へし折られた低木の枝。
「こっちか」
ハルスフォートは拳銃を握ったまま、痕跡を追って森へ入る。
暗がりの中、血痕を探すために
獣は右前脚の先を失っているはずだが、逃げ足は速い。
既にかなりの距離を稼がれたようだ。
川を挟んだ反対側には、リスティが一人で残っている。
この森にいるのが、今の獣一頭だけという保証もない。
「……深追いはマズいな」
見失った獣を闇雲に追い、一人で森の奥へ入り込む。
その間にリスティの方で何か起きれば、本末転倒だった。
「まあ、目印は付けた」
獣から、脚の先を奪ってやったのだ。
追跡を打ち切り、元来た道を戻っていくと、ほどなく川面が木々の間から見えてきた。
対岸では、松明の炎が揺れている。
「ハルスフォートさん!」
こちらに気づいたリスティが声を上げた。
「見つかりましたか!?」
「いや、逃げられた!」
答えながら、ハルスフォートは
対岸へ着地したハルスフォートを、リスティが松明を掲げて迎えた。
「痕跡は残ってたが、追いつく前に見失った」
ハルスフォートは手にした拳銃を見下ろす。
「片脚を吹き飛ばされた状態で、あの速さだ。
タフって言葉はああいうののためにあるな」
「でも、次に会ったら分かりますね」
「ああ。右前脚が欠けたデカいオオカミなんて、そう何頭もいないだろ」
ハルスフォートは二挺の拳銃を持ち直した。
「行くぞ。こんなところでグズグズしてたら、本格的に真っ暗になる」
「はい」
リスティもラニアの荷物を抱え直す。
2人は川を離れ、村があるであろう方角へ歩き始めた。
松明の炎が、夜へ沈みつつある森を照らす。
しばらく歩いたところで、リスティが口を開いた。
「……ハルスフォートさん」
「なんだ?」
「さっきの獣が……猟師さんが言っていた魔人なんじゃないでしょうか?」
ハルスフォートは歩みを止めなかった。
「そうかもな。村を何ヶ月も荒らしているってヤツだ」
「ラニアさんは、今ごろ猟師さんと一緒にいるはずです。
それなのに、別の大きな獣が森にいたということになります」
「まあ、そうなるな」
「だから、ラニアさんとあの獣を同時に猟師さんに見せれば、誤解だと証明できますね」
「だが、そんな現場を見せるのは難しい。
説得材料にするには──あいつの首でも持って帰るしかない」
ハルスフォートの姿勢に、リスティが口を挟む。
「……わたしとしても、あの人を誤解させたまま、捕らえられたままにするのは心苦しいです。
ですが、言ってしまえば……ラニアさんを助けることは、別にわたしたちには関係ないことですよね」
リスティの言葉に、ハルスフォートが意地悪く笑う。
「そうだ。おれの考えが分かってきたな。
だから、ラニアの誤解を解くのに乗り出すのは、それが利益になるときだ」
──ラニアとは別の獣が存在する。
それを誰にも否定できない形で示せれば、彼女への疑いを覆す材料にはなる。
交渉の武器を手に入れた2人はそのまま、夜の森を進んでいく。
地図には記されていない、村の場所を目指して。