ヤリの穂先が、朝日を弾いて
ハルスフォートは
正面と左右の通りは、衛兵の隊列が
背後は、自分で作った霧の壁。その中では、まだ野次馬たちが右往左往しているはずだ。
開けているのは、湯気を上げる水路と、その上の空くらいのものだった。
その水路沿いの石垣を、湯の成分で白く
見るからに、この一帯の湯を
衛兵と賞金稼ぎを合わせれば、二十を優に超える。
──リスティを連れて、切り抜けられる数じゃない。
剣を握り直すふりをして、柄から指を一本ずらし、覗いた刃元へ親指の腹を押し当てた。
隊長らしき衛兵が、すっと前に出た。
「まずは、剣から手を離せ」
「人に頼むなら、まず自分から手本を見せろ」
互いに剣へ手をかけたまま、視線がぶつかり合う。
反対の手の中で、リスティの指に力がこもる。
ハルスフォートは、その小さな手を握り返した。
隊長の目が、ほんのわずかリスティへ逸れる。
その隙を逃さず、ハルスフォートは握った手を強く引いた。
「わっ!?」
よろけた軽い体を、片腕で脇に抱えこむ。
「しっかり
「は、はいっ!」
「待て!」
隊長の声と同時に、ヤリの穂先が一斉に突き出される。
それより早く、ハルスフォートは石畳を蹴った。
「
タンッ!
足裏に生じた力場を踏みしめ、跳ぶ。
一歩で衛兵たちの頭上を越え、二歩目で屋根の高さへ届く。
眼下で、いくつもの
「網だ! 網を出せ!」
隊長の号令が飛ぶ。
ザッ!
隊列の後ろから、数人の衛兵が進み出た。
肩に
「放てッ!」
バサァッ!
空中で網が大きく広がり、ハルスフォートの頭上へ覆いかぶさってきた。
「させるか!」
ハルスフォートは
魔力を吸った
──はずだった。
ギチッ。
刃が、網目に噛んだ。
「なにっ!?」
網目の中に、青白く光る糸が編みこまれていた。
「
魔術の効果を低減する
力任せに振り抜いた刃は、網の端を裂いただけだった。
グルンッ。
残りの網が、宙を蹴ろうとしたハルスフォートの足へ絡みつく。
「掛かったぞ! 引けぇ!」
網から伸びた綱に、衛兵たちが次々と飛びついた。
「せーのッ!」
ぐんっ、と足が下へ引かれる。
「うおっ!?」
足元の力場に両足を据え、ハルスフォートはどうにか踏みとどまった。
不幸中の幸いは、足に絡んだ
この
だが、綱を握る手は一本、また一本と増えていく。
「クソッ、祭りの綱引きじゃないぞ……!」
足場にした力場ごと、ずるり、ずるりと高度が落ちていく。
「ハルスフォートさん、わたしの足を持っててください!」
脇に抱えられたまま、リスティがぐいと身を乗り出した。
「なんだ!?」
何をする気かは分からない。
だが、言われた通りにリスティの足首を
リスティは脇の下から滑り出るように、頭から真下へ身を投げ出した。
「はっ!」
逆さ吊りの体勢で、リスティが腰の短剣を抜く。
狙いは、ハルスフォートの足首に絡んだ網だ。ギコギコと、刃を数度前後させる。
ブツンッ!
「切れました!」
最後の一本が弾け、足が自由になる。
「うわあっ!?」
綱を引いていた衛兵たちが、そろって後ろへ尻餅をついた。
「良くやった!」
ハルスフォートはリスティを抱え直し、再び高度を取ろうとする。
しかし、足元から低い声がした。
「
目を落とせば、
「きゃっ!?」
女の手が、リスティの腕を
「お嬢ちゃん! 悪いお兄さんにはついていっちゃダメって習わなかったかな!?」
そのまま、体重をかけて真下へ引きずり降ろしにかかる。
「あんたが良いお姉さんとも思えないがな!」
ドッ!
ハルスフォートは抱える腕に力をこめ、女の肩口へ
「ちいっ!」
女の指が、リスティの腕から離れる。
そのまま真っ逆さまに落ちていくかに見えたが、女は空中で身を
音もなく石畳へ着地し、女はキッとこちらを睨み上げた。
「それならっ!」
女は腰の
ヒュンッ。
放たれた分銅が向かった先は、ハルスフォートたちではなかった。
水路沿いの石垣を這う、
ガゴォンッ!
ドバァッ!
管がひしゃげ、あふれ出た源泉が、湯しぶきと白い蒸気の柱になって噴き上がる。
柱は一瞬で、ハルスフォートたちの高さまで届いた。
「ぐっ!?」
ヤケドするほどの熱さではない。
だが、真下から叩きつける湯の勢いに、足元の力場を踏み外した。
「きゃあっ!?」
噴き上がった湯に
「リスティ!」
白い
ハルスフォートは、その手へ向けて腕を伸ばした。
しかし、
ザバァンッ!
リスティの体が、水路へ呑みこまれた。
眼下では、行き場を失った源泉が水路へなだれこんでいた。
水かさが見る間に増し、湯気を上げる流れが、うねる激流へと変わっていく。
「ちっ!」
ダッ!
落ちながら身を
石畳を転がって受け身を取り、水路の縁で身を起こす。
ザバッ!
激流の中から、黒髪の頭が浮かび上がる。
「──ぷはっ!」
続いて、短剣を握った右腕が水面を突き破った。
ガッ!
リスティは、短剣を水路の石垣の継ぎ目へ突き立てた。
両手で
「ガキが水路に落ちたぞ!」
「生きたまま引き上げろ! このままだと溺れ死ぬぞ!」
賞金稼ぎや衛兵たちが、水路の縁へ殺到していく。
「……!」
短剣にしがみついたまま、リスティが顔を振り仰いだ。
濡れた前髪の下から、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
怯えも、助けを求める色もない。
次の瞬間、
ズッ。
リスティは短剣を引き抜いた。
「流されるぞ!?」
「追え! 追うんだ!」
賞金稼ぎと衛兵たちが、我先にと水路沿いを駆け出した。
リスティの体が、あっという間に流れにさらわれていく。
湯煙の向こうで、黒髪が石橋の下へ消えた。
四つ辻を埋めていた包囲が、目に見えて薄くなった。
「……しまった。アンタだけを叩き落とす予定だったのに」
ずぶ濡れのハルスフォートを睨み、女が舌打ちした。
「アンタ、あの嬢ちゃんを追わないのかい? 薄情だねぇ」
「地獄を見せる愛情もあるのさ」
言って、ハルスフォートはちらりと水路に目をやる。
石垣の継ぎ目に、リスティの短剣は残っていなかった。
激流に抗う握力が尽きたのなら、短剣は石垣に刺さったまま残るはずだ。
リスティは、自分の手で短剣を引き抜き、流されに行ったということになる。
墜落の最中ですら、とっさに硬貨を撒いて生き残る手を打っていたリスティだ。流されることに勝機を見出したのだろう。
「ただのガキだと思っているなら、あとで考えを改めてもらおうか」
仮に捕まったとしても、殺されはしない。
リスティの手配は
命さえあれば、取り返す機会はいくらでもある。
「よそ見してるヒマはないよ!」
ヒュンッ!
女の
キンッ!
ハルスフォートは剣の腹で分銅を弾き返す。
その反動で、女の上体がわずかに泳いだ。
「奇遇だな。おれもヒマじゃないんでね──一撃でケリをつける!」
すかさず、女の足元を低く蹴り払う。
「甘いね!」
女は軽やかに跳んでかわした。
足が地面を離れた、その一瞬。
ハルスフォートは空いた手を女へ向けた。
「
ビュウッ!
「ひぃいっ!?」
足場のない女に、
痩せた体は、水路の向こう岸まで吹き飛んだ。
ガラガラガッシャーン!
店先に積まれた木箱の山へ、女は背中から突っこんだ。
「良し、一撃だ」
ハルスフォートは、水路の下流へ目を向けた。
水路沿いを追う背中が、湯煙の中に連なっていた。
リスティが勝機を見出したにせよ、あの人数に追われては分が悪い。
「
ギィンッ!
放たれた氷の刃が、一団の最後尾の足を凍らせ、地面に縫い留めた。
「どわっ!?」
「ぐえっ!?」
足を取られた者がつんのめり、前を走る者を巻きこんで、一団はたちまち将棋倒しになった。
「おいおい、おれだって賞金首なんだぜ」
ハルスフォートの声に、いくつもの顔が振り返った。
「舐めやがって!」
ブンッ!
衛兵の一人が、新たな網を投げつけてきた。
「同じ手は食わんぞ!」
バサッ!
「断ち
背後から詠唱が聞こえた。
振り返れば、フードで顔を隠した賞金稼ぎが、手を突き出している。
「
ゴォッ!
灼熱の刃が、一直線に迫る。
「はあっ!」
ハルスフォートは、網を巻きつけた剣をその正面へ突き出した。
ジュウゥッ!
炎刃は、剣に巻かれた網に触れるなり勢いを失い、霧散した。
「なっ!?」
賞金稼ぎが目を
剣に巻きついた網が黒く焼け焦げ、ボロボロと崩れて石畳へ落ちていく。
「やっぱり、この質だと一度限りの効果か」
ハルスフォートは、剣にこびりついた燃えカスを払った。
「囲め! 一斉にかかれ!」
隊長の号令で、残った衛兵たちがヤリを揃えて迫ってくる。
「悪いな。斬り合いはおれの領域だ」
ハルスフォートは、低く踏みこんだ。
突き出されたヤリの穂先を剣の腹で
ズッ!
「ぐあっ!?」
一人目がヤリを取り落とす。
「ぎゃあぁっ!」
「痛でえっ!」
返す刃で、二人目の
「くそっ、隙間ばかり狙ってきやがる!」
「下がれ!
衛兵たちの足が、じりじりと鈍っていく。
刃に絡んだ血を、
「時間稼ぎはこれくらいにしとくか」
ハルスフォートは、退路へ目を走らせた。
衛兵たちは間合いを取り、包囲は崩れかけている。
霧の残る路地へ飛びこめば、振り切れるはずだ。
足に力をこめた瞬間、視界の端で大男が腕を振りかぶった。
「おうおう。帰るにゃ、まだ早えだろ」
ブォンッ!
大男の手から、
「だから、同じ手は食わんと──」
再び刀身をくるりと回し、網を絡め取りにいく。
スパッ。
網は、絡まなかった。
刃に触れた端から、手応えもなく、糸くずのように断たれていく。
「
イヤな予感が、ハルスフォートの背筋を駆け上がった。
巻き取るつもりの剣に、振り払う勢いはない。
ばらけた網の残骸が、
頬に触れた糸は、ひやりと冷たい。
網に編みこまれていたのは、鉄の糸だった。
「斬ってくれると思ったよ」
大男の背後に、いつの間にか女が立っていた。
髪に木屑を絡ませたまま、手の平をこちらへかざしている。
「
バチィッ!
ハルスフォートの体を覆った鉄糸へ、紫電が突き刺さった。
「が──ッ!?」
雷は網目を伝い、肩へ、腕へ、指の先へと
全身が、内側から跳ね上がった。
ドサッ。
ハルスフォートの体が、その場に崩れ落ちた。
石畳の冷たさが、頬に張りついている。
意識は、かろうじて残っていた。
だが指一本、思うように動かない。
ドスッ。
背中に、重たい足が乗った。
「……ドレイクの件といい……おれ……雷と相性が悪いな……」
「おうおう、なんだか知らねえが、同じ手は食わねえんじゃなかったか?」
頭上から、大男の声が降ってくる。
「待て! その男の身柄は衛兵隊が預かる!」
隊長の声が割って入った。
ガシャガシャと鎧を鳴らして、隊長が大男の前に立ちはだかる。
「はぁ? 仕留めたのはオレらだぜ」
「罪人だぞ。身柄は国が押さえるのが筋だ」
「
「馬鹿を言え! 国に弓を引いた大罪人だぞ!
生け捕りにできた以上、こんな路地裏で首を落として、それで終わりにできるか!
王都の処刑台に引き立て、民衆の目の前で裁いてこそ、逆賊の末路を示せるというものだ!」
大男と隊長の怒声が、真上で飛び交う。
首をいつ、どこで落とすか。議題はただ、それだけだった。
「……おれの首の話を、おれの上でするな……」
呆れて舌は回るものの、体は相変わらず言うことを聞かない。
本気でマズい状況だというのに、頭の上の言い争いは盛り上がる一方だった。