沈黙が続いていた。
ハルスフォートは何も言わない。
ヘクトールの言葉を否定することも、言い返すこともなく、大木の陰に立ち尽くしている。
──100人以上の人間を殺した、殺人鬼。
リスティにとって、その言葉はどうしても目の前の人と重ならなかった。
生け贄にされかけた自分を、首都から
ゴブリンから村を守り、瀕死の少女を救う決断を引き受け、共に魔王を倒してくれた人。
しかし、振り払おうとするほど、黒い疑いが頭をもたげてくる。
──軽く言える範囲で言うなら。
焚き火を囲んだ夜の、彼の声がよみがえった。
故郷を魔王ズア=ディハに滅ぼされたと語る前に、ハルスフォートは確かにそう前置きしていた。
あの夜、彼が口にしなかった部分が、これなのではないか?
「違う」と言いたかった。
けれど、ノドまで上がった言葉は、そこから先へ出ていかなかった。
人を殺めたことがあるのは、リスティも同じだったからだ。
戦場で利用され、何人を焼いたのか、自分でも分からない。
だから、知っている。
人の命を奪った過去は、隣で笑う人の内側にさえ、何食わぬ顔で潜んでいられるのだと。
そして、どんな事情があろうと、焼かれた側から見ればそれは言い訳にしかならないのだと。
リスティの足は、根が生えたように動かなかった。
ヘクトールを挟んだ向こう側で、ラニアもまた、拳を握ったまま立ち止まっていた。
つい先ほど「そんなに悪いやつに見えない」と笑っていた彼女でさえ、一歩を踏み出せずにいる。
その沈黙を、ヘクトールは見逃さなかった。
ダッ!
落ち葉を蹴る音がして、黒衣が
ギィンッ!
右の杭が、ハルスフォートの
受けの構えを取る暇すら与えなかった。
「
体勢が崩れたところへ、ヘクトールが肩から体ごとぶつかっていった。
ハルスフォートの背が、大木の幹に叩きつけられる。
ガッ!
間を置かず、左の杭が振り下ろされた。
「ぐっ……!」
杭が貫いたのは袖だけで、肌には触れていない。
だが、袖ごと幹に縫い留められた右腕は、もう剣を振るえない。
そして、右の杭の切っ先が、ハルスフォートの胸元へぴたりと据えられた。
「待って!」
ラニアが声を上げ、ヘクトールへ手を伸ばしながら踏み出す。
「動けば、この男を殺します」
振り返りもしないヘクトールの声に、ラニアの手が宙で凍りついた。
「……くっ」
ヘクトールの向こうで、ラニアの足が地面を
しかし、それ以上は進まない。
ヘクトールとハルスフォートの距離は、杭一本ぶん。
リスティやラニアが駆け寄るよりも、あの切っ先が胸を貫く方が早い。
何より。
あの杭を止めたところで、それは果たして「正しい」のか?
その答えを、リスティは持っていなかった。
「……なぜ、すぐに殺さない」
ハルスフォートが、静かに問う。
すると、ヘクトールの肩が小さく揺れた。
笑ったのだと、リスティは遅れて気づいた。
「簡単なことですよ。
今ここで殺したら、貴方は何も失わずに死ねるでしょう?」
杭の先が、胸元の服をわずかに押しこむ。
「仲間に醜い本性を知られないまま、綺麗な顔で死ぬ。
そんなこと、許すわけがない。貴様を信じる者たちに失望されて──それから死んでいけ」
ヘクトールは、ハルスフォートから目を離さないまま語り始めた。
「僕
カヴァニー連合王国の、小さな町だった」
語り口は、不気味なほど静かだった。
「僕はただの、どこにでもいる男だった。
遠い土地で魔王ズア=ディハが生まれたなんてウワサが、聞こえてきた頃だった」
魔王ズア=ディハ。
ハルスフォートが語った、故郷を焼いた魔王の名だ。
「あの日、僕は机の脚を直していた。
机の下に潜りこんで、釘を打ち直していたんだ。魔王の戦火なんて、全く知らずにね。
そうしたら──エレナが扉を叩いた」
ヘクトールの言葉が、そこで一度途切れた。
「『逃げて!』と叫びながら、彼女は扉を開けた。
僕は何事かと思って、机の下から少しだけ顔を出した」
ヘクトールの指に、ぎり、と力がこもる。
「その時、見たんだ。
銀髪の剣士が──エレナの心臓を、後ろから一突きにするのを」
リスティの視線は、ひとりでにハルスフォートの頭へ吸い寄せられていた。
陰の中にあってさえ、その銀色の髪ははっきりと見て取れた。
「僕はすぐに頭を引っこめた。
机の下で息を殺して……隠れていることしかできなかった。
剣士が去ったあとも、一時間は動けなかった。
すぐそこに、僕を逃がそうとしたエレナが倒れていた。その彼女を見捨てて、僕は机の下でガタガタ震えていた」
その声は、ハルスフォートへの怒りに満ちていながら、ヘクトール自身をも
「町だけで、100人ばかりが殺された。
後で調べてみれば、他の土地にも同じような爪痕が残っていたらしい。
──全部、貴様がやったことだろう? ハルスフォート」
ハルスフォートは、すぐには答えなかった。
杭を突きつけられたまま、ヘクトールの顔をじっと見返している。
記憶の底を探るような、長い間があった。
「……悪いが、覚えていない」
ようやく返ってきた声は、ひどく平坦だった。
「おれが殺した人間の顔も、名前も、全部は覚えちゃいない。
だが、あんたは仇としておれの前に立っている。
それなら、事実なんだろう」
否定しなかった。
言い訳の一つも口にせず、ハルスフォートはヘクトールの目を真っ直ぐに見据えていた。
「……そうか」
ヘクトールが、
「覚えてすらいない、か。
エレナは、貴様にとってその程度のものだったか」
ヘクトールの手の甲に、青い筋が浮かんでいく。
「だが──貴様の罪は、それだけじゃない」
ヘクトールは杭を突きつけたまま、空いた手で自らの
牧師の服に似た、
「この服を見ろ。
ただの町人だった僕が、魔人を狩る
何故だか分かるか?」
ヘクトールが、肩越しにリスティたちを振り返る。
その瞳は、見開かれたまま微動だにしなかった。
「この男が、ズア=ディハの魔人だからだ」
ざわり、と背筋が
「町の生き残りから、話を集めて回った。
その中に、あの銀髪の剣士に斬りかかった男がいた。
そいつは命と引き換えに、剣士の片手をどうにか斬り落としたそうだ」
杭の先が、かすかに震えた。
「落ちた手は、地面の上で形を崩して──何かの虫に変わったと」
「……!」
ラニアが息を呑む。
リスティにも、その意味は分かった。
魔人は、骨を含んだ身体の一部を切り離されると、その断片だけが本性へと変じる。
「人間の手は、虫になどならない。
貴様は人の皮を被った、魔王の手先だ!」
「──違う!」
ヘクトールのなじりに、ハルスフォートが顔を青くして首を振った。
リスティは、思わず目を見開いた。
殺人鬼と呼ばれても淡々と認めた彼が、
「おれは魔人じゃない! それはなにかの誤解だ!」
「誤解、ですか」
ヘクトールの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
剥がれていたはずの丁寧な口調が、
「ならば、その身で示してもらいましょう」
ズッ──。
杭が、ハルスフォートの胸へ沈んだ。
「が、ぁ……ッ!」
ハルスフォートの左手が、とっさにヘクトールの手首を
押し返そうとする腕と、押しこもうとする腕が、杭を挟んで一歩も譲らずせめぎ合った。
狙いが、心臓の位置からわずかに横へ逸れていく。
それでも、止まらない。じわり、じわりと肉を割って進んでいく。
「ハルスフォートさん!」
思わず叫んだリスティへ、ヘクトールは顔も向けずに言った。
「ご安心を。人間であれば、ただ痛いだけで済みます」
刻印の彫られた黒い鉄が、ハルスフォートの血を吸って鈍く光る。
「
皮を剥ぎ、肉をこじ開け──その奥に隠した本性を、引きずり出すのです」
リスティは、息を詰めてハルスフォートを見つめた。
魔女エリス・タークトッドは、最後には無数のネズミへと崩れていった。
もし、目の前の人の輪郭もほどけて、何か別のものへ変わってしまったら──。
その瞬間を、半ば覚悟していた。
ズッ……。
杭がさらに一段深く押しこまれた。
傷口から、赤い筋が服を伝って滴り落ちていく。
「ぐ、うっ……!」
額に脂汗が浮かび、ヘクトールの手首を掴む指が白く
しかし。
銀色の髪も、苦痛に
何ひとつ、人の形を崩さない。
ヘクトールの手が、止まった。
「何故……本性を現さない……!?」
ラニアの目が、鋭く光る。
「今なら──!」
ダンッ!
土が
リスティとは反対の側から、長身の影が一直線に駆けこんでいく。
ヘクトールが振り向くより早く、ラニアの拳がその頬にめりこんだ。
ゴッ!
「がっ……!?」
鈍い音とともに、黒衣の体が真横へ吹き飛んだ。
杭から手が離れ、ヘクトールは落ち葉を巻き上げながら地面を転がっていく。
鉄塊のような大剣を軽々と振り回す、ラニアの腕力である。
素手であろうと、その一撃はまさしく鉄拳だった。
「リスティ!」
「は、はいっ!」
ラニアの声に背を押され、リスティは駆け出していた。
ハルスフォートの胸には、杭が刺さったままだった。
リスティは短剣を腰に差し、黒い鉄に両手をかけて、歯を食いしばって引く。
「うっ……!」
ズルッ──。
不意に手応えが消え、リスティは後ろへたたらを踏んだ。
裂けた服の隙間から、白いものがちらりと
──布?
胸元に巻かれた、包帯のような布。
それを確かめるより先に、ハルスフォートが動いていた。
ビリィッ!
縫い留められた袖を力任せに引き裂き、右腕を幹から引き
ずるりとヒザをつき、幹に手をついて体を支える。
「ハルスフォートさん、血が……!」
「傷は浅い……おれなんかの心配はするな」
胸を押さえる指の間から、血が滲んでいる。
しかし、ハルスフォートは
「……っ、く」
転がった先で、ヘクトールが身を起こした。
口の端を手の甲で拭い、そこについた血を見下ろす。
その目が、こちらへ向いた。
「何故だ……!」
低い声が、すぐに叫びへ変わった。
「何故その男を助けようとする!?
聞いていただろう! そいつは人殺しだ! 自分でそう認めたんだぞ!」
リスティは、抜き取った杭を握りしめたまま、ハルスフォートの前へ進み出る。
口をついて出た声は、自分でも驚くほどはっきりと森に響いた。
「それでも──わたしだって、人を殺めてきたんです!
この人がそうだったとしても、わたしはこの人を助けたい!」
だからこそ、彼にも何か事情があったのだと信じたかった。
「少なくとも、貴方の言ったことの一つ──魔人だっていうのは、誤りだったからね」
ラニアが、リスティの隣へ並ぶ。
指の骨を鳴らし、ヘクトールを正面から見据えた。
二人の背後には、血を流しながら立つハルスフォートがいる。
「正直、疑っているんだ。その事件の犯人が、本当にこの人なのか。
仮に本当だとしても──それが、この人の意志によるものなのか」
ヘクトールの口元が
それが怒りなのか、笑いなのか、リスティには分からなかった。
「たとえ魔人でなかったとしても、関係ない」
ヘクトールの視線が、二人の間をすり抜けて、ハルスフォートだけを捉える。
「机の下から見上げた、あの顔。
この瞳に焼きついて、一度たりとも離れなかった顔だ」
まばたき一つしない目に、暗い炎が揺れていた。
「──間違いなく、そこの男と同じ顔だ」
ヘクトールが言うと同時に、横手から風を裂く音がした。
ドスッ!
リスティの足元から数歩先の地面に、一本の矢が突き立った。
矢羽根が、まだ小刻みに震えている。
「……矢?」
ヘクトールのものではない。
この場の誰でもない、何者かが放ったものだ。
ガサッ、ガサガサッ。
木々の奥で、茂みが揺れた。
金属の擦れ合う音が、あちこちから近づいてくる。
木漏れ日の中に、いくつもの人影が現れた。
揃いの兜に、揃いの胸当て。
ヤリを構える者の後ろで、弓兵が次の矢をつがえている。
「兵士が来たか……!」
ラニアが、苦々しく舌打ちした。
あれだけの
三人を追って兵士たちがシステリムを
「邪魔者が……!」
ヘクトールも、忌々しげに兵士たちを
兵士の列が左右に割れた。
その奥から、見覚えのある男が進み出る。
「動くな! 全員、その場で武器を捨てろ!」
水路から這い上がったまま直行してきた、ずぶ濡れの衛兵隊長だった。