ずぶ濡れの隊長は
髪の先からも胸当ての縁からも、まだぽたぽたと水が滴っている。システリムの水路から這い上がったその足で、乾かす間も惜しんで追ってきたのだろう。
その視線が、リスティのところでぴたりと止まった。
「……お前だな。あの化け物をけしかけたのは」
低い声には、手配犯を前にした役人の厳しさとは別の、粘りつくような響きが混じっていた。
「おかげで、鎧の中まで湯が入りこんだぞ!
重くて上がれないわ、部下は誰も気づかないわで、危うく水路で溺れ死ぬところだった!」
「そ、それは……ごめんなさい」
思わず頭を下げたリスティの後ろで、ハルスフォートの声が飛んでくる。
「……で、湯加減はどうだった」
「貴様ァッ!」
隊長の顔が、兜の下で真っ赤に染まった。
振り返ると、ハルスフォートは幹に手をついたまま、口の端だけで笑っていた。
胸を押さえる指の間からは、まだ血が滲み続けている。
呆れるより先に、リスティの胸がわずかに緩んだ。
軽口を叩けるうちは、まだ大丈夫なのだと思えたからだ。
隊長はヤリを構えたまま、周りの茂みへ忙しなく目を走らせていた。
「それで、あの獣はどこへやった!
また呼び出すつもりなら、今度こそ逮捕だ!」
どうやら、本気で警戒しているらしい。
リスティは、手の中の
獣を呼び出した短杖は、とうに壊れている。同じ手はもう使えない。
隊長は気を取り直すように咳払いをすると、改めて声を張り上げた。
「もう一度言う! 全員、武器を捨てて投降しろ!
大人しく従えば、手荒な真似はしない!」
答える者は、誰もいなかった。
リスティは杭を下ろさず、ラニアは拳を解かず、ハルスフォートは
隊長の
その目が、ふと横へ流れた。
視線の先にいたのは、ヘクトールだった。
口の端の血を拭い終えた黒衣の男は、兵士の群れなどまるで目に入らないかのように、ハルスフォートだけを見据えている。
「その装い……もしや、
隊長の声から、わずかに
「手配犯と交戦していたのなら、話が早い。
我々はレイワズ王国の命を受け、この者たちを追っている。
捕縛に力を貸してもらえないだろうか。もちろん、
ヘクトールは、隊長へ目を向けもしなかった。
「お断りします」
穏やかな声だった。それきり、彼の口からは何も続かない。
ザッ!
黒衣が、リスティとラニアの間をすり抜けていく。
「待てっ!」
ラニアがとっさに腕を伸ばしたが、その指先は黒い裾をかすめただけだった。
足取りに迷いはなく、彼は一直線にハルスフォートへ向かっていた。
「ハルスフォートさん!」
ドゴッ!
鈍い音が森に響いた。
「くっ……!」
ヘクトールの回し蹴りを、ハルスフォートは
しかし、傷を負った体では踏ん張りが利かない。ハルスフォートは後ろへ押しやられ、背中から大木の幹にぶつかった。
その幹には、ヘクトールのもう一本の杭が、今も深々と突き立っている。
さっきまで、ハルスフォートの袖を縫い留めていた杭だ。
隊長は、差し出しかけた手を宙に浮かせたまま、ため息を吐いた。
「……どうして、市民は誰も協力しないんだ」
ぶつくさとこぼれた文句は、ため息と一緒に森の空気へ溶けていった。
隊長はヤリの穂先を高々と掲げ、居並ぶ兵士たちへ号令を飛ばした。
「ええい、もういい! 手配書の通りにやるぞ!
銀髪の男は生死を問わん! 娘の方は、必ず生け捕りにしろ!」
「はッ!」
「
邪魔立てするなら、そいつもまとめて押さえこめ!」
ガシャッ、ガシャッ。
鎧の擦れる音が、四方から一斉に押し寄せてきた。
並んだヤリの穂先は、そのほとんどがリスティへ向けられている。
リスティは、乾いた唇を噛んだ。
木漏れ日の揺れる森は、三つの思惑がぶつかり合う乱戦の場へと変わろうとしていた。
兵士たちの足音が迫る中、ヘクトールの周りで
「
グンッ!
リスティの手の中で、
「えっ!?」
見えない糸に引かれるように、黒い鉄がヘクトールの方へ引きずられていく。
「さ、させません……!」
リスティは、とっさにマントの裾を跳ね上げた。
杭をマントごと抱えこむようにくるみ、両腕で胸に押しつける。
ギヅッ!
大木の方からも、軋むような音がした。
樹皮を弾き飛ばして、杭が幹から抜けた。
黒い鉄は宙で一度くるりと回り、ヘクトールの左手へ吸いこまれるように収まった。
「まあいいでしょう」
同時に、リスティの腕にかかっていた力が、ふっと消えた。
ヘクトールは、地面に伏せたリスティを
一本あれば十分だと言わんばかりに、すぐにハルスフォートへ向き直る。
「娘を押さえろ!」
その声に振り向くと、兵士たちがすぐそこまで迫っていた。
「させないよ!」
リスティの前に、ラニアの長身が割りこんだ。
ラニアの目が、一瞬だけ森の奥へ走る。
その先では、彼女の大剣が木の幹に食いこんだままになっていた。
しかし、そこへ至るまでの道は、すでに兵士たちに塞がれている。
「はあッ!」
兵士の一人が、ラニアの胸元めがけてヤリを突き出した。
パシッ。
ラニアは、穂先のすぐ下を素手で掴み取った。
「なっ!?」
「借りるよ」
ラニアが軽く腕を引いただけで、兵士の手からヤリがすっぽ抜けた。
「うわあっ!?」
つんのめった兵士の背を蹴り飛ばし、ラニアは奪ったヤリを両手で握り直す。
ブォンッ!
横薙ぎの一振りが、迫っていた兵士たちをまとめて払った。
「ぐあっ!?」
「ぎゃっ!」
吹き飛ばされた兵士が、後ろの仲間を巻きこんで転がっていく。
ラニアは勢いを殺さず、返す
バキィッ!
兵士の胸当てを打ったところで、ヤリの柄が真ん中からへし折れた。
「……あ」
ラニアは、手元に残った半分の柄を見下ろした。
「やっぱり、こういう細いのは手に合わないね」
ラニアは折れた柄を放り捨て、拳を握り直した。
それを見て、兵士たちの足がわずかに鈍る。
「……お、おい誰か行けよ」
「いや、オレは援護が得意なんだ。誰かが行ったらしっかりカバーするからさ……」
素手になったはずの相手に、誰も先陣を切ろうとしなかった。
ギィンッ!
金属のぶつかる音に、リスティは振り返った。
大木のそばで、ハルスフォートとヘクトールが斬り結んでいた。
ヘクトールの左手には杭が一本、空いた右手の先では
「魔力切れがないってのは、羨ましい限りだな……!」
対するハルスフォートは、
ハルスフォートの足運びは、どこかぎこちなかった。
踏みこみたいはずの場面でも、彼は半歩手前で足を止める。下がる時も真っ直ぐには下がらず、わずかに横へずれていく。
その足元を見て、リスティは気づいた。
ハルスフォートは、木漏れ日を踏んでいない。
どれほど押しこまれても、彼の靴は葉陰の暗がりの中だけを選んで動いていた。
一歩でも日なたへ出れば、頭上からあの光の柱が落ちてくる。
ガキンッ!
杭を受け止めたハルスフォートの腕が、大きく押し返された。
胸の傷から新しい血が滲み、裂けた服をじわじわと赤く染めていく。
「その傷で、まだ粘りますか」
「あいにく、引き際ってのを知らないもんでね……!」
軽口とは裏腹に、その呼吸は荒かった。
「ハルスフォートさん……!」
リスティは、腰の短剣へ手を伸ばした。
しかし、その行く手を、ヤリの穂先が塞いだ。
「娘を囲め! 傷はつけるなよ!」
ガシャガシャと鎧を鳴らして、兵士たちがリスティの周りに散った。
前に2人、左右に1人ずつ。ヤリの穂先こそ下げているものの、彼らはじりじりと輪を狭めてくる。
「リスティ!」
ラニアの声が、兵士たちの肩越しに届いた。
彼女もまた、別の兵士たちに囲まれていた。
拳一つで次々と殴り飛ばしているが、倒したそばから新しい兵士が割って入り、こちらへ近づけずにいる。
リスティは、短剣を握る手に力をこめた。
この人数を、短剣一本で相手にできるはずがない。
詠唱しようにも、口を開いた瞬間に飛びかかられるだろう。
けれど、兵士たちは誰一人としてヤリを突き出してこなかった。
「生け捕りに限る」という手配書の文句が、彼らの手を縛っているのだ。
スッ──。
リスティは短剣を逆手に持ち替え、その刃を自分の首筋へ押し当てた。
「止まってください」
冷たい鉄が肌に触れ、細い痛みが走る。
兵士たちの足が、ぴたりと止まった。
「お、おい……!」
「なにしてんだ、あのガキ!?」
「それ以上近づいたら、このまま引きます」
口から出た声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「た、隊長! どうします!?」
「生け捕りって話じゃなかったんですか!?」
「あの子の首飛んだら、オレたちの首も飛ぶんじゃ……」
兵士たちが、一斉に隊長の方を振り返る。
「あ、網だ! 網で絡め取ってしまえば、刃を引く前に押さえられる!」
「網なんて残ってませんよ! システリムで全部使い切ったじゃないですか!」
「ぐっ……だから上は現場を分かっていないんだ……!
網一張りにいくらかかると思って、毎年毎年予算を削りおって……!」
隊長は歯噛みしながら、ヤリを放り出さんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「待て待て待て! 落ち着こう!
な? まずは落ち着こうじゃないか!」
両手を前に突き出し、隊長は精一杯の作り笑いを浮かべた。
「早まるんじゃない。君はまだ若いんだ。
王都に来れば、悪いようにはされない。温かい食事も、柔らかい寝床も用意される。命まで取られるようなことは……」
「その王都で、生け贄にされかけたんです」
隊長の作り笑いが、そのまま固まった。
「……そ、それって、なにかの勘違いなんじゃないか……?
ま、まさか王国が、こんなか弱い少女を生け贄にするだなんて……」
しどろもどろになる隊長から目を離さず、リスティは刃を首に当て続けた。
「では、何故わたしに手配書が出ているか知っていますか?」
「…………」
兵士たちは動かない。
けれど、動けないのはリスティも同じだった。
少しでも隙を見せれば、すぐさま兵士が抑えに来る。
視線を外すことも、背を向けることもできない。
ギィンッ! ガキンッ!
背後では、ハルスフォートとヘクトールの
鉄のぶつかる音が響くたびに振り返りたくなるのを、リスティは唇を噛んでこらえた。
兵士たちを
「と、ともかくだ! その刃物を下ろしてくれ。話なら、後でいくらでも聞くから──」
隊長が額に汗を浮かべて言葉を探していた、その時だった。
「銀髪の首、もらったァッ!」
ザッ、と落ち葉を蹴る足音が、リスティの背後を駆け抜けていく。
ヤリを抱えた兵士が一人、ハルスフォートたちの斬り合いへ飛びこんでいったのだ。
「バカ、勝手に出るな!」
隊長が慌てて怒鳴ったが、もう遅かった。
「……邪魔です」
ヘクトールの声だった。
低く冷えきった声が、
「
ドドォッ!
「ぐわあぁっ!?」
「うおっ──!」
兵士の悲鳴に、ハルスフォートの声が混じる。
ラニアに食らわせた、あの水流だ。
滝を横倒しにしたような一撃を、ヘクトールは兵士ごとハルスフォートへ叩きつけたのだ。
ザアァッ……!
足首に、冷たいものが押し寄せてきた。
落ち葉と泥を巻きこんだ濁流が、リスティの足元を勢いよく流れていく。
「わわっ!?」
すぐ後ろで、上ずった声が上がった。
どうやら、水流の端に若い兵士が一人巻きこまれたらしい。
ヒュンッ。
濁流の音に混じって、風を切る音が聞こえた。
何かが回転しながら、宙を飛んでくる音だった。
「え──?」
その音は、まっすぐリスティの背中へ近づいてくる。
「し、死──!」
隊長の顔から、見る間に血の気が引いていった。
リスティの背後を見つめたまま、口を半開きにして固まっている。
ヤリを握る手も、踏み出しかけた足も、少しも動いていない。
風切り音が、すぐそこまで迫っていた。
「リスティ!」
ダッ!
濁流を蹴立てる足音が、背後から飛びこんできた。
黒い影がリスティの視界の端を横切り、銀色の髪が木漏れ日を弾いて光る。
ギィンッ!
すぐ後ろで、甲高い金属音が弾けた。
弾かれた何かが、くるくると回りながらリスティの頭上を越えていく。
ドスッ、と少し先の地面に突き立ったのは、一振りの剣だった。兵士たちの腰に下がっているものと同じ、飾り気のない剣だ。
「ハルスフォートさん、そこは……!」
リスティは、首に刃を当てていたことも忘れて振り返った。
ハルスフォートがいた。
全身から水を滴らせ、肩で荒く息をしている。
あの濁流の中から、自分の足だけで駆けつけてきたのだ。
「……ッ!」
ハルスフォートも、遅れてそれに気づいたらしい。
自分の足元へ目を落とし、それから剣を振り抜いた己の腕を見下ろす。
リスティの声に、ハルスフォートが肩越しに振り返った。
「見るな!」
鋭い一声だった。
けれど、その言葉はかえってリスティの目を縫い留めた。
まぶたを閉じることも、顔を背けることもできないまま、リスティは彼の姿を見つめ続けていた。
──梢を揺らしていた風が、ふと止んだ。
兵士たちの鎧の音も、ラニアの声も、どこか遠くへ引いていくように聞こえる。
「
森の奥から、静かな声がした。
ジリッ。
ハルスフォートの足元で、光の輪が白く膨れ上がった。
落ち葉の縁が、焦げる間もなく縮れていく。
その時の彼を、きっと忘れることはないだろうと思った。
濡れて張りついた銀髪も、わずかに歪んだ口元も、最後にこちらを向いた青い瞳も。
彼の姿が、一瞬だけ影を落としたように黒く染まった。
ゴォッ!
光の柱が、黒ごと呑みこんだ。
溶けるように、消えていった。
「……あ」
リスティの、呆けた声が上がる。
支えを失った
ザグッ。
あとには、黒く焼け焦げた円が残されていた。
熱で溶けた土がガラスのように固まり、その中心に
刀身はまだ熱を帯びているのか、周りの空気がゆらゆらと揺らいでいた。
その傍らには、黒い布切れが一枚、落ちていた。
燃えカスのように縮れた、手の平ほどの切れ端だった。
銀色の髪も、
血に濡れた服も、
皮肉げに笑う口元も、どこにもない。
「……ハルスフォート、さん……?」
呼びかけた声に、答える者はいなかった。
焼け跡から立ちのぼる細い煙だけが立っている。
そこに、人間はいなかった。
「…………」
兵士たちは、誰一人として口を開かない。
ヤリを構えたまま、焼け跡と、その向こうに立つ黒衣の男とを、ただ呆然と見比べている。
「……何も、残ってない」
ラニアのかすれた
カラン。
乾いた音を立てて、ヘクトールの手から杭が落ちた。
「は──」
ヘクトールは、焼け跡を見つめていた。
柔らかな目元は見開かれたまま、まばたき一つしない。
杭を取り落とした手が、小刻みに震えていた。
「は、はは。エレナ、見たかい。消えたよ。あいつ、ちゃんと消えたんだ。心臓が軽い。もうあんなのに煩わされないでいいんだ」
ヘクトールの膝が、がくりと落ちた。
焼け跡の前で背を丸めてうずくまる黒衣の男は、ひどく小さく見えた。
「ねえ、もう出ていってもいいかな。もう、隠れていなくてもいい。
ガタガタ震えてるだけじゃないんだ。僕はやったんだよ。やった。やった……!」
誰に向けた言葉なのか、リスティには分からなかった。
ヘクトールの目は焼け跡を見ているようで、どこか別の場所を見ているようでもあった。
「く、ふ……」
ヘクトールの肩が、揺れ始めた。
「ふ、ふふ……あは、あはははははっ!」
笑い声が、森に響き渡った。
腹を抱え、天を仰ぎ、ヘクトールは笑い続けた。
穏やかだった声はどこにもなく、喉が裂けるのも構わないような、
兵士たちが、気味悪そうに後ずさる。
「な、なんなんだ、あいつ……」
リスティの耳には、その声も、笑い声も、遠い水音のようにしか届いていなかった。
焼け跡の中心に突き立った剣から、目が離れなかった。
その中で、ラニアだけが別のものを見ていた。
彼女の顔から、すっと血の気が引いていく。
鼻先がかすかにひくつき、喉の奥から、獣のような低い
「……逃げるよ」
「え……?」
「逃げるよ!」
ダッ!
ラニアが地面を蹴った。
立ち尽くす兵士たちの間を縫うように駆け抜け、リスティの前へ滑りこむ。
ラニアは返事を待たず、リスティの体を片腕で抱え上げた。
呆然と立つリスティの手から短剣を奪い、無理矢理鞘に戻させる。
自分の手が触られているという感覚も、どこか遠かった。
「ま、待て! 娘を置いていけ!」
我に返った隊長の声が飛ぶ。
しかし、ヘクトールの笑い声がそれを呑みこみ、兵士たちの足も鈍いままだった。
ラニアは振り返らなかった。
リスティを抱えたまま、焼け跡のすぐ脇を一直線に駆け抜けていく。
「あ──」
目の前を、
リスティは、考えるより先に手を伸ばしていた。
ジュッ。
熱を残した
それでも、リスティは指を離さなかった。
ズッ──。
ラニアの勢いに引かれて、刀身が固まった土から抜けた。
抜けた剣は、そのままリスティの腕の中へ転がりこんだ。
足元を、黒い布切れが過ぎていく。
焼け残りの切れ端は、誰にも拾われないまま、焼け跡の傍らに取り残された。
ラニアの大剣が刺さった木も、すぐに後ろへ遠ざかった。
ラニアは一度だけそちらへ目をやったが、足を緩めることはなかった。
背後で、笑い声はまだ続いていた。
リスティは、ラニアの腕の中で
焼けた手の平が、じんじんと痛む。その痛みだけが、今起きたことは夢ではないのだと告げていた。
彼が遺したものは、この一振りの剣だけだった。
木々の幹が、次々と後ろへ流れていく。
ラニアの腕は固く、その足取りは少しも緩まない。
耳元では、彼女の荒い息遣いと、落ち葉を蹴る音だけが規則正しく繰り返されていた。
ふと、笑い声が途切れていることに気づいた。
いつから聞こえなくなっていたのだろう。
遠ざかったせいなのか、それとも彼が笑うのをやめたのか、リスティには判断がつかなかった。
ミシッ。
代わりに、別の音が聞こえてきた。
ミシ、ミシミシ……。
木の
風に揺れる枝の音とは違う。太い幹が、何か重いものにのしかかられて、悲鳴を上げているような音だった。
首を回そうとするリスティに、ラニアが前を向いたまま言う。
「振り返らないで……思い返すのは、まだダメだ」
「……はい」
リスティは、ラニアの肩に顔を
腕の中の
刀身はもう冷めかけていて、その冷たさが、ひどく胸に刺さる。
ズッ、ズズッ……。
リスティの見ていない背後で、黒い霧は静かに立ち昇りつつあった。