衛兵隊長はヤリを握りしめたまま、木立の奥へ遠ざかっていく大女の背中を見つめていた。
その片腕には、黒髪の娘が荷物のように抱えられている。
──追わなければならない。
そんなことは、頭では分かりきっていた。
手配書には、娘は必ず生け捕りにせよと書かれている。銀髪の男がああして跡形もなく消えてしまった以上、娘まで取り逃がせば、手ぶらでシステリムへ帰ることになるのだ。
隊長は奥歯を噛みしめ、右足に力をこめた。
しかし、足は地面から離れようとしなかった。
隊長の目は、逃げていく娘ではなく、その手前に縫い留められていた。
焼け跡の前に膝をついた、黒衣の男に。
「はっ、はっはははははっぁあっはぁははははッ!」
腹を抱えて背を丸めたかと思えば、今度は天を仰いでノドをのけぞらせ、裂けんばかりの声を張り上げている。
居並ぶ兵士たちにも、走り去った娘にも、まるで関心を払う様子がなかった。
あの背中と自分との間の空気だけが、ひどく濃く
わずかでも近寄れば、何か取り返しのつかないものに触れてしまいそうな気がした。
ガシャッ。
すぐそばで鎧が鳴った。それが自分の足の半歩下がった音だと、隊長は遅れて気づいた。
前へは少しも出なかったはずの足が、後ろへはいともたやすく動いたのだ。
隊長は
「た、隊列を組み直せ!
あの
口をついて出たのは、追撃の号令ではない。この場で最も危うい男への、警戒の号令だった。
ばらばらに散っていた者たちが、焼け跡から距離を取るようにして横一列に並び直していく。
ヤリの穂先を揃えた列の後ろに弓兵が続き、そのさらに後ろへ、隊長は収まった。
ぷつり、と笑い声が途切れた。
あれほど森を震わせていた声が、ノドの途中で断ち切られたように消えていた。
「……エレナ。机の下は釘で打ち直して、銀色の扉が、僕の下でずっと隠れて、震えて、直して」
言葉の一つ一つは、確かに聞き取れる。
それなのに、それらが繋がった途端、意味だけがすっぽりと抜け落ちていた。
口の端から
「ひだまりの、ほつれた、あおい皿が、すずしく、ほどける、ねむる、ゆび、ゆびの、ささくれた、あさ、さ、さかさの」
しかし今、あの口からこぼれる言葉は、一つ一つの形さえ崩れかけていた。
「ろ、うる、ぬ、ぃ、かるさ、き、ぅ」
ミシッ。
頭上で、何かが
ミシ、ミシミシ……。
隊長は、反射的に
風は吹いていない。それなのに、周りの木々の幹が、太い枝が、そろって悲鳴のような音を立てている。
裾から、袖口から、空へ向けられた口から、黒い霧がじわじわと
「うっ……」
鼻の奥を、妙な匂いが突いた。
焼け跡の焦げ臭さとは違う。熟れすぎた果実を、湿った土の底で何年も寝かせたような、重く甘ったるい匂いだった。
隊長は思わず、
今さらのように思い出した。逃げ出す直前、あの大女が鼻をひくつかせていたことを。
霧は地を這って焼け跡を覆い、膝をついた
「
その奥からは、出来損ないの
兵士たちの間に、ざわめきが広がり始めた。
「お、おい……なんだよ、あれ」
「黒い霧って、まさか……魔王?」
誰かがこぼした
激しい感情を抱いた人間は、魔王になることがある。子供でも知っている言い伝えだ。
そして年寄りたちの昔語りによれば、人が魔王に変わる時には黒い霧が立ち昇るのだという。
しかし、隊長はこれまで、魔王というものを一度も見たことがなかった。
本当に、あれがそうなのだろうか。
気の触れた男が、魔術を暴発させているだけではないのか。
「た、隊長! どうするんですか!?」
兵士たちの視線が、隊長へ集まった。
隊長は口を開きかけ、そのまま閉じた。
もし、あれが魔王でもなんでもなかったら。殺せと命じた自分は
「……ま、待て。まだ何も分からん。
構えたまま、様子を見ろ」
かろうじて絞り出せたのは、そんな言葉だけだった。
その間も、霧の奥の声はやまなかった。
「あー。あー、あー」
霧の中に、うっすらと人影が浮かび上がった。
膝をついていた
立ち上がるそばから、その輪郭が
肩幅が狭まり、背丈が縮み、腕も脚も、内側へ引き寄せられるように細くなっていく。
やがて霧の中に立っていたのは、
兵士たちのざわめきが、ぴたりと止んだ。
あれはもう、
「──魔王だ! 殺せ!」
迷いの消えた隊長が、隊列の後ろから怒声を飛ばした。
「
ヒュンッ!
弓兵たちが、一斉に矢を放った。
風を裂いて飛ぶ矢を追うように、前列の兵士たちがヤリを構えて駆け出していく。
「うおおおおッ!」
鎧の音と
フッ──
矢が届くより早く、黒い霧が晴れた。
風に吹き散らされたのではなく、一筋残らず、中心に立つ人影へ吸いこまれていったのだ。
焼け跡の縁に、少女が立っていた。
身にまとっているのは、さっきまで
大人の男の服は小さな体にまるで合っておらず、襟は肩までずり落ち、余った袖は指先よりも長く垂れ下がっている。
裾はガラスのように固まった焼け跡の上へ、だらしなく広がっていた。
光を返さない黒髪黒目。
少女は袖の中から片手を出し、くしゃくしゃと頭を
細い指の先で、爪だけが虹色にきらめいていた。
「……また、
気だるげな声だった。
放たれた矢の先端は、もう少女の目と鼻の先まで迫っていた。
しかし、そこから先が、いつまで経っても縮まらない。
少女に近づくほどに、矢は泥の中を進むかのように勢いを失っていく。
「んー……っ」
少女が、両腕を頭上へ伸ばした。
寝起きの子供がするような、何の変哲もない伸びだった。
欠伸のついでのように、彼女が呟く。
「
ズッ──。
焼け跡から細く昇っていた煙が、ふいに根元から折れた。
天へ伸びていた一筋は、上から押さえつけられ、横へ広がり、焼け焦げた地面を薄く這っていく。
舞っていた木の葉が、ひらめくのをやめ、石のようにまっすぐ土へ吸い寄せられる。
矢が落ちた。
少女の顔を射抜くはずだった矢が、見えない手に叩き落とされ、真下の地面へ突き刺さる。
宙を飛んでいた矢という矢が、一本残らず同じように落ちていった。
ズンッ!
駆けていた兵士たちもまた、まとめて地面へ叩きつけられた。
「──!」
悲鳴は、声になる前に潰れた。
倒れた兵士の背に、その身を覆っていた鎧がのしかかる。胸当てが持ち主ごと地面へめりこみ、兜がひしゃげ、ヤリを握った腕が、柄もろとも土へ沈んでいく。
メキッ。ゴキッ、バキバキッ。
「ぃっ……っ……!」
鉄の
兵士たちの体を守るはずの鎧が、そのまま持ち主を押し潰す重しに変わっていた。
「ぁ──!」
隊長の体も、例外ではなかった。
膝が勝手に折れ、隊長は前のめりに倒れこんだ。
全身の鎧が何倍にも重くなったかのように、背中へのしかかってくる。肺から空気が押し出され、声どころか、呻きすら出ない。
ぐちゃり、と顔が泥に沈んだ。
隊長が退いた先は、さっきの濁流が流れこんで溜まった窪地だった。
鎧ごと、体がずぶずぶと泥の中へ沈んでいく。鼻にも口にも泥が流れこみ、息が吸えない。
しかし、泥は隊長の体を押し潰しはしなかった。
柔らかな泥が、鎧の重さを四方へ逃がしていく。地面に叩きつけられた兵士たちのように、鎧と大地の間に挟まれることはない。
泥の中で、音だけが聞こえ続ける。
鉄が潰れる音。骨の砕ける音。頭上で枝の折れる音。
「……ふぅ」
気の抜けた吐息とともに、背中の重さがふっと消えた。
「ゲホッ、ガハッ!」
隊長は泥の中からどうにか顔を起こし、咳きこみながら息を吸った。
泥まみれの目を何度も
焼け跡の周りの木々は、枝という枝を折られ、幹の半ばから裂けて地に伏している。
その手前に、兵士たちが倒れていた。
どの体も、鎧ごと地面へ半ば埋もれ、平たく潰れている。兜の隙間から赤黒いものがにじみ出し、泥と混ざって広がっていく。
前列にいた十人近くは、誰一人として動かなかった。
隊長の周りでは、弓兵たちが
彼らは弓を引きやすいよう、兜と胸当てのほかは身軽にしていた。そのおかげか、地面に這いつくばらされながらも、潰されずには済んだらしい。
生き残ったのは、隊列の後ろにいた者ばかり。
ぬちゃり、ぬちゃり、と泥を踏む音が近づいてきた。
脱げ落ちた靴を焼け跡に残し、少女が素足で歩いてくる。
引きずった黒衣の裾が、動かなくなった兵士たちの鎧の上を、ずるずると這っていった。
カラン。
小さな素足が、焼け跡の手前に転がっていた鉄の
あの黒衣の男が、最後まで握っていた得物だ。少女は足元を一瞥もしなかった。
弓兵たちは、誰も弓を構えなかった。
逃げ出そうとする者すらいない。皆、身を起こしかけた姿勢のまま、近づいてくる小さな影を見上げていた。
少女は隊長の目の前で足を止め、きょとんと首を
「あ、まだ生きてたんだ」
近くで見ると、少女の目はいっそう黒かった。
本来なら、その瞳に隊長の顔が映りこむはずだった。だが、そこには何も映っていない。像そのものが、黒の奥へ呑まれていた。
「人間ってさぁ、放っとくとすぐ殺そうとしてくるじゃん? さっきみたいに」
責めるような口ぶりではなかった。雨が降るから傘を差す、とでも言うような調子だった。
少女はその場にしゃがみこみ、膝の上で
「だからさ、眷属になってくれない?」
隊長は、言われたことの意味をすぐには呑みこめなかった。
「け、眷属……? な、何を言って……」
「あ、そっか。名乗ってなかったっけ」
少女は、虹色の爪をひらひらと振ってみせた。
「あたしは重力を司る魔王、ドゥネフシュトゥ。
『
聞き違いではない。少女──ドゥネフシュトゥは、自らを「魔王」と名乗ったのだ。
袖からのぞく人差し指が、くいと曲げられる。
「待て、まだ返事を──」
「落ちるリンゴにお願いされたことはある?」
途端に、泥に沈んでいた隊長の体が、宙から垂れた糸に吊り上げられたように引き剥がされた。
重い鎧をまとったまま、宙でぐるりと裏返され、隊長は仰向けに泥の上へ落とされる。
ドゥネフシュトゥの手が、隊長の胸へ伸びてきた。
「や、やめ……やめろ……ッ!」
鉄の胸当てに、色の移ろう爪が触れる。
次の瞬間、その手は胸当てを──そして隊長の胸を、水面にでも差し入れるかのように、するりと沈みこんでいた。
「……あ……」
痛みはなかった。
代わりに、何かが流れこんできた。
冷たいのか熱いのかも分からない、どろりとした何かが、彼女の手のひらから心臓へ、心臓から指の先へと、体の隅々まで染み渡っていく。
「……ッ、──っ!?」
隊長は叫ぼうとしたが、ノドからは
ドゥネフシュトゥが手を引き抜いた時、胸当てには傷一つ残っていない。
「ふわぁ……」
彼女が、大きな
「これ、ダルいんだよねぇ。一人を魔人にするより、百人を殺す方がラクだし」
「はぁっ……私が……私が……!」
隊長は、仰向けのまま自分の胸当てを見下ろした。
自分が何にされたのか、隊長には分かってしまった。
魔王の魔力を注がれた、人間の成れの果て──魔人にされたのだ。
「
それは、魔王が眷属に下す、絶対の命令。
ドゥネフシュトゥは眠たげに目をこすりながら、隊長を指さした。
きらめく爪の先が、まっすぐ隊長の胸に向けられている。
「死ぬまで魔人増やしてね」
その言葉は、耳ではなく、胸の奥へ直に響いた。
「魔王の言うことなどッ……!?」
隊長の体が、泥の中から勝手に起き上がった。
止まれと、隊長は自分の足に命じた。
しかし、足は聞かない。一歩、また一歩と泥を踏みしめ、下草をかき分けていく。膝に力をこめて踏ん張ろうとしても、その力ごと前へ運ばれていくだけだった。
「止まれ、止まれッ……!」
ノドも口も、自分の思うように動いた。
それなのに、首から下だけが、他人のもののように歩き続けている。
「あああぁぁぁっ!?」
背後で、
「い、やだ……魔人になったら……帰れない……!」
振り返ろうとしたが、体は前へ進むことしか許さなかった。
悲鳴は一つでは終わらず、二つ、三つと続いていく。そのたびに、間延びした欠伸の声が挟まった。
「ふわぁ……もう、ダルぅ……。
キミたちは……
投げやりな声も、やがて耳に届かなくなった。
隊長の左右を、いくつもの足音が通り過ぎていった。
泥と血にまみれた弓兵たちが、てんでばらばらの方向へ、同じ足取りで歩いていく。
誰一人として隊長の方を見ず、隊長もまた、彼らを呼び止める言葉を持たなかった。
隊長の足は、迷いなく前へ進む。
その先に人間がいるのかどうかも分からなかった。けれど、仮にいたとしたら──その者がすぐに人間でなくなってしまうことだけは、分かっていた。
手ぶらでシステリムへ帰ることになる。
ほんの少し前まで、そんなことを恐れていたのだ。
今となっては、手ぶらでも構わなかった。帰れさえすれば。
けれど、もしこの足が町まで辿り着いてしまったら。門をくぐり、詰所で待つ同僚たちの前に立ってしまったら──。
隊長は、その先を考えるのをやめた。
森の奥へと消えていく隊長の背中を、見送る者はいなかった。
弓兵たちの足音も、四方へ散り散りにほどけていく。
やがてそれらがすっかり聞こえなくなると、森には静けさだけが残された。
枝を折られた木々の隙間から、陽の光が差しこんでいる。
その光は、ひしゃげた鎧の上にも、泥に染みこんだ赤黒いものの上にも、等しく降り注いでいた。
焦げた地面の端では、手の平ほどの黒い布切れが、誰の目にも留まらないまま張りついていた。
少し離れたところでは、裂けて倒れた木の幹に一振りの大剣が食いこんだまま、柄だけを空へ向けている。
焼け跡の縁で、ドゥネフシュトゥが眠っていた。
ぶかぶかの黒衣にくるまり、冷たく固まった地面の上で、小さく体を丸めている。
余った袖を枕代わりに頬の下へ敷き、虹色の爪をした指先を、胸の前で緩く握っている。
すうすうと立てる寝息は穏やかで、その寝顔は、どこにでもいる子供と少しも変わらなかった。
つい先刻まで、ここには一人の
恋人を奪った男を追い続け、ようやくその男を焼き尽くした
代わりに、その器の中で、重力を司る魔王が眠っていた。
彼女が送り出した魔人たちは、今この時も、森の中を歩き続けている。