昨夜。
パチパチパチ……。
村のあちこちで、
遠くの村人たちは、武器や農具を手にしている。
彼らの言葉は少なめで、ただ唇を引き結び、暗がりの先を
「……はあ」
リスティの吐いた息が、夜闇に合流する。
彼女がいるのは、村の中心から少し外れた教会の前だ。
旅人に任されたのは、中心から外れたこの場所。
古い石壁に背を預けると、
「ゴブリンの
隣に立つ旅人の男が言った。
奇遇にも、リスティがこの村へ来た直後に訪れたらしい。
男は村人から借りたシーツを、頭から体までぐるぐるに巻きつけていた。布の隙間から、金髪がぴょこんと跳び出している。
その声はシーツ越しにくぐもり、少し鼻にかかって聞こえた。
「ヒトの知能には遠く及ばないが、投石が可能な知恵はある。
そして、彼らは群れで狩りを行う。
何十という投石が予想される。頭を
男が、余っていたシーツを差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
リスティは受け取ったシーツを頭に巻いた。
シーツから
男は苦戦を見こんでいるらしい。
だがリスティは、シーツの
リスティには確信があった。
ただしその確信は、戦場の違いを
ギュゲッ!
闇の奥で、
木々の間から、粘つくような叫びがいくつも跳ね返ってくる。
「来たッ!」
男の声が跳ねた。
リスティは迷わず、舌に馴染んだ詠唱をほどき始める。
「原初の釜。生命の熱に
初歩の火炎魔術。
しかしリスティが放てば、地獄の業火となって辺り一面を焼け野原にする兵器である。
村人たちには事前に「火事になるかもしれないのでその準備を」とお願いしている。
ギッギィ!
子供ほどの背丈の影が、1つ、2つ、3つ──。
緑色の肌。ぬめる牙。
ゴブリンの群れだった。
それを視認した男が
「
ズグンッ!
大地が轟音を鳴らす。
ギィイッ!?
ゴブリンたちの足元が、地面が縦に裂けた。
土と石が、何匹かの体が亀裂へ落ちていく。
靴裏から衝撃が突き上げ、リスティの歯がかちりと鳴る。
「わっ!?」
驚きから、詠唱が中断される。
続きを唱えようとするが、舌の上にあったはずの言葉がどこにもない。
これまで、詠唱は一続きでしか唱えた事がなかった。
脳は一本の糸を最初から編み上げるしか知らず、切断されたものを繋ぎ合わせる作業に慣れていないのだ。
彼女は唇を舐め、絡んだ呼吸を整える。
「げ、原初の釜。生命の熱に──」
ガンッ!
「まぎっ!?」
また大地が震動する。ゴブリンを飲みこんだ裂け目が閉じたのだ。
リスティは奥歯を噛み、強引に唱え直す。
「原初の
その横から、類似する火の言葉が割りこんだ。
「──底に
ゴウッ!
夜の空気が、一瞬で乾いた。
男の放った炎がうねり、ゴブリンの一団を包む。
ギャガッ!?
獣脂の臭いが鼻を突いた。
小さな影が火の中で跳ね、転がり、やがて黒く縮んでいく。
「底に煮え立つ
リスティの
戦場でリスティの隣に立っていたのは、いつも
耳元で別の魔術師が詠唱することなどなく、経験しない混線に
リスティは頭をぶんぶん振る。シーツの端が頬を叩いた。
「原初の
ギュゲーッ!
ゴヅッ!
「痛っ!?」
石が頭に当たり、
視界の
「原初──」
「跳べッ!」
男は短い忠告と共に、地面を蹴りつけ
ゴロゴロガッ!
「ぎゅっ!?」
ゴブリンが放ったのは、転がる丸太。
反応できなかったリスティの腹に、重い衝撃がめりこむ。
背中が教会の壁に叩きつけられ、肺の中の空気が全部押し出される。
それから──視界は真っ黒に閉じられる。
「──という訳なんです」
宿屋の一階。
朝の食堂には、焼いたパンの匂いが漂っている。
リスティはスプーンを持ったまま、昨夜の出来事を語り終えた。
「ゴブリンの丸太と教会の壁にサンドイッチにされて、多分そこで気を失ったんです。
気づけば、この宿屋のベッドの上。何もお役に立てずに終わってしまいました……」
最後の言葉は、スープの湯気に負けるくらいに小さい。
スプーンが、
話を聞き終えたハルスフォートは、片手で額を押さえる。
「おまえ……妨害下の詠唱訓練をしていないのか?」
「……はい」
「誰かに横で別の詠唱をさせる。足場を揺らす。石を投げる。途中で息を乱させる。それでも詠唱を
おまえ、師匠ってのがいるんだろ?」
スプーンの動きが止まる。
「えっ……? 確かにいましたが、どうして知っているんですか?」
「寝起きのおまえが言ったからだ。
それでその師匠とやらは、おまえにどれだけ魔術を叩きこんだ?」
リスティは少し考え、視線を卓上へ落とした。
「単純に、詠唱を教えられました。
最初は
それからは……必要に駆られて
「なら、どうして今まで練習をしていなかった?」
リスティの指が、スプーンの
銀色の
「師匠と旅をしていた頃は、練習するだけでも場所を選びました。
それからは、本番ばかりで……そういった練習の機会が、ほとんどなかったんです」
沈むリスティの言葉で、ハルスフォートが真意に気づく。
「魔力があり過ぎるから、場所を選ばなきゃ練習ができない訳か」
普通の魔術師ならば、初心者の頃は屋外で初級魔術をいくらでも唱えられるだろう。
だが、リスティの魔力は初級魔術ですら上級魔術に変えてしまうのだ。
街で詠唱すれば大災害。
森で唱えれば木々は
「海で練習したこともあったんですが……海水温が上がりすぎて魚と海藻が死滅して、漁師さんに賠償したこともありました」
「……そういう事情なら、強くは言えんか」
膨大すぎる魔力の弊害を知り、ハルスフォートはため息を吐いた。
リスティの身の上は分かった。
だが、自分は彼女の教育係ではない。肉や心臓を食いさえすれば、それで良いのだ。
ならばいっそ、この場で斬って食ってしまえば──。
ハルスフォートの指が、剣の
リスティが首元へ手を入れた。
「……これを使えば良かったかもしれません」
肌着の下から出てきたのは、銀のネックレス。
そこに吊り下げられていたのは、ひとつの指輪だった。
この世界で信仰される女神の姿が彫られた、銀色の指輪である。
「…………」
ハルスフォートの喉の奥に、冷たいものが落ちた。
剣の
「……それは、何だ?」
「
これなら詠唱なしで攻撃できますから、当然詠唱は中断されません。
ただ──私の魔力が高すぎるせいで、高価なのに一回で壊れますし、出てくる炎の柱も、柱というより
緊急事態用に、お守りとして肌身離さず持っています」
「…………」
もし自分が剣を抜いていたならば、消し炭すら残らず蒸発していただろう。
有り得た危機を回避し、ハルスフォートの背に一筋の汗が伝う。
「ともあれ、この村はゴブリンに襲われていて、そしてお前は退治に失敗した、と……。
なら、まだゴブリンは倒されていないわけだな?」
「はい。村の人たちが困っているので、早く倒したいんですが……」
リスティは膝の上で拳を握った。
ハルスフォートは
「報酬は?」
「一応、全部倒したら500
500
1Gでパンの一つ、10Gで宿の一泊に
しばらく宿には困らないが、大群のゴブリン退治にしては安い額。
もっとも、ここは
村の出せる精一杯の金額なのだろう。
それに──。
「ザコを退治してそれぐらいなら、おれの剣を抜いても良い」
チャキッ……。
剣が、鞘の中で音を立てた。
ハルスフォートは立ち上がり、
「お前はそこで寝ていればいい。
安い仕事なりの安い報酬。軽い
その傲慢な宣言は、もって5時間の命であった。