リスティがティミー村に来て、二日目の夜。
家々の窓から、
それはいつもなら、鍋の湯気や笑い声を思わせる温かさだったのだろう。
しかし今夜の光は、闇に追い詰められた人々が、内側から必死に押さえている小さな火のように見えた。
広場では、村人たちが輪を作って話し合っている。
手にしているのは、農具、斧、古びた弓。戦うためというより、何かを握っていなければ不安で仕方がないといった様子だった。
子供や老人は、宿屋へ集められている。
宿の食堂には普段より多くの椅子が並べられ、毛布や水差しが
リスティは、その隅で小さく立っていた。
「リスティちゃん、これもお願いできる?」
「はい」
宿屋の婦人から受け取った水差しは、思ったより重かった。
リスティは両腕で抱えるように持ち、避難してきた老人のそばまで運ぶ。
水が内側で揺れ、
「こちらに置いておきます」
「ありがとうねぇ」
柔らかな声を返され、リスティは小さく
誰も彼女を責めなかった。
昨夜、ゴブリンを倒すと言っておきながら、倒しきれなかったことを。
だからこそ、胸の奥に沈むものは、重くなる一方だった。
「…………」
胸元のネックレスへ、視線が落ちる。
鎖が中に通された、指輪型の
詠唱を必要とせず、炎の柱を呼び起こす道具。
これを使えば、ゴブリンを焼けるかもしれない。
しかし、一回だけで壊れてしまう使い切り。
師匠が、「命に差し障りがある時にだけ使え」と渡してくれたものであり、遺品だ。
ここで使ってしまったら、本当の緊急事態に対応できないかもしれない。
──わたしの魔力がこんなに高くなければ、もっと練習して、もっと強い魔術師になれるのに。
ネックレスを
その時だった。
ギィ……。
宿屋の扉が、重たい音を立てて開いた。
食堂にいた村人たちが、一斉に顔を向ける。
夜の闇を背負って、誰かが立っていた。
最初、リスティにはそれが人間だと分からなかった。
銀色の髪は血と泥で固まり、衣服はあちこち裂けている。
肩にも、頭にも、破れた
まるで、森そのものを引きずって帰ってきた亡霊だった。
「ハルスフォートさん!?」
リスティが声を上げるのと、彼が宿の中へ倒れこむのは同時だった。
どさっ。
床板が
倒れた身体から、ぱらぱらと枯れ葉が散乱した。
村人たちが息を呑む。
子供の一人がつんつんと頭を突き、誰もが思った事を
「死んだんじゃないの~?」
リスティは水差しを置き、駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!? すごい血──!」
「大丈夫だ……」
ハルスフォートは、差し伸べられた手を片手で制した。
壁に手をつき、足を一歩ずつ引きずるように、食堂の椅子へ向かう。
「ほとんどゴブリンの血だ……おれへの心配は要らない……」
そう言って、椅子に腰を落とす。
そして、そのままテーブルに突っ伏した。
衝撃で、頭のてっぺんに
「……多すぎる……修正が必要だ……」
ハルスフォートの声は、地の底から響くように
「倒せなかったんですか……?」
リスティは問うた。
ハルスフォートは、突っ伏したまま片目だけを開ける。
「ああ、倒した。斬って、突いて、飛ばして、蹴った」
「それで……?」
「それでも減らん」
食堂の空気が沈んだ。
誰かの椅子が、ぎしりと鳴る。
「おれの想定を……ほんの、数百ほど上回っていただけだ」
その時、食堂の
「──いや、恐らくは千人以上が生活している」
不意の言葉に、ハルスフォートは目だけを動かした。
リスティもそちらを見る。
ランプの影に、
食堂に避難してきた村人たちに
「あの……誰ですか?」
リスティが訊ねると、金髪の男はフッと苦笑し、手に白いシーツを持つ。
「そういえば、君にはこの姿の方が分かりやすいか」
バサッ!
男は白いシーツで、自身をぐるぐる巻きにした。
そのフォルムに覚えがあるらしい、リスティは口を大きく開けた。
「ああっ! そのシーツは!
昨夜一緒に、ゴブリンと戦ってくれた旅人さん!」
「……どういう関連付け記憶だ……」
ハルスフォートが静かにうめいた。
シーツでぐるぐる巻きの男は、近くのイスを引き寄せた。
彼は、懐から折り畳まれた紙を取り出す。
広げられたのは、手描きの周辺地図だった。
村。
森。
川。
畑。
そして、森の一角に集中した無数の印。
リスティは、地図に顔を寄せた。
「これは……?」
「昨日と今日、昼に調査した結果だ。ゴブリンを視認した箇所にマークをつけている」
男は指先で地図を叩く。
印は、森の一部を囲むように円を作っていた。
だが、その円の中心には、何も描かれていない。
「……中央部が空いていますが、そこには、ゴブリンがいないんでしょうか?」
リスティの問いに、男はシーツを横に揺らした。
「これは『いなかった』のではなく、『視認できなかった』ということだ。
このマークの輪は、ゴブリンの輪。これ以上の接近ができないほどに密集していた」
男の指が、空白の中心を示す。
「推測するに、この中央にもゴブリンはいる。むしろ、ここが巣の中心だろう」
「千人以上、というのは?」
ハルスフォートが問う。
声から疲労は抜けていないが、目には鋭さが戻っていた。
「
ジジッ……。
ランプの油の焼ける音が、訪れた
誰かが、ごくりとツバを呑んだ。
千。
村人たちの手にある農具や弓では、とても
ハルスフォートはゆっくりと
「おれが見た限り、連中は
「
リスティが反復する。
「顔が同じだった。
体格も、声も、耳の形も、クセも似すぎている。
群れではあるが、群れらしくない」
金髪の男は、シーツの奥で満足げに喉を鳴らした。
「そう、僕の観察でも同じ結論だ。
彼女らは全て──ミドリミミナガゴブリンの1歳の女性だった」
「いや……そこまでは知らないが……」
ゴブリンの年齢と性別まで見分ける趣味は、ハルスフォートにはない。
だが金髪の男には、あるらしかった。
「ともかく、ゴブリン
リスティは、聞き慣れない言葉を頭の中で転がした。
視線が、地図の上をゆっくりとさまよう。
「つまり……
「そうなるだろうな」
ハルスフォートが地図の中心を指で叩いた。
「ここに、何かがある。ゴブリンを生み出し続ける何かがな」
「何か……」
「恐らく、天然の
その単語に、リスティの手が胸元へ伸びかけた。
「天然……?
「普通はな」
ハルスフォートは、自分の頭を指でつついた。
「だが、まれに自然発生する。人間の脳には、魔術を組むための
死後、その構造が肉体から
そうなると、その構造は永遠に魔術を吐き出し続ける」
「
「ああ。
人間は魔力を生む。その人間の生活圏で
リスティは、ネックレスにぶら下がった指輪型の
彼女は、かつて聞いた言葉を思い出した。
「……わたしは以前、師匠から教わったことがあります。
『死者を見たら火葬しろ』、と。意図しない
ハルスフォートは、短く「ああ」と返した。
「そのゴブリンの輪の中心に、天然
そいつを破壊しない限り、何体斬ろうが終わらない」
リスティは地図を見つめた。
ゴブリンの円の中心に、全ての原因がある。
「なら、わたしの魔術で、その
声は、考えるより先に出ていた。
ハルスフォートと金髪の男の視線が、リスティへ向く。
「射線が通れば、だな」
ハルスフォートが地図を
「ゴブリンの壁がある。
連中が密集しているなら、炎は中心まで届く前に、外側で
「上からならどうですか?」
リスティはすぐに返した。
「ハルスフォートさんの
「駄目だ」
遮ったのは、金髪の男だった。
「ゴブリンは投石をしてくる。
ヒトが魔術を1つしか使えない以上、何十もの
ゴブリンの有識者らしい男に、ハルスフォートはふと聞いてみる。
「ゴブリンの行動パターンについて詳しいのか?」
「まあ、一般人よりは詳しい」
「あのゴブリンについて不可解な点がある」
「不可解?」
「ああ。おれがゴブリンに敗北した後のことだ」
テーブルに落ちていた葉っぱを拾い、ハルスフォートは指先でくるりと回した。
「倒れたおれに対して、あいつらは列をなした。
おれの体にこういった葉っぱを被せて去っていったが、あれはなんの目論見がある?」
ハルスフォートとしては、あの「儀式」によって敵に戦略的利益があるかと疑ったが故の発言である。
しかし──。
「本当か!?」
「ああ。あれはもしや、ゴブリンの儀式魔術──」
「まさか、ミドリミミナガゴブリンも『
金髪の男が、シーツの下からノートと羽ペンを取り出した。
羽ペンの先が、ノートの上をしゃかしゃかと走り始める。
「
「そう。古くから
だが、ミドリミミナガゴブリンにおいて同様の行為が起こるとは、僕の知る限りこれが初めての事例だ!」
「あの──」
ハルスフォートの制止は、羽ペンの音にかき消された。
男は顔を乗り出す勢いで続ける。
「彼らにとってそれは、相手を殺す価値すら持たない『廃棄物』……つまり、
通常、
「…………」
ハルスフォートの周囲だけ、空気が一段冷えた。
殺す価値すら持たないただのゴミ。
ゴブリン相手に本気で負けた敗北者。
金髪の男は、無邪気にハルスフォートの尊厳を踏みにじった。
しかも本人は、踏んだ感触にまったく気づいていない。
それどころか、感激した様子でハルスフォートの手を取り、強引に握手した。
「いや、貴重なデータをありがとう。
僕は深夜に備えて仮眠させていただく。それでは失礼」
男は言いたい放題言った後、客室のある2階へと軽やかに上がっていった。
階段が、とん、とん、と呑気な音を立てる。
「……リスティ」
「は、はい……」
地の底から響くような、
ハルスフォートは目を血走らせ、グリンッ! と首をリスティに向ける。
「ゴブリン、殺したいか?」
「まあ……村の人たちが困っているので……」
「殺したいか?」
「……はい」
「おれもだ。奇遇だな」
強引に合意を取りつけ、ハルスフォートがゆらりと立ち上がる。
「リスティ、却下されたおまえの案を採用するぞ。
魔剣士のおれなら、シーツ野郎の言っていた
手を組め。ゴブリンどもを地獄のゴミ集積場に投下してやる」
鬼気迫るハルスフォートに
「……分かりました。
怖いですが、負けたままでいるのは、もっと嫌なので」
「明日。昼に実行する。
今夜は休め。おれも寝る」
端的に指示する、血と泥にまみれたハルスフォートに、
「お風呂、入った方がいいわよー」
賢明な宿屋の婦人は、入浴を勧めた。