人を助けないと即死亡の呪いを受けた悪役貴族の俺、しぶしぶ一日一善してたら、史上最高の名君に成り上がってしまう〜災厄貴族ジューダス・ファウルトの偽善〜   作:三月菫

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第24話 責任

 深夜——

 館の灯りはすべて落とされ、屋敷の中は水を打ったように静まり返っていた。

 

 かつて館の主であったゲスラーがいた頃は、深夜まで続く宴会が常で、夜の屋敷が静寂に包まれることなどなかった。

 

 だが今は違う。

 オルレインの雪深い夜にふさわしい、張りつめた静けさだけが、広い屋敷の隅々まで行き渡っていた。

 

 ヴィクトル・テラーは、その静寂の只中で、自室の机に向かっていた。

 卓上の燭台に立てられた一本のろうそくが、かすかに揺れ、机の上を淡い橙色で照らしている。

 その頼りない灯りだけを頼りに、ヴィクトルは黙々と手紙を書いていた。

 

 羽ペンの先が、紙の上をゆっくりと滑り、そして止まる。

 考え込み、また文字を刻む。

 整った、感情を削ぎ落としたような文字が、白い紙の上に淡々と並んでいった。

 

 ——それは、遺書だった。

 

 ヴィクトルは文字を書き連ねながら、自分が歩いてきた道を静かに振り返る。

 

 このオルレインでゲスラーの使用人として過ごした日々。

 

 帳簿を整えたのは、自分だ。

 命じられた数字を並べ、求められた形に整えてきた。

 

 ほんのわずかではあるが、オルレインの民を生かすために、数字に細工を施した。

 だがそれ以上に、ヴィクトルはゲスラーの意向に従い、都合のいい数字を積み重ね、帳尻を合わせ続けてきた。

 

 ヴィクトルは、実務を担う官吏として、ゲスラーに付き従った。

 ゲスラーの支配の中で自分が生き延びるために、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉じた。

 自分の手を汚さない代わりに、誰かが手を汚すのを黙って眺めていた。

 

(そして今、手を汚した者たちは全員が破滅した——)

 

 ヴィクトルは振り返る。

 

 就任式のその夜。

 ゲスラーとその手勢たちは、新領主ジューダス・ファウルトの暗殺を企てた。

 だが、ジューダスはあらかじめゲスラーたちがその企みを見抜き、すべて看破していた。

 

 そして、ゲスラーたちの結末は、あまりにもあっさりとしていた。

 ゲスラーたちは一人残らず捕縛され、自らが定めた反逆罪の罰を、その身で受けることになった。

 

 つい先日、その刑は執行されたばかりだ。

 

 処刑は町の広場で行われた。

 多くの民衆が集まった。

 皆、長い間、ゲスラーたちに虐げられ続けた人々だ。

 誰もがゲスラーを憎み、罵声が飛び、石が投げられた。

 

 ゲスラーとその配下たちは、自らが振りまいた憎しみに、最期は自分自身も飲み込まれていった。

 

 だというのに、自分だけが生き延びるのは、あまりにも道理が通らない。

 犯した罪を償わなければならない。

 

 ヴィクトルは、最後の一行を書いた。

 

『私は、ゲスラーの罪に対し、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤みました。その罪は、私の命で償うほかありません。オルレインの繁栄と安寧を祈ります』

 

 ペンを置く。

 紙の上に並ぶ文字が、急に現実感を失い、どこか他人事のように見えた。

 

 ヴィクトルは、淡々と封蝋を押した。

 宛名は、書かなかった。

 

 この喉の奥に張り付いた吐き気を。

 自分の手に残る、見えない血を。

 

 ただ、終わらせたかった。

 

 ヴィクトルは静かに立ち上がり、椅子を引く音さえ立てぬよう部屋を出た。

 屋敷の螺旋階段を下り、広間を抜け、玄関の扉を押し開ける。

 

 外套も羽織らず、剣も持たない。

 荷もない。

 

 扉の向こうへ一歩踏み出した瞬間、吹雪が容赦なく顔を打った。

 闇に溶ける雪片が、視界を白く曇らせる。

 

「都合がいい……」

 

 ヴィクトルは自嘲するように呟いた。

 死ぬには悪い夜ではなかった。

 

 

 町の正門へ向かう道は、雪で白く塗り潰されていた。

 降り積もった雪は音を奪う。

 夜のオルレインは、静かすぎるほどに、静かだった。

 

 町の広場——昼、ゲスラーたちの公開処刑が行われた場所を通る。

 昼の狂乱がまるで夢のようだった。

 

 そして広場を通り過ぎ、町の正門の前まで来て、ヴィクトルはようやく立ち止まった。

 

 正門には、門番の姿はなかった。

 重々しい鉄格子だけが、夜の町と外界を隔てるように立ちはだかっている。

 

 ヴィクトルは、ゆっくりと門に手をかけた。

 すでに寒さでかじかみ、感覚を失いかけている手のひらに、冷たい鉄の感触が容赦なく伝わってくる。

 

 門の向こうには、灯りは一つもない。

 そこに待つのは、雪と闇、そして——終わりだけだ。

 

 このまま町の外へ踏み出せば、魔獣に襲われるか、凍え死ぬか。

 どちらにせよ、ヴィクトルに残された命は長くない。

 

(それでいい——)

 

 そう、心の中で言い聞かせた。

 

 ——そのとき。

 

「——よう、ヴィクトル」

 

 背後から声がした。

 

 ヴィクトルの背筋が跳ねる。

 振り向く前から、誰の声か分かってしまった。

 

 ビクトルはゆっくりと振り向いた。

 そこに立っていたのは、ジューダス・ファウルトだった。

 

 夜更けに似合わないほど落ち着いた顔。

 まるで見回りの途中にでも立ち寄ったかのように、片手を軽く上げてみせる。

 

「……ジューダス様。どうしてここに」

 

 喉が貼り付いて、声が掠れた。

 ジューダスは外套の襟を軽く直し、ヴィクトルを上から下まで眺める。

 

「ヴィクトル、それはこっちのセリフだ。町を出るには身軽すぎる格好だ。そんな装備じゃ、一刻もしないうちに寒さで凍え死ぬぞ」

 

 軽い口調とは裏腹に、その視線は鋭かった。

 

「死ぬつもりか?」

「…………」

 

 言葉が喉に張り付いた。

 他人に指摘されてしまうと、自分の行為がひどく陳腐で滑稽なものに思えてきてしまう。

 

 それでも、ヴィクトルは目を逸らさなかった。

 喉にへばりついた言葉を引き剥がす。

 

「……ゲスラーを始め、この町で悪事を尽くした人間はすべていなくなりました。

 

 震える声で、しかしはっきりと紡ぐ。

 

「私は——誓ってゲスラーのように私腹を肥やしたわけではありません。税吏たちのように民から奪い、笑っていたわけでもない」

 

 そこで一瞬、言葉に詰まる。

 

「ですが——それでも、罪深い」

 

 ヴィクトルは、自分の胸に手を当てた。

 

「私の手も、血で染まっております。ゲスラーの悪政を止められなかった。……いえ、止めようとすらしなかった。私は執事として、帳簿を整え、嘘を整え、現実を歪めることに加担した。直接鞭を振るわなくとも、私も同罪です。罪を犯した者たちは、皆、死をもって償いました。……ならば私もまた、同じように償わねばならない」

 

 吐き出すほど、声が軽くなる気がした。

 だから余計に、苦しかった。

 

「私に残された道は、死ぬことだけです。ジューダス様、どうかオルレインをお願いいたします」

 

 そう言い残し、ヴィクトルは踵を返した。

 これ以上、この場に留まれば、心が揺らいでしまう気がした。

 街の外へ、一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。

 

「死ぬことで責任を果たそうとするな」

「……っ」

 

 背後から、鋭く言葉が突き刺さった。

 

「それは贖罪じゃない。逃げだ。お前はただ、死んで楽になろうとしている」

 

 ヴィクトルは、肩を落とした。

 全身の力が、すっと抜けていく気がした。

 そしてゆっくりと振り返る。

 

「……すべて、お見通しなのですね」

 

 反論などできない。

 図星だった。

 すべてジューダス・ファウルトに見抜かれていた。

 

「くく……では、どうすればいいのですか」

 

 なぜか笑いがこぼれた。

 

「……苦しいのです。犯した罪の重さに、心が耐えられない」

 

 言葉にした途端、胸の奥に押し込めていた感情が、決壊した。

 

「この手は血に染まっている……! 直接、刃を振るわずとも、圧政のもとで死んでいった民の怨嗟が、今も耳にこびりついて離れない」

 

 声が震え、次第に抑えが利かなくなる。

 

「だから……終わらせたいのです。早く、この苦しみから解放されたい……楽になりたい……!」

 

 叫びは、夜の雪に吸い込まれていった。

 

「ただ……それだけなのです」

 

 ヴィクトルは、胸の奥に溜め込んでいたものを、すべて吐き出した。

 それは紛れもない、絶望だった。

 

 だが——

 

「苦しいのは当たり前だろ。その苦しみを背負って生きることが、罪を償うってことだ」

 

 ジューダスは淡々と返した。

 しかしその言葉は痛いほどに重く胸に沈んだ。

 

「俺はこれから、この町を立て直す。道も、壁も、備蓄も、制度も。やるべきことは山ほどある」

「それは……ジューダス様が……」

「俺ひとりでできるかよ」

 

 ジューダスは、鼻で笑った。

 だが、その笑いは嘲りではなかった。

 

「お前の政務能力、価値がある。帳簿の扱いも、物資の回し方も、人の動かし方も。なにせ、あのゲスラーの悪政のもとで、かろうじてこの町を破綻させずに回していたんだからな」

「……っ」

 

 ヴィクトルの喉が詰まる。

 

 褒められたことが、刺さった。

 自分の能力は、悪政を支えるために使われてきた。

 それを価値だと言われるのは、痛い。

 

 けれど同時に——

 この町を破綻させずに回し続けたのもまた、自分の意志。

 圧政の中で、それでも民を守ろうとした、ヴィクトルの選択だった。

 

 視界が滲む。

 

「正直、お前が無能だったら、俺は止めない。好きに死ね。だが、その能力が失われてしまうのは、今のオルレインにとっての損失だ。だからこうして止めている」

 

 ジューダスは一歩踏み出し、言い切った。

 

「ヴィクトル——俺の右腕になれ」

「右腕……」

「本当の意味で、自分の罪を償いたいなら、この町の復興に尽くすしか道はない。死んで終わらせるな。生きて、やり直せ」

 

 雪が舞う。

 冷たい風が、門の隙間を吹き抜けた。

 

 その冷たさが、なぜか痛くなかった。

 

 ヴィクトルは、その場に膝をついた。

 張り詰めていたものが、静かに決壊した。

 

「おおう……! うあああ………!」

 

 頬を、熱いものがとめどなく流れ落ちた。

 ヴィクトルは、子供のように泣きじゃくった。

 

「……私は、まだ——生きていいのですか」

 

 問う前に、答えは目の前にあった。

 

 罪を断ずるだけでなく、償うための場所と役割を与える。

 

 それは赦しではない。

 罪を犯したものが果たすべき、責任だった。

 

「……承知しました」

 

 声が震えた。

 それでも、確かに言えた。

 ヴィクトルはゆっくりと立ち上がる。

 

「ヴィクトル・テラー。この命、代領主様のために。この町のために……使わせてください」

「上等だ」

 

 ジューダスは短く鼻を鳴らすと、それ以上の言葉を重ねることなく踵を返した。

 

「戻るぞ。明日から忙しくなる」

「わかりました」

 

 ——始めよう。

 

 ヴィクトルはジューダスの背を追って、屋敷へ続く道を歩き出した。

 

 死にたいという願いは、今も胸に残っている。

 簡単に消えるほど、軽いものではない。

 だが、その上に――確かに、別の感情が芽生え始めていた。

 

 もう一度、生きる。

 生きて、この町に尽くす。

 

 それが、自分が犯した罪に対する罰であり、償いだ。

 

 そのための仕事が、ここにはある。

 ジューダス・ファウルトが、それを与えてくれた。

 

 ジューダス・ファウルトは、冷酷な貴族の仮面を被っている。

 だが、その仮面の下の器は、少なくともヴィクトルが知る誰よりも大きく、そして暖かかった。

 

 




次回、最終回です!
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