人を助けないと即死亡の呪いを受けた悪役貴族の俺、しぶしぶ一日一善してたら、史上最高の名君に成り上がってしまう〜災厄貴族ジューダス・ファウルトの偽善〜 作:三月菫
深夜——
館の灯りはすべて落とされ、屋敷の中は水を打ったように静まり返っていた。
かつて館の主であったゲスラーがいた頃は、深夜まで続く宴会が常で、夜の屋敷が静寂に包まれることなどなかった。
だが今は違う。
オルレインの雪深い夜にふさわしい、張りつめた静けさだけが、広い屋敷の隅々まで行き渡っていた。
ヴィクトル・テラーは、その静寂の只中で、自室の机に向かっていた。
卓上の燭台に立てられた一本のろうそくが、かすかに揺れ、机の上を淡い橙色で照らしている。
その頼りない灯りだけを頼りに、ヴィクトルは黙々と手紙を書いていた。
羽ペンの先が、紙の上をゆっくりと滑り、そして止まる。
考え込み、また文字を刻む。
整った、感情を削ぎ落としたような文字が、白い紙の上に淡々と並んでいった。
——それは、遺書だった。
ヴィクトルは文字を書き連ねながら、自分が歩いてきた道を静かに振り返る。
このオルレインでゲスラーの使用人として過ごした日々。
帳簿を整えたのは、自分だ。
命じられた数字を並べ、求められた形に整えてきた。
ほんのわずかではあるが、オルレインの民を生かすために、数字に細工を施した。
だがそれ以上に、ヴィクトルはゲスラーの意向に従い、都合のいい数字を積み重ね、帳尻を合わせ続けてきた。
ヴィクトルは、実務を担う官吏として、ゲスラーに付き従った。
ゲスラーの支配の中で自分が生き延びるために、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉じた。
自分の手を汚さない代わりに、誰かが手を汚すのを黙って眺めていた。
(そして今、手を汚した者たちは全員が破滅した——)
ヴィクトルは振り返る。
就任式のその夜。
ゲスラーとその手勢たちは、新領主ジューダス・ファウルトの暗殺を企てた。
だが、ジューダスはあらかじめゲスラーたちがその企みを見抜き、すべて看破していた。
そして、ゲスラーたちの結末は、あまりにもあっさりとしていた。
ゲスラーたちは一人残らず捕縛され、自らが定めた反逆罪の罰を、その身で受けることになった。
つい先日、その刑は執行されたばかりだ。
処刑は町の広場で行われた。
多くの民衆が集まった。
皆、長い間、ゲスラーたちに虐げられ続けた人々だ。
誰もがゲスラーを憎み、罵声が飛び、石が投げられた。
ゲスラーとその配下たちは、自らが振りまいた憎しみに、最期は自分自身も飲み込まれていった。
だというのに、自分だけが生き延びるのは、あまりにも道理が通らない。
犯した罪を償わなければならない。
ヴィクトルは、最後の一行を書いた。
『私は、ゲスラーの罪に対し、目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤みました。その罪は、私の命で償うほかありません。オルレインの繁栄と安寧を祈ります』
ペンを置く。
紙の上に並ぶ文字が、急に現実感を失い、どこか他人事のように見えた。
ヴィクトルは、淡々と封蝋を押した。
宛名は、書かなかった。
この喉の奥に張り付いた吐き気を。
自分の手に残る、見えない血を。
ただ、終わらせたかった。
ヴィクトルは静かに立ち上がり、椅子を引く音さえ立てぬよう部屋を出た。
屋敷の螺旋階段を下り、広間を抜け、玄関の扉を押し開ける。
外套も羽織らず、剣も持たない。
荷もない。
扉の向こうへ一歩踏み出した瞬間、吹雪が容赦なく顔を打った。
闇に溶ける雪片が、視界を白く曇らせる。
「都合がいい……」
ヴィクトルは自嘲するように呟いた。
死ぬには悪い夜ではなかった。
◇
町の正門へ向かう道は、雪で白く塗り潰されていた。
降り積もった雪は音を奪う。
夜のオルレインは、静かすぎるほどに、静かだった。
町の広場——昼、ゲスラーたちの公開処刑が行われた場所を通る。
昼の狂乱がまるで夢のようだった。
そして広場を通り過ぎ、町の正門の前まで来て、ヴィクトルはようやく立ち止まった。
正門には、門番の姿はなかった。
重々しい鉄格子だけが、夜の町と外界を隔てるように立ちはだかっている。
ヴィクトルは、ゆっくりと門に手をかけた。
すでに寒さでかじかみ、感覚を失いかけている手のひらに、冷たい鉄の感触が容赦なく伝わってくる。
門の向こうには、灯りは一つもない。
そこに待つのは、雪と闇、そして——終わりだけだ。
このまま町の外へ踏み出せば、魔獣に襲われるか、凍え死ぬか。
どちらにせよ、ヴィクトルに残された命は長くない。
(それでいい——)
そう、心の中で言い聞かせた。
——そのとき。
「——よう、ヴィクトル」
背後から声がした。
ヴィクトルの背筋が跳ねる。
振り向く前から、誰の声か分かってしまった。
ビクトルはゆっくりと振り向いた。
そこに立っていたのは、ジューダス・ファウルトだった。
夜更けに似合わないほど落ち着いた顔。
まるで見回りの途中にでも立ち寄ったかのように、片手を軽く上げてみせる。
「……ジューダス様。どうしてここに」
喉が貼り付いて、声が掠れた。
ジューダスは外套の襟を軽く直し、ヴィクトルを上から下まで眺める。
「ヴィクトル、それはこっちのセリフだ。町を出るには身軽すぎる格好だ。そんな装備じゃ、一刻もしないうちに寒さで凍え死ぬぞ」
軽い口調とは裏腹に、その視線は鋭かった。
「死ぬつもりか?」
「…………」
言葉が喉に張り付いた。
他人に指摘されてしまうと、自分の行為がひどく陳腐で滑稽なものに思えてきてしまう。
それでも、ヴィクトルは目を逸らさなかった。
喉にへばりついた言葉を引き剥がす。
「……ゲスラーを始め、この町で悪事を尽くした人間はすべていなくなりました。
震える声で、しかしはっきりと紡ぐ。
「私は——誓ってゲスラーのように私腹を肥やしたわけではありません。税吏たちのように民から奪い、笑っていたわけでもない」
そこで一瞬、言葉に詰まる。
「ですが——それでも、罪深い」
ヴィクトルは、自分の胸に手を当てた。
「私の手も、血で染まっております。ゲスラーの悪政を止められなかった。……いえ、止めようとすらしなかった。私は執事として、帳簿を整え、嘘を整え、現実を歪めることに加担した。直接鞭を振るわなくとも、私も同罪です。罪を犯した者たちは、皆、死をもって償いました。……ならば私もまた、同じように償わねばならない」
吐き出すほど、声が軽くなる気がした。
だから余計に、苦しかった。
「私に残された道は、死ぬことだけです。ジューダス様、どうかオルレインをお願いいたします」
そう言い残し、ヴィクトルは踵を返した。
これ以上、この場に留まれば、心が揺らいでしまう気がした。
街の外へ、一歩踏み出そうとした、その瞬間だった。
「死ぬことで責任を果たそうとするな」
「……っ」
背後から、鋭く言葉が突き刺さった。
「それは贖罪じゃない。逃げだ。お前はただ、死んで楽になろうとしている」
ヴィクトルは、肩を落とした。
全身の力が、すっと抜けていく気がした。
そしてゆっくりと振り返る。
「……すべて、お見通しなのですね」
反論などできない。
図星だった。
すべてジューダス・ファウルトに見抜かれていた。
「くく……では、どうすればいいのですか」
なぜか笑いがこぼれた。
「……苦しいのです。犯した罪の重さに、心が耐えられない」
言葉にした途端、胸の奥に押し込めていた感情が、決壊した。
「この手は血に染まっている……! 直接、刃を振るわずとも、圧政のもとで死んでいった民の怨嗟が、今も耳にこびりついて離れない」
声が震え、次第に抑えが利かなくなる。
「だから……終わらせたいのです。早く、この苦しみから解放されたい……楽になりたい……!」
叫びは、夜の雪に吸い込まれていった。
「ただ……それだけなのです」
ヴィクトルは、胸の奥に溜め込んでいたものを、すべて吐き出した。
それは紛れもない、絶望だった。
だが——
「苦しいのは当たり前だろ。その苦しみを背負って生きることが、罪を償うってことだ」
ジューダスは淡々と返した。
しかしその言葉は痛いほどに重く胸に沈んだ。
「俺はこれから、この町を立て直す。道も、壁も、備蓄も、制度も。やるべきことは山ほどある」
「それは……ジューダス様が……」
「俺ひとりでできるかよ」
ジューダスは、鼻で笑った。
だが、その笑いは嘲りではなかった。
「お前の政務能力、価値がある。帳簿の扱いも、物資の回し方も、人の動かし方も。なにせ、あのゲスラーの悪政のもとで、かろうじてこの町を破綻させずに回していたんだからな」
「……っ」
ヴィクトルの喉が詰まる。
褒められたことが、刺さった。
自分の能力は、悪政を支えるために使われてきた。
それを価値だと言われるのは、痛い。
けれど同時に——
この町を破綻させずに回し続けたのもまた、自分の意志。
圧政の中で、それでも民を守ろうとした、ヴィクトルの選択だった。
視界が滲む。
「正直、お前が無能だったら、俺は止めない。好きに死ね。だが、その能力が失われてしまうのは、今のオルレインにとっての損失だ。だからこうして止めている」
ジューダスは一歩踏み出し、言い切った。
「ヴィクトル——俺の右腕になれ」
「右腕……」
「本当の意味で、自分の罪を償いたいなら、この町の復興に尽くすしか道はない。死んで終わらせるな。生きて、やり直せ」
雪が舞う。
冷たい風が、門の隙間を吹き抜けた。
その冷たさが、なぜか痛くなかった。
ヴィクトルは、その場に膝をついた。
張り詰めていたものが、静かに決壊した。
「おおう……! うあああ………!」
頬を、熱いものがとめどなく流れ落ちた。
ヴィクトルは、子供のように泣きじゃくった。
「……私は、まだ——生きていいのですか」
問う前に、答えは目の前にあった。
罪を断ずるだけでなく、償うための場所と役割を与える。
それは赦しではない。
罪を犯したものが果たすべき、責任だった。
「……承知しました」
声が震えた。
それでも、確かに言えた。
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がる。
「ヴィクトル・テラー。この命、代領主様のために。この町のために……使わせてください」
「上等だ」
ジューダスは短く鼻を鳴らすと、それ以上の言葉を重ねることなく踵を返した。
「戻るぞ。明日から忙しくなる」
「わかりました」
——始めよう。
ヴィクトルはジューダスの背を追って、屋敷へ続く道を歩き出した。
死にたいという願いは、今も胸に残っている。
簡単に消えるほど、軽いものではない。
だが、その上に――確かに、別の感情が芽生え始めていた。
もう一度、生きる。
生きて、この町に尽くす。
それが、自分が犯した罪に対する罰であり、償いだ。
そのための仕事が、ここにはある。
ジューダス・ファウルトが、それを与えてくれた。
ジューダス・ファウルトは、冷酷な貴族の仮面を被っている。
だが、その仮面の下の器は、少なくともヴィクトルが知る誰よりも大きく、そして暖かかった。
次回、最終回です!