人を助けないと即死亡の呪いを受けた悪役貴族の俺、しぶしぶ一日一善してたら、史上最高の名君に成り上がってしまう〜災厄貴族ジューダス・ファウルトの偽善〜 作:三月菫
アークベヒモス討伐から、数日が過ぎた。
屋敷の空気は、明らかに変わっていた。
廊下ですれ違う使用人たちは、以前のように目を伏せるだけじゃない。
小さく頭を下げ、笑顔を向け、「おはようございます、ジューダス様」と挨拶をかけてくる。
人助けポイントを稼ぐために、食堂に入れば、料理長が笑いかけてくる。
「本日は、少し良い肉が入りまして、ルインに任せましたから。ジューダス様も……ぜひ夕食を楽しみにしていてくださいね」
料理長のその言葉どおり、夕食時、ルインが配膳してきた食事は、明らかに豪華だった。
肉汁滴るレアステーキだ。
(……なんだよ、これ)
思わずぐぐ〜と腹が鳴る。
そんな俺のことを微笑ましげにルインが見つめていた。
(クソ……慣れねえ……)
俺は状況の変化に戸惑う。
ただベヒモスを討伐しただけで、こんなにも周りの扱いが変わるなんて。
(あんなもん、俺にとっちゃ散歩と変わらねえ)
だけど――
「いつもありがとうございます、ジューダス様」
「助かりました」
「本当に……感謝しています」
周囲からそう言われる回数は、確実に増えていた。
そのおかげで、視界の端に浮かぶ償いの刻数は、今や五十以上。
安定して高い数値を保っている。
罰のアミュレットも、今のところは静かだった。
(クソアミュレットの呪いから解放されたら、また元通り、こいつらなんかゴミ扱いなんだよ)
俺は壁際にちょこんと控えるルインのニヤけ
だけど、 そう思いながらも、悪い気はしていなかったのが、やたらと
◆
それから数日後。
ファウルト家の次期当主が正式に決まる継承式の日を迎えた。
会場となる屋敷の大広間の扉を開けると、すでにファウルト家の血を引く者たちが集められていた。
赤いカーペットが敷き詰められた細長い大広間。
その
玉座の前に、ガリオスの正妻クラウディアが立っていた。
「遅いぞ、ジューダス」
「申し訳ありません、クラウディア様……」
俺は短く頭を下げ、その前に並ぶ腹違いの兄弟たちの末席へと加わる。
長男レオンハルト。
次男バルドル。
そして三男ディモン。
レオンハルトとバルドルは、遅れて入ってきた俺に一瞥すらしない。
俺のことを最初から
そんな中で——
「遅刻とは随分と気楽な身分だね、ジューダス」
わざとらしく声をかけてきたのは、三男ディモンだった。
きっちり整えられた金髪に、宝石を散りばめた貴族服。
外見だけ見れば、非の打ち所のない貴族の青年だ。
「また使用人どものお手伝いごっこかい? 最近ウワサになっているよ? 君が善人ごっこしてるってさ」
だが、その口元に浮かぶ笑みは
「流石は使用人上がりの妾の子。同じ劣等同士、気持ちがわかり合っているんだね」
鼻にかかった声で、わざと周囲に聞こえるように嘲る。
人を見下すことでしか自分の価値を保てないのが、言葉の端々から透けて見えた。
(くだらねえ)
ディモンは昔からこうだ。
兄二人には逆らえず、その
昔はいちいちイライラしていたが、今ではもう相手にしていない。
「ディモンさまっ。ジューダスをイジメちゃダメ」
ふと、やわからな声が割って入ってきた。
声の主は、ディモンの傍らに寄り添う、淡いブロンド髪の少女だ。
「久しぶり、ジューダス。元気そうでなによりだわ」
「リータ……さま」
彼女は淡い桃色のドレスに身を包み、ディモンの腕に、まるでそれが当然のように絡みついている。その左手の薬指には、大きな金色の指輪が光っていた。
(……ちっ)
俺は視線を外す。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
リータ・エルネスト
エルネスト伯爵家の次女。
そして——ディモンの婚約者だ。
リータは、かつて唯一、俺に優しくしてくれた貴族の少女だった。
俺がガリオスの帝王学で叩き潰されていた頃。
「キミ、大丈夫?」
傷だらけで庭の片隅で膝を抱えていた俺に、そっと近づいてきて。
「これ……内緒だよ」
そう言って、包帯と傷薬を渡してくれた。
「あ、ありがとう……えっと」
「わたし、リータ。キミの名前は?」
「……ジューダス」
「いい名前!」
それから、リータが屋敷を訪れるたび、短い時間を見つけて話すようになった。
木に登ったり、庭を走り回ったり——ほんのささやかな、子供らしい時間だ。
ファウルト家という冷たい場所で、リータと過ごすそのわずかな時間だけが、俺にとって唯一、息ができる居場所だった。
あのときの彼女は、この世界で唯一の俺の味方だった。
——だが、それはもう昔の話だ。
「ははは……すまないリータ。だがちょっとからかっただけだよ」
ディモンが、わざと俺に見せつけるように彼女の腰を引き寄せる。
指が、所有欲を誇示するみたいに食い込んだ。
「やん。ちょっと……皆が見ているのよ」
「見せつけてやればいいさ」
「もう……ディモン様ったら……」
リータは口では嫌がりながらも、表情は蕩けている。
身も心もディモンに委ねているのは明らかだった。
リータは成長するにつれ、貴族の世界の道理に染まっていった。
それが当然かのように、貴族以外の人間を見下すようになり、やがて貴族の中にも家柄という序列があることを学んでいった。
そして、俺がファウルト家の中で、側室の子という低い身分にあることを理解してからの彼女は、俺と口を交わすことも減っていった。
やがて、リータはファウルト家三男ディモンに見初められ、婚約を果たす。
リータがファウルト家の屋敷に入った日。
せめて一言だけでもお祝いの言葉を伝えようとリータの部屋に向かった。
だが、扉の向こうから聞こえてきたのは、ディモンの下卑た声と、漏れ出るリータの喘ぎ声。そして、肉と肉が交わる音。
その瞬間、俺の中で、リータとの物語は、静かに幕を下ろした。
別に誰を恨むような話じゃない。
俺はファウルト家の中で、ディモンよりも弱かった。
ただそれだけの話だ。
◆
次期後継者の候補者がすべて揃ったところで、クラウディアの冷たい声が大広間に響いた。
「これより、ファウルト家の継承を宣言する——」
クラウディアは、手にしていた遺言書と思しき
その結果は、最初から分かりきっていたものだった。
「新当主は、長男レオンハルト。そして、次男バルドルは南方サザンカロル領、三男ディモンは東方ダーデン領の代領主を命ず——」
「ディモン——! ダーデン領ですって!」
リータが、思わず弾んだ声を上げる。
「ふ、ふん、それくらい僕の実力なら当然だ……!」
ディモンは肩の力を抜き、満足そうに胸を張った。
ダーデンは交易の要所であり、その代領主ともなれば破格の認知だ。
やはり、俺の予想どおりだった。
兄弟たちは、ガリオスの遺した広大な領地の、中枢に近い土地を与えられていく。
そして――
「最後にジューダス——」
名を呼ばれ、俺は一歩前へと進み出た。
「お前には、北方オルレインを与える——」
「オルレイン——」
言い渡された瞬間、ディモンが吹き出した。
「ははっ! オルレインだと!?」
ディモンが吹き出した。
「最北の辺境地じゃないか! あるのは雪に覆われた痩せた土地だけだよ。ひひひ、君にピッタリじゃないか、ジューダス!」
「ディモン様、そんな言い方……ジューダスが気の毒よ」
リータの視線がこちらに向く。
「……ジューダス、大変だと思うけど……頑張ってね? 離れていても、わたし、貴方のこと応援してるから」
その声は、わずかな憐憫の情を帯びていた。
だが、その腕は変わらず、ディモンのものに絡められたままだ。
同情——
リータから突きつけられた
胸の奥で、砂を噛み潰したような苦味が広がる。
俺は、何も言わなかった。
◆
継承の儀が終わったあと。
このあとは一族郎党どもで盛大な継承パーティーだ。
だが、そんなクソみたいな会に参加するつもりは微塵もない。
「なんだよ、参加していけよジューダス」
あざ笑うようなディモンの声を背に、俺は出口に向かう。
扉を開け、廊下に出ると、外にルインが立っていた。
「ジュダさま……」
ルインの声は小さかった。
「聞いていたのか」
「ごめんなさい……こっそり……扉の外で……」
俺は鼻で笑い、視線をそらした。
「なら分かってるだろ。オルレインだ」
「……北方、ですよね」
「ああ。雪と岩と、あとはどうでもいい田舎があるだけの辺境だな」
さっきディモンに言われた言葉を、吐き捨てるみたいに言った。
言葉に棘を混ぜないと、胸の中の何かがこぼれそうだった。
ルインは下唇を噛んで、次に、ぎゅっと拳を握る。
「……よかったです」
「は? 何が?」
意味が分からなくて、思わず問い返す。
ルインは、泣きそうな顔のまま――それでも笑っていた。
「だって……これで、ジュダさまが、ここから出られます」
「……」
言い返す言葉が見つからなかった。
出られる。
そうだ。ここは俺にとって牢屋だ。
ファウルト家という名の。
最初から分かっていたことだ。
ファウルト家に、俺の居場所はない。
それでも――
胸の奥に残った、ざらついた感情だけは、簡単には、消えてくれなかった。
「三日後、発つ。世話になったなルイン」
俺はルインにそう告げて、足早にその場を立ち去った。
◇
そして三日後。
旅立ちの夜を迎えた。
荷造りは、すぐに終わった。
俺の荷物なんて知れている——
野営道具一式、替えの洋服。
それと薬草の類を少々。
金貨を少し。あとは愛用の剣だけだ。
(……これでよしと)
部屋の中を見回す。
貴族の部屋とは思えない質素な部屋だが、使い心地は悪くなかった。
けれどこの家で俺に与えられていたのは、ただの「檻」だ。
出て行くことに、何の未練もなかった。
深夜。
屋敷の廊下は、足音ひとつ響かない。
眠りの空気が、じっとりと壁に貼り付いている。
俺は玄関を抜け、そのまま馬屋へと向かった。
薄暗い馬屋の中で、鼻息を立てる馬たちを一頭ずつ見て回る。
この中から、辺境オルレインまでの道を共にする相棒を選ばなければならない。
ファウルト家は、旅立つ俺に馬車すら与えなかった。
だが、それを不満に思うことはなかった。
余計な荷も、護衛もいらない一人旅。
むしろ、身軽であることは、この家を離れる俺には好都合だった。
「こいつにするか」
俺が選んだのは、一頭の黒馬だった。
毛並みは艶やかとは言えないが、無駄に騒がず、こちらの様子をじっと見ている。
長旅に向くのは、こういう馬だ。
「……長い付き合いになる。そうだな、お前の名前は今日から〝シュアト〟だ」
俺が黒馬に名前をつけると、まるで理解したかのように、低く鼻を鳴らした。
手綱を取る。
シュアトは抵抗もせず、静かに首を垂れた。
そのまま手綱を引き、馬屋の外へと連れ出す。
夜気が冷たい。
吐く息が白い。
俺は馬に跨ると、屋敷の外に向けてゆっくりと歩き出した。
見送りなど、いるはずがなかった。
そもそも俺は、誰にも旅立ちの日を告げていない。
部屋の机に、「今夜、オルレインに発つ」と簡単な置き手紙を残しただけだ。
ファウルト家の連中に、改まった別れの言葉など不要だった。
馬の背に揺られながら、俺はふと後ろを振り返る。
夜の帳に溶けるように、屋敷が少しずつ遠ざかっていった。
(……)
不意に、使用人たちの顔が浮かんだ。
使用人長、コック、門番、下働きのガキ共——
俺にとってどうでもいい存在。
正直、ちょっと前までは、同じ人間とすら認識してなかった連中だ。
それが今では——
名前と顔が、自然と結びついて思い出せる。
(……笑えるぜ)
罰のアミュレットに呪われてからだ。
否応なしに人助けを強いられ、否応なしに人と関わらされた結果がこのザマだ。
——ジューダス様、ありがとうございました!
感謝の言葉を向けてくる、あいつらの顔が思い浮かんだ。
俺は首を振る。
(どうでもいい)
俺の人生に、あいつらはもう関係ない。
オルレインへ行けば、二度と会うこともない。
——そう、思っているのに。
次々と使用人たちの顔が脳裏によぎり——
そして、最後に浮かんだのは、
青色の髪。
やたらとまっすぐな青い大きな瞳。
よく笑って、ときどき、泣く。
子犬みたいに俺のことを信頼しきった、忌々しい態度。
ルイン。
(あいつだけは……直接、何か言ってやってもよかったかもしれない)
そんな柄にもない考えが浮かび、俺は小さく舌打ちする。
(……なに考えている、バカか?)
胸の奥に生じたわだかまりから目を背けるように、俺はその思考を、無理やり押し殺した。
◆
屋敷を囲む外門。
その大きな門の下。
「……人?」
俺は思わず馬を止めた。
月明かりの中に、小柄な影があった。
灰色の
馬が近づくと、その影が顔を上げて、フードを外した。
月光に照らされ、青色の髪がさらりと夜風に揺れた。
「……ルイン?」
そこに立っていたのはルインだった。
いつもの使用人服ではなく、厚手の旅装束を身にまとっている。
身体に合わないのか、少しだけ袖が長く、それがかえって幼さを際立たせていた。
長い時間、寒空の下にいたのだろうか。
普段は色白の頬が真っ赤に染まっていた。
その眼差しだけは揺るがない。
力強く真っ直ぐな瞳で、まっすぐに俺を見つめていた。
「何してんだ。こんな時間に」
「ジュダさまをお待ちしてました」
「……俺を、待っていただと?」
「わたしも行きます」
ルインは、当たり前みたいに言い切る。
そして、片膝を立ててひざまずいた。
「オルレインまでの旅路。どうかこのルインもお供させてください」
「お供って……お前……」
予期せぬ展開に頭が真っ白になる俺。
思わず返す言葉が詰まってしまった。
コイツはなにを言っている?
そもそも、なぜ俺が今夜発つことを知っていたんだ?
俺についていきたいだと?
様々な疑問が頭を駆け抜けていき——
不意に、目の奥がつんと熱くなるのを感じた。
慌てて俺は、眉根を思い切り引き寄せて、ルインを睨みつける。
「バカか、お前? オルレインだぞ!? 北の最果ての不毛の地だ! 今の時期は海すら凍りつく! 食い物だって乏しくて、魔獣の出没なんざ日常茶飯事! そんなクソみたいな場所なんだよ!」
ルインが顔を上げた。
「それならば、なおさらです。そんな危険な場所に、ジュダさまをお一人で行かせるわけにはいきません」
「そもそも
「はい。だから、行きます。ルインの回復魔法で、ジュダさまに尽くさせてください」
「……話通じねえな」
俺が眉間に皺を寄せると、ルインは一歩近づき——小さな声で、さらなる爆弾を落とした。
「ジューダス様がいないなら……ルインは死にます」
「は?」
ルインの言葉に、思考が完全に
「意味が分からねえ。なんでそうなるんだよ、生きろよ」
「ルインにとって生きる理由は、ジュダさまだからです」
「重いんだよ!」
「ごめんなさい、重いです! 自覚あります!」
クソが……こいつ、開き直ってやがる。
俺は
頭痛じゃない。
なのに、頭が痛い。
「……なんでそこまで」
「……昔、助けてもらったからです」
「助けたって、俺がいつお前を」
「奴隷だったわたしを、解放してくれました」
「そんなもん、ただ、奴隷商から買っただけじゃねえか」
「それでもです。あの日、ルインはジュダさまに身も心もすべて捧げると誓ったのです」
ルインはフードをぎゅっと握りしめた。
「ルインはジュダさまと一緒に
そう語るルインの瞳は真剣そのものだった。
こいつは本気だ。
俺がここでルインを拒んだら、命を断つつもりだろう。
「分かった! 分かったから黙れ!」
俺は手を振って遮った。
これ以上言わせたら、コイツの中のなにかに負けてしまう気がした。
いや……もう俺は負けているのかもしれない。
俺の言葉に、ルインは、ぱっと顔を明るくする。
「……いいんですか!?」
「条件がある」
「はいっ!」
返事が早すぎる。いらつくぜ。
「身の回りのお世話から夜のお相手にいたるまで、ルインはジュダさまのために——」
「俺の足手まといになった瞬間、そこで置いていく」
「はいっ! なりません!」
「それと……」
「なんなりと!」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
そして、ため息を吐くように伝えた。
「軽々しく、死ぬとか言うな」
「……え?」
俺は舌打ちして、視線を逸らす。
「グズグズするな、はやく乗れ」
「……はいっ!」
ルインは嬉しそうに駆け寄り、慣れない手つきでシャアトの背にまたがる。
俺の背に、そっと体重が乗った。
細い腕が、遠慮がちに俺の腰に回る。
「ジュダさま、あったかいです……」
「お前が冷たいんだよ」
「ジュダさまがいつ発つか分からなかったので、毎晩ここで待ち伏せしてました!」
「アホかてめえは」
ルインの笑い声が耳に届いた。
満月が、雲間から顔を出す。
夜道が銀色に照らされた。
「……行くぞ、ルイン」
「はい、ジュダさま!」
俺は手綱を引き、馬を前へ進めた。
一人だったはずなのに。
荷物などろくに持たない旅立ったはずなのに。
俺はとんでもない
なのに、背中にしがみつくルインが、ほんの少しだけ——
この夜を
辺境オルレインへ。
俺たちの旅が始まった。