シュイイイン……と、微かな魔力の駆動音が薄暗い石室に響く。
私は、手元にある黒い鉄のフライパンの表面に、極めて薄く、そして均一な「反発魔法の結界」を再コーティングしていた。余分な魔力は一切使わない。ただ物理的な魔力係数を限りなくゼロに近づけるためだけの、徹底的に機械的で無駄のない作業。
「……何度見ても、不思議な魔法だね」
不意に、正面から静かな声が落ちてきた。顔を上げると、鉄格子の向こう側で、白いトーガに身を包んだエルフの少女が、私の手元をじっと覗き込んでいた。両サイドで結ばれた白い髪。少し眠たそうな、感情の読めない瞳。
「不思議、ですか」
「うん。魔族の魔法は、人を欺くか、殺すためにある。それが私たちの世界の絶対的な常識だからね。でも、君のその魔力制御からは、そういう悪意や殺意がまったく感じられない」
彼女は、石の床にぺたんと座り込んだまま、ぽつりと言った。
「ただひたすらに、物を直したり、生活を便利にするため『だけ』に極められた魔法。……本当に、変な魔族だよ、君は」
「褒め言葉として受け取っておきますよ。……はい、お待たせしました。コーティングの再定着、完了です」
私は作業を終えたフライパンを、鉄格子の隙間から彼女へと手渡した。エルフの少女はそれを受け取ると、表面の滑らかさを指で確かめ、ふわりと微かに、満足そうな笑みを浮かべた。
「ありがとう。フェルンがね、これがないと野営の時の卵焼きが上手く作れないって怒るんだよ」
「卵料理は火加減と油の量が命ですからね。でも、あまり金属のヘラでゴリゴリこすらないように弟子の方に伝えてください。結界(コーティング)が剥げちゃいますから」
「そっか。気を付けるように言っておくよ」
―――フリーレンはフライパンを大事そうに鞄にしまいながら、ふと、不思議そうな顔で私を見つめ返した。
エルフと、魔族。
本来であれば、出会った瞬間にどちらかが死ぬまで殺し合うのが、この世界の絶対的なルールだ。ましてや、目の前にいるこの小柄なエルフは、歴史上のどの魔法使いよりも多くの同胞(まぞく)を葬り去ってきた、私たちにとっての理不尽なまでの『死神』である。
私の頭には、魔族の証である角が片方しかない。両手両足には、逃亡を防ぐための重い魔力封じの枷が嵌められている。私は捕らわれの身であり、彼女は私をいつでも殺せる立場にあるのだ。
「……本当に、君と話していると、魔族と話している気がしないんだよね」
フリーレンの静かな声が、冷たい地下牢獄に響く。
「不思議だね。……どうして私と君は、こんな風に話をしているんだろう」
その真っ直ぐな問いに、私は曖昧な苦笑いを浮かべるしかなかった。
―――どうして、か。
そんなの、私が一番聞きたいくらいだ。
なぜ、ただ家賃を払って平穏なスローライフを送りたかっただけの私が、大陸魔法協会の地下深くに幽閉され、人類最強のバケモノたちを相手に「日用品のアフターサービス」をする羽目になっているのか。
事の始まりは、今から一年以上前。
私がこの理不尽なファンタジー世界に転生し、しがない『日用魔法雑貨の店』を開いた、あの日にまで遡る―――。
■ ■ ■
目を開ける。視界に飛び込んできたのは、見上げるほど高くそびえる広葉樹の天蓋と、そこから差し込む木漏れ日だった。土の匂いがする。どこかの森の中らしい。
ゆっくりと体を起こす。
その瞬間、私は強烈な違和感を覚えた。体が、恐ろしいほどに軽いのだ。前世の私は、油と泥に塗れて重機のレバーを握る、どこにでもいる労働者だった。朝から晩まで硬いシートに座り、振動と騒音に晒されながら土を掘り、鉄を運ぶ。だから私の体は常にどこかが軋んでおり、鉛のように重いのが当たり前だった。
しかし今はどうだ。肩こりも、腰の痛みも、慢性的な疲労感も一切ない。まるで最高級のサスペンションを備えた最新型の機械にでも乗り換えたかのように、すべての関節が滑らかに動く。
「……夢、か?」
呟いた自分の声に、私はさらに驚愕した。重低音の響く野太い声ではない。鈴を転がしたような、高く、そしてひどく冷たく透き通った少女の声だったからだ。
私は跳ね起き、周囲を見渡した。幸いにも、少し歩いた先に澄んだ湧き水の水たまりがあった。私はそこへ駆け寄り、水面を覗き込む。水鏡に映っていたのは、見知らぬ少女だった。透き透き通るような、という表現すら生温い、死人のような白い肌。感情の読めない、冷ややかな色の瞳。白銀の髪が肩口まで伸びている。だが、そんな容姿の美しさなどどうでもよくなるほど、私の目を釘付けにする部位があった。
頭部から、雄々しく、そして禍々しく伸びる「二本の黒い角」だ。
「……コスプレ?」
馬鹿な思考が脳をよぎるが、手を伸ばして触れてみると、それは頭蓋骨から直接生えているかのような硬い感触と、確かな神経の繋がりを感じさせた。引っ張っても取れない。正真正銘、私の体の一部だ。
よく見れば、耳の形も人間とは違い、少し尖っている。
ファンタジー小説やゲームに出てくるような「魔族」や「悪魔」と呼ばれる類のモンスター。それが、今の私の姿だった。そして、普通なら、ここでパニックに陥るはずだ。「嘘だろ!」「元の姿に戻せ!」と泣き叫び、走り回るのが人間としての正しい反応だろう。
だがしかし、私はひどく冷静だった。いや、「冷静」というより、もっと根本的な何かが欠落している感覚だった。胸に手を当ててみる。……鼓動が、異常なほどに遅く、静かだ。つまり、平常心。
恐怖、焦燥、混乱。そういった人間特有の激しい感情が、まるで分厚い防音ガラスの向こう側で起きているかのように、ひどく遠い。頭の芯は氷のように冷え切り、恐ろしいほどの演算能力で「現在の状況」を客観的に分析し始めている。
(私は死んで、この姿に転生した。この肉体は人間ではない。しかも……何か暖かい……魔力……? の流れを感じる。呼吸も、人間ほど頻繁にする必要がないようだ)
思考が、あまりにも合理的すぎる。前世の「人間としての私」の魂を、「この肉体の持つ本能」が冷ややかに包み込んでいるような、ひどく歪な感覚。
自分が自分であって、自分でないような薄気味悪さに、私は初めて「人間らしい寒気」を感じた。
その時だった。
カサッ、と背後の茂みが揺れた。人間だった頃の私なら絶対に気づけなかったほどの微かな音。しかし、今の私の耳は、それが「二足歩行の生物が枯れ枝を踏んだ音」であることを正確に拾い上げていた。
振り返ると、そこには一人の若い男が立っていた。粗末な革鎧を身にまとい、背中に弓を背負っている。猟師か、あるいは駆け出しの冒険者だろうか。
私は安堵した。「人間」がいた。
言葉が通じるかはわからないが、少なくとも自分が今どこにいるのか、この世界がどういう場所なのか、情報収集ができる。前世の人間の感覚のまま、私は彼に向かって軽く右手を挙げ、友好的な笑みを作ろうとした。
「あの、すみま――」
「ヒッ……!!」
男の口から漏れたのは、言葉にならない悲鳴だった。
彼の目は極限まで見開かれ、瞳孔は収縮し、顔面からは一瞬にして血の気が引いていた。ガチガチと歯の鳴る音が、数メートル離れた私の耳にも聞こえる。
それはつまり、得体の知れないバケモノに遭遇したときの、純粋で、原始的な「恐怖」の顔だった。
「ま……魔族……!! なんで、こんな浅い森に……ッ!!」
男は腰を抜かしかけながらも、半狂乱で背中の弓を引き抜き、私に向かって矢を番えた。手が震えすぎて、矢先が定まっていない。
「え、ちょっと待って、私は怪しいものじゃ――」
「死ねえええええええッ!!」
私の言葉を遮り、男は弦から指を離した。放たれた矢が、風を裂いて私の眉間へと真っ直ぐに飛んでくる。
(あ、殺される)
そう思った瞬間。パニックに陥るはずの私の意識は、またしても「極寒の合理性」へと強制的に切り替わった。
飛来する矢の速度が、ひどく遅く見える。私の右手が、私の意思を無視して勝手に持ち上がる。指先から、今まで感じたこともない謎のエネルギー……例えるならば、「魔力」が、まるで重機の油圧シリンダーが動くような力強さと精密さで一瞬にして構築された。
『防御魔法』
名前も知らないその魔法は、私の目の前に不可視の障壁を展開した。バキンッ! という甲高い音と共に、鉄の矢尻は私の顔の数センチ手前で粉々に砕け散った。
「あ……あぁ……化け物……」
絶望に染まった男の顔。そして、次に私の脳裏に浮かんだのは、身の毛もよだつような「解決策」だった。
(『お母さんを呼んできて』と泣き真似をして、油断して近づいてきたところを喉笛を掻き切ろう)
確かに合理的だ。では、泣き顔を作って……って、―――違う!!
私は咄嗟に、自分の右腕を左手で強く押さえつけた。今、私は何を考えた?
人間を騙し、油断させ、殺す?
それが、目の前の状況を解決する最も「効率的」な手段だと、私の脳が判断したのか?
「冗談じゃない……ッ!!」
私は前世の記憶と倫理観を総動員して、湧き上がる捕食本能をねじ伏せた。相手を殺さず、かつ無力化する。
「引きなさい!」
私は地面に向けて暖かい何か……魔力のようなものを意識的に放出した。ドンッ! と土が爆発したような衝撃波が生まれ、男はその風圧で後方へと吹き飛ばされた。
「ひぃぃぃぃぃッ!!」
尻餅をついた男は、もはや立ち上がる気力すら失い、四つん這いになりながら無様に森の奥へと逃げていった。泥にまみれ、何度も転びながら、ただひたすらに私から遠ざかるために。
静寂が戻った森の中で、私は一人立ち尽くしていた。
……砕け散った矢の破片が足元に転がっている。私は胸に手を当てた。あれだけ恐ろしい目に遭い、人を傷つけかけたと
いうのに。
私の心臓は、相変わらず静かなままだった。罪悪感も、恐怖も、驚くほど希薄だ。
「……なるほど。そういうことか」
私はようやく、自分の置かれた絶望的な状況を理解した。この角が生えている限り、私は人間から「問答無用で殺すべき化け物」と認識される。対話など不可能だ。姿を見た瞬間に殺意を向けられる。
そして何より恐ろしいのは、私の内側にある「魔族としての本能」だ。油断すれば、私は平気で人間を騙し、殺すバケモノになり果ててしまう。
―――人間として生きたい。スローライフを送りたい。
ならば、絶対にこの姿を隠さなければならない。そして、この冷たすぎる魔族の本能を、人間の理性で完全に飼い慣らさなければならない。
ここから、私の生き残りを賭けた、果てしない「偽装工作」の日々が始まることになったのだ。