フリーレンが地下牢獄を訪れてから、数日が過ぎた頃。
いつものように鉄格子の鍵が開き、黒衣の一級魔法使い、ゲナウが姿を現した。私は今日もまた「内燃機関」の図面を急かされるのだと思い、重い溜息をつきながら身を起こした。
「図面なら、あそこの机の上に……」
「今日は図面の回収ではない」
ゲナウは冷徹な声で私の言葉を遮ると、懐から銀色の腕輪を取り出し、鉄格子の隙間から放り投げた。カラン、と冷たい音を立てて腕輪が転がる。
「それをつけろ。一時的に貴様の欠損した角と、魔族特有の魔力波長を隠蔽する呪具だ」
「……へ?」
「ゼーリエ様からの慈悲だ。貴様に『10分間』の面会を許可する。相手は、お前が商業都市で懇意にしていた行商人の男だ」
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。バーンズさんだ。あの馬車に乗せてもらった日から、ずっと私を気にかけてくれていた、一番のお得意様にして恩人。あの日、私が無理やり馬車で連行される時も、ただ一人で魔法使いたちに食ってかかってくれた人だ。
「ただし、条件がある」
ゲナウの目が、剣呑に細められた。
「お前が『魔族』であることは、決して悟られるな。もしお前の素性が世間に知れ渡れば、商業都市の住人は魔族と取引をしていたという恐怖と疑心暗鬼で大混乱に陥る」
「……」
「奴にはこう伝えてある。お前の作った『極寒の箱』をはじめとする魔道具は、国家の軍事バランスを単独で転覆させかねない特級の危険物であり、かつて魔族が遺した古代術式に極めて酷似していた、と」
「……なるほど。だから、私はその危険な技術を管理・研究するため、大陸魔法協会に『特別研究員』として強制的に召し上げられた……そういうカバーストーリーですね」
私が苦笑しながら言うと、ゲナウは無言で顎を引いた。魔法使いの常識が通じない異常な技術。それを「魔族の関与が疑われる危険なオーバースペック」として処理するのは、最も角が立たない見事な隠蔽工作だ。
「もし貴様が余計なことを口走れば、その瞬間に面会は終了し、あの行商人の記憶は物理的に消去する。……よいな」
「接客業のプロを舐めないでくださいよ。最高の笑顔で、嘘を吐き通して見せますから」
私は腕輪を手首にはめた。魔力が起動し、失われた左角が幻影で補われ、死人のような白い肌に人間らしい血色が戻る。
重い枷を引きずりながら、私はゲナウの後に続いて面会室へと向かった。
■
分厚い魔力防壁ガラスで仕切られた面会室。そこに通された瞬間、ガラスの向こう側でソワソワと落ち着きなく座っていた恰幅の良い男が、弾かれたように立ち上がった。
「嬢ちゃん……っ!」
「バーンズさん!」
バーンズさんは、1年前と変わらない、泥と汗の匂いが染み付いたような安心する姿をしていた。ただ、その顔には深い安堵と、少しの疲労が滲んでいた。
「よかった、本当によかった……っ。あの日の夜、いきなり協会の一級魔法使い様たちがやってきて、お前さんの作った箱が『国家を揺るがす危険な古代術式』だって聞いた時は、生きた心地がしなかったぜ……」
「ごめんなさい、バーンズさん。私、あの箱がそんなにヤバい物だなんて本当に知らなくて……」
私は、前世から培ってきた「究極の営業スマイル」を顔面に張り付け、申し訳なさそうに眉尻を下げた。魔族の欺瞞ではない。彼を安心させるための、心からの「嘘」だ。
「協会の人たちにこっぴどく怒られました。でも、私の技術自体は役に立つってことで、今はここで、お給料をもらいながら安全な魔道具の開発を手伝わされてるんです。衣食住も保証されてるし、ほら、元気ですよ!」
私は枷の音を隠しながら、わざと明るく笑ってみせた。バーンズさんはガラス越しに私の顔をじっと見つめ、やがて、ふっと肩の力を抜いた。
「……そうか。なら、いいんだ。大家の爺さんも、跳ね猪亭のマルタも、お前さんが無事ならそれでいいって言ってた」
「皆さん、お元気ですか?」
「ああ。お前さんが残してくれた『消臭の小袋』や『保温の器』のストックを、大事に大事に使ってるよ。……でもな、やっぱりお前さんがいない裏通りは、どうにも寂しくていけねえ」
バーンズさんの不器用な言葉に、胸の奥がキュッと締め付けられた。
……魔族には心がないという。でも、私のこの胸の痛みは、前世の社畜時代に、お世話になった現場の職人たちと別れた時に感じた、あの温かくて切ない痛みと同じだった。
「……私も、寂しいです。マルタさんの熱々のシチュー、また食べたいなぁ」
本音が、ぽろりとこぼれた。
「嬢ちゃんがしっかり役目を果たして、いつか自由になれたら、俺が馬車で迎えに行ってやる。それまでは……へこたれるなよ」
「はい。……バーンズさんも、行商、気をつけてくださいね。泥はね防止のブローチ、ちゃんと使ってくださいよ」
短い10分間は、あっという間に過ぎた。ゲナウが無言で扉を開け、面会の終了を告げる。バーンズさんが深く頷き、部屋を去っていく背中を、私はガラス越しにずっと見送っていた。
「……満足したか」
ゲナウの声に、私は幻影の腕輪を外し、元の「角が一本欠けた魔族の姿」に戻りながら息を吐いた。
「ええ。最高の労働報酬(ボーナス)でしたよ」
もう、あの裏通りの店に戻ることはできない。私のスローライフは完全に終わったのだ。
でも、彼らの中で「よろずやの店主ちゃん」が、化け物ではなく、ただのドジで腕のいい人間として記憶され続けるなら。それだけで、私がこの狂った世界で足掻いた意味はあったのだ。
「さあ、ゲナウ様。仕事に戻りましょうか。明日の納期までに、タービンの設計図を仕上げないといけませんからね」
冷たい地下牢獄に戻る私の足取りは、ほんの少しだけ、軽くなっていた。