「あぁ、あぁ、あぁぁぁ! 素晴らしい!」
奇声を上げながら小走りで迫る狩人の前に、トキは静かに、だが揺るぎない覚悟を持って立ちはだかりました。その手には、病人を診るための優しい光ではなく、狂気を鎮めるための鋭い闘気が宿っています。
「……悲しい男。その脳を焼く悪夢、このトキの有情拳で解き放ってあげましょう」
トキが舞う。その動きはまさに水面を走る月光。対する狩人は、一切の回避を行わず、ミコラーシュさながらに「あっちへウロウロ、こっちへウロウロ」と、闘いの場を鏡張りの迷宮に変えるかのような不規則な動きで翻弄します。
「北斗有情断迅拳(ほくとうじょうだんじんけん)!」
トキの手が狩人の秘孔を突く。本来ならば「あぁ、気持ちがいい……」と昇天するはずの一撃。しかし、狩人はその瞬間、トキの手首を**「ぺちり」**と掴みました。
男は、深淵の底から響くような、恍惚とした声を漏らした。
「……癒えぬ(あぁ、あぁ、あぁぁぁ!)。」
「……瞳を得ん(宇宙は、一つの籠であったのだ)。」
「……構わぬ(素晴らしい!)。」
「素晴らしい!」という喝采と共に、狩人の指先がトキの額にある「啓蒙の秘孔」を叩いた。
ぺち。
「……な、何ッ!? 天国が見えるはずの私の指先が、なぜか『ぬるぬるした赤子』に吸い付かれているようだ……!」
メンシス神拳・「有情の胎内回帰(メンシス・リバース)」!
トキの脳内に、突如として「輝く医療の道」ではなく、「暗い海の底で、巨大な脳みそとへその緒で繋がれた自分」という、あまりにも不条理でジメジメしたイメージが投影されました。
「あ、あ、ああ……ッ!? 救い……!? なぜ、なぜ私が救おうとしている病人の顔が、すべて『瞳を持ったナメクジ』に見えるのだぁーっ!!」
慈愛の聖者トキですら、この「ゴズムの湿り気」には抗えない。彼の「人を救う」という高潔な意志が、啓蒙によって「人はみな、宇宙の苗床に過ぎない」という冷酷な真理に塗りつぶされていく!
「あ……あぁ……。死とは……死とは、悪夢から覚めることではなかった。……ただ、より深い『ゴズムの夢』に沈むことだったのか……」
トキは静かに膝をつき、その場にうずくまりました。彼はもはや聖者ではありません。「……素晴らしい……。病気も……怪我も……すべては脳が見せた『瞳の欠乏』による幻覚だったのだ……」とブツブツ呟きながら、ミコラーシュのように頭を抱えて、荒野の砂の上に複雑な幾何学模様を書き始めました。
「な、なんてことだ! あのトキ様が、ぺちりとされただけで、宇宙の胎盤を看病する廃人になっちまった!」
狩人は満足げな(無表情な)気配を漂わせ、トキの背中を一度だけ**「ぺちり」**と叩くと、再び「あぁ、あぁ!」と叫びながら、霧の向こうへと小走りに去っていこうとしました。
しかしその時、トキの内側から七つの傷ならぬ、七つの「正気」が激突しました。
「……素晴らしい……。すべては……脳の……」
うわ言のように呟き、虚空を見つめていたトキ。だが、彼の内なる北斗の宿命が、啓蒙の激流を押し止めた。
「……ふぅ……。危ういところでした。宇宙の広大さに、危うく自分を見失うところだった」
シュゥゥゥッ……!
トキが深く息を吐き出すと、目から溢れていた黒い液体(啓蒙)が蒸気となって消え去りました。彼は立ち上がり、乱れた銀髪を整える。その瞳には、狂気を乗り越えた者特有の、より澄み渡った慈愛が宿っていました。
「な、なんてことだ! トキ様が自力で賢者モードからログアウトしたぞ!」
狩人は驚かない。ただ、再び「小走り」でトキの周囲を周り始め、不規則なタイミングで「あぁ、あぁ!」と吠えました。
「銀髪の男よ。貴様の『ぺちぺち』、確かに人の魂を砕く理不尽な響き。だが、それもまた一つの『流れ』。ならば、流してみせましょう」
狩人が動いた。
ぺち。ぺち。ぺちぺちぺち!!
超高速の「ぺちぺち」がトキを襲う。しかし、トキの体は柳の如く、あるいは悪夢の中を漂う霧の如くしなり、そのすべての衝撃を無力化していく。
「……癒えぬ。」
「……瞳を得ん。」
「**……構わぬ(素晴らしい!)。****
狩人が「素晴らしい!」の喝采と共に放った、最大火力の「有情の胎内回帰」! だがトキは、その指先が触れる瞬間に自らの秘孔を突き、一時的に脳を「空(くう)」の状態にした。
「残念ですが、今の私には『脳』も『瞳』もありません。ただの……風に過ぎない」
スゥ……。
狩人の指先が、トキの体を虚しく通り抜ける。啓蒙を流し込むべき「精神」がそこに存在しないのです。
「……」
狩人は初めて、その場でピタリと小走りを止めた。
無言で見つめ合う、二人の銀髪の男。
トキは優しく微笑み、狩人の肩を「ぺちり」ではなく、ポンと叩いた。
「貴様の孤独な狩り、いつか終わる日が来ることを祈っていますよ。……さあ、行きなさい。ユリアが……あるいは悪夢の終わりが、貴様を待っている」
狩人は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて一度だけ短くカカトを鳴らすと、再び「あぁ、あぁ!」と叫びながら、今度はトキを避けるようにして荒野の彼方へと走り去っていった。
「……ああ、やはり。狩りは、まだ終わっていない。」