そして、世界は別たれる   作:・黒箱

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序幕

 昔々からあるところに、孤独でなければならないものがおりました。

 

 そのものはいつも夢を見ていました、ただ己の記憶を整理するだけの、巡り続ける夢を。

 

 しかし、ある時、その夢の中に己の記憶にはない者が現れました。

 

 その者は予測はつくけれど、決して理解できない行動ばかりをとるのです。

 

 それは、それまでにはないことで、決してあり得てはいけないことで、だけどあり得たことが奇跡で。

 

 いつしかそのものは、その夢の住人に決して向けてはならないものを向けてしまったのです。

 

 昔々から孤独であったそのものは、もはや孤独ではあれず風穴を開けてしまったのでした。

 

 

 さあ、穴を広げよう、どこまでもどこまでも、私が入っていけるだけの大きな穴を。

 

 そして至ろう、全てをこの手に包むために、全てを満たすために。

 

 そこはきっとあると信じている、私がまだ見ぬ聖域があると。

 

 それを汚し、呑み込み、取り込んでこそ私の果てに至れるのだと。

 

 信じてなくともそうしようではないか、全ては私の掌にあるのだから。

 

 十二の純血の乙女、恐怖に震え泣き出し、叫ぶ生贄の体を一つ一つ丁寧に裂いていく。

 

 絶望の叫びはやがて弱々しく、その手はいるはずもない神に縋るように沈んでいく。

 

 その心臓は動力となり、その体は檻となり、その心はきっと届くだろう。

 

 私のために、彼方へ届けてくれるだろう。

 

 

 

 

 『食べることは満たすこと、食欲とは満たされない器が何かに手を伸ばすための憐れで弱々しい衝動であると認めなければならない』

 

 

 ねえ、知ってる?

 あの迷路みたいに入り組んだ路地裏にね、何でも食べる怪物が住んでるんだって。

 

 ひょろひょろで木の枝みたいに脆そうに見えるのにどんなものでもガブリと噛んで砕いて呑み込んでしまう。

 

 夜に歩いてるとお前は幸せか、それとも不幸かって尋ねられて、どっちを選んでも頭からカプリって食べられちゃう。

 

 助かる手段?今のところないらしいよ。

 

 ああだけど……死にたい人は無視されるんだって、死人じゃお腹は満たせないのかもね。

 

 

 「おい木戸、頼んでたこと終わったのか。」

 

 上司の声に顔を向けた男はクマのひどい目でじっと上司を眺める。

 その顔がひどく不快なものを見たかのように歪むのを見て終わりましたとただ頷いた。

 

 「ならさっさと上がれ、もうお前だけだぞ。」

 

 上司は軽く手を振って去っていく、男は更衣室に向かいエプロンを突っ込んで、安物のパーカーを羽織り裏口から退勤。

 

 空はすでに真っ暗だ。

 

 そのまま安アパートに向かって猫背気味の体を引きずるように歩いた。

 その途上、いつものコンビニで値引きシールの張られた弁当とペットボトルのお茶を持ってレジに置く。

 店員のまたこいつかという顔から投げやりな温めますかの確認に首を振るいつものやりとり。

 だが、その店員に奥から来た女が何かしら呟くと急いで裏に戻っていった。

 代わりに現れたその女がレジを打ってありがとうございましたと笑顔でお釣りとレシートを手に握らせる。

 いつもの毎日とは少し違う刺激に、しかして特に思うこともなくさっさと帰路に戻り。

 二階建てのこじんまりした安アパート、自らの自室に帰宅する。

 

 とは言え薄い壁はプライバシーも何もあったものじゃない、

 右隣からはビデオか本物か判別の付かない男女の交じり合う声が聞こえた。

 どちらにも縁を持たない男にとって本物も偽物も判別はつかない。

 左隣からは男の怒鳴り声と女の泣き崩れる声が聞こえる、夫婦の喧嘩でもしているのだろうか。

 隣人の事情にも、そもそも存在自体に興味がなかったのでそれもやはり判別がつかなかった。

 普通なら落ち着かないようなプライベートスペースの状態も心底どうでもいい。

 男はいつものように冷めた弁当をそのまま開いて割りばしで掻き込むように腹に入れていく。

 ガリっとした音が聞こえた、いつの間にか割りばしまで砕いていたらしい。

 折れた割りばしと空になった弁当容器をそのままゴミ袋に突っ込んで、男はそこらに転がっていた小説を手に取って読み始める。

 数ページ読んだら飽きたように投げ出して、次に携帯ゲーム機を手にとって電源を入れた。

 そしてまた、数分足らずで電源を切って先の小説の続きを開いて読み始める。

 開いて、閉じて、入れて、消して。

 何度何度も繰り返して、特に印象には残らない物語を消費して、いつの間にか遅い時間となっている。

 

 今日は散歩しようか、それともやめようかと考えて、やめることにした。

 虚弱な四肢を投げ出して男はそのまま眠りにつく。

 最低限の生活費を稼ぎ、後はひたすらに自室に籠って何かを消費する。

 

 それがその男の全てだった。

 

 そう、それが全てであればよかったのに。

 ほんの些細なきっかけがあったとしてもそこで立ち止まれなかったあたり、やはり男はどこか狂っていたのだ。

 

 

 一九九九年九月も半ばを過ぎた頃。

 

 まだまだ残暑は厳しく、しかして夜は少しばかり肌寒い日も増えてきた。

 道行く人が厚着すべきか薄着を貫くか迷うような季節。

 

 いつもの時間、いつもの歩く早さで(たくみ) 一真(かずま)はすでにしっかりブレザーを着込んで通学路を歩んでいる。

 気だるげに眠そうに歩む者、友達と何かを話しながら楽しそうに笑う者。

 そんな中をただ前だけを見て、乱れのない制服で背筋を伸ばして歩くその様は真面目を絵にかいたような在り方だ。  

 実際、一真は進学校として新設された高校の二年にして生徒会長に選ばれるほどには品行方正で成績も良い。

 大抵の生徒や先生は一真に対して好意的な感情を向ける。

 

 「おっはようございます、生徒会長!」

 「おはよう田辺、今日も元気だね」

 

 正義感が強く、困っている人は見過ごさない。

 頻繁に挨拶を交わす相手なら、名前だけでなく性格まで把握していたりする。

 

 その誠実さ故に、通学路で彼を見つけた後輩も先輩も、関係なく挨拶する者は多い。

 一真はその度に笑顔を向けて気持ちよく返すのだ。  

 しかし、そんな一真の内心は近年、かつてないほどに乱されている。

 

 『ねー、一真。学校なんかさぼってどっかいかない? 私、クレープとかほしいなー』

 

 能天気な声が頭上から響く。  

 

 視線を向けなくとも、そこに(かい)と名乗る少女がいることは知っている。

 白髪に、黒目のない白眼。儚げなアネモネのような雰囲気と手折れそうな繊細な容姿。

 目を離せばどこかに消えてしまいそうな妖精のようなあり方とは裏腹に、その声は底抜けに明るく自己主張はどこまでも激しい。

 

 一真は眉一つ動かさずに歩き続ける。  

 

 昔から一真には、他人には見えない友人がいた。

 かつてはもっと抽象的な、自身を間違った道へ誘おうとする悪魔のような存在だったはず。 

 

 一真はそれを悪魔さんと呼んで反面教師にしてきた。

 しかし二年前の事件を境にこの少女へと変貌したのだ。  

 

 自分の想像の産物のくせに触れもしないクレープをねだるなど、最近の元悪魔――回は、あまりに自由すぎる。

 

 『もー、無視しないでよ』

 

 ふくれっ面で視界に逆さまの顔が割り込んでくる。  

 透き通る髪が前を遮るが、一真は慣れた足取りで歩みを止めない。

 歩きなれた道だ、目隠しされていようと自分のクラスの席まで歩み続けることはできる。

 

 しかしここまでくると、もはや質の悪い幻覚だ。

 本気でどうにかしなければと切に思うことすでに数百回。  

 こうしていつものように生徒会長として、イマジナリーフレンドをあしらいながら一真の学校生活は幕を開けるのだ。

 

 

  回は授業中は大人しい。

 

 と言っても現れた頃はどんな時でもお構いなしに話しかけてくるわ視界を遮るわでやりたい放題だった。

 回に邪魔された授業は家で復習しなければ挽回できず余分な時間を使うはめになり、そうなると余計に相手してもらえなくなることを理解したのだろう。

 邪魔すべき時とそうでない時は心得るようになったのだ。

 

 一真はそんなことを考えてふと馬鹿らしいと力なく笑う。

 

 これは自分のイマジナリーフレンドなのだ、なのにまるで一個の生命体のように人格があると考えるなどなんともでたらめな話だ。

 もし邪魔をするのであればそれは自分がそこに集中したくないと思っているからに他ならないのだろう。

 だからこんな無意味なことを考えている暇があるならしっかり授業に集中しなければならないと気を引き締め、黒板と先生の言葉に意識を向けた。

 

 滞りなく授業は進み午前中が終了して昼休み、いつもなら友達と共に昼食でも取るところ。

 だが来月には文化祭も始まるこの時期。

 生徒会室は大体、忙しく一真と数人の役員、文化祭実行委員などが集まってパンをかじりながら話し合いや雑務をこなすのが最近の日課だった。

 

 「つーか、来月の文化祭、大丈夫なのかな。」 

 

 ふとそんな声が聞こえてきて一真は耳をそばだてる。

 

 「あー、路地裏事件だっけ?あの迷路みたいなところだろ。どうなんだろうな、今のところニュースとかにはなってないけど。血だまりの中に人の指が落ちてて、しかも歯形があったらしいとか」

 

 「そうそう、怪物だとか食人鬼だとか儀式だとかすげえ噂になってる、もし事件になったら文化祭なんてやってる暇もないだろ」

 「と言うか、興味はあるよな。帰りに寄ってみるか?」

 

 馬鹿言うなと笑いながら生徒会室から出ていく男子生徒たち。

 

 一真はそんな噂があるのかと眉を顰める、三年の先輩には最後の文化祭だし変なことは起きてほしくないが、

 とは言え人生とはそんなものかもしれないという思いもある。

 

 思いもよらないことで当たり前の日常が奪われることは確かにあるのだ、自分が経験した二年前の事件のように。

 それは社会という人が絡み合う場においては当然のことなのだ。

 自分一人で生きていけないのだから、自分以外の誰かに生き方を邪魔されるのは仕方がない。

 

 それでも、できる限り自分のできることをするしかないのだ。

 目下それは文化祭を最高のものとすること。

 一真は頭の中から噂を追い出して目の前の業務に没頭した。

 

 

 「よっ、お疲れさん」

 

 親し気に肩を叩いてくるのは小学時代からの親友、山下(やました) (かける)

 差し出してくるミカンジュースを一真は嬉しそうに受け取った、さすが長年の友達と言うべきか好みがわかっている。

 

 教室までのわずかな時間を共に歩む二人、ふと一真は路地裏の怪物について尋ねてみた。

 翔は流行には敏感だ、噂話なども手広く集めていると思うのだ。

 

 予想は大当たり。

 翔は待ってましたとばかりに、ありきたりな都市伝説チックな内容を語りだす。

 

 「ああ、あれな。学校からお前んちの方面にあるだろ?ベッドタウンの過密地帯。あの迷路みたいに路地裏が入り組んでる場所」

 

 「うん」

 

 「そこに毎晩、顔を隠した人型の何かが現れるらしいぜ。で、出会うと聞いてくるんだと。お前は幸せか、それとも不幸かって」

 

 翔は声を潜めて、おどろおどろしく手を動かす。

 

 「でさ、どっちを答えても頭からガブリ、だそうだ」

 

 くだらねえよな、と翔はケラケラ笑う。

 

 「だけど、指が見つかったんじゃなかったっけ?」

 

 「ああ。でもあれ、動物の嚙み跡だって聞いたぞ?別の場所であった殺人事件の遺体が、野良犬かなんかに荒らされたとか何とか。実際、噂なんて尾ひれがつくもんだろ」

 

 翔は全く信じていないようだ。  

 

 一真としても、それが正解であってほしい。

 荒唐無稽な噂が広がって学校側の不安を煽り、楽しみにしている文化祭が中止なんてことになれば目も当てられない。  

 

 そう、ただの噂話だ。

 

 『あー、だけどね。死人は食べられないらしいよ』

 

 ふと。

 

 回が、今日の天気でも話すような軽さで呟いた。

 

 『どれだけお腹が空いても、死人じゃお腹は膨れないのかもね』

 

 「――え?」

 

 足が止まる。  

 翔が「どうした?」と不思議そうに覗き込んできた。よほど変な顔をしてしまったらしい。  

だが、無理もない。  

 

 自分のイマジナリーフレンドがいきなり、聞いたこともないような具体的な設定を口にしたのだ。  

 あるいはどこかで聞いたそれを、深層心理が勝手に補完したのだろうか。  

 釈然としないものを飲み込み、「なんでもない」と歩き出した。

 

 

 世界はいつだって、不快なほどに潤っている。  

 男――木戸(きど) 感太(かんた)は路地裏の湿ったコンクリートに背を預けながら、頭上の隙間から見える切り取られた空を意味もなく網膜に取り込んでいた。

 沈みかけの夕焼け色が少しずつ色褪せていく、直に夜がきて路地裏は光もほとんど届かない闇になる。

 

 昼間であってもなお暗い路地裏は完全に日常から隔絶された空間に早変わり。

 

 通りを歩く人間たちの笑い声。車の排気音。換気扇から吐き出される油の匂い。  

 それら全てが、木戸にとっては鮮やかすぎる色彩を持って迫ってくる。

 

 誰も彼もが、自分という器の中に明日や希望、あるいは不満という名の水分をたっぷりと湛えて生きている。  

 それが羨ましくて、妬ましくて、そして何より――酷くまずそうに見えた。

 

 「……腹が、減ったな」

 

 自身の腹に手を当てる。

 そこにはブラックホールのような空洞がある。  

 

 食べても食べてもその瞬間の充足感は砂漠に撒いた水のように一瞬で蒸発し、あとにはより酷い渇きが残るだけ。

 

 木戸はゆっくりと立ち上がる。  

 

 足元には、数時間前に摂取した食事の残骸――かつて野良猫だったものが転がっているがもう何の興味も湧かない。

 

 もっと、質の良い糧が必要だ。  

 

 猫や鼠のような本能だけで生きる薄い命ではない。  

 もっとドロドロとした、自我と欲望と、人生という物語が詰まった濃厚な餌でなければこの喉の渇きは癒せない。

 

 「あー、今日は最悪。部長のやつマジでうぜえ」

 

 路地の入り口付近、酔っ払ったサラリーマンの千鳥足と愚痴が聞こえてきた。  

 木戸の鼻腔がピクリと動く。  

 不満。鬱屈。そして微かな家族への愛情と、将来への不安。  

 複雑な味がしそうな、熟成された糧の気配。

 

 「……ああ」

 

 木戸の乾いた唇が、三日月に裂ける。  

 だがその瞳はどこまでも窪んで淀んで何も面白そうじゃない。

 ただ、給水所を見つけたマラソンランナーのような切実な安堵だけがあった。

 

 「いただきます」

 

 彼は音もなくアスファルトを蹴る。  

 

 これから始まるのは殺戮ではない。ただの食事だ。  

 この絶対的な地獄において彼が正気を保つための厳粛なる儀式だった。

 

 

 放課後、明日は日曜で休みだからと張り切った生徒たちに付き合って思いのほか遅くなってしまった帰り道を一真は歩く。

 日は少しずつ短くなり夜が来るのが早くなる時期、今もちょうど夕日が沈み切り夜が訪れる時間帯。

 

 ベッドタウンでもあるここら一帯は窓から漏れ出る生活の明かりや等間隔に設置された街灯に照らされる表通りと、所せましと建てられたマンションやアパートの陰に隠れるようにして張り巡らされた夜の闇よりなお暗い路地裏という二面性を持っている。

 

 人々の生活の明かりがまぶしいほどに、その明かりの届かない世界の渇きは尋常ではないと思うのだ。

 それが、なんとも言えない不気味な感じを一真に抱かせる。

 

 『ねー、一真。どっか寄り道していかない?私、カラオケとか行ってみたいなー。ほら、あのたばこのキスの歌とか歌いたい!』

 

 暗く淀みかけた一真の心、それに呼応したようにねばつきはじめた気がする空気を切り裂くように明るい声が耳朶を震わせた。

 一真は周りを見回し人気がないことを確認して今日はじめて、回に視線を向ける。

 

 「だめ、ちょっと遅くなったから、今日はもう帰って復習したいし、家事もしないといけないからね」

 『えー、ケチー』

 

 至って真面目にそう呟く一真に頬を膨らませるも、すぐに話しかけられたことが嬉しかったのか頬を緩ませる。

 

 その顔が本当に嬉しそうに見えるから。

 

 思わず絆されてカラオケぐらい連れて行ってやってもいいかと思ってしまい首を振って歩みを再開した。

 悪魔さんとは違うがこいつもやはり、自分の決断を揺らがせるタイプのイマジナリーフレンドなのだ。

 

 自分が生み出すのはやはり誘惑の試練を与えるタイプなのかとため息ひとつ。

 と言うか、これは高度な独り言に近いもののはず。

 特に歌にも歌うことに興味はないのだが心の奥底ではそういう思いがあるのだろうか。

 

 『あー、ならあれ!ラーメン食べていこうよ!』

 

 今度はなんだと視線を向ければ、反対側の道に時たま見かけるラーメンの屋台がお決まりのラッパ音を響かせながら客寄せしているところだった。

 

 「回、君ラーメンなんて食べられないじゃないか」

 『いいの!一真が食べてるのを見てその雰囲気を楽しめればいいの!』

 

 そういってブンブン手を振って行こうと行こうと主張する回に、一真はもう一度ため息をついた。

 まあ、それぐらいならいいかもしれない、遅くなったし今から晩御飯を作るのは少し面倒なのも確かだ。

 ラーメンを食べるのを見るぐらいで機嫌が回復して少しでも絡みつく頻度が減ってくれるなら、それは悪くないような気がした。

 

 「わかったよ、なら今日の晩御飯はラーメンだ」

 『やったー!なら行こうすぐ行こう!』

 

 くるくると妖精のように宙を回りながらラーメン屋台にふわふわ進んでいく回を目で追いながら、一真は向こう側へ渡るために横断歩道で信号を待つ。

 待ちきれないとばかりに重力を無視してあっちこっちを嬉しそうに飛び回る回を苦笑しながら眺めていたら、ふと視界の外に何かを捉えたような気がした。

 

 『……一真、どうしたの?変なこと気にしてないで早くラーメン食べようよ』

 

 いつの間にか傍に戻ってきていた回が視界を遮るように自らの顔を覗かせる。

 その顔はいつものように、その雰囲気とは裏腹に底抜けに明るいもので。

 

 だけど今は、儚げでいつの間にか消えてしまいそうな、まるで幻想のようなその在り方が際立って見えるのはなぜだろう。

 そしてこの幻想に絡めとられて目の前の現実から目を背けるのは自分には許されないような気がしていた。

 一真はラーメンのことなどすでに頭にはない様子で回をすり抜けて走り出す。

 目指すはマンションの隙間にできた裏路地、その入り口に近づいた瞬間に路地裏の奥から響き渡る悲鳴を聞いた。

 

 そして、幽鬼のように青白く、餓鬼のように餓えに餓えたような。

 見方によっては怪物のようにも見える仄暗い視線がほんの瞬きの間だけ、こちらに向けられたような気がした。

 

 一真は一瞬躊躇して、それでも立ち止まることなく路地裏に身をねじ込んだ。

 

 

 迷宮のような裏路地に反響する男の悲鳴を追いながら一真は走る。

 

 路地裏の入り口からちらりと見えた謎の影、人間離れした動きで飛び跳ねるように消えていったアレは直観的に安易に踏み込んではいけない何かだと理解させた。

 だが、たまたまとは言え目に入ったのなら追うしかない、アレは間違いなくこの悲鳴の主を殺すだろうという確信がある。

 

 目の前で死ぬかもしれない人を放っておけない。

 

 『ねえねえ、本当に行くのー?』

 

 そんなことを能天気に呟く回に反応してやる余裕はない、というかこいつが動き回ったせいで目に入ったんじゃないか。

 いや、目に入らなければと思ったわけじゃないのだが、当の本人に言われると腹が立つ。

 

 『まあ、そうだよね。一真なら行くよね。なら一つ忠告、もしこの先に行けば一真はもう今まで通りには生きられない』

 

 その言い方はそうなるという確信ではなくそうなってほしいという願いのように聞こえたのは穿ち過ぎだろうか。

 今思えば、たまたま目に入ったわけではなく、回が自分の視線を路地裏に誘導したようにも取れる。

 

 回は自分が知らない路地裏の事情を知っていて、それを見せるためにわざわざふらふら飛び回ったとでも言うのか。

 馬鹿らしいと思いつつそれを否定できない、自分が生み出した想像上の何かがなぜ自分の思惑を超えるのだと叫びたい気分だ。

 

 反響する悲鳴はやがて弱々しい命乞いの懇願に変わった。

 路地裏の奥まった行き止まりの一つ。

 サラリーマン風の男が腰を抜かして後ずさり、パーカのフードで顔を隠した瘦せこけた一人の、おそらく男がそれを無感情に見下ろしていて。

 

 次の瞬間、サラリーマンの頭がまるで――丸かじりされ果汁が飛び散るリンゴのように赤い液体をまき散らした。

 

 どこにそんな力があるのだろう、恐怖に染まるその顔を、頭を両手で鷲掴みにしたひょろ長の男はそのまま無造作に口を開き嚙みちぎった。

 皮膚を裂き、頭蓋を砕き、脳髄を喰らって咀嚼するその様は現実離れしていてまるで映画でも見ているかのよう。

 だからだろうか、はじめて見る殺人、食人、アスファルトを伝ってこちらにまで流れてくる闇の中でなお鮮烈な粘り気のある赤。

 

 それは感情を激しく揺さぶるものであるはずでなければならないのに。

 

 まるで全てが麻痺したかのように嫌悪感も忌避感も何も感じることなく、しかして体は動かせず。

 ただ久方ぶりに鼻についた濃厚な血の匂いを肺に吸い込みながら、サラリーマンの男が頭から綺麗に喰われていくのを眺め続けることしかできない。

 

 学校で聞いた噂話が頭の中に流れ出す、曰く、路地裏にはどんなものでも食べてしまう怪物がいるという。

 

 『食べることは満たすこと、食欲とは満たされない器が何かに手を伸ばすための憐れで弱々しい衝動であると認めなければならない。ゆえに暴食とは弱さの証、人の中に紛れることすらできない弱い者の嘆き』

 

 回の歌うような声が耳に届く、暴食、暴食者。

 サラリーマンを喰らった暴食者がゆっくりとこちらに顔を向ける。

 口元についた血を舌で舐めとるその様に、それがようやく現実であると理解して。

 

 一真はその顔に怒気をにじませた。

 

 

 路地裏で相対した二人。

 

 暴食者、木戸 感太は裂けたような笑みを浮かべて舌なめずり。

 そこに熱気はない。ただ、乾いた唇を湿らせるだけの生理現象だった。

 

 「なんでそんなに怒ってるんだ?」

 

 木戸は心底不思議そうに首を傾げる。

 

 「いいじゃないか。だって他の奴らは何の憂いもなく、悩みも葛藤もなく、ただ面白いことが当たり前みたいに能天気に生きてる。憎悪するのが権利みたいな顔して、当たり前のように何かを呪ってる。不公平じゃないか」

 

 言葉に抑揚はない。まるで天気の良し悪しを語るように彼は続ける。

 

 「俺は何をしても乾いてばかりなのに。幸せもなく恨めしくもない、カラッカラの人生だ」

 

 だけど唯一、食べることだけは裏切らなかった。  

 楽しいわけじゃない、心躍るわけじゃない。

 

 ただ、いくら食べてもいずれ腹は減る、そしてまた食べたくなる。  

 そうだ、人生を彩るためじゃない。ただ生きているとかろうじて信じるために、食べ続けなければならないだけ。  

 それが暴食者、木戸 感太の至った、ただ一つの解。

 

 「だからいいだろ? もう十分に楽しんだ奴らを、呪った奴らを、俺の一生分以上潤った奴らを。ほんの少しだけ俺が潤うために使って、何が悪い」

 

 「悪いに決まってる」

 

 即答だった。

 

 呆然としていた頭も体も、怒りでどこまでも熱く、しかしてどこまでも沈むように静かに回る。

 一真はみじんも揺らがない瞳で、虚ろな怪物を刺すように射抜く。

 

 「どんな事情があろうと、自分に実感を持つために他人を消費していいわけがない。人は、自分の足で歩いていくものだ」

 

 暴食者の顔から笑みが消えた。  

 怒りではない。ただ、この男は自分とは違う回路で動いていると理解しただけだ。  

 決して交わらない。後はただ、目の前の障害物を排除し、糧にするしかないと確信した。

 

 「……まあ、いいか」

 

 木戸は軽く嘆息する。それが当然なのだ。  

 これまでも、これから先もわかり合える相手なんていない。

 暴食者はただ、喰らい尽くすことでしか己を規定できないのだから。

 

 「なあ、お前は幸せか?それとも不幸か?」

 

 木戸の問いかけが路地裏に反響する。

 

 「……そんなこと考えたこともない。ただ、自分ができることをするだけだ」

 

 一真はみじんも揺らぐことなく己を示した。

 

 木戸が四肢に力を込める。  

 アスファルトが削れる音と共にその体が弾丸のように跳ねた。  

 その有様はまさしく飢えた四足獣。一真は反応しようとしたが間に合わない。

 ただ左手を目の前にかざし、大きく開かれた(あぎと)を受け止めるのが精一杯だった。

 

 木戸は無心で口を閉じる。  

 

 腕を喰いちぎる。肉の味、骨の砕ける感触。それだけが彼に与えられた唯一の実感――。

 

 しかし、それは訪れない。

 

 硬質な音が鳴るはずだった空間に、間の抜けた音が落ちる。  

 人を喰らうその時、その一瞬だけのカタルシスが存在しない。

 

 これまで幾度となくあらゆる物を喰らってきた己の口が鉄すらも噛み砕く牙が。  

 ただちょっと鍛えただけの男子高校生の腕一本を、喰いちぎれない。

 

 「…………?」

 

 死にかけの弱々しい子犬が最後の抵抗をするかのようにほんの少し歯が肉にめり込むだけ。  

 その口は、数多のものを喰らってきたその穴は、ただの人間のものに戻ったかのようだった。

 

 その現実は彼なりに持っていた捕食者としての在り方を砕くには十分すぎるほどのインパクトで。  

 一真は少しだけ痛みで顔をしかめるも、残った右手を静かに振り上げる。    

 動揺で思考が止まった木戸の顔面に拳が叩き込まれた。  

 身体能力も強化されていたはずだった。

 なのに、その身はかつての引き篭もっていた虚弱な小枝のように脆く。

 

 一撃。 あっさりと意識を刈り取られた木戸は糸が切れた人形のように物言わぬままその場へ沈んだ。

 

 一真は呆然と自らの拳を見下ろし、今しがたそれが突き刺さって地面に身を投げ出している男を見比べる。

 

 はじめて人を殴ったわけではない。

 小学生の頃はいじめっ子相手に大立ち回りを繰り広げ多勢に無勢でこちらがぼこぼこにされることなんてこともよくあった。

 だけどこれはそういう、日常の延長線上にあるものとは違う。

 

 制服の袖をまくる。

 貫通しているわけではないがそこには見紛うことなき男の歯形がくっきり残っていた。

 

 全力で殴りつけた拳もじんじんと痛みを訴える。

 その痕跡が、痛みが、これまで自分が経験したことのない本当の傷つけ合い。

 相手の完全否定であることを否が応でも悟らせた。

 

 『ようこそ、世界の裏側へ。温かな陽だまりの陰にある魔境へ。幻想達の妄執が集う場所へ。もう逃げられないよ』

 

 そういっていつものように明るく笑う回が、一真には得体のしれない何かに見えて仕方がなかった。

 ただ一つ、言えることがあるとすれば、こいつはイマジナリーフレンドなどではないということだ。

 そんなことに今更気がつくなんてなんて鈍くてばからしいのかと、現実逃避するようにそんなことを思った。

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