とある雑居ビル、表向きはお洒落なバーや零細企業のオフィスが入ったどこにでもありそうな歓楽街の一建築物。
その地下二階にはまだ昼過ぎでありながら静かな熱気と緊張感で張り詰めていた。
昼も夜も関係ない退廃した空間、酒と煙草と淀んだ空気に溶けるように時折うめき声が響く。
薄暗い間接照明に照らされた室内は人の正気と分別を奪いただの獣へと変えてしまうだろう。
そこは違法カジノ、退屈した成功者と身の程知らずな愚か者が交じり合う特異点。
まれに叫び声や金切り声をあげる男女が屈強なスーツの男たちに引きずられていくことを除けばそこは特有の秩序によって統制されある意味では清浄だ。
獣には獣のルールがある、ここはタガを外し享楽や夢にふけるための現実の非常口。
「よっし、また勝った!」
そんなほの暗い空気と壁の向こうから響く換気扇の頼りない機械音を切り裂くように女の明るい声が響く。
ブラックジャックの卓の一角、五人のプレイヤーの一人であるその女はこの場にあってどこか浮いていた。
女らしさとしなやかさを兼ね備えた体は動きやすそうなジーンズと、上から二つはボタンの外れているだらしなく羽織られた黒のワイシャツに包まれている。
煙草を咥えてだらしなく卓に肘をつけ、頬に手をやるその姿は客観的に見ればダメ人間そのもの。
だがその身から発せられるのはどこまでも鋭い陽の気だ。
欲望と快楽に倦んで刺激に餓えた者とも違う、人生を運に委ねて破滅する夢の住人とも違う。
そんな者達とは比べ物にならないほどに、どこか地に足つかない浮世離れした雰囲気が感じられる。
影もありながらそれでも、どこまでも楽しそうに笑っていた。
中国系の女ディーラーがチップを積み上げる、その額はゆうに三百万は超えているだろう。
勝ち過ぎだ、明らかにカジノ内の雰囲気が変わっている。
いつの間にか卓の周りには人影が増えていた。
興味深そうに勝負を眺める者達に交じって物騒な空気を纏う者達も混じっている。
それに気づいているのかいないのか、女は変わらず次の勝負にベット。
このカジノのブラックジャックは他の客が他者のカードを見れないように、最初は裏側にしてカードを配る店独自のルールを採用していた。
女はそれをめくることなく「スタンド」と告げてディーラーが動くのを待つだけ。
そしてカードがめくられれば女は勝っている、積み上がるチップ。
同卓の客たちが呆然と、訝しげに、羨ましそうに、女に露骨に視線をぶつけているのもしょうがないだろう。
定期的に行われるカウンティング対策のシャッフルもまるで意に介していない。
そもそもほとんどカードを見すらしないのだ、たまにちらと見ることもあるがほとんどノータイムでスタンドを宣言し続けるだけ。
その日、女はその方法でひたすら勝ちを積み重ねた。
ディーラーの無機質な顔にも隠し切れない困惑が浮かんでいる。
それなりに長く卓に立って勝負に身を浸している中でカードを見ない客というのはいなくもない。
しかし、それで勝ち続けるのは異常だ。
ディーラーも壁際の者達もそれ故に気味が悪い。
狐につままれたような心持。
介入しようにも何の証拠もなければでっち上げられそうな行動すらなく、ただ眺めることしかできない。
「また勝った、今日は本当についてるな」
気だるそうに微笑みながらチップを撫でる女、フィルターに到達し燃え尽きた煙草を灰皿に押し付けて立ち上がる。
「煙草もなくなったし、ここまでだ」
チップをかき集めて専用のかごに投げ入れると出口付近に陣取る男に無造作に手渡す。
そのまま裏に通されどこか冷たい目をした男が緩慢にチップを数えるのをだらっと眺めた。
清算が終わり男は表情を変えることなく分厚い封筒を手渡して、そのまま裏口の方へと顎をしゃくる。
露骨な退場命令。
女は武骨な黒のブーツを打ち鳴らしながら揚々と通路を歩く。
案内係の男は一言も発することなく、ただ自分と男の足音だけに心地よく耳を委ねた。
開けられた扉をくぐり外の空気を目一杯に吸い込む。
そんな穏やかなひと時をぶち壊すように、裏口から姿を見せた女を三人の男が待ち構えるのが見える。
最初からそのつもりだったのだろう。
昼間の穏やかさもこの場では意味を持たない、ここはまだ連中の狩場。
後ろからも案内係に加えてスーツの男が三人、完全に退路を断たれた形になる。
それでも、女はどこか曖昧に面白そうに笑う。
「おいおい、私はイカサマなんてしてないぞ。ゲームを楽しんでるだけの客を出待ちとは、今どきの奴らは矜持も何もないな。商売は信頼が命だろうに」
違法カジノに信頼もくそもないかと、女は自分で納得して笑い続ける。
女に言われるまでもなく男たちもわかっている。
それを抜きにしてもこの得体のしれない女と関わりたくなどないのだ。
それでも、お上の命令には逆らえない。
逃げられないようにうまく距離を取り縮めていく。
集団で獲物を追い詰める荒事になれた者達の動き。
包囲の輪が狭まり一息に女を確保しようとした瞬間だった。
待ち構えていた三人の男の体が突如として崩れ落ちる。
その背後には目を閉ざした青年が一人、黒髪に全身真っ黒な服を着こなし路地裏の闇から滲みだすように現れた。
「……游里さん、いい加減にしてくださいよホントに」
言葉の内容に反してその声音はどこか平坦で抑揚がない。
まるで人らしさを模倣しているような違和感。
女――
突然の乱入者に腰が引けた残りの男たちに、游里は振り返って手を差し出す。
銃のように向けられた人差し指。
「バン」
気の抜けた、しかしはっきり届く声音に弾かれるように男の一人が路地裏に倒れ込む。
何も見えなかった、声とほぼ同時に吹き飛ばされたようにしか思えない。
残った者達は狂乱に支配され今度こそ逃げ出そうと背を向けるも、声が響く度に弾かれ宙を舞い壁や路地に叩きつけられて沈んでいった。
昏倒した七人の男たちを尻目に游里は手の中の封筒を弄ぶ。
「いくぞ、朔」
どこか青みがかった長髪をたなびかせて振り返ることなく路地裏の出口へ、青年――
「それで、游里さん。今度は何やらかしたんすか?」
「失礼な、今回は本当に何もしていないよ。運に身を任せてゲームを楽しんでいただけだ」
それはそれで肝が冷える。
ほぼ素寒貧でなけなしの金を増やすために手慣れた様子で客引きを見抜き、口八丁と無駄な色気で抱き込んでカジノに潜り込む游里を見送ったのだ。
なぜカジノなのかなどと考えてはいけない、この人は基本、ノリと面白いか否かでしか生きていないのだと朔は嫌というほどに承知している。
「よく勝てたっすね」
ため息をつきながらどこか皮肉気に声を漏らす、それは相変わらず平坦ではあるのだが。
「まあ、当然さ。私は振り切っているからね。あそこにいる連中ときたら、利益と娯楽を混同していて見てらんない。
金だけを求めるならどこまでもスマートに勝負に徹するしかないのに夢に溺れるバカ。
快楽を求めるなら全てを捨てて楽しめばいいのに一線を越えられずニヒルを気取る大バカ。
良くも悪くも振り切っていれば何かを手にできるものさ、あんなお心童貞処女連中に負ける道理がない」
いつも通り全く意味不明な論理である。
「まったく、もっと自分を解放すればいいものを。中途半端に何かに縋るから何も手に残らない。開きなおって生きればいいのにね」
呆れたように游里は宙を仰いだ。
「……もし負けたらどうするつもりだったんすか?」
そんな芝居がかったアンニュイな様子も意に介さず容赦なくツッコミを突き入れる朔。
「そりゃお前、その時はその時だろ」
もう何も言わない、言っても疲れるだけだともはや何度目かもわからない確信を改めて深めた。
游里はその様子に満足げに頷くと、これまでとはちがうどこか鋭利で獰猛な笑みを見せる。
「さあ、金もできたことだし。ようやく大仕事に取り掛かれそうだ。魔法使い狩り、いってみようか」
「ういっす」
路地裏から踏み出し陽光降り注ぐ世界へ二人は溶けていった。