そして、世界は別たれる   作:・黒箱

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⑦-1

 『私のエゴがあなたを愛しました。私の愛があなたを傷つけたのです』

 

 

 新しい脅威が忍び寄っているかもしれない。

 

 そんな現実が目の前にあっても一真の日常は特に変わることなく続いていく。

 相変わらず同じ時間に起きて、習慣をこなしてフェリシアと共に学校へ通う。

 

 変わったものがあるとすれば周りの方だろう。

 

 フェリシアはもう隠す必要はないとばかりに夜、時に学校を早退して昼間から、休んで朝からでも一人どこかに行くことが増えた。

 綾理ちゃんが家に来る頻度も少し減った、魔術師との折衝や小競り合いなどが増えているのかもしれない。

 

 それでも、家に集まる時は誰もそんな気配をおくびにも出さない。

 綾理ちゃんがずけずけものを言って、フェリシアが振り回されたり呆れたりして。

 それをお茶をすすりながら眺める、そういう空間が出来上がる。

 

 他の皆もそれを大事にしてくれていると思うから、だからそれを守ろうと思うのだ。

 元より自分に荒事など向いていない、できることと言えば相変わらずそれぐらいしかないのだから。

 

 「かずま~、何か食わせてくれぇ~」

 

 そんなことをつらつら考えていた頭が強制停止する。

 一真は苦笑して器をもう一つ取り出した。

 

 あの日の夜、綾理ちゃんと共に我が家を去った游里さんと朔さんであったが。

 その二日後から朝七時を過ぎるころ、ちょうど朝ごはんのシリアルを用意する時間になると游里さんが現れるようになった。

 

 我が物顔でリビングに入り込み食卓に突っ伏すいつも通りとなった風景に苦笑する。

 今日でまだ十日程度なのだがまるで最初からいた同居人のように違和感がない。

 

 この人はとかく、どんな場であっても馴染むのがうまいのだろう。

 とは言えそれが通じない相手もいる。

 

 フェリシアがいれば問答無用で追い出そうとするちょっとした騒動が見られるのだが今日は朝からいない。

 

 「どうぞ」

 

 游里さんの分のシリアルを用意して卓につく。

 

 「おいおい、またこれか?飽きないなお前も」

 

 「またと言いますか、もうずっとこれですよ」

 

 正確にいつからこうなったかは忘れたが、多分小学生になったばかりの頃にはシリアルを食べてた。

 游里さんは呆れたような理解不能なものを見るような顔でため息をつく。

 

 「なんだそりゃ。まったく同じことを繰り返す毎朝といい、つまらん人生送ってるな一真。もっといろんなことを楽しもうとは思わないのか?」

 

 率直な物言いに思わず吹き出してしまう。

 どうやら朝ごはんをねだる前からこっそり観察されていたらしい。

 それを隠そうともしないあたり、あまり裏表のない人なのだなと思う。

 

 ストレートに全てをぶつけてくる遠慮のなさは好ましい。

 それに、こういう相手であれば気を使わなくてすむ。

 

 「まあ、自分でもつまらないなあとは思いますけど、満足はしてますから。そういう游里さんはどうなんです?綾理ちゃんから聞きましたよ、ぐーたらしてるだけで何もしてないそうじゃないですか」

 

 そもそもなぜ我が家でシリアルなんかを齧っているのかと言えば金欠だからで。

 それでいて働きもしないうつけ者だと綾理ちゃんが珍しく愚痴っていた。

 あまり関わるな、悪い気を受けるぞと疲れたようにお節介まで飛び出す始末。

 

 食事が必要なら家賃を払えとの綾理ちゃんの要請を華麗にスルーしているらしい。

 

 「それに、わざわざ家に来なくても朔さんに分けてもらえばいいのでは?」

 

 あの黒づくめの男性は游里さんとは正反対でどこか几帳面で勤勉だとのこと。

 綾理ちゃんの屋敷の家事を手伝ってその日の食事にありついているそうだ。

 

 使い魔とか何とか言っていたし代わりに働いてくれたりするのではないだろうか。

 いやまあ、それはそれでどうかと思うのだが。

 

 「あいつはそういうところ厳しいんだよなぁ。自分の分は自分で何とかしてくださいっす、って拒否された」

 

 真っ当な人だ。

 

 「じゃあ、働いたらどうです?バイトでも見繕ってみましょうか?」

 

 桜台高はバイト許可制で事前の確認は生徒会がやっている。

 進学校にしては珍しく社会勉強も勉学の一環だというわりと放任主義的な方針なのだ。

 成績に問題がなければ普通に許可が下りる、その事前確認は生徒会が担っていた。

 

 雑談がてら、働きやすいとか短時間でも雇ってくれるとか融通の利くバイト先を教えてもらったりしている。

 クリスティルとかいう魔法使いの問題で見えないところで忙しいのかもしれないが多少生活費を稼ぐくらいすればいいと思う。

 

 「フッ。一真、お前はわかっていない。刺激のないバイトなんぞ数日でバックれる自信がある」

 

 胸を張ってふんすと鼻を鳴らす游里さん。

 つくづくダメな大人だ。

 

 「とは言えこのままだとクリスティルに殺される前に餓死してしまう。いい加減、シリアルも飽きたことだしちょっとした依頼を取ってきたんだが」

 

 にんまりとこちらを見やる游里さん、嫌な予感がひしひしと鎌首をもたげ始めた。

 

 「一真、手伝え」

 

 「嫌です」

 

 即答した、絶対にお断りである。

 この人と一緒に何かするのは不安しかない。

 

 それに今は、影幻界にあまり深く関わりたくはないのだ。

 日常を守ると約束したことだしフェリシアのいないところで自分から足を踏み入れるのは気が引ける。

 

 おまけに――私がいないところで変なことに頭を突っ込むのは絶対にやめなさいよ――とありがたいお言葉も念押すようにいただいていることだし。

 

 「というか、なんで僕なんですか?喧嘩にもとんと縁がないただの高校生ですよ。朔さんに手伝ってもらえばいいじゃないですか」

 

 二人の関係はよくわからない。

 だけど表面的にだけ見れば朔さんは游里さんの部下といった感じだった。

 仕事であれば普通に手伝ってもらえるのではないだろうか。

 

 「いやあ、朔のやつ、今ちょっと不調でな。調整中なんであんまり連れ回したくないんだよ。繊細というか、まあ難しい状態にあるんでな」

 

 だらしないと突き放すように言うがその声にはどこか気遣いの色が見て取れるような気がする。

 

 「よくわかりませんけど、朔さんが無理なら僕はもっと無理でしょう」

 

 全身に包帯やらなんやらを巻いて平然としていたあの夜の朔さんを思い出す。

 明らかに戦い慣れているのだろう、不調でも自分より役立たないとは到底思えない。

 

 「戦いならそうだな。だけど、今回はそうじゃない。お前に頼みたいのは子供の相手だ」

 

 「……子供の相手?」

 

 「そうだ、いつもボランティアで複雑な事情を抱えた子供と付き合ってるだろ?そのお慈悲の力を借りたいんだよ。荒事は私がやるから心配するな」

 

 そんなことまで知っているとは事前にどれだけ調べられたんだろう。

 これは断れない、いや断りたくなくなるなと一真は確信した。

 

 游里さんはこちらの思考傾向をある程度、読んだうえでこの話を持ってきているのだろう。

 表面的にはダメな大人そのものなのだがあの世界の中で生き残ってきた魔術師。

 この人もまた、常識では測れない何かを持っているに決まってるのだ。

 

 「具体的な話をしよう。いくつか市をまたいだところに田園地帯があるのは知ってるか?その近辺に屋敷を構えてる資産家がいるんだがな、そこの主人が個人的に出資して小規模な児童養護施設の理事をやってるんだよ。いわゆる慈善家だな」

 

 どこか皮肉気な調子で游里さんはポケットからこの周辺の地図を引っ張りだして指を指す。

 少し遠い、電車で一時間ぐらいはかかるだろうか。

 

 「とは言え、私みたいなのに依頼が回ってくるぐらいには仄暗い側面もあるわけだ。慈善家夫婦の裏の関係者が次々に殺されていってるらしい。それが普通の死に方じゃなくてな。死に顔が壮絶らしい。ほら、あの叫んでる絵みたいな感じ」

 

 美術の教科書の常連さんか、それは確かに壮絶だろう。

 

 「で、その夫婦は狙われる理由に心当たりがあるんだと。児童養護施設から引き取った養子らしいんだがな、そいつが特殊な力を持ってるらしい。それを狙っていると先方は言ってる。もし本当なら子供が犠牲になるからな、ああ痛ましい」

 

 游里さんは面白そうにこちらを見た。

 

 「なんで、とりあえず話を聞きに行こうかと思ったわけだ。受けるにしろ断るにしろ、まずは見定めが必要だろう?その時に一真、お前の子供たらしの力を借りたい。その養子や児童養護施設の子供たち、職員たちの話も聞き出せたら御の字だ。どうだ?バイト代は出すぞ」

 

 思わずため息がこぼれる。

 子供が狙われてるかもしれない、それもわりと近くで。

 そう聞かされると放っておけないわけで、それを察してこうして話を持ってきたわけだ。

 

 「……それ、フェリシアに相談してから決めてもいいですか?」

 

 せめてもの抵抗である。

 

 「ああ、もちろんいいぞ。あの魔法使いを引きずり出してくれたら拝んでやるよ。だけど、もし引き止められたりしたらどうだろうなぁ。私はこの通りあんまり細かいことは気にしない質だから何か見逃すかもしれん。それで子供に犠牲が出たら、まあ仕方ないとはいえなぁ」

 

 的確にこちらの逃げ道を潰してくるなこの人は。

 一真は考えるように目を閉じた。

 

 フェリシアは今、クリスティルのことでわりと精神的に余裕がないように見える。

 これ以上、自分から心労を与えるようなことは避けたかった。

 

 「……本当に話を聞くだけでいいんですか?」

 

 「もちろん」

 

 一真はもう一度、深くため息をついた。

 

 「わかりました、付き合います」

 

 「そう言ってくれると思ったよ。じゃあ明日、朝九時に駅前広場で待ち合わせな。休日だから問題ないだろ?」

 

 游里さんは一方的に告げるとスキップでもしそうな軽い足取りでさっさと帰ってしまった。

 

 「……もう少し早く言ってくださいよ」

 

 やっぱりこちらが受け入れること前提で動いていたのだろうが、頑として断られたらどうするつもりだったのだろう。

 どこまでも勢いで生きている人だなと、一真は空になった器を片付けながらもう何度目かもしれない息を吐き出す。

 

 そこでふと、傍らに浮かんでいる回を見た。

 

 誰か、それも女性と二人きりで出かける。

 甘い雰囲気など微塵もないとはいえ、それでもいつもならここらで騒ぎだしてもよさそうなものだが今日は大人しい。

 

 「回、どうしたの?具合でも悪い?」

 

 この妖精もどきに体調という概念があるかもわからないが。

 

 「どうしたって何が?」

 

 「いやほら。明日、游里さんと出かけるんだよ?いいの?」

 

 騒がないでいてくれるならそれはそれでありがたいが、いつもやかましい相手が静かだと逆に気になるのはなぜだろう。

 

 「ああ、うん。あの人は大丈夫でしょ。ないない」

 

 小馬鹿にしたような顔で鼻で笑って手を振る。

 游里さん、回から見てもそういう印象なのか。

 

 なんだか明日は優しくなれそうだと思う一真であった。

 

 

 翌朝、時間通りに駅前広場に到着すればまあ大方の予想通り游里さんはいなかった。

 

 中心にある大きな時計の下にあるベンチに腰を下ろして人の流れをぼうと眺める。

 こうして見ると魔法使いやら魔術師やらの脅威が迫っているとは思えないほどに穏やかなもの。

 

 休日だからか家族連れやカップルらしき人たちが楽しそうに行き交う。

 それを見ていると思わず何をしてるんだろうという気分になってくる。

 

 朝、フェリシアから今日はゆっくり過ごさないかと誘われた。

 それを用事があると誤魔化してまでこうして足を運んだというのに待ち人は遅刻。

 残念そうな顔を隠しもしないフェリシアのことを思い出すとまだ心苦しい。

 

 そんなブルーな心持で北風に晒されながら、騒がしい日常から視線を切って空を眺めることにする。

 

 『かずまー、もう帰ろうよー』

 

 回の呑気な声を聞き流しながら半ば意地になって待つこと三十分。

 

 「いやあ、悪い悪い。遅くなった」

 

 ベージュのロングコートを風に揺らしながらさっそうと現れる游里さん。

 

 「……本当に遅いですね、何してたんですか?」

 

 「いやあ、それがな。ちょっと寝坊したというか」

 

 朗らかに笑うその姿、隠さないのは評価しないでもない。

 だが、優しくするのはやめようと心に誓った。

 

 少しかじかんだ手足に血を巡らすよう動かしながら立ち上がる。

 

 「はぁ、もういいです。行きましょう」

 

 「ああ、いや本当にゴメンな」

 

 手を合わせて謝るどこか茶目っ気ある様子に一真はもう一度、深くため息をついていいですからと駅内に向かう。

 本当に世渡り上手というか、憎めない人ではあるのだ。

 

 切符を買って電車に乗り込む。

 休みだけあって人は多くしばらくは立ちっぱなしだったが三十分もすればほとんどの人が降りてしまう。

 幹線道路沿いの景色が少しずつ牧歌的なものへと変わっていく、建物も少なくなって畑や田んぼがちらほらとみられるようになっていく。

 

 空いたボックス座に腰を下ろし游里さんも自然と向かいに座った。

 特に会話があるわけでもなくただ窓からの景色を眺める。

 

 やがて、人工的な形は成りを潜め始め車内から完全に人の気配が消えた。

 

 「……あの、游里さん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 

 少し迷ったがこの人に気遣いは無用だろうと声をかける。

 

 「んー?何だ?」

 

 「その、何で魔術師なんかやってるんですか?」

 

 魔術師、表側にありながら自ら裏側に足を踏み入れた者というのが一真の印象だった。

 

 もちろん強制的に引きずり込まれるような場合もあるかもしれないがこの人はそんな感じでもない。

 真っ当と言っていいのか真っ当な魔術師、だからこうして話せる機会があれば聞いてみたかった。

 

 なぜ、影幻界なんて世界に身を浸しているのか。

 

 「うーん、そう言われてもなあ。特に理由もないんだが」

 

 頭を無造作に掻きながらどこまでも軽く。

 

 「家が気に入らなくてな、中学を卒業してすぐに飛び出したんだよ。幸いと言うべきか私には魔術師の才があった、魔導管がなくても魔法を行使できる純正の才だ」

 

 その様はどこまでも陽気で。

 

 「その日暮らしで日本中をふらふらしてたら偶然、魔術師のおっさんに出会ってな。なんか気が合って魔法を教えてもらったんだよ、影幻界を知ったのもその頃だな。で、こんな退屈しない世界もないって今に至る」

 

 一真はその有様が理解できなかった。

 

 「……游里さんは、人を殺したことがありますか?」

 

 「あるよ」

 

 日が沈めばまた昇るが如く当然のことだと隠すことも偽ることもせずにあっさりと。

 

 もう何も訊けなかった。

 

 「……僕にはわかりません」

 

 ただ、そんな言葉が思わず口をついて出る。

 

 殺す、何であれそれは他人を消費するということだ。

 それは自分にとって最も受け入れがたい行為だった。

 

 「だろうな、わからなくていいさ。お前が知る必要のない類のことだよ」

 

 游里さんはどこまでも自然体にそんな言葉を返してくれた。

 それっきり、また沈黙の時間が流れる。

 

 そうだ、頭ごなしに非難することはできないし否定することもできない。

 それは自分の生き方、自分の常識でしかないとわかっている。

 両親がいて幸せだった頃の名残を今も胸に抱いているだけなのだ。

 

 この世界には自分とは全く違う常識の中で生きてきた人達がいる。

 そう、フェリシアだってきっと多くの人を殺めてきたはずだと理解しているのだ。

 

 游里さんだって影幻界の悲惨さも、人の命の重さもきっと理解できてないわけじゃないだろう。

 どうでもいいと思っているわけでもないと思う、どこか壊れているわけでも狂気に沈んでいるわけでもない。

 

 全てを理解したうえで、それでも軽やかなのだと一真は直感的に理解した。

 

 フェリシアが游里さんを厭う理由も何となくわかった気がする。

 

 フェリシアはどうにもならない何かに常に流されながらそれでも自分を誇りここまで歩いてきたのだと思う。

 常に何かに耐えて、仮面を被って、他者を否定して、それでも立ち止まらずにずっと。

 

 だけど表面に見える游里さんはどこまでも自由なように見える。

 何にも囚われることなくただ自分を解放し続ける在り方。

 そして多分、最後の時がどうであれ笑って死んでいくだろうと確信できる。

 

 それが流合 游里という魔術師の歩み方なのだと一真は呑み込んだ。

 

 視線を窓の外に滑らせる。

 

 どこまでも続く田園地帯と規則正しく張り巡らされた畦道。

 刈込が終わった黒い平原のような田んぼには人の姿一つ見られない寒々しい光景が広がっていた。

 

 ガタンゴトンと、規則正しい音だけが空間を満たしていく。

 時折、開かれる車両間を移動するための扉から入る隙間風が身に染みた。

 

 「さあ、次だぞ。降りよう」

 

 游里さんは変わらない態度で立ち上がる。

 ただその後に黙ってついていく。

 

 

 寂れた小さな駅には改札口なんて洒落たものはなく、駐在する駅員さんに切符を渡して外に出た。

 

 遠くに見える山林、まばらに建つ日本家屋。

 時間の流れからおいていかれたかのような古き日本の原風景。

 

 游里さんの先導に従って代わり映えの無い景色を眺めながら申し訳程度に舗装された道路をひたすら歩く。

 二十分ぐらい経っただろうか、防風林に囲まれた一角が見えた。

 

 木々の並びが一本の道となって真っ直ぐに伸びている。

 その先に微かに覗くのはこの光景には浮いて見える西洋風の屋敷。

 

 游里さんは惑うことなくその道に足を踏み入れてさっさと先に進んでいく。

 それについて歩きながら周囲を見回してみた。

 

 同じような常緑樹が特に規則性なく並んでいるだけ。

 しかしこれだけ密集していると景色がまったく変化していないかのように錯覚してしまう。

 

 距離感が狂う、前に向かっている感覚が得られない。

 同じところをずっと歩いているかのような違和感。

 ただその場で足踏みしているだけではないかとすら思ってしまう。

 

 まるで空間の狭間に閉じ込められたかのようだ。

 ふと、これは別の世界の入り口なのではないかという考えがよぎった。

 

 人里離れた場所に立つ周囲から隔絶された屋敷、木々に囲まれ世界から切り取られたかのような一画。 

 形代の屋敷にしてもそうだが風景に溶け込むように、あるいは隠されるようにある場所というのは非日常の境界線だった。

 

 そして、その場と外界を繋ぐ何らかの通路がある。

 形代の屋敷の場合は長々と続く石段だったが、あの屋敷の場合はこの道なのだろう。

 

 「あの、依頼主の資産家って魔術師だったりするんですか?」

 

 「ほう?なんでそう思う?」

 

 「いや、何て言うか、確信はないんですけど。形代の屋敷なんかと雰囲気が似ているといいますか。あえて世間からずらしてる感じがあるというか」

 

 「……なるほどね、ただ漫然と巻き込まれたわけでもないわけだ。きちんと自分なりに覚悟を持って飛び込んできた証拠だな。その観察意欲と感覚の鋭さは」

 

 游里さんはどこか感心したように頷いた。

 

 「お前さんの言う通りだよ。本人がそうなのか雇っているかはわからんがね。間違いなく魔法に精通している何者かが関わっている。それでだ、これが防御のためのものなのかそれとも隔離のための檻なのかで印象が変わるってのが大事でね」

 

 「檻?」

 

 普通に考えたら何かから身を守るためではないだろうか。

 影幻界に関わっているならその危険性も知っているはずだろうし。

 

 自分の屋敷を檻に変えて何の意味があるのだろうかよく分からない。

 

 「まあ、今考えても詮無いことだよ。まずは依頼人に会って話を聞こうじゃないか」

 

 游里さんはどこか楽し気に呟く。

 会話に意識を向けているうちにいつの間にか道の終わりに至っている。

 木立の間を抜け、開けた視界に屋敷の全容が収まった。

 

 レンガ造りの本格的な西洋風建築、暖炉でもあるのか屋根には煙突。

 周囲をこれまたレンガ造りの壁に囲まれ、正門の鉄扉は固く閉ざされている。

 前庭の中心には小ぶりながらもきちんとした作りの噴水が設置されていた。

 

 タイムスリップでもしたかのような中世の貴族風の屋敷。

 鉄扉を支える柱には全体的にレトロな雰囲気を壊すようなインターフォンが取り付けられている。

 

 「さて、先に言っておく。これから私は流 游(ながれ ゆう)だ、絶対に本名を口に出すな。お前は、そうだな、私の下僕ということにしておこう。名前は一人(かずと)と名乗れ、名字はないということにしておけ」

 

 それが魔術師としての游里さんの呼び名なのだろう。

 

 「わかりました、游さん」

 

 「理解が早くて助かる」と游里さんはボタンを押した。

 

 「……はい、どちら様でしょう?ご用件をお伺いいたします」

 

 十秒ほど経って若い女性の声がスピーカーから響いてくる。

 

 「どうも、流というものだ。今日、黒須(くろす)氏と面会する約束がある。取り次いでもらえるか?」

 

 「しばしお待ちを」と通話が切られた。

 それからたっぷり一分ほど経っただろうか。

 

 屋敷の内門が開くのと同時に鉄扉がひとりでに開いていく。

 姿を現したのは二十代後半ぐらいの長身の女性だった。

 

 顔立ちは日本風だが大きくて吊りのある瞳はどこか日本人離れしている。

 おそらく長髪であろうそれを白いキャップに収めロング丈のメイド服を着用していた。

 中々なお目にかかれない本格的なヴィクトリアンメイドである。

 

 前庭を横切って素早く歩いてきたメイドさんは目の前で優雅なカーテシーを見せた。

 

 「はるばるようこそお越しくださいました。御主人様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」

 

 案内するように今度はゆっくりと歩みだすメイドさんに游里さんと並んでついていく。

 屋敷の中に吸い込まれるように足を踏み入れると同時にその扉は閉じられた。

 

 

 目の前には玄関ホールが広がり、大きく豪奢な二階への階段が中心にある。

 それを軸に左右対称に伸びているのがこの屋敷の内観だった。

 

 一階右手の扉が開かれた、続く廊下にはさらに四つの木造の扉が並んでいる。

 一番奥の扉に向かいノックした。

 

 「失礼いたします、御主人様。お客様方をお連れいたしました」

 

 「入りなさい」と穏やかな声が扉越しに響いた。

 メイドさんは扉を開けて中に入るようにこちらを促す。

 

 游里さんは躊躇なくずかずかと中へ入っていく、一真もそれに続いた。

 最後にメイドさんが足音も立てずに身を滑りこませて扉を閉める。

 

 中は書斎か、あるいは執務室といった風情だった。

 左右の壁には本棚が置かれ隙間なく本が収められている。

 

 正面の窓を背に高級そうな机についていた五十代半ばぐらいの男性がこちらを捉えた。

 仕立てのよさそうなブラウンのスーツに身を包み穏やかな顔を向けてくる。

 

 傍に立って控えている同じく五十ぐらいの女性、奥さんだろう。

 目立たない色合いのゆったりした、どこか品を窺わせる装いで微笑んでいた。

 

 「ようこそ、お越しくださった。私が黒須 孝道、こっちが妻の恵子です」

 

 穏やかではあるがはっきりした声音、力強さを感じさせる声が響く。

 孝道さんが立ち上がり恵子さんが一礼した。

 

 「どうも、流 游だ。こっちは一人、私の下僕だと思ってくれていい。仕事上のサポートをする。裏側については承知しているから話を隠す必要はない」

 

 対してどこまでも軽い游里さん、紹介に預かって小さく礼を返す。

 口を挟むとややこしくなりそうだからとりあえず背景に徹しよう。

 

 「さて、まどろっこしいのは抜きにして本題に入ろうか。今回の依頼はあんたらの、正確にはあんたらの養子の護衛ということでいいんだな?」

 

 孝道さんは頷く。

 

 「とは言えだ、あんたらのお友達が次々に闇討ちされて死んでいる。それ以外に特に被害は出ていない。ピンポイントに標的だけを狙うあたり怨恨の線が強そうだが?なぜ養子がターゲットだと言える?」

 

 露骨な挑発に孝道さんは気分を害した様子もなく。

 椅子に腰かけなおすと苦渋の顔を見せた。

 

 「おっしゃる通りでしょう。私は一代で財を築いた、その過程で影幻界を利用したことは隠せません。表に出せないような、法でも裁けない手段を取ったこともあります。怨恨という線も否定はできません」

 

 率直だった、自らの罪を認める言葉。

 

 「しかし、今はそれを悔いている。いざ、富を手にしてみれば後には何が残りましょう。金で手入るものなどたかが知れている。ただ欲が肥大した腐肉に群がる獣を引き寄せるだけだ」

 

 自嘲するかのような言葉に恵子さんも目を伏せるだけ。

 必要以上に富んだ人たちの生活など想像もできないが、それはそれで苦悩も多いのかもしれなかった。

 

 「過去は消せませんが未来に何かを残すことはできる、罪を贖えればと思い児童養護施設に出資し理事などをやっております。悲惨な環境に置かれた子供たち、そして稀有な才能を持ち普通に生きられない子を受け入れ庇護するために」

 

 自分からすればそれはとても素晴らしいと思える。

 過去がどうであれ今をより良いものにしたいと思えるのならその方がいいはずだと。

 

 だが、游里さんはどこまでもつまらなそうに聞き流しているようにしか見えない。

 

 「ありがたくもその活動は実を結び、小規模ながら表側の第三者機関などからも高い評価をいただいています。手に余る子供を持ったご両親の最後の拠り所としても」

 

 才能と言えば聞こえは良いが、過ぎた才能はやはり呪いとなるのだろうか。

 影幻界という場において力があることが必ずしも良い方に働かないというのは今なら何となくわかる。

 

 「それに伴って裏側からは距離を置いてもう十年以上になる。怨恨の可能性が消えるわけではないでしょう。しかしあえて今になって隠居した私を危険を犯して狙う意味は薄い。余生を過ごしいつ死んでも構わない身です。地位も財産もほとんどは処分してしまった、価値があるものと言えばこの屋敷ぐらいです」

 

 孝道さんはどこか恥じるような顔を見せた。

 

 「加えて言うならば、これまで殺された者達は仲間と言うほど親密でもないのです。昔の私に個人として友誼を結べるような親密な余裕はなかった。復讐であるなら時期も標的も道理に合わないと思っております。敵が狙っているのは私の命ではない、情報でしょう。私のこと、この屋敷の場所を探っている。どこから漏れたのかはわかりません、あるいはこの子が児童養護施設に来る前に知っていたのかもしれない。何であれあの子を手にしようとしている」

 

 孝道さんが背後に目くばせする。

 部屋を出たメイドさんは一人の子供を連れてすぐに戻ってきた。

 

 小綺麗な格好の理知的な顔をした少年だった、小学校を卒業したぐらいだろうか。

 小さく微笑んだ少年はこちらを見て「はじめまして」と挨拶してくれる。

 

 「この子は(とおる)といいます。私共が運営する養護施設から引き取った養子です。とても大きな才能を持っている」

 

 慈しむように孝道さんは透君の頭を撫でる、恵子さんも傍目から見ても深い愛が感じられる視線を向けていた。

 

 「才能ねえ、実際に何ができる?」

 

 そんな親子の様子に興味はないのか游里さんは淡白に尋ねた。

 

 「そうですね、一言で申せば他者を強化する力があるのです」

 

 「なるほど、それは確かに稀有な才能だな。……憐れなほどに」

 

 完全に興味が失せたのか透君から視線を外す。

 

 「話は分かった、確かに狙われる可能性は十分あり得る。とは言え、必ずしもその子が原因とは限らない。正直、あんたらのこともまだ完全に信用していない。とりあえず、その児童養護施設とやらで話を聞く、その子の情報を流した獅子身中の虫がいる可能性もあるしな。うちの下僕はそういうのに長けているんでね。構わないな?」

 

 「もちろんです、しかしもうすぐお昼だ。どうです?まずは食事をされていっては?」

 

 壁の時計に目をやる、もうすぐ十二時を指そうとしていた。

 

 「……そうだな、なら遠慮なく」

 

 大仰な様子で頷く游里さん。

 これは何も考えてない、ただ空腹なだけだなと一真は内心呆れた。

 

 「よかった、ならしばらく客間でお待ちください」

 

 メイドさんが自然と意を汲み扉を開いて「こちらです」と歩き始める。

 一瞥もせずに踵を返して部屋を出て行ってしまう游里さん。

 一真は礼をしてから慌ててそれを追いかけた。

 

 振り返り様、最後に視界に収まった親子はどこまでも綺麗で理想的な関係に見えた。

 愛、互いを慈しむその関係性を壊す者がいるのなら力になりたいとそう思わせる。

 

 自分の家族はもう二度と戻らないからこそ、義理であっても家族であれるその様を守りたいのだと。

 

 

 二階の左手、同じく四つの扉の一番手前に案内された。

 

 「客間でございます、しばらくこちらでお待ちくださいませ」

 

 メイドさんはカーテシーを見せると一階へと去っていく。

 扉を開けて中に入れば物語の中にでも迷い込んだかのような光景が出迎えた。

 

 最奥には、疲れを癒やすのに十分な風格を備えたキングサイズのベッドが設えられている。

 部屋の中央にはフェリシアがいつも使っている高価なティーカップが似合いそうな大理石の天板を持つ豪奢な円卓と、座り心地の良いアンティークチェアのセット。

 

 窓際に近い壁際、集中しやすい落ち着いたスペースにはちょっとした書き物や執務をこなせる木製の美しい机と椅子が隙なく配置されている。

 

 大きめの窓から入る陽の光は防風林に妨げられて少し薄暗いがそれがまたどこか幻想的な雰囲気を演出していた。

 両親が健在の頃、たまに連れて行ってもらった高級そうなホテルでもここまで凝ってはいなかった気がする。

 

 游里さんは一直線に部屋の奥に向かうと窓を開け放つ。

 コートのポケットから煙草と携帯用の灰皿を取り出して一服し始めた。

 

 一真もとりあえず高そうな椅子に腰かけて一息ついた。

 

 「さて、それで一人。どうだった?お前の目から見てあの子供は」

 

 唐突に声をかけられて少し考え込む。

 

 中学生ぐらいの子供、それも元は児童養護施設にいたことを考えると少し大人しすぎる感じは否めない。

 

 とは言え今の両親とうまくいっていると考えることもできるだろう。

 元々、頭のいい子供で精神的にも安定しているのだと。

 

 しかし、それでも一つ、看過できないことがあるとすれば。

 

 「そうですね、目が印象的でした。透き通ってるように見えた、あまりにも濁りがないような」

 

 個人的な所感だが目は相手のあり様を示す一つのバローメーターだ。

 十数年も生きていれば少なからず濁る、それは悪いことじゃなくていろんなものを取り込んだ結果。

 

 だけど、透君にはそういう混淆が見られないように思う、どこまでも純粋に見えた。

 まるで生まれたばかりの無垢な子供のように。

 

 游里さんは窓から紫煙を流しながら先からずっと見せていたつまらなそうな顔を崩さない。

 

 「お前はわりと本質を突くことを言うな。私も同意見だ。あれはおおよそ人格というものがない、自我が薄いんだろう」

 

 灰皿に煙草を押し付けて振り向くと窓枠に背を預けて身を乗り出すように空を見上げた。

 

 「それにしても強化ときたか、確かに影幻界に属する者なら喉から手が出るほど欲しい力ではあるな」

 

 そこが少しわからない、それはまあ確かに強化できるのなら便利だろう。

 だけど、フェリシアが使うような魔法じみた魔法と比べれば何となく地味な気もする。

 あんまり希少な感じがしない、そのことをストレートに伝えてみると游里さんはぼんやりこちらに目を向けた。

 

 「そうだな、ところで、強化と聞いてお前はどんなものを思い浮かべる?どうなれば強化されたと思える?」

 

 突然の質問に再び考え込んでしまう。

 

 「そうですね……、身体能力が上がるとか?」

 

 「具体的にどうなれば身体能力が上がったと言えるんだ?」

 

 「それは、その、膂力が上がれば?」

 

 「ふむ、例えば反射神経が強化されるというのはどうだ?あるいは五感が強化されてより遠くを見られるようになるのは?単純に硬度が上がるのも強化じゃないか?」

 

 そう言われればそうだろう。

 

 「人の強化ってのはね、主観なんだよ。身体能力強化、魔法の威力強化、思考速度の強化。人それぞれ理想の力の形がある、一概に何を強化するかなんて規則は存在しない。現実はゲームみたいに共通するパラメータが設定されることはない。だから強化するのは難しいんだ、強固な世界観が必要なんだよ。ましてや他人を強化するなんて正気の沙汰じゃない、むしろ相手の世界観を浸食して破壊してしまう可能性が高い」

 

 游里さんの目元がにわかに鋭くなる。

 

 「例外は魔法使いだな。魔法使いは元々、影幻界に属する人間というのは聞いたことあるか?」

 

 一真は頷く、前にフェリシアから聞いていた。

 

 「影幻界はあらゆるものが混在するあやふやな世界だ。生まれながらそこに属する魔法使いもまた、存在的に胡乱な性質を持つから杜撰なイメージでも己の性質をある程度は簡単に変えてしまえるらしい。だから、自分にかける強化であれば魔法使いは難なくこなせるんだよ。魔術師と魔法使いには存在の格の違いがあるが、理由の一つはそこにある。強化、後は回復なんかもそうだが魔法使いは己にかける分には苦労がない」

 

 フェリシアが戦う姿を思い出す、確かに人間離れした動きを難なくこなすのを何度か見た。

 元から身体能力も高いのだと思っていたがあれは強化した結果なのか。

 

 「しかし魔法使いと言えども他者に魔法をかけるとなると話は別だ。よほど熟達した、あるいはそれだけを極めることに時間を費やしでもしなければどんな魔法であれ難しい。現象を起こすことと認識を、有様を、本質を改変することには天と地ほど差が存在するんだ」

 

 「……なら、透君の力は魔法とかじゃなくて」

 

 「異能、いや権能かなあれは」

 

 ――肯定型自我境界線埋没者

 

 かつて、回から聞いたその言葉が頭をよぎった。

 異能と対を成す力、世界に愛され、世界というシステムに埋没した者が振るう特権。

 

 つまり、あの透という子供の本質は。

 

 「断言してもいいが強化の力は彼自身には決してかけられない。あれは他者に対する献身だけが可能とする力だ。自らの世界観を殺し、己の外の世界観に同調し、その可能性を引き出す力だろう。だから憐れだと言ったんだ。彼はあの若さで生きながらにしてすでに死んでいるのと同義だ。世界そのものに限りなく溶け込んでいる」

 

 思わず唇を噛み締める。

 まだ子供なのに、これからいくらでも可能性があるのに。

 強化なんて力のためにその全てが犠牲になっている。

 

 そして、それを狙う者がいるという可能性に頭が冷たくなるような、感情が凍り付く様な静けさを覚えた。

 

 「勘違いするなよ。確かに権能はそういう類のものだが、あれは生育環境なんかで消え去ることもあるのが確認されている。決して無条件に持続するものではない」

 

 「そうなんですか?」

 

 それなら希望が見える、もし透君が権能を失えば普通に生きられるのではないか。

 

 「ああ、だが逆を言えば持続させることも決して不可能ではないということだ。環境や人間関係次第ではな」

 

 ここにきて、游里さんの言わんとしていることを一真はようやく理解した。

 

 「……あの夫妻が、透君の権能を維持している可能性があると言うんですか?」

 

 それは信じられない、信じたくないことだった。

 あの光景は、そんな冷たく無機質なものではなかったと思いたいのだ。

 

 慈しみは、愛は確かに本物に見えたから。

 

 だが、游里さんの顔はどこまでもつまらなそうで、ともすれば冷徹だった。

 

 「そもそもだ、影幻界に浸るにはそれなりに強固な自我が必要になる。黒須夫妻、少なくとも孝道氏はそれを利用し一代で財を築くことが可能だった。おまけにここまで生きてこられた時点で相当に揺らぎがたい己の世界を持っているのは確実だ」

 

 迷いが、揺らぎが致命的になるというのはもう何度も実感したことだ。

 フェリシアがアヤリに敗北したように、心の揺らぎは弱さになると叫んだように。

 

 「そんな男が罪を贖うだと?バカバカしい。仮に罪を己の世界に取り込んだのなら贖うなんて発想はあり得ない、それを抱えてただ生きていくだけだ。贖う、消そうと考える時点でそれは欺瞞となり主観を揺らがす枷となる。そんな甘い男ではあるまい」

 

 先の邂逅を思い出しているのかどこか遠い目をして游里さんは言葉を紡ぐ。

 

 「あの男には間違いなく強固な世界観がある、己がこうだと決めた矜持や美学が存在するはずだ。そして権能は自我の強い者には芽生え難い、才能は確かに必要だがそれが芽生えるには、そして定着し続けるには自我を薄れさせ続けるしかない」

 

 それが示すところは何か、考えたくなくとも游里さんの言葉がそれを想起させる。

 

 「透少年の自我が許される環境はこの屋敷にはないと見るべきだ。養子になってどれぐらいかは知らんが、そっちの方が説明がつく。大人しく、自我が希薄な純粋性がその証明だ。夫妻は何らかの理由で彼の権能を維持している」

 

 「……なら、あの夫妻の愛も慈しみも全部嘘だと?あれは演技で、完全に自分を偽っていると言うんですか?」

 

 とても信じられなかった、確かに完璧なお嬢様の仮面を被れるフェリシアのような人はいるのだろう。

 だけど、あれはあまりにも完璧すぎて逆に違和感だった。

 

 あの夫妻の気持ちには確かに温かいものがあったはずなのだ。

 そんなこちらの心情を読んだかのように游里さんは首を振った。

 

 「いや、そうじゃない。あの夫妻が透少年を愛しているのは本当だろう。だがそれは彼の人格を、一人の子供を愛しているわけじゃないんだ。あの力を愛しているんだよ、おそらくね。あの力を持っている透少年の在り方が、愛すためには重要なのさ。

 覚えておくといい、愛は決して綺麗なばかりのものじゃない。愛することを型にはめると、それは呪いになる。相手を自分の愛されるべき形に歪めてしまう呪いに」

 

 返す言葉がない、全身から力が抜けたかのように深く椅子に沈み込む。

 

 「とにかく、あまり無防備にあの家族に心許すな。単純な護衛依頼だと考えない方がいい」

 

 その言葉を最後に游里さんはベッドに身を投げ出して寝息をたて始めた。

 静寂の満ちる華美な客室が今はどこか作られたもののように感じられて気分が悪くなった。

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