能家のリビングに今、真の悪鬼羅刹が降臨している。
空気が重い、体感温度が低い、呼吸すら憚られた。
床に正座させられた游里は重力魔法で虫のように地面にへばりついていた時とは比べ物にならない感覚。
そう、死の気配を敏感に察知して全身からとめどなく冷や汗を流している。
ちらと視線を上に向ければ氷点下すら生温いと言わんばかりの冷酷無比な碧眼。
黒須孝道なんかとは比べ物にならない矮小なるものへの無慈悲。
「……さて、それで、どう死にたいのかしら?」
いつかの夜と全く同じセリフを全く違うトーンで降り注がせるフェリシア。
ガチ度が、違う。
一真を危険に巻き込んだ、それがここまで心乱すものであったとは。
予想はしていたが遥か彼方を行く反応だった。
「……面目次第もない。好きにしてくれ」
言い訳のしようがないから游里は諦めて目を閉じる。
黒須の屋敷から脱出してから這う這うの体で逃げ出した一行は何とか駅まで走った。
傷だらけで意識を飛ばした一真を連れて電車に乗るわけにもいかず駅員に暗示をかけてタクシーを呼び出してもらい。
同じように運転手に暗示をかけて誤魔化し、なけなしの金を払って直接、能家に戻ったのである。
チャイムを押すのも煩わしく押しかけるように家の中へ突入すれば即座にフェリシアに出迎えられた。
怪訝そうな顔で小さくなって後ろに控えていた勇気と表情も変わらず言葉も発さない透を見やり。
背負われていた満身創痍の一真を見て顔を青くした。
あんなに取り乱したフェリシアはもう見られないかもしれないと游里は思う。
そうやって思考逃避しなければこの先に待っている非常な現実を直視しなければならない。
ちょうど遊びに来ていた綾理は心配そうに一真を一瞥し、とは言え手出しはさせてくれないだろうとお茶を啜って座ったまま。
「覚悟はしておいた方が良いぞ」とぼそりとした呟きに游里は反応する気力もなかった。
そして案の定、一真を抱えて二階に駆け上りどたばたしていたフェリシアが一階に降りてきてから。
こうして床に無理やり正座させられて知ってる限りの一連の事情を余さず吐かされたのである。
游里も游里でわりとボロボロなのだがそんなことを言えば即座に五体が吹き飛びそうで黙っていた。
沈黙が満ちる、フェリシアは一切を悟らせない無の表情でじっと游里を睥睨し続ける。
「……あの、あんまり流合さんを責めないであげてください。あの人にけがさせたのは俺ですから」
そんな絶対零度のリビングの空気を変えたのはソファで所在なさげにしてた勇気だった。
フェリシアの視線がそちらに向かう、さすがに子供相手に本気になるほど大人げなくはないらしい。
「……はあ、まあいいわ。いえ、よくはないのだけど。とりあえず、あなた達の事情を聞かせてもらってから判断しましょう」
少し柔らかくなった表情で勇気の対面のソファに腰かけて視線を合わせたフェリシア。
その隙をついてそっと足を崩そうとした游里だったが目敏く射すくめられて慌てて元に戻す。
「えっと、どこから話せばいいか」
「そうだな、とりあえずお前は何者で、何で私たちに力を貸してくれた?」
ある程度は事情を知っている游里は小さくなりながら助け舟を出した。
「俺は勇気、名字は今はありません。親に捨てられて誰の子でもないから。本当は名前も取り上げられたんだけど、これだけは忘れられなかった」
綾理の眉尻が跳ね上がる。
形代の家の生まれであり人形師、模る者として名づけることの力はよく理解していた。
名前を奪うということが特に影幻界においてどれほど危険なことかも。
「黒須孝道の児童養護施設。恩寵の園は、あいつが子供たちを集めてただひたすらに自分を薄めさせるための加工施設でした。あそこでは自分であることを許されない。それで一定期間、多分ですけど一年だと思います。その間に自分を完全に消せないと処理される」
「処理?」
反射的に呟かれたフェリシアの言葉に勇気は怒りか恐怖か、拳を震わせながら頷いた。
「最初よくわからなかった。一定期間で次々と入れ替わっていって、引き取られたって聞いた。皆もいい子にしてれば新しい家族の元に行けるんだって。だけど、後で知った。あいつは……あいつは!」
感情が昂って抑えきれないのだろう、涙を零し拳の震えは全身に波及して。
「黒須孝道は……自分の目的に役立たないと判断したら権力者とかよくわからない組織に売り払うんだ!臓器移植用の素材、実験用のモルモット、使い捨ての奴隷として!」
それでも吐き出さずにはおれないと叫ぶ。
「……そう、それで?あなたもまたその施設の子供の一人だったのでしょう?どうやって助かったの?」
游里への怒りはいったん収まったのか、いつも通りの澄んだ顔で冷静に問いかけるフェリシア。
それが逆に感情を冷ますのに良かったようで、勇気は大きく深呼吸して乱暴に目元を拭った。
「俺は、俺だけじゃないけど。選ばれる理由とかもよくわからないけど、何人かは施設から今度は屋敷の方に移るんです。俺の時は、透と、他にあと三人いました。そこでの生活も施設とほぼ同じで、規則に従うことをひたすら続ける。一つだけ違うのは毎夜、地下に連れていかれて。そこで、何だろう、儀式?みたいなことをさせられるんです」
記憶が曖昧なのか勇気は目をきつく閉じながら必死にそれを思い出そうと頭を抱えた。
「なんか、変な石像があるんです。女の人の石像で、黒須は聖女とか呼んでた。ひらひらした、あれはウェディングドレスみたいな、お腹の部分だけがひし形に切り取られた服を着た女の人の像があって。そこで、聖女を讃える祈りの言葉をひたすら唱え続ける」
――天より降り注ぎし災厄を払う我らが母よ
――あなたの悲しみはあまねく世界を包み込む
――あなたの慈悲はすべからく世界を抱え込む
――我らが聖女よ、どうか我らを獣の狂気と溢れ出る苦しみから救いたまえ
――あなたの内に罪深き我らを招きたもう
――その御心に報いるために我らの全てをお受け取りください
「それは、
それまで黙って話を聞いていた綾理が口を開いた。
「「大母恩寵会?」」
フェリシアと游里の声が重なる。
「近年、ぽつぽつと信者を増やしておる新興宗教らしいの。女、母を祀り敬愛と思慕の念を育むことこそ救済の道と説いておると聞くが、詳しくは儂もよう知らぬ。じゃが、はまる者はとことんはまっていくらしいぞ」
「なんだそりゃ、あいつマジでただのヤバいマザコン野郎だったのか?本気でおしゃぶりに吸い付きたかったのか?」
嫌悪感で背筋が粟立ち身をよじる、そんな游里を見て脱線しそうになるのを察しフェリシアは先を促した。
「それを一晩で百回ぐらいひたすら繰り返し唱えて。最後に黒須が持ってくる鏡に向かって、自分の全てを捧げることを誓わされる。そうすると、なんか頭がぼんやりしてくるんです。それがひたすら続いて、ある時に透を除いた俺たち四人は屋敷を追い出された」
少年兵として訓練を受けるために、あっさり売られ手放されたのだという。
「そこでひたすら人を殺す訓練を受けて……実際に、俺は人を殺しました。子供であることを利用して、相手を油断させて何人も」
勇気から表情が抜け落ちた、それが罪と理解しているから心を殺すしかない。
「そのうち、俺以外の三人は任務中にあっさり死んだ。俺は……死ねなかった。死ねないまま、人を殺し続けて。ある時、要人の子供だというターゲットを殺しに行った。その子が、どこか昔の透に似てたんだ。それで、思い出した、全部。俺は勇気で、透の幼馴染で、全てを奪った黒須孝道に復讐を決意したんだ」
再び両拳を握りしめた勇気、その腕を覆うように黒い靄がにじみ出る。
「その時です、この力が宿ったのは。それが何であるかはぼんやり理解できました。これは、理不尽に奪う者から全てを奪うための力だと」
「異能ね。一度、完全に自我を磨り潰されて、それでも消えず這い上がって生まれた強固な自己が異能を発現させたのでしょう」
納得したようにフェリシアは頷いた。
「この力を得て、俺は組織から逃げ出した。復讐を誓ってまずは黒須の仲間を調べながら殺す機会を窺おうとしたんです。そうしたら、俺とは別の奴が殺し始めて。俺はその殺し屋を襲って、黒須が自分の仲間を殺して回っていることを知った。他の子供たちの末路を知ったのもこの時です。後は、游里さんも知っての通りになります」
その殺し屋に成り代わり黒須の仲間を殺して回った。
そして最後に、仕上げとして屋敷に招かれた生贄を殺す。
「本当は……本当は、游里さんを殺すつもりだったんです」
懺悔するかのように勇気は伏せがちに遊里へ顔を向けた。
「あなたを殺して、黒須を油断させて殺すつもりだったんです。……本当にごめんなさい」
その姿があまりに深刻そうだったから游里はこらえきれず腹を抑えて笑いだす。
「何を謝ってるんだ?私はこうして生きてる、お前に助けられてな。それにしても、何で気が変わった?」
どこまでも軽い游里に呆然としながら、今度は二階に顔を向ける勇気。
「……あの人が、言ったんです。今にも倒れそうで、意識だってきっとはっきりしてなかったのに。襲いかかって殺そうとしたかもしれない俺なんかに向けて言ったんだ」
――ああ、小さい手だ。こんな手で誰かを殴らなきゃいけないなんて、悲しいね
「俺は、俺は!誰も手なんか差し伸べてくれないと思ってたのに!あの人は俺の手を握って、そんなことを言うんだ。だから、無関係の人を殺せなかった。施設でちょっとだけ優しくしてくれた女の人も、黒須に利用されていただけの游里さんも殺せなかったんです」
あのお人よしの伸ばした手は確かに狂気に堕ちた一人の少年の心をさらったのだ。
「それでも、復讐だけは捨てられなかった。その優しさを踏みにじって結局は復讐を選んだのに!二度も、あの人に助けられた!」
勇気は施設の園庭で一真につかまれた腕をそっと抱く。
「……救われたんだ、俺は」
――この世界にはきっと、神様はいるのかもしれない
そう思えるほどに一真の揺らがない優しさは奇跡だったのだと。
「……はあ、ようはまたあのおバカが自分を顧みずにアホやっただけじゃないの」
散々な言い草だがフェリシアの声音も表情もどこまでも柔らかい。
きっと嬉しいのだろう、能 一真はどんな時でも一真であることが。
緩んだ顔は百面相のように、次の瞬間には澄まし顔に戻って立ち上がる。
「どこへ行く?」
尋ねるまでもないが綾理は問うた。
「決まっているでしょう、その黒須孝道とかいう魔術師を潰しに行くのよ。一真が守った子供の手をこれ以上、汚させるわけにもいかないでしょう。」
さらりと言ってのける。
游里への憤りも一真を傷つけたことへの落とし前も何もかも全て孝道への怒りに変換されたようだ。
「……あ、魔法を使って悪さしているのも看過しがたいし。本来は管轄外だけれど、まあ今回は特別よ」
とってつけたような理由を付け加えて足音を荒げながらリビングから出ようとする。
「待て待て待て!正気か!?相手は法則魔法を使うんだぞ!」
「だから何よ」
「何って……それに工房に直接殴りこむ気か?いくらお前でも無理だろ!」
身をもってくらったからこそ、あの工房の表層だけでも厄介なのが沁みている。
屋敷の中にまで踏み込むとなればどれだけ危険かわかったものではない。
だが、フェリシアは小馬鹿にしたように小さく鼻を鳴らした。
「問題ないわ。工房内で大規模魔法陣を展開して、一息に相手を潰せない程度の重力魔法なのでしょう?精々、二流じゃないの。その程度の工房なら外から逆に押し潰してやるわ。人里から離れてるらしいし、手加減の必要もないもの」
別の意味で背中を冷たい汗が伝う游里。
「……まさか、お前も法則魔法を扱えるのか?」
「当然でしょう。安心なさい勇気君、あなたの復讐は私が肩代わりしてあげる。だから、これからでも真っ当な道を歩む努力をしなさい」
フェリシアはちらりと、ぼんやり虚空を眺める透を見た。
「あの子にも、手を引く誰かが必要でしょう。人に戻せるかどうかはあなた次第よ。大切な友達なら自分で守りなさい」
呆然とする勇気、一真の優しい手とは違う厳しく痛い言葉。
だけどそこには間違いなく二人を慮る本当の思いやりがあった。
優しさや思いやり、これまで与えられなかったものが立て続けに降って湧いて困惑する。
だけど、世界もそう捨てたものではないと思えた。
鋭い叱咤激励に勇気は表情を引き締めて力強く頷く。
それを見届けて今度こそ部屋を出ようと踵を返し。
「まあ、ちと待てフェリシア」
今度は綾理の声が引き止める。
「もう、今度は何よ?」
どこか苛立たし気に再び振り返る。
その拳は真っ白になるほどに強く握りしめられていた。
一真の傷ついた姿が何度も頭の中でリフレインでもしてることは確かだろう。
だからこそ、少し頭を冷やす期間が必要なのだ。
綾理はあえて挑発するように、にんまり笑った。
「いやなに、お主が一真の意を汲んで子供を助けようと奮闘しようとしておるのじゃ。儂も少しできることをしようと思うてな」
「どういうことよ?」
「黒須孝道の児童養護施設、恩寵の園じゃったな。表向きは知事公認の小規模施設なのじゃろう?であればつまり、政治に通じとるわけじゃ。ならばできることもある、これを機に真っ当な施設に生まれ変わってもらおう」
至極当然のことのように綾理は告げる。
「いやいやいや、待てって。何?お前そんなコネあるのか?」
形代家が裏で絶大な力を持っていることは知っている、その全体像を掴めないほどに。
しかしてまさか、それは表の世界にまで影響を及ぼすほどのものなのか。
「当然であろう、形代家を何だと思っておるのじゃ?人そっくりの人形を作るためにどこからどうやって材料やらを調達すると思っておる。千年に渡り表裏関係なく時の権力者と繋がり、その業を提供することで技術の研究と発展を追求してきた一族。それは今も変わらぬ、影武者の作成やら呪い返しやらは儂の仕事じゃて。形代の名はそれが表すように罪や穢れを払い受ける者の称号よ」
游里は戻ってきてからこっち、引き時の無い汗ですでにべしゃべしゃだった。
冬の空気が汗を冷まして全身に寒気が走るが、それは同時に精神の有様をはっきり表している。
能家、ただの素朴な一軒家に想像以上の化け物が巣くっていた。
一真は一真で何か秘密がありそうなことは今日で確信している。
そもそも、一真を巻き込んだのはそれを知るためでもあったのだが思いのほか衝撃の事実が飛び出し過ぎた。
ここにいる中で一番の場違いは自分だなと游里は顔を引きつらせて乾いた笑いを漏らすしかない。
組むに値するかなどと力試しを仕掛けた自分が今になって恥ずかしい。
むしろ組ませてくださいと土下座でもして頼むべきだったのではなんて思い始めている。
(……ああまずい、考え方が卑屈に寄り始めたぞ)
黒須の屋敷からこっち、これまで積み上げてきた自分への信頼が揺らぎそうでしょんぼりする。
そんな游里をしげしげと観察していた綾理はフェリシアに向き直った。
「と言うわけで、フェリシア。三日、いや二日ほど待て。施設の子供たちと生き残りの女性職員の保護。後始末もまずは終わらせる。褒賞も出るようにしておくからそれから動けばよいじゃろう。それまでは、一真の傍にいてやれ」
そう言われると弱いのかフェリシアは今日、何度目になるかもわからない深いため息をついた。
「わかったわ、ならあなたに任せる。游里、あなたのことも私がとやかく言うことじゃないでしょうからもういい。ただもし、一真があなたに思うところがあるなら……消すわ」
そんなことはあり得ないとフェリシアは理解している。
どうせ目覚めたらいつもみたいに笑って自分の選択だと受け入れるだけだろう。
だがそれはそれとして言っておかないと気が済まない。
游里は完全に意気消沈して「……はい」と肩を落とす。
子供大人など普段は気にしないが、何とも情けない大人だと思うのであった。
その日はそれで解散となり游里は一人、形代の屋敷へと戻る。
あてがわれた部屋に戻ると万年床となっている布団にダイブした。
「……お帰りなさい、珍しくへこんでますね。何かあったんすか?」
一日中、座禅を組んで心を静めていた朔は滅多に見られない游里のしおらしい様子に心の目を丸くした。
「ああ、まあな。世界は広いと思い知らされただけだ」
仰向けに寝転がって目を閉じる。
正直、堪えた。この感覚は中学生時代、まだ家に囚われていた頃以来だろう。
自分の限界を突きつけられ、一人じゃどうにもならない事態に直面する。
それは游里にとって羽をもがれるような痛みを伴う。
特に今回は勝手に巻き込んだ一真に怪我をさせて、その一真に助けられた。
もし最後、黒須孝道に一発くれてやることすらできなかったら本当に折れていたかもしれない。
「でもまあ、こうして生きてる」
生きてるなら、また歩き出せばいいのだ。
何にも縛られず自分の歩きたい道を歩いていく、今度はもっとうまく。
穏やかに笑いながら眠り始めた游里を捉えて朔も精神統一へと戻る。
もう大丈夫だろう、一晩寝て起きればまたいつも通りに誰かを振り回すのだと知っていた。
へこたれようが痛い目を見ようが生きてる限りもっと高く広くと動き続ける女。
それが流合 游里という人間の在り方なのだから。
巻き込まれる方は大変なこともあるが、少なくとも退屈はしない。
◇
「クソッ、クソクソッ!クソッたれがぁ!!」
寝室に飾ってあった壺を壁にぶちまけながら黒須孝道は未だ冷めやらぬ興奮に振り回されていた。
応急処置した左肩の収まることのない痛みがそれに拍車をかける。
紳士然とした様子はかけらも見られない、これこそがこの男の本性であり本質。
どこまでも利己的で自己中心的、我儘で求めたものを手にするためならどこまでも残忍になれる。
己こそが世界の中心であり何よりも優れているのだと嘯いて憚らない。
唯一の長所はそんな己の矮小さをきちんと理解してることだろう。
故に、男は己自身を欺くという点において他の追随を許さない。
ひとしきり暴れ、暴言を吐き出した孝道は鏡の前に立つ。
「俺は黒須孝道、聖女の敬虔な信徒、聖女に選ばれた教導者……俺は……私は……」
繰り返し繰り返し刷り込んでいく、欲のために欲を鎮め必要な仮面を被る。
数分後、そこには穏やかな顔で微笑む黒須孝道がいた。
「……ふむ、しかしどうしましょうかねこれから」
透を奪われたのは痛手だ、これでかの聖女に取り入る駒がいなくなった。
それにあの殺し屋や魔術師を逃がしたのもの痛い。
こちらの策略が露呈するのも時間の問題だろう。
「仕方ありません、日本を離れましょう」
遠回りになるが聖女と縁を結ぶことができるなら時間は後でいくらでも取り戻せると信じている。
孝道は玄関ホール、二階に続く中央階段の踊り場に向かった。
飾ってある花瓶に魔力を込めて両手で回すとそのすぐ隣の壁がスライドする。
地下への隠し通路、階段を下りて開けた空間に出た。
月光を模した薄暗い照明、列柱、石造りの祭壇、聖女を模した石造。
作られた信仰という表現が相応しい場であった。
祭壇の前に跪いて両手を合わせ祈り続けている恵子に孝道は歩み寄る。
「恵子、計画は修正を余儀なくされました。おそらく、近く追手がかかるでしょう。日本を離れます、準備してください」
「……あなた、その必要はありません」
それは、成されるはずのない返答だった。
この女が自分の決定に異を唱えるなどあり得ない。
己の意志を持つ、その責任に耐えきれず常に誰かにおぶさらなければあれない女。
だから妻として迎えた、世間体を保つため体のいい道具として傍に置いたのだ。
孝道が口を開こうとする直前、ひたりと足音が響いた。
左右対称に三本ずつ並んだ柱の影から六つの影が歩み出てくる。
それは聖女の石像にとても良く似ていた。
纏う薄手の装束はほの暗い地下空間にあってなお黒く浮かび上がりどこかシスター服を思わせる。
ひし形の穴がへその下あたりに開いておりそこだけが沁み一つない、血の気すら見られない白蝋のような白さを際立たせていた。
黒いベールが目元までを覆い、嫋やかな微笑みだけが表情の全て。
「ああ……まさか、エナ様方!」
孝道の口から歓喜の声が漏れる。
間違いない、エナだ、かの聖女の付き人と言われる女たち。
恵子が、あの愚かな妻が呼び寄せたのか、とても信じられない。
だが確かにその姿はそこにある、それだけは事実だった。
だから、曇ったのだろう。
孝道は地下空間の中央に躍り出ると跪いて手を組んだ、左肩の痛みはとんでいる。
「エナ様!私はあなた方の、聖女様の敬虔な信徒!その御心を満たすため、広げるために今日まで力を尽くしてきたのです!だからどうか、どうか聖女様にお目通りを!」
六つの影が滑るように、囲うように近づいて孝道を見下ろした。
目元は隠されて窺えない、ただ六つの三日月だけが顔に浮いている。
期待と、そして欺ききれない欲望に狂喜しているその左肩。
撃ち抜かれた傷の上に正面に立つエナと呼ばれた女がそっと右手を置いた。
いよいよもって歓喜に全身が震えだす。
そして――ブチリと嫌な音が響いた。
「……へあ?」
エナの手に、見慣れた腕が握られている。
その楚々とした口が控えめに開かれ、添えられた腕に歯が立てられる。
ぐちゃりと、嚙み引かれる音と共に咀嚼音が地下空間に反響した。
「あ……ああ……ああああああああああああ!」
ようやく現実を把握した孝道の口から苦悶の悲鳴が止めどなく垂れ流された。
腕を引きちぎられた、おまけに喰われているという見たくもない現実。
背後から別の腕がそっと右肩に置かれた、ブチリとまた嫌な音が鳴った。
左右から同時に両足にそっと手が添えられた、メキリと無慈悲な音が鳴る。
四肢を失った孝道の動体がべちゃりと地面に投げ出された。
仰向けに転がった孝道の視界の先で、四人のエナが己の四肢を獣のように喰らっている。
バリボリと、骨まできれいに喰らっている、余さず全て喰らっている。
己の全てがエナ達に喰らわれて、その一部と成り果てていく。
「いやだ……いやだいやだあ!こんなのは現実じゃない、俺がこんな目に合うはずがない!そうだ、俺は聖女に取り入って、不老不死の秘密を暴くんだ!だって、俺は選ばれた人間だ、永遠こそが相応しいはずだ!」
信仰の仮面は剝ぎ取られ哀れな叫びが反響する。
全てを手に入れたと錯覚した男が求めたものは不老不死というこれまたありきたりなものだった。
その増長した欲望の手が触れてはならないものに無遠慮に伸ばされたことに気づかないまま。
聖女は不老不死であるという伝説を知り、同じくそれを求めた者達と結託してその正体を探り。
どうやら権能者を求めているのだということを突き止めた。
そして、透という生贄を手にしてその全てを独占するために仲間たちを殺したのである。
黒須孝道は信仰を騙り、聖女の意志を騙り、それを穢した罪を背負った。
故にエナはその身を喰らうのだ、その存在は罪を喰らう信仰の極致であるために。
六人のエナが残った胴体に殺到した。
服ごと肉は裂かれ、臓物はかき乱され、血に濡れてなお一層艶めかしく光る奥ゆかしい唇の奥へと運ばれる。
吹き出し飛び散る赤黒い血液をシャワーのように浴びて黒い正装がよりどす黒く変色していく。
罪を浴びて黒く輝く女たち、それが己の夢を託した者たちの正体だった。
偽物の信仰は崩れ去る、生への執着に悲鳴を上げ続ける。
その全ては許される、エナの中で積まれ淀み絡みあって。
「……全テハ聖女ノ元ヘ還ルデショウ」
はじめて紡がれた声はその行為と有様にも拘らず、この世のものとは思えぬほどに厳かで静謐だった。
「ふふ……ふふふふ……ふふふふふふふふふ」
自分の夫だった者がただの罪となって喰われていくのを恵子は狂ったように笑いながらただ眺めていた。
やがて、頭までエナの中に取り込まれたのを見届けて。
黒く窪んで窺えない六組の視線が向けられて安心した。
近づいてくるエナに自分からその身を差し出す。
「ああ……これで……やっと」
全ての苦しみから解放される。
全ての罪は喰らわれる。
己の罪、子供たちが壊れていくのをただ鑑賞しながら何もせずにいた。
自分の豪奢な生活のために孝道の非道の全てを肯定した。
そして、それが壊れそうになったから、苦しい生が待っているような気がしたから。
愛すべき聖女様の慈悲の元でさっさと死にたいと思ったのだ。
ある意味で、恵子もまたどこまでも肥大した自己愛に沈んでいた。
だが、それも許されよう。聖女は全ての罪を愛してくださるのだから。
聖女という名の幻想に狂わされた夫妻の人生はそのようにして閉じた。
◇
カーテンの隙間から微かに差し込む日差しに目を開け体を起こす。
いつも通りに六時、一真は目を覚ましてベッドから降りた。
『……おはよう、一真』
いつもの能天気な元気さはなく、どこか暗く沈んだ表情で回が挨拶してくる。
「おはよう、どうしたのそんなに落ち込んで」
『うん……何でもないよ。一真こそ、体は大丈夫?』
言われて思い出す、そう言えば昨日は散々な目にあったのだったか。
体の節々が痛む、それにあれからどうなったのか、子供たちは、黒須孝道は。
「問題ないよ、さあ今日も一日がんばろう」
疑問は数あれどまずはいつも通りに冷水を浴びて目を覚まそうと階下に向かい洗面所の扉を開けた。
「ちょっと、一真!あなた何してるのよ!」
身だしなみを整えていたフェリシアが血相変えてこちらに駆け寄ってくる。
回といいフェリシアといいちょっと大げさに考えすぎじゃなかろうか。
「おはようフェリシア。何っていつも通り朝の習慣をね」
「じゃないでしょう!昨日何があったか忘れたわけ!そこまでおバカになったのあなたは!」
必死の形相のフェリシアに笑顔で軽く手を振った。
「大丈夫だよ、なんか昔から体は丈夫な方でさ。風邪一つ引いたことないし体の回復も早いんだ。むしろ、これをやらない方がいろいろとまずくて」
小学生の頃、今とやってることは違うが怪我で入院して習慣が崩れたことがある。
あの時の乱れっぷりは今思い出しても鳥肌ものだ。
「まだ痛むところもあるけど、ただ体を動かすだけなら支障は全くないからさ」
バスタオルを腰に巻いて服を脱いでから浴室へ。
フェリシアは信じられないものを見るような目で最後までこちらを見ているだけ。
もう止める気も失せたらしい、心配かけて悪いなとは思いつつ。
手を合わせ冷水を出して頭から流す。
ちょっとした擦り傷や切り傷に沁みるがそれもすぐに気にならなくなった。
ちょうど二分で切り上げて、服を着替え木刀を持って窓から庭に出る。
軽く手足を振って挙動を確認する、打撲などが多少痛むぐらいで問題なし。
そのままいつも通りに木刀を正眼に構えて上から下へ。
無心に、ただただ体の動きに身を任せて。
昨日、起きた全てのこと、それによって生まれた心の軋み。
軋みが生んだ隙間に入り込む濁りや撓みを全て正すように。
千回、木刀を振るって汗をぬぐった。
「昨日あんなことがあったばっかなのに、相変わらずか」
塀の外から声が響く、ほんの少し頭を出してこちらを見つめる游里さんと目が合った。
「おはようございます、游里さん。昨日は助かりました、たぶん游里さんが運んでくれたんですよね」
最後の記憶は意識を手放す直前に游里さんの腕に抱きとめられたところ。
こうして家にいるのだから、游里さんが連れて帰ってくれたのだろう。
「……それだけか?他にもっとこう、何か言いたいことはないのか?」
塀を飛び越えて庭に降り立った游里さんは呟いた。
「?何かって何ですか?」
室内に戻ってリビングの隣にあるちょっとした畳部屋に移って柔軟をはじめる。
いつもの豪快さはかけらも見せずどこかばつの悪そうな顔でついてくる游里さん。
「いや……だから、昨日のことだよ。お前のことを巻き込んだのは私だ。その怪我も、元をただせば私のせいだろ?」
「ああ、そういうことですか」
そんなことを引きずるタイプだとは思わなかったから気づかなかった。
「游里さんのせいじゃありませんよ。行くって決めたのは僕ですし、無茶したのも僕が決めたことです。むしろ、游里さんが教えてくれてよかったし、いてくれてよかった」
体をほぐしながら心からの言葉を返す。
知らずにいれば平穏にあれたかもしれないけれど、知らないままでいたいとは思わない。
あんな風に子供を利用するような非道を行う者がいるのなら自分にできることはしたいと思うから。
むしろその無茶の尻拭いをさせてしまったようでこちらの方が心苦しい。
「まあ、そう言うわよね」と、リビングからため息交じりの声が響く。
部屋の隅に立っていた游里さんはしばらく呆然としたようにこちらを見ながら。
その顔が突然、破顔した。声をあげて笑い出す。
最初はどこか上品さを感じさせる控えめなもので、そのうちいつも通りの元気な笑い声に変わる。
ひとしきり笑った游里さんはいつものどこか食えなそうな、それでいて憎めない愛らしさを取り戻していた。
「なあ、一真。お前はやっぱりつまらない奴だよ。その生き方もあり方も全然理解できない」
相変わらずのひどい言い草、遠慮も何もないストレートな評価。
「でもな、そんなお前は……嫌いじゃないよ」
だけど、最後にそんなことを微笑みながら言ってくれる。
その顔は意識を飛ばす前に見た、どこか穏やかで全てを包み込む母親のような。
そこに少しだけ茶目っ気や奔放さが混じった、そう、姉のような雰囲気だった。
兄弟姉妹はいないけれど、厄介でだけど繋がっている。
本当にいたのなら姉とはこういうものだろうか。
何であれどうやら認めてはもらえたらしい、怪我の功名というものだろう。
「どうも、僕も游里さんは嫌いじゃないですよ。あ、ですけど、子供なんかをダシにしてこっちを動かそうとするのはもうやめてくださいね。頼みごとがあるなら最初から事情を話して普通に頼んでください。次は断りませんから」
フェリシアや綾理ちゃんとはタイプが違うけれど、この人もまた信頼できる人だと知れた。
だからまあ、できることがあるならしてあげたいと思うのだ。
「いや、断りなさいよ。お願いだから私のいないところで無茶するのはやめて」
フェリシアの切実な声が響く、游里さんの朗らかな笑い声が満ちる。
その日の朝はいつもより少し騒がしく平和な日常だった。
◇
勇気や透、恩寵の園の件についてはとりあえず綾理の預かりとなり報告待ち。
順調に事が運べば明日にでも報告があるだろうということを伝えた。
「綾理ちゃんなら安心だ」とそんなことを言う一真と明日か明後日ぐらいに全員で集まろうと約束し。
その後、何事もなかったかのようにフェリシアと一緒に学校へ向かうのを見送った後。
游里は一人、街を歩いていた。
「しっかしまあ、何となくあの魔法使いが入れ込むのもわかった気がする」
能 一真、影幻界の認識を開いてなお善性を貫こうとするお人よし。
大なり小なり裏側に浸かった人間はそれに染まるものだが一真にはそれがない。
どこまでも純朴で真っすぐな自我、それは穢れながらそれでも光を信じたい者にとっては劇薬だろう。
そのあり様が変わらない限りフェリシアは、そしておそらくは綾理も一真から離れることはあるまい。
「……私も、少なからずそうだしな」
少なくともあの男は絶対に裏切らないという確信だけはある。
何か秘密がありそうなのだがそれは綾理も揃った時に問い詰めることにしようと頷いた。
とりあえず、しこりの一つは取り除けたのだ。
だからもう一つ、ある意味で一番厄介な問題を解決しなければならない。
商店街の表通りから外れ路地裏に身を滑らせる。
生活臭とはまた違う独特のドロドロした臭いに懐かしさを感じながら奥へと。
いくつか枝分かれした分岐点を通過して、行き止まりに辿り着く。
小汚い恰好をした中年が座っている、一見するとホームレスにしか見えない男の隣の壁に並ぶように背中を預けた。
「よう、景気はどうだ?まさか直々に出向いてくるとは思わなっかたよ。私を殺したかったみたいだしな」
言葉にとげが含まれるのはどうしようもない。
煙草に火をつけてゆっくり味わいながら游里は虚空に言葉を投げる。
男はしゃべらない、ただ無言で厚みのある封筒を差し出した。
「まずはこれを受け取ってくれ」
それが何を意味するかは分かる、だから片手で払いのけた。
「……ふざけるなよ、金で解決できる問題じゃないことぐらいわかってるはずだ」
裏側に身を浸してまだそこまで長いわけじゃない。
だが短いなりに濃密な時間を少なからず過ごしてきたという自負はあった。
その経験から影幻界において重要なものは極端な話、二つしかないと游里は思う。
一つは力、圧倒的で理不尽で何ものをも寄せ付けない個の力。
金も権力も影幻界においては胡乱なもの、その価値を担保することはできない。
暴力、魅力、詐力、何でもいい。個が振るい個に帰属する力がなければ動けない。
そしてもう一つ、信頼という青臭いお題目。
表側の後ろ暗い組織において外側には非常でも身内には甘いということはよくあるように。
混沌の中で自らの立ち位置を決めるための前提を定める繋がりが必要だった。
游里は自分の力を過信したことはない、むしろ極めて慎重に己と他者の差を測っている。
測ったうえで危険に身を晒すことはあれど測れないものには手を出さない。
それは黒須の屋敷の一件でなお顕著になった。
影幻界には自分の及びもつかない化け物がいるからこそ、仲間と呼べる者達が増えたからこそ。
測るために必要な基準、前提を揺らがすものは潰さなければならない。
「お前のことを信頼していた、情報屋として、仲介人としてのお前をだ。私が踏み出すにはお前という土台が必要だった。聞かせろ、何で見誤った?」
黒須孝道が護衛ではなく生贄を求めていたという事実をなぜ掴めなかったのか。
「すまねえ、わからねえんだ。どこで情報が錯綜したのか掴めねえ。どこかでねじ曲がったのは確かだ、改めて調べなおしてみりゃあ簡単に黒須の裏の顔は知れた。だが、それを隠す何かがあったんだ。本当に巧妙に、違うな。隠って意識すら抱かせねえ、言い訳みたいに聞こえるけどそうとしか言えねえんだ。……だが、完全に俺の落ち度だ」
「お前、自分がなに言ってるかわかってるよな」
それがどれだけ致命的なことか。
「わかってる、すまねえとしか言えねえ」
沈黙が落ちる、游里は吸っていた煙を吐き出して携帯灰皿に残骸を押し付けた。
「次はないからな」
「……切らねえのか?」
「切らない、お前以上に信頼できる相手を探すのは時間かけてもできるか怪しい。今はその余裕もないし……私も自分の未熟さを思い知ったことだしな」
游里は後ろ手にひらひらと手を振りながら歩き出す。
「お互い、まだまだ成長の余地があるって知れただけでも儲けものだろ?こうして顔を見せて素直に頭を下げたその男気に免じてチャラにしてやるよ。次は頼むからな」
歩いていく游里を見送りながら男はどこか眩しいものを見るように目を細めた。
「ったく、無茶言ってくれるぜ。こっちはもう年だっつうのによ、お前さんみたいに羽ばたけるほど軽くはねえんだ」
それでも、その期待に応えたいと男は思ったのだった。