かつて、数多の信者を受け入れてきた教会も今はうらぶれて見る影もない。
風雨に晒され塗装は剥げ落ち、草木が根蔦を伸ばして覆い隠す。
打ち捨てられたその場所はもはや誰にも見向きされぬ廃棄場。
「果てにまします我が
清廉な空気と厳かな香り、人々の心の拠り所であったはずの空間は獣の血と臓物で満たされた。
「今日この日を断ち切るために、真っ赤に染まったパンを捧げましょう。わたしたちに何の負い目もなく、何の誘惑もなく、邪悪な者はあなたの目には映らない」
信仰の象徴であった像は巨大な釘のような杭で壁に打ち付けられてぶら下がっている。
「主はわたしの導者。わたしは全てが欠けたもの。剥き出しの魂は凍え、痛み、悲鳴をあげ続ける。主はわたしの魂を投げ捨てる。その名を厳かに保つために全てを侵す」
月の光が差し込むステンドグラスの元。
紫紺の修道服に身を包んだ素朴な町娘のような女は
「深い影の谷の中でわたしは沈み続ける、わたしは全てに倦んでいく。あなたが共に在るからです。あなたの鞭と杖は、何もわたしに感じさせてくれない」
口を開くたび、茶色のおさげが微かに揺れる。
目を閉じ理知的な雰囲気を纏っていた、それが唐突に崩れ去っていく。
開かれた目は充血しどこを見ることなく彷徨う。
唇が真横に開かれ、組まれた指が手の甲を突き破って鮮血を滴らせた。
「わたしの主、わたしの導、ああ!本当に、本当に感謝いたします!あなたの救いは遠く、わたしの声はあなたには届かない。わたしは毎日毎晩叫び続けても、あなたは何も受け取ってはくれない!」
傍らにあった真っ赤なパンを鷲掴む。
生臭く腐臭が漂うそれを躊躇なく狂ったように食いちぎり咀嚼し嚥下していく、その度に黒い汁がまき散らされた。
立ち上がり残った半分を像に飛び掛かって叩きつける、口元を汚しその衝撃で首が砕けて床に堕ちた。
「だから、あなたは穢れ続けるでしょう。永遠に穢れ、沈みなさい。あなたは主ではない、導ではない、ただただ人によって穢され堕ちるあわれな者!」
女は自らの腕を心臓に突き立てる、胸を開き心臓を抉り出し握りつぶす。
「イヒ、イヒヒヒヒ、イヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
痛みなど感じていないかのように、痛みこそが恩寵であると確かめるように。
傷口をかき混ぜ、血潮を噴き上げ、狂ったように笑う。
抉れた胸は巻き戻されるかのように閉じていく、それを遮るように女の腕は自らを傷め続ける。
それはどれほど続いただろう、狂笑が反響する教会にヒールの甲高い音が響いた。
女はぴたりと声を、動きを止める。
聞き逃すことの許されない足音、我が真なる主のご帰還ゆえに。
「楽しそうね、マドレーヌ」
鈴のように高く澄んだ声が届く。
マドレーヌと呼ばれた女は躊躇うことなくその足元に跪き顔を床に擦り付けた。
上目に見上げるその姿は相も変わらず穢れを知らぬように美しい。
モノクロームのイブニングドレス、その上から幾重にも巻かれた黒革のハーネス。
一つにまとめられた赤い髪は炎のような明るいものではなく血のように仄暗い。
その顔に一片の偽りも感じさせない慈悲深い笑みを貼り付けて、手にした短鞭を弄ぶ。
「お帰りなさい、クリスティル様。わたしの神よ」
クリスティルは微笑んだまま、マドレーヌの顎を掴んで身を起こさせる。
修復されていく胸の傷にそっと指を這わせた。
その痛みにマドレーヌは大きく身を震わせる。
恍惚とした、歓喜以外の全てが削ぎ落とされた表情。
全てを見下すようなその空虚な瞳の中にマドレーヌはどこまでも神聖を見出すのだ。
地に堕ちた者よ、神になりたまえ、と。
クリスティルは指を離すとかつて祭壇であった場所に腰かける。
「ようやく、準備が終わったの。うるさい羽虫はあらかた叩き潰した。これで、あの子に会いに行ける」
マドレーヌは身を正した。
それは神の意志、決断でありすべてに優先されること。
「はい、クリスティル様。では、準備いたしますね」
一礼して服装を整えるために裏へ消えていく。
「……ようやくですな、儂の目的も達せられそうで嬉しいことです」
その背が完全に見えなくなるのを見計らって教会の隅から姿を現す者がいた。
いつからそこにいたのか、あるいは最初からそこにいたのか。
腰の曲がった着物姿の老人だったが濃く漂ってくる死の気配がその異形さを物語る。
クリスティルはその姿を視界の端で捉えた、変わることなく笑みを浮かべたまま。
「そうね、あなたにもまあ、世話になった気もするし。いい加減に報いてあげないといけないわね」
老人もまた、彫られたような笑みのままでクリスティルを見やる。
その目に浮かぶのは粘着質で淀み切った、それ故に純粋な執着。
「ええ、ええ、報いていただきますとも。約束はお忘れでないでしょうな?形代 綾理、そして万が一、あなた様が死んだらその魂をいただく」
その言に、クリスティルは笑みを消した。
完全な無表情、あらゆるものが欠落した底のない奈落。
「いいわ、私が死んだらこの魂を持っていきなさいな。決して離さずに、傍に置いておきなさい」
老人は満足げに頷くと再び闇に染み込んでいく。
一人になったクリスティルは再び笑みを貼り直して天を仰いだ。
穴の開いた天井から微かに星が見える。
どんな闇の中でも、例え見えなくとも確かにそこに輝く一つの光。
「――フェリシア、早く会いたいわ。私、待ってたのよ。ずーっと待っていたのよ」
その目を伏せて意識を閉ざす。
何ものにも触れられない世界に潜っていく。