そして、世界は別たれる   作:・黒箱

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邂逅

 

 『出会うも出会わないも必然で、理不尽で、だからこそ意味があるのだと思うの』

 

 

 「あー、まずい。これはまずいねえ」

 

 十二月三十一日、大晦日の夜。

 一真の気の抜けきった声がリビングに満ちる。

 

 我が能家にはじめての暖房器具が導入された、その名もこたつ。

 モミの木に続き游里さんの手によって強制的に設置されたものだ。

 

 最初は特に興味もなかったのだが游里さんに無理やり引きずり込まれ。

 これが思いのほか快適であった、温かいのもそうだが言葉にできない何かがある。

 

 「そうじゃろう、まずいじゃろう。こればっかりは儂も抗えぬ。游里にしては良い仕事をしたものよ」

 

 向かいでは綾理ちゃんがミカンの皮を剥きながら頬を綻ばせている。

 こたつ導入に一番喜んだのは綾理ちゃんかもしれない。

 

 「これが日本のこたつなのねえ、何かしらの魔力がある気がするわ。こたつに対する集団的無意識が影幻界に作用して魅了の魔法でも放ってるのかしら。寒さなんて特に感じないのに、なぜか出られないわ」

 

 フェリシアも珍しく穏やかな顔で天板に顔をくっつけてだらしない姿を晒している。

 ここまで骨抜きにするなんて、魔法というのもあながち間違いではないかもしれない。

 

 「そうだろう、そうだろう。私に感謝して思い切り甘やかしてくれてもいいんだぞ」

 

 おせちをつまみながら静かにお猪口を傾ける游里さんも妙に大人しく貞淑に見える。

 

 「こればっかりは時期とこたつに感謝っすね。静かでいいっすわ」

 

 同じような感想を抱いていたらしい、朔さんがおせちやみかんを補充しながら心なしか穏やかに声を発した。

 

 『あー、いいなあ。私もこたつに入ってみたいなー』

 

 回がふよふよ浮かびながらぼやく声もこの日ばかりは気が抜けている。

 

 今日はこのままずっとのんびりするのもいいだろう。

 

 「よっしゃ!いい感じに酔えたことだし、鐘撞きに行くぞ!ついでに初詣だ!」

 

 そんな緩んだ空気を引き締めるように游里さんの溌剌とした声があがる。

 時計に目をやれば時刻は二十三時を少し過ぎたところ、時間的にはちょうどいい。

 

 我が能家から歩いて十五分ぐらいのところにも鐘のある中規模なお寺がある。

 別段、神様なんぞ信じているわけでもない。

 だけどまあ、ここ数か月はこれまでに考えられないようなことがいろいろあった。

 

 少しばかりご縁とやらを感じないわけでもない。

 その感謝と、少しばかり違いそうな来年の抱負を語ってみるのもいいかもしれない。

 

 まあ、そんなのは建前でこのメンバーで何かやるのが新鮮で面白いのだ。

 

 「そうですね、僕もいきますよ」

 

 立ち上がって壁にかけた冬用のジャンパーを手に取る。

 

 「フェリシアも一緒にどう?少ないけど屋台とかも出てるから、ちょっとしたお祭り気分も味わえるよ」

 

 「んー、私はいいわ。信じてもいない神性に安易に思いを預ける気にはならないし」

 

 いかにもフェリシアらしい考え方だ。

 あるいは、影幻界において祈りには重要な意味があるのかもしれないが。

 

 「儂は行くぞ、甘酒でもあれば嬉しいのじゃがな」

 

 綾理ちゃんもこたつから這い出て小さく伸びをした。

 

 「甘酒は毎年、普通に配ってるかな。一杯までは無料だったと思うけど」

 

 ジャンパーを羽織りながら朔さんにも尋ねようと視線を向けるとすでに準備を終えている。

 游里さんの行くところには基本的についていくらしい。

 

 「じゃあ、フェリシア。ごめんだけど留守番お願いね」

 

 「行ってらっしゃい」と、ふんわり振られた手に見送られ四人プラス一で夜の街に繰り出した。

 

 雪こそまだ降ってはいないが刺すように冷たく、だけど澄み渡った空気。

 夜空が心なしかよく見えるような気がする。

 

 この日ばかりは夜遅くでもちらほらと道を歩く人たちが見られた。

 独身サラリーマンから家族連れ、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒にはしゃぐ子供。

 

 「皆、お寺に行くんですかねえ」

 

 「そうだろうな、普通行くだろ鐘撞き。まったくあの魔法使いは、もう少し軽く考えて楽しんでもいいだろうにな」

 

 游里さんも夜空を眺めながらぼやく。

 

 「あれでも相当に楽しんでると思いますよ。ほんの少し前のフェリシアだったら、あんなにだらしない恰好見せないでしょうし」

 

 自分だけじゃなく游里さんや綾理ちゃんの前でもああいう姿を見せている。

 間違いなく心開き始めた証拠だろう。

 

 それに、もしかしたら自分の知らないところで仲を深めているということもあるかもしれない。

 

 ここしばらく、この街に迫っているという脅威についての話を聞かない。

 多分、意図的に隠されているのだ、きっと巻き込まないようにという配慮。

 

 それでも必要となれば話してくれるという信頼はある。

 だから、自分はいつも通りの日常を皆に提供できるようにいればいい。

 

 お寺に近づくにつれて人口密度が上がっていく、にぎやかな声が届く。

 すでにお腹は満たしたのに屋台から漂う揚げ物やソースの香りが食欲を刺激する。

 特別おいしいわけでもないのに無性に食べたくなるのはなぜだろう。

 

 階段を上って鳥居をくぐればそこは別世界。

 鐘の前にはすでに多くの人が並んで思い思いに撞いていた。

 

 係りの男性から番号札を受け取って列に並ぶ、ちょうど百七番目だ。

 

 「お?新年を前に幸先がいいな。思い切り叩いてもろもろ全部、吹っ飛ばしてくれよ」

 

 さっそく唐揚げなんかを買って頬張っている游里さんが「ビールが飲みたい」などとぼやきつつ背中を叩いてくる。

 吹っ飛ばすべきはこの人の煩悩ではなかろうかと思わなくもない。

 

 「ほれ、一真。甘酒もらってきたぞ」

 

 ふらりとどこかに消えていた綾理ちゃんと朔さんが両手に紙コップを持って戻ってきた。

 お礼を言って口をつける、独特の甘さと口触りが正月という感じ。

 

 焚火で暖を取りながらちびちびと甘酒を啜る。

 一定間隔で鳴り響く重低音が心地いい。

 

 目を閉じてうたた寝しそうになる、無意識の境界に身を浸そうとして。

 

 『……一真、ちょっと付いて来て』

 

 回の声に意識を引き戻された。

 視線をやると珍しく真面目な顔でどこかを見ている。

 

 「どうしたの?何かあった?」

 

 周りに人がいないのを確認して小声で尋ねた。

 

 『うん、ちょっと困ってる人がいるの。特殊な眼を持ってるみたい。一真なら、気にするかなと思って』

 

 これも珍しい、回が自分から誰かに干渉するようなことを言うのは記憶にない。

 というか、そもそも最近はあの超越的な雰囲気も見なくなった。

 何でも知ってますみたいな態度は最初だけだった、本当にただのフレンドになった感じ。

 

 それがいきなりこんなことを言い始めるものだから訝しい。

 とはいえ聞いたからには放っておくこともできなかった。

 

 甘酒を一息で飲み干して紙コップを近くのゴミ箱に放り投げる。

 近くにいた游里さんを見つけて声をかけた。

 

 「游里さん、知り合いを見つけたんで少し話してきます。最後の鐘撞きまでには戻りますから。綾理ちゃんと朔さんにも伝えておいてください」

 

 「ん、了解。気を付けて行って来いよー」

 

 「子供じゃないんですから」と返して足早にその場を離れる。

 回に軽く視線を向けて誘導するように飛んでいくのを追いかけた。

 

 

 「さて、都合よく一真が離れてくれたな。……あまりにも出来過ぎだが」

 

 先までの締まりのない態度はもはや見る影もなく。

 游里は研ぎ澄まされた瞳を宿して一真が消えたのと逆方向に体を向ける。

 

 全方位に見境なくまき散らされる魔力の気配は明らかに誘いだ。

 

 「如何にする?のってみるかの?」

 

 傍に歩み寄ってきた綾理も険しい顔で同じ場所を見据えている。

 いつの間にか守るように二人の背後に現れた朔は完全に表情を消していた。

 

 「ああ、行くべきだろう。ここまで派手にやらかすってことは、相当の自信があるか目的があるか。――本命かもな」

 

 クリスティル・リンドクヴィスト、これまで一切その動きを悟らせなかった魔法使い。

 仮にこれが本人だとすれば明確な宣戦布告。

 

 「逃げらんないだろ。どのみち、この街でけりをつけないと私たちに先はない。さすがにこんな街中で本格的に戦闘に入るほど馬鹿でもないはずだ。なら一度、敵の姿を見ておかないとな」

 

 綾理は頷き軽く手を叩くと、人混みの中から一人の男が近づいてきた。

 綾理が街中に放っている人形の一体、それは手にした紙と鉛筆を綾理に差し出す。

 

 一真宛にこちらも用事ができた故しばらくここを離れること。

 そしてもし、戻らなければ先に帰ってくれて構わないと書き添える。

 

 「一真が戻ったらこれを渡してやってくれ、頼むぞ」

 

 人形は頷くと再び人々の合間に消えて完全に風景の一部と化した。

 

 三人は無言のまま寺を後にし街を歩む。

 いつもより人通りがあるとはいえ少ないことに変わりはない。

 

 魔力の波動はうまく人影を避けて徐々に街の暗闇へと誘う。

 やがて、完全に人通りが途切れた街角の一角に差し掛かった。

 

 瞬間、世界に幕が下りる。

 内と外を明確に切り分ける境界、結界魔法。

 

 震駭すべきはその隠密性、ここに至るまで一切の痕跡を掴ませずに発動させる手腕。

 もはや確信、これは間違いなくクリスティルの仕業。

 恐れるべきは力だけではなくその精密さ、世界に対する隠形の巧緻さ。

 

 それすなわち、世界に対する解像度が一線を画した域にあることを示していた。

 見えないものまで明確に見えているから避けられるのだ。

 

 コツンと足音が聞こえる、それは上から響いてくる。

 はじかれたように顔を上げた三人の視線がそれを捉えた。

 

 優雅に宙を歩く赤髪の女は熱のない微笑みを湛えて全てを睥睨している。

 

 「……あら?何がかかったかと思えば、ただの虫じゃない」

 

 女はただ指を向けた、それだけだった。

 それだけで、まるで時間が飛んだかのように全ては終わっている。

 

 「――游里さん!」

 

 唯一、反応できたのは朔だけだった、その視界の異質さがほんのわずかな痕跡を捉えた。

 それでも、反応しきれたのはまさしく幸運だったと言えるだろう。

 

 朔の切羽詰まった声が後ろから響くのとほぼ同時。

 游里は突き飛ばされ、朔の右腕が肩口から綺麗に切断される。

 鋭い刃のようなもので一息に、痛みを感じる暇すら許されない。

 

 一拍遅れて吹き出す血液がようやく傷を実感させ朔の顔を歪ませた。

 

 油断していたわけではない、一挙手一投足に至るまで瞬きすらせずに視界に収めていた。

 それでも游里には捉えられない類の攻撃だった。

 

 発動の予兆も、世界を欺く揺らぎも、そもそも攻撃の意志さえも。

 

 見誤っていた、戦いになるなどと驕りが過ぎた。

 あの女にとって自分たちは字義通り羽虫を潰す程度の作業で容易く摘み取れる存在。

 

 周りを巻き込むなんて考える必要すらないだろう、静かに確実に処分できる。

 この女の前に姿を現すこと、それは家畜がのうのうと屠殺されるために身を預けるかの如き愚行だったのだ。

 

 それが身に染みて理解できたとしても、綾理と游里の行動は迅速で迷いがなかった。

 

 綾理の指から魔糸が伸びて切り飛ばされた腕を回収する。

 そのまま朔の肩口に合わせて縫合をはじめた。

 

 「大丈夫じゃ、傷口は綺麗に残っておる!問題なく動くように治る!」

 

 治る、邪魔さえ入らなければ。

 

 綾理とほぼ同じタイミングで游里は銃を構えると実弾を放った。

 抜いてから六発撃ち終わるまでに一秒を切りかねないプロの業。

 

 だが、どれだけ早くとも無意味だった。

 女は一歩も動くことなく、ただ少しだけ唇を尖らせ息を吹きかけた気がした。

 

 それだけで全ての弾は空中で動きを静止させる、乾いた音と共に空間がひび割れた。

 完璧な立方体、詠唱も何もなく唐突に現れた氷の盾がリボルバーの弾を受けきった。

 

 あらかじめ発動していたのか読みで直前に発動したのかもわからない。

 頼りない街灯の灯しかないことを考慮してもあまりに自然なプロセス。

 

 ただ呼吸することだけですら魔法に直結するという理不尽。

 しかもそれで発動されるレベルがあまりにも高すぎる。

 

 「……これが、クリスティル・リンドクヴィストか」

 

 思わず漏れた游里の言葉にクリスティルは不思議そうに首を傾げた。

 

 「なあんだ、私のこと知っているの?おかしいわねえ、あなた達の情報はないのだけれど」

 

 游里は目を細める、それはここまで出向いた甲斐があると小躍りしたくなるような情報だった。

 問題なのはそれを生きて持ち帰れるかどうか。

 

 「まあ、いいわ。ここで消し飛ばせばなーんにも問題ないものね。――炎よ」

 

 はじめて女――クリスティルが短い詠唱を紡いだ。

 掲げた手の上に炎球が燈る。

 

 否、それは炎なんて生易しいものではない。

 まるで天空に浮かぶ太陽をその手に載せたかのような圧倒的な存在感。

 

 周囲が熱気で歪む、瞬間的に熱せられた空気が爆発する。

 衝撃に耐えきれずに思わず手でかばってしまう。

 

 死、ただそれだけが心を占領した。

 

 「バイバイ」

 

 軽い言葉で投げつけられた炎を避ける気にすらなれなかった。

 それでも最後まで、己ができることをやりきる覚悟だけがあった。

 

 游里は目を逸らすことなく、綾理は手を止めることなく、朔は何とか立ち上がろうとして。

 

 「――水よ」

 

 間を切り裂くように鋭い詠唱が走った。

 炎球と同規模の水球が三人の背後から降ってくる。

 

 ぶつかり合う二つの球は一瞬の均衡を挟んで消滅した。

 水蒸気が視界を白く塗りつぶす。

 

 晴れた時、二人の魔法使いは対峙していた。

 とんがり帽子に黒いローブ、杖を携えて箒の上に立っているフェリシア。

 

 その姿を見たクリスティルは目を見開いて、満面の狂気で出迎えた。

 

 「お帰りなさい、フェリシア。ようやく会えたわね」

 

 「……ええ、ようやく会えたわねクリスティル。この日をずっと待っていたわ」

 

 

 回について一真がやって来たのは寺の裏に広がるそこそこ広い雑木林。

 さすがにこんな場所には人も来ないようで明かりもほとんど届かない。

 

 そんな暗闇の中でも回は迷いなく飛んでいく。

 やがて、頭一つ抜けている巨木の根元に辿り着いた。

 

 そこにいたのは体育座りで膝に顔を埋めている一人の少女。

 年のころは同じぐらい、高校生だろう。

 

 回に視線を向けると案内を終えて満足したのかすでに興味なさげに浮いている。

 もう少し詳しいことを聞きたいのだがこうなると何も話してくれない。

 

 話さないのか話せないのかは未だによくわからないが、回なりの基準のようなものがあるらしい。

 つまり、後は自分で何とかしてくれということなのだろう。

 

 小さくため息をついてなるべく大きめの足音を立てて近づいていく。

 少女はびくりと顔を跳ね上げると警戒したようにこちらを見てくる。

 

 当然のことだろう、なるべく穏やかな笑みを心がける。

 

 「驚かせてごめん。ちょっと探検したくなってふらふらしてたら偶然、ここに来ちゃったんだよ」

 

 我ながら苦しい理由付けだと思うが少女はそれで少し警戒を解いたようだった。

 こちらとしては助かるが判断力が正常に働いてないと思う。

 

 顔が見える距離まで近づけば散々な乱れよう。

 目尻には薄い化粧を剥がすように涙の痕がこびりついて。

 目の下の隈は夜影の中にあっても目立つほどに深い。

 

 一目で何かあるとわかる。

 

 「えっと、どうしたのかな?何かあったの?あ、僕は能 一真。近くにある桜台高校に通ってる」

 

 どう誤魔化すか、話を引き出すか。

 そんなことは完全に頭から抜けて本気で心配してしまった。

 それが逆に良かったのか少女ははっきりこちらに顔を向ける。

 

 「言ってもどうせ信じてもらえないと思います」

 

 そうは言うものの何か話したそうな、聞いてほしそうな感じがはっきり届く。

 根気強く黙って待っていると躊躇いがちに口を開いた。

 

 「……もし、運命がわかるって言ったら信じますか?」

 

 怪訝な顔や声を表に出さなかった自分を思わず褒めたくなる。

 運命、自分ではどうにもならないこと、巡り合わせ、そして変えられない定め。

 

 わかるわからない以前にそもそも信じたことがない。

 人生は己で切り開いていくものだと疑ったことはない。

 

 例えどうしようもない何かがあったとしても。

 それも含めて最後まで自分の意志で歩み切れると信じている。

 

 生まれた時から決まった未来などない。

 とは思うものの、ここしばらくの間に自分の常識が何度ひっくり返ったことか。

 

 そういう超越的な何かがないと断言できなくなったことが悲しい。

 何か特殊な眼を持っていると回が言っていたこともある。

 

 この少女の眼に何か見えないものが映るのは確かなのだろう。

 

 「うーん、ごめん。運命とか信じないんだ。だけど、君が何か、人にはわからないものがわかるっていうのは信じるよ。僕も最近、信じられない経験ばかりしてきたし」

 

 とりあえず正直に言葉を返してみると少女は目を見開いてこちらを凝視してきた。

 そして堰を切ったように話し出す。

 

 「私も!私もそうだったんです!去年ぐらいからなんですけど、なんか人の中から線?みたいなものが見えて。後、別の場所から伸びてくる線とかもあって。その伸び先がわかるって言うか。あ、この人、お金をいっぱい失うなみたいなこととか直観的にわかるようになって」

 

 少女は立ち上がると目をさ迷わせながら早口に言葉を積んでいく。

 もう抱えていることに耐えられなかったのかもしれない。

 

 「最初のうちは見えるだけだった。だけど、そのうちに自分のかけた言葉とかやったことで線が震えたり伸びる方向が変わったりすることに気づいて。これって、その人の行く末を変えられるんじゃって思って」

 

 そこで少女は言葉を切った。

 この顔、様子は知っている。

 

 生徒から相談を受けたり、教師と生徒の話し合いに同席したりする時に幾度となく見た。

 後ろめたいことがある、隠したいことがある。

 

 過ちを犯した者の押しつぶされそうな罪悪感の発露だ。

 

 「……その、それで、私……私は……。その線を使って、その……気に入らない子の線を弄ったり、友達と一緒に都合の悪いことを押し付けたりして……それで……」

 

 「……いじめたんだ、誰かを」

 

 肩が震え、少女は俯いて顔を隠した、何を思っているのかは判断のしようがない。

 後悔か、それとも正当化か、ただ何であれ確かなことがあるとするならば。

 

 「その後に、何らかの反動があったんだね?」

 

 影幻界に関わり始めて間もないけれど特殊な力が無条件に何かをもたらす恵みでないことはもうわかっている。

 

 都合よく全てを思い通りにする力などありはしない。

 何かを成すには何かを引き換える必要があるのだ。

 

 「……そんな……そんなつもりじゃなかった!」

 

 顔を上げた少女は目を血走らせ、涎を散らしながら叫ぶ。

 

 「あの子は死んだの!線が、どれだけ捻れたり曲がったりしてもどこかに伸びてた線が!突然ぐちゃぐちゃに絡まるようになって、変な事件に巻き込まれて、勝手に死んだの!私のせいじゃない!」

 

 勢いはそこで衰えた。

 

 「それから……今度は、友達が次々と死んでいったの。皆、ぐちゃぐちゃな線に呑み込まれるように……。もう、私一人になっちゃった、なのにいつも誰かに見られてるような、変な感覚が拭えないの……。ずっと寒気がするの、心臓を掴まれてるような気がするの……ねえ、私も死ぬの?いやだ……」

 

 何と声をかけたらいいものかわからない。

 正直、他人を貶めるような人はどうしようもないと思う。

 自業自得という考えが拭えない。

 

 だけど、本来ならここまで大事になるようなことでもないはずだった。

 人は過つ、いじめなんて学生の頃であればありふれている。

 

 意図していなくたって人を傷つけることもある。

 いろんなものを犯して、侵して、冒して、少なからず世界の仕組みを知って。

 

 それでも歩んでいかざるを得ないものだろう、たとえ許されなくとも続いていくもの。

 それがたまたま、変な眼を持ったというだけで大惨事になる。

 

 それは理不尽過ぎるような気がした。

 

 回の方をちらりと見やる、こちらの意図が分かったのかため息をつく様な仕草を見せた。

 

 『眼じゃ死なないよ、その子は自分の線だけは見えないから。自己防衛機能だろうね、自分可愛さが極まってるよね。まあ、眼っていうのは自分を映さないものだけど』

 

 どうでもよさそうに、どこかちくりとした声を漏らす。

 それだけわかればいい、できることはある。

 

 「ねえ、君のその眼は自分で見ないようにもできるの?」

 

 「……うん、できる。今は見えないようにしてるし」

 

 「そう、なら約束してほしいんだ。例え何があっても、もうその眼を使わないこと。変な力に頼らないで、頑張っていくんだ。それが普通なんだから。約束できるなら、君が普通に生きられるようにはできる」

 

 勢いよく顔を上げた少女は縋るように身を寄せてくる。

 

 「する!約束するから!お願い助けて!」

 

 安心させるように大きく頷くと、袖を掴む少女の手をそっとはずして歩き出す。

 ここに来た時からずっと見えていた、少し離れた木の後ろからじっとこちらを見ている影。

 

 霊体が重なり合い、混じり合い、もはや人の形を忘れた何かとなって少女を掴んでいる。

 

 一つ手を合わせて、そっとそれに触れた。

 いつものように消えていく、解けて七つに別たれ静かに。

 

 「どう?もう、見られてるとか掴まれてるみたいな感覚はないでしょ?」

 

 振り返って少女に尋ねてみれば、呆けた顔で何度も頷いている。

 

 「よかった、じゃあもう行こう。こんなところにいたら風邪ひいちゃうよ。お寺に行く?それとも帰る?」

 

 「……帰ります。今は少し寝たい」

 

 「わかった」と少女の手を取って寺とは反対方向に雑木林を歩く。

 しばらくすると表通りに出た、少しは人通りもあるしもう大丈夫だろう。

 

 「じゃあ、僕はこれで。人を待たせてるから」

 

 「はい……あの、本当にありがとうございました!」

 

 勢いよくお辞儀する少女に手を振って寺の方に戻る道を行く。

 

 

 少女は離れていく一真の姿を目で追いながら繋いでいた手をそっと撫でる。

 心臓は先までとは別の意味で痛い、寒さとは違う理由で顔が赤くなる。

 

 荒唐無稽な話を信じてくれて、じっと聞いてくれて。

 自分のどうしようもない罪を糾弾することもなかった。

 

 そして、何をしたのかわからないけれどあっさり問題を解決してくれた。

 

 「桜台高の能 一真さん。また、会えるかな」

 

 会いたい、何度でも会いたい。

 場所もわかっているし会えるはずだ、だけどもしかしたら会えないかもしれない。

 

 少女は眼を開いた、運命を手繰る眼。

 

 もう使わないとの約束が脳裏によぎるも少しぐらいなら大丈夫だと自分に言い訳をして。

 ただもう一度、出会うきっかけを自然に起こすぐらいなら問題ないはずだと誤魔化して。

 

 その眼を向けた。

 

 「……あれ?なんで?」

 

 見えない、一真という少年から伸びる線がない。

 それどころか外から伸びて繋がるはずの線すらない。

 

 少女は直感的に線の正体を掴んでいる、これはいわゆる因果だ。

 運命とはつまるところあらゆる要素の因果関係を紐解いたものに他ならない。

 

 故に線がないなどあり得ない、あれでは世界に居場所がないのも同然だ。

 何も起こさないし何も起こせない、何の恩恵も弊害も起こり得ない。

 

 それでは、良くも悪くも生きられないはずなのに。

 

 そして、少女は――それを見てしまった。

 

 一真の隣に何かが浮かんでいる、それは白く、あるいは無色に近い。

 形容しがたい色彩、そもそも色と呼べるのかも怪しい。

 

 しかして全てを呑み込む孔のように確かにそこに。

 

 まるで世界の裏側に張り付いているかのようにべったりと在る。

 あまりにも重い何かがどろりと纏わりついて軽やかに浮いている。

 

 あらゆる線がそれに向かって伸びていく、それを無限に吸い込んで嚥下しているようで。

 まるで、全てがその靄のような何かに吸い込まれるためにあるようじゃないか。

 

 それがゆっくりと少女の方を振り返る。

 

 見られた、見られた見られた見られた、確かに見られた。

 その指らしきものが唇らしきものに添えられて、まるで笑うように裂けた。

 

 ――ナイショ

 

 全身の毛が逆立った。

 

 少女は息を吸うのも忘れ、ただただ目を見開いてそれを凝視することしかできない。

 やがて、一真と共に完全に見えなくなった。

 

 「あ、ああああ、いやああああああああああああああああああああああ!」

 

 絶叫が喉を壊して吐き出されていく。

 

 なんだあれなんだあれなんだあれ。

 

 あり得ない、あんなのあり得ない、あんなものがあっていいはずがない。

 あんな大きなものが、不気味なものが、理解不能なものがあっていいはずがない。

 

 そして、あんなものが近くにいて平然としているあの少年も意味が分からない。

 

 それは衝動だった、見たものを抉り出さなければならないという抗いようもない衝動。

 勢いのままに指を目の中に突っ込んだ、痛みが走るのも構わずに力を込める。

 

 「お、おい!君、何をしてるんだ!」

 

 通りががかった男の声が耳に届くのも無視してひたすら指を沈み込ませる。

 自分の口から聞くに耐えない何かが溢れている気もしたがもはや気にする知性はない。

 

 そのまま、眼球を引き抜いて地面に投げ捨てた。

 

 周囲から叫び声が聞こえる、見てはいけないものをみた者達の戸惑いと恐怖の叫び。

 

 そうだ、この世界には見てはいけないものがあるのだ、見なくていいものがある。

 そんなこと、わかっていたはずなのに、使わないって約束したのに。

 

 「アハ、アハハハハハハハハハ!」

 

 壊れたような笑い声が自分の内から響いてくるのを感じながら。

 少女はどうしようもない安堵に包まれた。

 

 もう、これで、何も見なくてすむ。

 

 

 向かい合った二人の魔法使いは何かを埋めるように無言のまま互いを認識する。

 

 「ねえ、フェリシア。覚えてる?魔法合わせ。久しぶりにやりましょうよ」

 

 先にそれを断ち切ったのはクリスティル。

 

 唐突に放たれた言葉、同時に指を鳴らすとその背後に大輪の花々が咲く。

 六色の幾何学模様、フェリシアのものと似ているがルーン文字への傾倒が強い。

 

 二十を超える魔の花が魔力を吸って毒々しく光を放つ。

 

 綾理も游里も呼吸を止めることしかできない、この力の前では生きている自覚すら絶望的。

 

 だが、フェリシアだけが静かに、揺らがない凪いだ視線でそれを見上げる。

 杖を掲げた、背後に同じように魔法陣が展開されていく。

 

 鏡合わせのように全く同じ色の、しかし形だけが違う魔の華が咲きほこる。

 それは魔力を発し濁りなき清んだ煌めきを湛えた。

 

 視線が交錯する、迷いはない、全ての覚悟はもう終わっている。

 

 「理性よ、我が意に侍れ」「自然よ、我が意に染まれ」

 

 全く同じタイミングで二つの詠唱が世界に溶ける。

 魔法の花々は爆発的に発光した、夜空を照らすその様は季節外れの花火のように。

 

 両者の中間、六属性の汎用魔法が空中でぶつかり合って相殺されていく。

 その余波で空気は熱され、乱れ、湿気り、震え、千々に散らされ周囲を抉っていく。

 日が昇ったかのような閃光と輝きが吸いつくされたかのような暗闇が同居する。

 

 それはどれほど続いただろう、数秒、十数秒かもしれなかった。

 全てが完全に収まった時、両者は全く変わらないままそこに在る。

 

 綾理と游里は戦慄した、これがフェリシアの全力、一切迷いのない魔法使いの世界観。

 そして、おそらくはそれ以上に強固で、隙がなく、完成されたクリスティルの世界観。

 

 万物の全てをその手に握ったかと思わせるような。

 そしてそれが当然にすら見える世界の欺き方。

 

 游里も綾理も朔も、誰も言葉を発せない、次元が違い過ぎた。

 この二人の戦いに果たして自分たちが干渉する余地があるのか。

 

 そんな三人を置き去りに、クリスティルは愛おしそうに目を細めて手を叩いた。

 

 「すごいすごい!本当に成長したのね!あの時は何の抵抗もできずにボロ雑巾みたいに転がっていたのに」

 

 心の底からの称賛ではあったが、それはどこか母が子の頭を撫でるような響きがある。

 それが両者の断絶を示しているよう。

 

 フェリシアはその声に目を伏せる、心臓に手を置いた。

 

 (……大丈夫、心は静まっている。もう、大丈夫)

 

 目を開いて真っすぐにクリスティルを見つめた、そこには何もない。

 ただ一つ、相対するという決意だけがあった。

 

 クリスティルはそれを認め受け止めた。

 

 「いいわ、ならゲームをしましょう」

 

 いきなりの提案、話の飛躍に怪訝な顔を隠せないフェリシア。

 

 「今ね、この街に四人、そうね、玩具がいるの。皆、面白い子でね、それぞれ好き勝手にいろいろやっているようよ。もしあなた達がその四人を倒せたなら、戦ってあげるわフェリシア。あなたを、あなた達を敵であると認めてあげる。私と、仲間がお相手しましょう」

 

 物陰から現れる二つの影、修道服に身を包んだ隈のひどいおどおどした女と一本杖を突いた老人。

 どちらも纏っている淀みが尋常ではないことをフェリシアは一目で看破する。

 

 この二人もまた、何らかの形でクリスティルと共に在れる妖孽(ようげつ)

 

 「……そんなのに付き合うと思うの?今ここで、あなたを取り逃がすとでも?」

 

 だからこそ、フェリシアは一歩も引けなかった。

 ここで下がれば呑まれる、例え虚勢でも纏わなければならない。

 

 「へえ?私はそれでもいいのよ。だけど、そこの三人は確実に死ぬでしょうし、ここ一帯は軒並み吹き飛ぶでしょうねえ。それでもやる?それはそれで、あなたのさらなる成長が見えて嬉しいわ」

 

 手を合わせながらにっこり笑みを作るクリスティル。

 

 フェリシアは歯を噛み締めながら、全身に力を込めながら。

 本当は今すぐにでも飛び掛かりたい衝動を抱えながら。

 

 それでも心と思考はクレバーに徹する。

 

 「そのゲームの間はあなたと、そこの二人は動かないということでいいのね?」

 

 「ええ、いいわ。あなた達が蠢くさまを楽しく観察させてもらうから、静かにしていてあげましょう」

 

 深く息を吐き出した。

 

 「いいでしょう、受けてあげるわクリスティル。その四人とやらを倒したら、逃げずに私の前に立ちなさい。必ず」

 

 クリスティルは楽しそうに微笑んで踵を返した。

 残りの二人も出てきた時と同じように静かに消えていく。

 

 その去り際、老人の窪んだ眼窩が這うように綾理に向けられた。

 そこに覗く暗い熱量は尋常ではなく、それでも完璧にそれを制御して姿を消す。

 

 結界が消え、完全に気配が遠ざかったのを確認してフェリシアはようやく杖を下ろした。

 

 「あなた達、無茶し過ぎよ。どうして私が来るまで待たなかったの?」

 

 この一月、遊んでいたわけではない。

 

 フェリシアのカラスと綾理の人形を用いた監視・連携網を街中に張り巡らしていた。

 距離に応じた伝達のラグはあるものの異変を捉え次第、即座に全員へ連絡が飛ぶ。

 そして、フェリシアが全速力で飛べる状況であれば半径三十キロ圏内なら十分以内に駆けつけられる。

 

 機動力を活かした即応体制を整えていたのだ。

 

 「本当にクリスティルなのか、あの時点では未知数だった。誘いであるとは思ったが別の可能性もあった。もたもたしてる間に消えられたら元も子もないしな。早く確認しておきたかったんだよ」

 

 游里はその場に座り込むと煙草を取り出して一服する。

 

 「だけど、不用意すぎたな。認めるよ、あれはもはや立ってる次元が違う別の何かだ。独断専行はもうやめる」

 

 朔の方に視線を向けてほんの少し眉を下げた。

 

 「朔、大丈夫か?助かったよ、お前がいなかったら間違いなく死んでた」

 

 「まあ、游里さんの無茶には慣れてるっすから。この程度どうってことないっすよ」

 

 麻酔もなく激痛が走ってるだろうに、いつも通りの無表情で言葉を返す朔。

 

 黙々と縫合を続けていた綾理も立ち上がると汗をぬぐった。

 

 「とりあえず、筋肉と血管は繋げておいた。後は神経じゃな、これは屋敷に戻らんとできん。傷口は閉じてあるが、衝撃を与えんように気をつけるのじゃぞ」

 

 冷え切った空気も頭と心を冷ますにはちょうどよかった。

 ようやく緊張を解いた四人は改めて向かい合う。

 

 「それで、あのゲームとやらはどこまで信用できる?本当に動かないと思うか?」

 

 フェリシアはため息をつくと遠い何かを思い出すように視線を飛ばした。

 

 「そうね、多分、大丈夫だと思う。それに、信じるしかないのよ。クリスティルが本気でこちらを陥れて殺す気なら、私たちにそれを防ぐ手立てはない」

 

 そう、それが現実だった。

 

 クリスティル自身が手の付けられない怪物で、仲間だと呼んだ二人も間違いなく難敵。

 気まぐれが、フェリシアに対するクリスティルの偏愛とも取れるベクトルだけが唯一の命綱だった。

 

 「フェリシア、お主、何か話したいことはないか?」

 

 二人の間に、何があるのか。

 

 綾理の問いに、フェリシアは淡く微笑んだ。

 存在そのものが消え入りそうな儚い笑みだった。

 

 「……ごめんなさい」

 

 ただ一言、それだけを告げた。

 

 あの頑固な魔法使いがここまで素直に謝る姿を三人は見たことがない。

 もうそれ以上、聞くことはできなかった。

 

 フェリシアは顔を引き締める。

 

 「だけど、これだけは約束する。もし、クリスティルが無道な振る舞いを隠さなくなったら、私も切り札を切るわ。確実に仕留めるから」

 

 それは自信でもなければ確信でもない、事実をそのまま伝えるだけの平坦な声。

 あの異次元の魔法使いを確実に殺せるのだと断言した。

 

 それが虚勢ではないことはわかる、同時に今それができないのなら最終手段なのだろう。

 何かしらのデメリット、あるいは代償が伴う何か。

 

 そこまでの覚悟を抱えているならもう言うことはない。

 だから最後の、ある意味では最も厳しい確認をしなければならない。

 

 「なら、これからどうする?戦いは本格化する、もう隠すのも限界だろ?それに、これからは間違いなく必要になる、一真の力が」

 

 本来、この場面に至るまでに自分たちは詰んでいたはずであった。

 クリスティルの呪いは強力で解呪する目途はまったく立たない。

 

 常に己の居場所を把握されるなど格下相手でも厳しい。

 クリスティル相手であればもはや抵抗すら不可能な文字通りの手詰まりだったはずなのだ。

 

 しかし、そうはならなかった。

 

 「朔もそうだったが一真と握手した後、受け入れられた後って言ってもいいかもな。それまでまったく見えなかった姿がぼんやりとだが見えるようになってきた。だよな?」

 

 朔は頷く。

 

 「あいつの体質はあらゆる影幻界絡みの力を弾く、逆に受け入れられるとそれが撓む。そんでもって影響は波及する。マジでまったく原理はわからないけどな。認識したら、招き入れることが重要なのか?何にせよ、私たちは一真の中に根を張ったということなんだろう」

 

 それ故に、認識的な魔法の大半を弾くことができる。

 居場所を逆探知するクリスティルの呪いも受けたのは確かだが効果は発揮されていない。

 游里はさっきのクリスティルの言葉からそれを汲み取っていた。

 

 一真のように無効化はできないまでも精神的な魔法の影響も軽減されることは確認している。

 さらにフェリシアは当初、一真の家を簡易的な工房、あるいは陣地として活用しようとしていた。

 

 だができなかった、その必要もなかったのだ。

 

 あらゆる魔法的な探知に引っかからなかった。

 隠すでもなく弾くでもない、それが当然であると認められているような常態。

 

 クリスティルの恐ろしさは強さ以上に世界の欺き方にある。

 

 世界の認識をうまくすり抜ける、あるいは自然に溶け込む。

 捉えられないのにこちらはあっさり捉えられる、情報戦において確実に後手を踏まされる。

 

 その圧倒的なアドバンテージ故に最強の魔法使いなのだと先の邂逅で理解した。

 そんな魔法使いがなぜ魔力を垂れ流してわざわざ誘いをかける必要があったのか。

 

 この街が一真のいる街だからだ。

 その影響は街全体に波及しているのだと游里はほぼ断定している。

 

 クリスティルがこの街に来たのは偶然だったかもしれない。

 そして、それを追ってきたフェリシアが一真と出会い仲を深めたことも。

 

 だがその全てが戦いという選択肢を生み出した。

 好機はここにしかないのだと皆が共有していた。

 

 「あいつに頼るのが心苦しいのはわかる、戦闘能力は一般人の延長線上でしかないからな。わからない点が多いから頼り難いのもわかる。どれだけ弾くのか、限界はないのか、突然効果が切れたりしないのか」

 

 そして、影幻界の影響を弾くからこそ危険なこともある。

 

 「魔法も魔道具による補助も通さない。なのに物理的な魔法は通る致命的な弱点がある。クリスティル相手だと最悪の相性だろう。バレれば一瞬で殺される。何であれ危険に晒すことになるのは変わりない」

 

 それでも、これから先の戦いには必要だった。

 一真がいなければ同じ土俵にすら立てない。

 

 「それでも、私たちはあいつを頼るしかない。多分、あいつが自分の意志で戦うことを決断しないとダメなんだろう。逆に言えば隠し通しさえすれば少なくとも戦いには巻き込まないですむかもしれない。だけどな、何であれ私たちと深く関わった。覚悟のないままに巻き込まれる可能性もある」

 

 それが卑怯な言い分であることを游里はよくわかっている。

 できればこんな言い方したくなかった。

 

 「だから、私は全てを話してあいつの決断に委ねるべきだと思っている」

 

 これも綺麗事だ、話せば一真なら確実に力を貸してくれるとわかって言っている。

 そんな言い方しかできない自分が游里は初めて心底嫌になると思った。

 

 それでも、必死だったのだ。

 

 (このメンバーで、未来に賭けたいと思っちまった)

 

 本当に、影幻界を知ってなおあそこまでのどかな日常を維持できるのが奇跡だったのだ。

 引きずり込むつもりで、実際には大きく引きずり込まれたことをもはや自覚せずにはおれない。

 

 「儂も大筋には賛成する。じゃが、判断はフェリシア、お主に全て任せよう。影幻界絡みで一真と最も長いのはお主じゃからな。……すまぬ、辛い判断をさせる」

 

 フェリシアがどれだけ一真との日常を愛しているか綾理はよく知っていた。

 それを崩せと言っている、巻き込めと進言している。

 

 そうしなければならない無力な己に自嘲を隠せない。

 形代の名など、圧倒的な個の前には無力だと痛感する。

 

 二人の言葉をフェリシアは静かに聞き入れた。

 

 「……一真はどこにいるの?」

 

 「寺だ、なんか知り合いを見つけたとかでこっちとは逆に向かったよ。もう戻ってると思う」

 

 「そう。とりあえず、あなた達はもう帰りなさい。その腕、きちんと処置しないとこれからの戦いに障るわよ」

 

 朔の腕を一瞥してフェリシアは寺の方へ向かう。

 三人はそれを見送った、その背が消えるまで静かに。

 

 どんな答えを出すにせよ、一真を動かすのはフェリシアでなければならないのだと。

 この戦いは、きっと彼女のものなのだから。

 

 

 少女と別れ寺に戻った一真は周囲を見回した。

 

 「游里さんたち、どこに行ったかな」

 

 探しながら適当に散策していると見知らぬ男の人が近づいてくる。

 

 「一真さん、綾理様から預かり物です」

 

 端的に用件だけ告げてメモを手渡してくるとさっさと行ってしまう。

 首をかしげながら開いてみれば綾理ちゃんの達筆な文字。

 

 「用事?何があったんだろう」

 

 まさか、危険なことじゃなかろうか。

 

 「ここにいたのね」

 

 そんな考えを吹き飛ばしてくれる静かでくっきりした声が聞こえた。

 振り返ればコートに身を包んだフェリシアの姿。

 

 「フェリシア?来てたんだね、どうしたの?」

 

 いつもなら即座に答えが返ってくるものだけれど珍しく言い淀んでいる。

 

 「……ええ、そのことで話があるの。人のいない場所で」

 

 その声は震えてるように聞こえた、こっちを心配してくれているいつもの癖。

 

 「そっか、なら行こう。少し離れたところに祠があるんだ。誰もいないだろうし、静かでいい場所だよ」

 

 頷いたフェリシアと並んで歩き出す。

 人波を迂回するように敷地の端の方へと。

 

 ちょっとした石段と獣道に近い悪路を目を凝らしながら少し上へと登っていく。

 やがて木製の何を祀っているかもよくわからない祠と申し訳程度に設置された四阿が見えた。

 

 二人並んでこれまた木製のベンチに腰掛ける。

 聞こえるのは下の方から定期的に響き渡る鐘の音だけ。

 

 しばらく、無言の時間が流れた。

 

 フェリシアは固く口を閉ざして俯いたまま、その表情を隠している。

 久方ぶりに重い、どこか張り詰めた空気。

 

 「そういえば、百七つ目の鐘、撞けなかったな。せっかくいい数字だったのに」

 

 ちょっとした軽口で空気を和ませようかと思ったが効果なし。

 むしろこれだと責めてるように取られるかもしれない。

 

 そんなことを先走って心配してしまうぐらいに今のフェリシアはどこか弱々しい。

 

 「さっき、クリスティルに会ったわ」

 

 何の前置きもなく無造作に投げられたその名前。

 

 「……大丈夫だったの?他の皆も?」

 

 あの用事というのはこのことだったのだろうか。

 

 「大丈夫ではあるわ。朔が片腕を飛ばされた程度よ、綾理が治療しているから問題ない」

 

 それは大丈夫とは言えないと問い詰めそうになって口を噤む。

 そんなことはフェリシアだって、皆だってわかっていることだろう。

 

 それでも、一人でこうしてここに来たのには大事な理由があるのだ。

 だから黙って続きを促した。

 

 「もう気づいているとは思うけれど、私はクリスティルを知っている。昔からの知り合いなの。久しぶりに会ったあの人は、相変わらず絶対的だった。私も成長したつもりだったけれどまだ遠い」

 

 なんの気負いもなく自然にそれを口にした。

 前のフェリシアであれば間違いなく隠していたであろう弱みを。

 

 「本当なら、私はあの人と戦いにすらならないの。游里や綾理、朔がいても同じことよ」

 

 それは衝撃的な告白であるのだろう。

 だが、それよりも、他の皆を自然に名前で呼ぶフェリシアが嬉しい。

 

 この短期間で確かに何かが変わったよう、あるいは何かを決めたのか。

 

 「それでも、この場所でなら戦いという選択肢があるの。一真、あなたがいるからよ」

 

 「僕?」

 

 特に何かをした覚えもないのだが。

 

 「あなたは存在そのものが一種の、そうね、魔除けみたいなものなのよ。それも街全体に影響を及ぼせる。あなたのその体質は、思っていた以上の力がある。私たちはそれを知って、うまく活用できないかずっと考えてきた」

 

 「そうなの?なら最初から言ってくれればよかったのに」

 

 そんなことをぼやいてみたらフェリシアは苦笑して視線を逸らした。

 

 「そうね、あなたはそう言ってくれるとわかってた。だから、言いたくなかったの、それは綾理も游里も朔も、きっと同じでしょう。あなたには、穏やかな日常を過ごしていてほしかった。その日常の中にたまにでいいから共にいられることが皆にとって大事だった。そう、私にとっては本当にかけがえのないことだったの」

 

 笑みを消して、澄んだ雰囲気を纏いなおして。

 今度ははっきりと視線を合わせてくる。

 

 「だけど、もう日常がどうこう言える段階じゃなくなった。この街に今残っているのはクリスティルとその関係者、そして一部の力ある者達。その全てを、私と三人だけで捌くのは無理なの」

 

 自分の限界を認めて、仲間と手を取り合うことを受け入れて、それでもなお届かない。

 それを言葉にすることがフェリシアにとってどれほど峻険な道程であったことだろう。

 

 「だから、お願いがあるの。一真、どうか、力を貸してほしい」

 

 ――私を助けてほしい

 

 思わず周囲を見回してしまった。

 

 「……何?」

 

 「いや、前に同じようなことを偽物に言われたから。もしかしたらこれもドッキリかなとか思ったり思わなかったり」

 

 フェリシアの口元が引きつったのが見えて、すぐにそれも緩んで諦めたように笑った。

 

 「あなた、本当にいつも通りね」

 

 「まあ、いまいち危険性がわかってないだけだと思うけど。それだけが取り柄だからね」

 

 例えどれほど絶望的な状況であっても、最後まで自分であることが誓いなのだ。

 

 「だから僕の答えも、もうわかってるんだろう?何ができるのか、何をしてほしいのかよくわからないけれど。できる限り力になるよ」

 

 いつも通りに笑い返す。

 

 「もう何度目になるかも忘れたけれど、ありがとう。こんなにお礼を言った相手もきっとあなたがはじめてね」

 

 軽口を返してくれるフェリシアと並んで下の景色を眺めた。

 

 百八つ目の鐘が鳴る、年は進んで二〇〇〇年一月一日。

 二十世紀最後の年の幕が開く。

 

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