『それはどこにでもいる、何にでもいる、誰にでもいる。目を逸らさずに受け入れて。逃げれば逃げるほど大きくなってしまうから』
◇
――ごめんね、だけど私、もう耐えられないの
――お前ならきっとやっていける、誰よりも才能豊かなお前なら
その日、二人は荷をまとめて屋敷から去っていった。
一生戻らぬという契約の元、全てのしがらみを断ち切って。
肩に置かれた大きな皺手。
いつもは大好きなそれも、その日ばかりは自分を掴んで離さない枷のように思えた。
石段を下りていく二人の背を見送りながら唇を嚙み締めて俯く。
本当は叫び散らしたい衝動を堪えて、耐えて、抱え込んで。
連れていってほしいと縋りつきたい弱音を押し殺す。
二人と同じぐらい、あるいはそれ以上に。
いつもは峻厳で堅いその顔をくしゃりと崩して向けられる笑顔が好きだった。
叱る時は怖いけれど、きちんとできた時の言葉少なく不器用な誉め言葉が嬉しかった。
大きく太く、繊細な手つきで頭を撫で梳いてくれるその手が心地よかった。
そして、もう長くはないとわかっているから、隠し切れていない無言の期待に応えたかったのだ。
たとえそれが、二度と戻ることの叶わない呪いの道であるとうっすら理解していたとしても。
だから、自分の運命を受け入れるための鎧を作り上げた。
弱く脆い自分を閉じ込めるための強固でしなやかな入れ物を。
――儂は、二十三代目形代家次期当主、形代 綾理。
◇
目を覚ました綾理はすでに乱れていた掻巻を弾き飛ばして上体を起こした。
汗を吸った白小袖が急速に冷え込んで、たまらず体を震わせる。
定期的に襲い来る
起き上がって大きく深呼吸。
和室には不釣り合いなピンクの四角い目覚まし時計は十二時を指そうとしていた。
昨夜は遅かったうえに疲労も重なっていたがそれでも遅い。
緩んでいる意識を叩き直そうと襖を開けて廊下に出た。
山中に埋め込まれるようにして建てられた屋敷は容赦なく冷気をため込んでいく。
暖房設備もなく、慣れている綾理でも冬は厳しい。
通りがかった一室の襖が全開になっているのを見つけた。
中を覗いてみれば游里が掛け布団を蹴っ飛ばしてだらしなく熟睡している。
寒さも何も感じないと言わんばかりに涎を垂らして幸せそうに。
昨日のことなど忘れてしまったかのよう、本当におそろしく切り替えが早い。
緊張が必要な時、休息が必要な時、今その瞬間に必要な感情を引き出せるのは游里の長所だ。
それが綾理には少しばかり羨ましい、本人には絶対に言わないが。
歩みを再開して台所に向かう。
そこにはすでに起きていた朔が内井戸から水を汲んでいた。
釣瓶から半分地中に埋まった水瓶に片手で素早く移し替えている。
「朔、お主、今日は休んでいてよいのじゃぞ。繋げはしたがまだ完全には生着しておらんじゃろう。大人しくしておれ、人形にやらせればよい」
昨日、腕を斬り飛ばされたばかりだというのに一切の乱れない無表情。
改めて検分してみれば切断面はどこまでも綺麗でなめらかだったのは不幸中の幸い。
神経まで完全に繋ぎ直すことも容易だった。
それでも怪我人には変わりないのだからしばらくは動かずじっとしていてほしいもの。
「おはようございます、綾理さん。いえ、大丈夫っすよ。これぐらいなら片手ですみますから。多少、体を動かしていた方がむしろ治りも早い気がしますし」
相変わらず真面目とは違う、どんな時でも狂わないプログラムという趣。
だが、しばらく共に過ごしていれば多少なりとも人間味があることはわかる。
特に游里と関わる時には明らかに雰囲気が変わる、というより引きずり出されてる感じに見えた。
これまでに培ってきた何かがあるのだろう、堆積された記憶や記録に興味はあるが暴くような悪趣味はしない。
ただ、やはり眩しいと感じるものだった。
綾理は木桶で水を掬うと、流しで勢いよく顔に水を叩きつける。
脳内を占領していた余分なものを濯ぐように。
軽く顔を振って手拭いで水気を吸い取ると顔を上げた。
「よし、今日も一日、頑張ろうかの」
とは言え、やれることはそんなにない。
「一真とフェリシア待ちか。さて、どうなったじゃろうな」
だいたい予測はつくが、それでも気になるものだ。
それにばかり心を割かれるわけにもいかず綾理は地下へつながる部屋へと向かう。
ひとまずは人形造りにでも精を出そう。
これから先、いくら戦力があっても無駄ということにはなるまい。
そんな思考は玄関を叩く音で中断された。
◇
元旦、いつも通りの時間に起きた一真はいつも通り木刀を振るう。
いや、少なくとも精神的には些か趣が違っている。
明確な目的のない鍛錬は終わり、誰かに振るう覚悟を孕んでいた。
フェリシアの、皆の力になるとはきっとそういうことだろう。
いきなり斬りかかるなんてするつもりはないけれど、いざという時に躊躇することのないように。
どんな時でも迷わぬように自分の形を定めていくのだ。
一つ、また一つと振るう度にあるべき形に整えていくイメージ。
これまで茫漠としていた己の内に一つの行方を与えよう。
フェリシアの思いに応えるために、何一つ余すことなく能 一真の全てを賭せるように。
頭の先からつま先まで、指先の一つ一つにまで意志が宿る。
軌道はもはや一分の狂いもなく宙を掻き。
千回目、初動の位置で綺麗に停止する。
汗が冷気で冷まされていく感覚、いつもなら気持ち良いと感じるそれも今はただ冷たいだけ。
でも、それでいい、それがいい。
この覚悟に温かさはいらない。
一度目を閉じて、開いた時にはいつも通りの自分に戻っていた。
それはそれとして、日常の自分は保たないといけないのだ。
かけがえのない日常と言ってくれたフェリシアが安らげるように。
「さあ、柔軟して朝ごはんにしよう」
大きく伸びをしながら室内に戻ると、珍しく欠伸なんてしながら二階から降りてくるフェリシアの姿。
最近は見なくなった下着姿でどこかだらしない雰囲気を醸し出している。
「おはよう、珍しいねこんなに遅いなんて」
「おはよう一真。ごめんなさい、すぐに着替えるから」
そう言いながらもどこか動作が緩慢だ。
昨日、クリスティルに出会ったことが尾を引いているのだろう。
「無理しないでね」と返してとりあえず柔軟にいそしむ。
シリアルを用意し終わる頃にはフェリシアも部屋着に着替え終わってソファに沈みこんでいた。
やはりどこか覇気がないまま湯呑で紅茶を啜っている。
昨日のこと、これからのことを聞こうと思っていたのだが調子が戻るのを待つべきか。
「あんまり気を使わなくていいわよ。きちんと話すから」
シリアルを掬いながら眺めていたらあっさりバレた、見過ぎたようだ。
立ち上がって向かい側に腰かけたフェリシアはぽつぽつと話し始める。
クリスティルとの取り決め、四人の玩具と呼ばれた何者か。
まずはそれを見つけて倒すことが当面の目標。
「問題なのはそいつらが誰で、どこにいるのかまったくわからないところなのよね。近くにはいるのでしょうけれど」
湯呑を置いたフェリシアは重く息を吐いた。
「この街には今、魔術師や能力者が混在しているというのは前にも話したでしょう。そのうちの大半は私たちと、おそらくはクリスティルたちも動いてたんでしょうね、間引いたのよ」
間引いたという言葉が少なからず頭を締め付ける。
だけど、もはやそれを気にする段階ではないのだろう。
死に身を染めていたとしても、そういう世界を歩んでいるのだと受け入れて。
そこに自分も足を踏み入れるのだと決めたのだから。
表情を変えずにただ言葉の先を待つ。
「それでも、まだ結構な数がこの街に潜伏しているの。その中の四人をピンポイントで叩くのは現実的じゃないのよね。だから、取れる手段は大きく二つしかないの。敵から接触してくるのを待つ迎撃戦か、総当たりでこの街にいる不穏分子を叩いていく殲滅戦」
フェリシアは一切、言葉を選ぶことをしなかった。
それが誠意であり、そして戦力であることを認めたからなのはわかる。
「それで、フェリシアはどっちがいいと思うの?やっぱり殲滅戦なのかな?」
だからこちらも言葉を包むことはしない。
影幻界の殺し合いが日常みたいな世界の戦いの経験は少しだけだ。
それも、大事なところはいつもフェリシアや游里さんに任せきりだった。
身を浸しているようでどこか守られていたのだ。
未だに一般的な常識や良心が思考のノイズとなって邪魔をするのがその証左。
それでも、できる限りそれを払っていくように努めよう。
「そうね、少なくとも私はその方針で動くつもりよ。ただ、朔が負傷したこともあるし、他の三人は戦闘要員としてしばらく派手に動けない。街を巡って不審な痕跡を探ったりする程度になるでしょう。そこで、あなたよ一真」
フェリシアが勢いよく指を突きつけてきた。
「言うまでもないことだと思うけど、僕はそんな痕跡とかわからないからね?」
「そこまでしてもらおうとは思ってないわ。あなたは近くにいてくれるだけでいいの」
まったく意味が分からず首をかしげるしかない。
「そうね、どこから説明したものかしら。あなた、ここ最近、誰かに巻き込まれたり自分から突っ込んでいった時以外で影幻界絡みの事件に関わったことある?」
ここ数か月を少し思い返してみる。
「あー、そういえばないね」
はじめて影幻界を知ってからしばらくは霊体とか妖精とか呼ばれる類の気配をよく感じていたもの。
実際、フェリシアとの出会いも妖精犬に襲われそうになっていた時だった。
だが、ここしばらくは確かに突発的に襲われるみたいなことがない。
游里さんに巻き込まれたり自分から首を突っ込んだことはあれど。
「……あれ?というか、ここ最近は気配すら感じないような」
「そう、それなのよ」
フェリシアは身を乗り出してくる。
「あなたの内と外には境界みたいなものがあると前に言ったでしょう?特に影幻界との間にはそれはもう分厚い壁があると私たちは見ているの。普通、影幻界の認識を開いてその実情を知れば知るほど結びつきは強くなる。でもあなたは違うのよ」
未知のものに興奮する研究者のように息を荒げながら早口でまくし立てていく。
「あなたは知れば知るほどに、これは想定するしかないのだけれど、逆に影幻界との距離が離れている。決して別たれてはいないの、あなたの意志一つで関わることもできれば離れることもできると思うの。これは異常なことよ、だけど凄まじいアドバンテージだわ」
「えっと、何が?」
「影幻界から見るとあなたは気配が全くないのよ。隠しているわけじゃない、意図してるわけじゃないから痕跡が全く残らない。あなたが影幻界を覗いても、相手は覗き返せない。つまり、顔が割れさえしなければいない人間として一方的に影幻界の存在を捕捉できるのよ」
まだよくわからないが、あれだろうか。
望遠鏡とかで一方的に遠距離を覗けますみたいな話だろうか。
「なんかそれ、覗き魔みたいでやだね」
「まさにそれね、あなたは影幻界専門の覗き魔みたいなものよ」
肯定された、心なしか肩が落ちた気がする。
「それでね、あなたの近くにいる人間にも少なからず効果が波及するの。直接的な距離はもちろん大事だけれど、それ以上に心理的な距離に応じているものだと見ているわ。あなたが心から、そうね、友達とか仲間だと思えた相手にも少なからず隠蔽がかかるの。あなたは自覚してないでしょうけれどクリスティルの呪いから皆、守られてきたのよ」
どうやら自分の知らないところで力にはなっていたらしい。
「だから、これから街を探索する時には綾理や游里、朔と一緒にいてもらえると助かるのよ。あなたが近くにいれば魔力の気配とかを完全に消せるから。いいえ、消すというのは正確じゃないわね。消す隠すは痕跡が残る、影幻界への造詣が深ければその痕跡を暴いて正確に気配を捉えられる者もいる。クリスティルもそうよ。でも、あなたはそれすら許さない、完全に世界に溶け込むような感じになるわけね」
原理も何もわからないが、とにかく近くにいれば気配を隠し放題の便利アイテムになれるらしい。
そんなことならいくらでもついていくと承諾しようとして、フェリシアはそれを止めるように手をかざした。
「確かに影幻界の力はあなたには届きづらい。だけどね、何度も言ったように物理的な魔法は通る。それに、直接顔を見られれば当然だけれど正体は捉えられる。捉えられて、あなたの体質が露見すれば簡単に対処もできるのよ」
それも承知のうえだが、フェリシアとしてはそこが引っかかるのだろうこともよくわかる。
「昨夜、あなた以外、全員の顔がクリスティルに把握されたわ。だから、一緒にいるところを見られれば関係者だとバレる。街中を泥臭くでも探索されれば居場所も露見することでしょう」
「うん、わかってる。フェリシアは僕のところに直接、敵が来る可能性を心配してくれてるんだろう?でも、それは逆に僕が囮になれる可能性もあるわけじゃないか」
フェリシアは口を噤んで拳を強く握りしめた。
当然、その可能性だって最初からわかっていたに違いない。
それでも、巻き込むまいとずっと思ってくれていたのだ。
「構わないよ僕は、囮でもなんでもね。もう覚悟は決めたから。君の、皆の力になるって」
そんな皆だからこそ、その助けになりたいのだと思う。
フェリシアは勢いよく自分の頬を両手で叩いた、かなり大きい乾いた破裂音が響く。
真っ赤になったほっぺのまま、その瞳はまるで揺らぐことなく真っすぐに。
「いいわ。なら、これからは私もあなたを守るべき相手とは思わない。改めてお願いするわ、一緒に戦って一真」
差し出された手を強く握り返す。
これまで交わらなかった手がようやく繋がれたのだ。
『……うん、一真はやっぱり、どんな時でも一生懸命なんだね』
回の呟きが染み渡る、背後にいるからその表情を窺い知ることはできなかった。
◇
昼前、フェリシアと二人で家を出る。
目指すは形代の屋敷、あのアヤリ事件から一度も訪れてない綾理ちゃんの家。
石段を登りきって潜り戸から中へ。
こうして改めて、落ち着いて周囲を見渡せば近代的なものがほとんど見当たらない。
少し離れたところにはまだ現役と思わしき綺麗に整えられた井戸が設置されている。
相変わらず広大な敷地を横切って正面扉に辿り着けばチャイムなんてものは当然のようにない。
フェリシアは遠慮なく戸を叩いた。
「綾理!来たわよ!」
しばらくするとガラガラと戸が開かれた。
「よく来たの、フェリシア。……それに、一真も。改めて、歓迎しようぞ」
綾理ちゃんは嬉しそうな顔で、どこか硬い声でこちらを出迎えてくれた。
どういう話の運びになったか、自分がここにいることがそれを雄弁に伝えるのだろう。
フェリシアもそうだったがそんなに罪悪感を持たないでほしいと思う。
むしろ嬉しいことなのだ、皆にばかり危険を背負わせたくないのだから。
それにしても、いつもはきっちりと隙の無い恰好をしてる綾理ちゃんにしては珍しい。
髪は乱れ気味で白い薄手の着物だけの姿は見ているこちらが寒くなりそう。
「む?すまぬな、だらしない姿を見せた。ついさっき起きたところなのじゃよ。すぐ身支度を整えるゆえ、少し待ってもらえると助かる」
こちらの視線に気づいたのかそそくさと屋敷内に戻っていく綾理ちゃん。
フェリシアも続いて室内へ、それについて足を踏み入れる。
かつて、死が充満していた内装にはその痕跡一つ見られない。
綺麗で、静謐で、整った印象だけがある。
それが逆にどこまでも無機質で機械的な空気を醸し出しているように見えた。
死体が転がっていた時の方がまだ生の気配が感じられたような気がする。
ここには生も死もないと、そんな考えが頭をよぎる。
おおよそ熱というものを感じられない。
これが綾理ちゃんの住まう世界なのだとしたら、あまりにも寂しいと思わずにはいられない。
ぼんやりとしていたらフェリシアは勝手知ったる我が家のようにどんどん奥へと進んでいった。
慌ててその後を追っていると、途中で台所らしきところから出てきた朔さんを見つける。
「フェリシアさん、一真さんも。どうもっす」
「こんにちは朔さん」
挨拶を返しながら思わず上から下まで見てしまう。
いつも通り、感情を読ませない平静そのものといった顔。
片腕を飛ばされたと聞いていたが傍から見るとまったくわからない。
「こんにちは朔。游里は?」
「まだ寝てますよ。申し訳ないっすけど、起こしていつもの部屋に連れて行ってもらえます?俺は昼めしの準備しますんで。昼、まだですよね?」
「ええ、まだよ」
いつものことなのか諦めたようにため息をついたフェリシアは「お願いね」とまた歩き出す。
今度は開けっ放しの襖の部屋に躊躇なく入っていった。
そこには着替えもせず、布団の上で黒いワイシャツを着崩して眠りこける游里さんの姿。
幸せな夢でも見ているのだろうか、時折「ふへへ」などと間の抜けた笑いが口から漏れる。
フェリシアは足を振り上げると思い切り尻に叩き込んだ。
女性が出していいのかと思えるような短い悲鳴をあげてゴロゴロ転がっていく游里さん。
部屋の端にあるタンスに顔をぶつけてようやく止まった。
「……容赦ないね」
「いいのよ、あれぐらいしないと起きないし」
「よくないわ!毎度毎度蹴り飛ばすな!これ以上、ケツがデカくなったらどうしてくれる!この脳筋魔法使い!」
勢いよく立ち上がった游里さんは額を押さえて涙目で抗議し始める。
毎度、同じように起こされているならそろそろ学習してもよさそうなものだが。
まあ変わりなくて安心した。
フェリシアは澄まし顔でそっぽを向いて全てを受け流す態勢に入る。
お尻をさすりながら立ち上がった游里さんはまだぶつぶつと呟きながらもこちらに顔を向けてくる。
そして、表情が俄かに落ちる、その落差に寒気がするほど。
そこには陽気さもだらしない奔放さもない。
はじめて見る、どこまでも冷めて全てを均してしまうような表情。
「一真、とりあえずここに来たってことは、もう一つの駒として考えていいんだな?」
その声音が、言葉選びが、全て最後の線引きであることは理解できる。
本当に、よく気を使ってくれるものだと胸が温かい。
こうして毎回、きちんとこちらに意志を問うてくれる。
それだけで皆を信頼するには十分だった。
「はい、何ができるかまだわからないけれど。役に立てるなら使ってやってください」
だから気を使わせないように、遠慮なく共に歩かせてもらえるように。
どこまでも自然体で、何の惑いも呵責もなくそう返した。
ほんの少し歪んだ目尻がそちらの方が痛いと告げているようで。
それでも、引くことなく真っすぐ視線を逸らさずに。
游里さんは頷くと顔を緩めた。
「なら、これからは仲間を超えた同志だな。最強パーティの結成だぞ」
おどけたように笑って肩を叩いてくる、そのまま肩を組まれて引きずられるように歩く。
「さあ、何をするにもまずは飯だ!」
そのまま連れ込まれたのは客間と思わしき中庭に面した一室。
枯山水に灯篭や一見無造作に置かれた岩々、苔むした様も風情がある気がする。
一定のリズムで鳴り響くししおどしの軽妙な音、流れ行く水の先にある澄んだ池には大きな錦鯉が数匹見えた。
ここだけ時代が遡ったような、時間の流れが滞ったような閑寂とした雰囲気。
部屋の中央に設えられた端正な長机と慎ましやかな座布団にゆっくり腰を下ろす。
フェリシアは慣れたように正座すると目を閉じて瞑想でもし始めたかのように静かになった。
游里さんは縁側に腰かけると煙草に火をつけてリラックス。
手持ち無沙汰に目を閉じて呼吸に意識を向けてみる、それだけでも心が洗われるよう。
置いてあった急須からお茶を淹れて一口啜れば体と心に染み渡る。
落ち着ける場所という意味ではこれ以上のところはないかもしれない。
静謐な空気というのもそれが一時であれば心を整えてくれるもの。
ただ、これがずっと続くとなればやはり重いと感じるのは庶民だからだろう。
綾理ちゃんはどう思っているのだろう、やはり慣れているのか。
それともやっぱり寂しい思いをしているのだろうか。
いつの間にか我が家の一員みたいになっていた綾理ちゃん。
だが、こうして改めて思いを馳せればほとんど何も知らないことを突きつけられる。
これまでは深く踏み込むことを避けていたけれど、これからはより近くに在れるのだ。
なら、もっと知ることができるだろう、もっと力になれることもあるだろう。
そんなことを考えていると襖が開いて朔さんが入ってくる。
片手に載せたお盆を机の上に置いた、ふっくらした白おにぎりと瑞々しいたくあん。
シンプルでいかにもおいしそうなお米である、思わず喉が鳴った。
「準備できたっすよ、こんなもんしか作れませんでしたがどうぞ」
すぐにでも手を伸ばしたくなったが綾理ちゃんが来るまで待つことにした。
游里さんは遠慮なく手を伸ばして口いっぱいにおにぎりを頬張り始めたが。
それから数分、綾理ちゃんがいつもの典雅な着物姿で現れた。
「待たせてすまんな。さあ、まずは食事にしようかの」
綾理ちゃんが腰を下ろし、手を合わせるのに倣って「いただきます」とおにぎりを齧る。
やっぱりおいしい、適度な塩だけ、梅干しや鮭など具も豊富だった。
フェリシアの凝った料理も良いが、こういうシンプルな男料理みたいな方が身近ではある。
自分で作ってた頃は大体こういうものばかりだったし。
しばらく、各々がおにぎりを口に運ぶ無言の時間が流れた。
そんな中、一足先に遠慮なく食していた游里さんは誰よりも早く満足したらしい。
頬についた米粒を指で掬い取っては口に運び、最後に唇を湿らせてから息を吐く。
「ふー、食ったわー、ごちそうさん。それじゃあ本題に入ろうか」
やにわに身を乗り出して机に頬杖をついた游里さんは一同を見回した。
まったくマイペースな人である、まだ他の皆も食べている途中だというのに。
と思ったが朔さんはすでに食べ終わって游里さんの隣で正座したまま微動だにしない。
印象通り小食らしい。
フェリシアと綾理ちゃんも特に気にした様子はなかった。
慣れたように口を動かしながら軽く顔を向けている。
こういうのを見るとこれまでの積み重ねが見て取れる、嬉しさとちょっとした疎外感。
「当面の敵は四人に絞られたわけだが、その正体も居場所も皆目見当がつかん。わかってるのはこの街にいるってことだけ。これからはどぶ攫いよろしくこの街をひっくり返す必要があるわけだな。これはいいか?」
とりあえず頷いておく、大体聞いたことだ。
「よし、しかし問題が一つ。お前ら、もうすぐ冬休みも終わりだろ?となると、取れる時間が少なくなるんだよなあ。正直、クリスティルの気がどれぐらい長いのかも分からんし、さっさと玩具とやらは片をつけたいところだが」
「あの、それなんですけど。いっそ学校を休むとかダメなんですか?」
生徒会長としてこんなことを言いたくないし、フェリシアの日常を壊したくもないのだが。
緊急事態ならさもありなんと思う、しばらく休むというのも手だろう。
特にフェリシアは元々、この街の人間でもないわけで。
魔法で学校にいるように見せかけているというし目的であるクリスティルを見つけた。
ならそちらに集中すればいいと思うのだが。
「あー、そうか。そこから説明しないといけないのか」
游里さんは面倒な様子を隠そうともせず頭を掻きながらフェリシアに視線を流した。
説明は丸投げということだろう、なんか申し訳ない。
「そうね、一真の疑問は尤もよ。標的と目的がはっきりしてるならひとまずそっちに集中すればいい、道理よね。だけど影幻界の性質上、それが悪手になることもあるの」
フェリシアは顎に手を当てて考え込む仕草を見せた、言葉を選んでいるのだと思う。
「影幻界は不定形の世界であるというのはもう実感できたでしょう?表側の世界に重なるようにして存在する概念的な世界、概念的なものに影響を受ける世界」
「うん、つまり形而上的なものの影響を色濃く受けるんだろう?」
自分で言っていていまいち実感が湧かないところもあるが、まあそういうものだと割り切っている。
「そうよ。そして魔法に限らないけれど、影幻界から表側に影響を及ぼすには接点が必要なの。直接、何かをもってこようとすると修正力に弾かれるのは前にも説明したでしょう?」
「覚えてるよ。魔法とか使わないし使えないからいまいちよくわからないけど」
「そこは何とかイメージしてもらうしかないわね。とにかく、私たちは何をするにしても修正力を欺かないといけないの。じゃあ、ここで問題よ。欺くうえで大事なことは何だと思う?」
突然の質問である、自分で考えた方が吸収も良いということなのだろう。
少し考えてみるもののやはりというべきか、これといったものは思い浮かばない。
そこでふと、天井近くで寝そべるように浮かんでいる回に視線を向けた。
そこにいるのに触れない、なのに確かに存在するという実感。
ある意味で一番全てを欺いているのは回だろう。
いやまあ、他の人には見えてすらいないのだから自分だけが感じるものなのだろうが。
「ああ、そうだね。当然のようにそこに在ることが大事とか?時間をかけるとか、何度も接触してみるとか?」
最初は違和感だった回も今では当たり前のように傍にいる。
そしてそれを受け入れるようになったのはそれなりに長く共にいたからだ。
二年以上の時を同じ屋根の下でずっと過ごしてきた。
いない状態を想像する方が今ではむしろ難しい。
フェリシアは満足したように微笑した。
「そう、当たり前のようにそこに在ることが大事なの。影幻界は一種の場よ、表側の影響を呑み込む情報の集積場。そして、影幻界により情報を呑み込ませた対象は自然と繋がれるの。繋がりが自然なほど修正力を欺きやすい。この街、
「あーなるほどね、つまり常磐市の人間じゃないと街全体に思われたら魔法が使い辛くなる?」
慣れ親しんだ光景に見慣れないものが入り込めばすぐにわかる。
ちょっと不適切な例えかもしれないが、よそ者が街で悪さをすれば露見しやすいということだろう。
逆にその街に昔からいる人間は疑われにくい、少なくとも波風立てずにそこに長期間在ったのだから。
「その通りよ。それが転じて影幻界の勢力争いなんかにも発展するわけね。街規模、国規模、世界規模での影響力の押し付け合いもあるのよ。自分たちの教義やら価値観やらを広げれば広げるほど、それに応じた力を振るいやすくなる」
「つまり、私が日々、遊びまわっているのも一つの作戦なわけだ。この街に流合 游里ありと示してるわけだな」
胸を張る游里さんにフェリシアの冷ややかな視線が突き刺さる。
「まあ、あんまり目立つと名前が割れたりで不利になることもあるから、バランスは大事なのだけれど。あなたはもう少し、大人しくしといた方が無難じゃないかしらね。まあ、むかつくほどに場に馴染みやすいのは認めるわ。すでに偽名が相当有名になってるものね」
游里さんはますます鼻高々という感じに体を逸らす。
フェリシアは呆れたように息をついて改めてこちらに向き直った。
「クリスティルは世界を欺くという点において真正の怪物よ。場の影響をほとんど受けずに高度な魔法を乱発してくる。世界中を転々としながら追手を返り討ちにし続けたその力は伊達じゃない。その実力差を埋めるために私たちは少しでもこの街に根を張る必要があるの。特に私や游里はね、外様だからこそあまり違和感を持たれたくない」
一通り解説し終わったのか、フェリシアはおにぎりに手を伸ばして口をつける。
内容を消化してみればいろいろと腑に落ちた。
だから、フェリシアはわざわざ大魔法とやらで学校に潜り込んだのだ。
游里さんが土木屋やら酒屋やらで交流を深めていることにも意味はあったのか。
「まあ、そういうことだな。なんで、表立って情報収集とかも避けたいところなんだよ。よそ者が街のことを隅々まで調べてるとか怪しいことこの上ないだろ?」
「決して面倒なわけじゃないぞ」と、游里さんは得意げな笑みを向けてきた。
「そこで、お前の出番なわけだ。影幻界の影響をあらかた弾けて、この街に根を張っていて、どこからどう見ても普通の高校生。街を攫う役目にこれ以上、相応しい奴もいないだろ?」
つまり、自分の役目は街の違和感を探り出す役目ということらしい。
「游里には朔が完治するまで、使い魔を通して街を視てもらう。俯視万象はそういう監視網を敷くのに向いてるから。網に引っかかった目立つ敵は私が潰していくわ。一真にはその間、街を歩いて観察してみたり、噂とかそういうのを仕入れてみてほしいの。で、その護衛を同じく、この街に住んでる綾理に任せる。しばらくはそれでいこうと思うの。いいかしら?」
言葉を継いだフェリシアに頷き返す。
異論はない、それ以上の案は素人に毛が生えた程度の自分では思いつかないし。
「綾理ちゃんもいいかな?迷惑かけると思うけど」
ここまで一言も発さなかった綾理ちゃんに視線を向ける。
きっといつも通り、静かに調整役に徹しようとしていたのだと思っていた。
だが、そこには心ここにあらずで明後日の方向をぼんやり眺める綾理ちゃんの姿。
「……綾理ちゃん?」
なんだろう、これまでにない姿だった。
いつもの飄々とした態度も達観した様子も見られない。
憂鬱そうに表情を消した、どこか人形のような有様。
おにぎりも最初の一口で止まったまま、微動だにせずただ座っている。
フェリシアや游里さんも怪訝そうな顔をしている、どうやら初めて見るらしい。
朔さんもほんの少し眉を上げたように見えた。
全員の視線に気づいたのか綾理ちゃんはやにわに姿勢を正す。
「すまぬ、少し疲れが残っておってな。話はわかった、一真には必ず何体か人形をつけておく。儂も同行できる時はしよう」
「本当に大丈夫なの?何かあるなら言ってもらわないと困るわよ?」
いつも通りに振舞おうとする綾理ちゃんを流せなかったらしい。
フェリシアの不器用な優しさに、しかし綾理ちゃんは首を振るのみだった。
確かに様子がおかしい、だが少なからず見慣れた態度でもあった。
「……綾理ちゃん、もしかして学校があんまり好きじゃないとか?」
長期休暇明けには必ずこんな感じの生徒がいる、アンニュイそうに肩を落として歩く人の波。
綾理ちゃんはそういうのとは無縁と思っていた、というかそもそも学校に普通に通っているイメージがなかった。
とは言え、そんなはずはなかったのだ。
力なく笑う綾理ちゃんの顔はこれまでになく弱々しい。
「お主は本当に、妙なところで鋭いな。恥ずかしながらその通りよ。あまり、小学校は好きになれぬ。騒がしくて落ち着かんでな、お主らといる方がよっぽど楽なのじゃよ」
こうして本人の口から言われれば思うところはいろいろある。
特殊な口調、服装は学校でも和服なのだろうか。
であれば異物のように感じる子は多いかもしれない。
特に感受性の強い時期でもある小学生ならなおのこと。
そう、綾理ちゃんだってまだ小学生なのだ。
わかっていたはずだが大人びた態度や振舞いにすっかり慣れてしまっていた。
とは言え、正面からそういうことは聞きづらい。
うまく誤魔化されるのは容易に想像がついた。
フェリシアがちらりとこちらを見る、よく見といてほしいという無言の訴え。
小さく頷き返す、むしろこういう面でのほうが力になれることもあるだろう。
ちょうどいい機会だ、この街の情報収集と並行して綾理ちゃんに踏み込んでいってみよう。