先の衝撃で所々、崩れて穴だらけになった廊下を何とか乗り越えて這う這うの体で校庭に出る一真。
振り返れば半壊した木造校舎、目の前にはでこぼこだらけの校庭と拉げた遊具。
半壊した巨大ロボ、散乱する人体を模したパーツ群。
端的に言って地獄絵図だが、夜の静けさがきちんと戻ってきたのは良いことだと思おう。
校庭中央で固まっている皆の元へ小走りで駆け寄る。
四人の綾理ちゃんが糸の切れた人形のようにその場に横たわっていた。
正直、気になるのだがまずは本物の綾理ちゃんの方へ。
地面に座りこんでいる、疲労の色は濃いが傷などは特に見当たらない。
「綾理ちゃん、よかった無事で」
「これが無事と言えるのじゃろうか。人形共はほぼ全損、儂自身も魔導管と指をやられてしばらく再起不能じゃよ。当分、使い物にならんな」
取り繕うことなく泣き言を漏らすがしかし、さっぱりした顔で息を整えていた。
「フェリシアも、来てくれたんだね。ありがとう、助かったよ」
対して、フェリシアは苦々しい顔で腕を組んで仁王立ちだ。
「お礼を言われるような働きはしてないわよ、最後の後始末をしただけ。あーそれにしてもイライラするわ。あの神父、こうして落ち着いたら本当にムカつくわね」
何だろう、いつもより凶暴さが増している気がする。
触らぬ神に祟りなし、ここは大人しく半歩分の距離を余計に取っておこう。
戦いは終わり、とりあえず息をつく間ができた。
となれば、視線は自然と来る時にはいなかった者達に向く。
窓際で直立していた子供のうち二人は、まだ事態が呑み込めてないのだろう。
人形に寄り添われながらその場に座り込んでいる。
女の子は不安そうに視線を彷徨わせるばかり、男の子は真っ赤な顔で俯いている。
ズボンの染みが目に入った、あれは男であれば恥ずべきものと考えるのもしょうがない。
次に小柄な男に視線を移す、緑の民族衣装のようなものを着込んでいる。
ぼんやりした顔でじっと綾理ちゃんを見つめるばかり。
「……そ奴が、怪物の正体じゃよ。名はグルタという、おそらくは権能の類じゃろうな。お主が知らせてくれた通り、他者の抱く怪物の印象を喰ろうて育つ力を持っておる」
こちらの視線に気づいて綾理ちゃんが解説してくれた。
「誘拐は、怪物の餌を運ぶためだったのじゃろう。そう、怪物のな、グルタではない。罪がないとは言わんが、そ奴に全てを背負わせるのも違うと儂は思う。その処遇は儂に任せてくれんか?」
こちらに異存はないと頷く、透君の件で権能者の自我が薄いのはわかっている。
彼らは一人ではそう大きなことを成さないのだと思う、良くも悪くも周囲の者達や環境に左右されやすい。
もし、これから先に彼、グルタが自分の行動を自覚するのであれば。
その時、その選択を見守りたいと思う。
「フェリシアも構わんか?」
「一つだけ、そいつはクリスティルの関係者、玩具の一人と考えていいのね?」
「じゃろうな。記憶を暴いた時、クリスティルの姿を見た」
フェリシアは難しい顔を崩さなかった、クリスティルの名が出ると大体こうなる。
綾理ちゃんはそれを知っていてなお、正直に打ち明けたのだ。
ここは何とか怒り、のような気がするそれを収めてほしいところだが。
「……はあ、まあ、いいわ。彼を倒したのは、いえ、解放したのはあなたなのだから。大いに遅刻した私が口を挟むことじゃない。きちんと管理はしなさいよ」
フェリシアはそれだけ言うと顔を俯けてぶつぶつと恨み言のようなものを吐き出し始めた。
「あんの邪道神父。何が神よ、絶対に信じてないわよ神なんてあれ。箒も作り直すの地味に面倒なのに。変に気取っちゃって、ああいうのが一番嫌いなのよ。次に会ったら頭から地面にめり込ませてカラスの餌にでもしてやるわよホントにもう」
本当に何があったのだろうか、完全に仮面が剥がれ切っている。
ここまではっちゃけたフェリシアとか見たことない。
もしやこれが素なのだろうか、大晦日の力を貸して発言しかり。
ついに隠れ心の術は打ち止めなのだろうか。
ひょいひょいと、手招きする綾理ちゃんの傍にしゃがみ込む。
「お主は知らんじゃろうが、あ奴は戦いの後、わりとあんな感じに荒ぶるのよ。相手が強大であればあるほど、力を使えば使うほどにな。よほど厄介な者と邂逅したらしいの。まあ、逆立つ小動物みたいで可愛いじゃろう?」
「そこ!こそこそと余計なこと話すんじゃないの!」
しなるような鋭い声が聞こえて思わず揃って肩がすくんだ、綾理ちゃんはすくめたという感じだが。
やはり自分の知らない、戦いの中でしか見えない顔というものもあるらしい。
言い換えれば、本格的に戦いに身を投じたという確かな証でもある。
遠慮なくそれを見せてくれるのが嬉しいと感じてしまうのはおかしいだろうか。
「――さて、そろそろ儂の番でよいかの?忘れたわけではなかろう?」
弛緩し始めていた空気を否応なく引き締める声。
綾理ちゃんと同じ、しかして常に嘲るような高さが付きまとうねっとりした音。
一同の視線が綾理ちゃんと全く同じ形に向いた。
横たえられたその胸には風穴、とめどなく流れる血は地面では吸いきれず徐々に広がっていく。
そんなことは些事だとでも言うように青白い顔で、いささかも衰えぬ気を纏ってくつくつと笑う。
立ち上がった綾理ちゃんはその傍から見下ろすように厳しい目を向けた。
「……改めて問おう、お主、アヤリなのじゃな?」
「他の何に見えるというのじゃ、綾理。間違いなく、お主の娘じゃよ」
同じ声、同じ名前で、どこまでも離れた二人はただ互いを認識する。
同じ赤い瞳が、その奥底まで見通そうとしているかのように。
先に目を逸らした、というより伏せたのは綾理ちゃん。
一度、目を閉じて開きなおす。
光は消えて黒いまなざしが戻ってくる、それは人として普通に向き合うという合図に思えた。
「なぜ、お主がここにおる。生きている、と言っても良いのか?」
三か月ほど前、フェリシアに確かにとどめをさされたはずだ。
アヤリは心底おかしそうに笑みを深めた。
「たわけが、儂は呪いじゃぞ?呪いとは溜まるもの、留まるもの、伝播するもの。儂の記憶や人格の大半は呪いに溶けておる。器さえあれば呪いを伝って己を残すことなぞ容易い。まあ、それが前のアヤリと同じであるかと問われれば、微妙なところじゃな。欠落もあれば、捻れもある。じゃが、本質は変わらん。儂は呪い、人の無価値を尊ぶ人の形よ」
「……あの時の声は、じゃあやっぱり君だったんだね」
形代の屋敷で耳を突いた聞いたことのある声。
あの時は気が急いていたこともあって空耳だと無理やり自分を納得させたが。
「そういうことじゃ、地下の中枢演算核を通じて千切の声帯を借り受けたのよ。お主には一杯食わされたからの、ちょっとばかりの仕返しじゃ。振り返った時の呆けた馬鹿面は笑えたぞ」
憎らし気な顔で容赦なくこちらの心を刺してくるあたり、やはり呪いの面目躍如なのだろうか。
ひとしきり嘲っていたアヤリは唐突にこちらへの興味が抜け落ちて、ただ綾理ちゃんだけを見る。
「綾理、一つ所で制御を纏めるのは便利じゃが、こういう悪用の仕方もあると知っておけ。まあ、言われるまでもなかろうが」
それは間違いなく助言であったろう、だからこそ綾理ちゃんの顔は険しくなるばかり。
「ずっと人形の中におって、儂と同体であることを利用して中枢演算核にまで干渉してのけたのじゃな。なおさらわからん、なぜじゃ?なぜ大人しくしておった?数か月の間、なぜ黙っておった?乱れた儂なんぞ、いくらでも呪いに沈められたであろうに。殺して成り代わることも、不意を突いてフェリシア達に復讐することも不可能とは言えん」
それは避けられぬ疑問だったろう。
人を呪い、弄び、殺してきたアヤリ。
「……なぜ、儂をかばったのじゃ。お前は儂を……恨んでおるのではなかったのか」
その本質が変わらないと言うのなら、なぜ。
アヤリは笑みを消した、欠落した表情なのにそこには全てがあった。
「決まっておろう、満足してしまったからじゃ」
アヤリは弱々しく四肢を動かし、その身を起こした。
綾理ちゃんを、フェリシアを、こちらを順に眺めて目を細める。
「最後の瞬間に、儂は全てを得てしまった。己の生を満ちたものと肯定してしまったのじゃよ。呪いを解体され、体中を切り刻まれて満たされるなど、とんだ倒錯者じゃ。そんな性根で呪いなんぞやっていられるかよ」
――本当に良い生よ!儂は呪い!儂は人の無価値を愛する人の形!
それは、歩み切った者の矜持であったのだと。
「じゃがな、一つだけ心残りがあった。そう、未練じゃ。そのたった一つの未練が、儂を現世に縛り付けておる。それを晴らさんことにはおちおち死んでもいられん」
震える腕を精一杯に伸ばすアヤリ。
綾理ちゃんはその腕を両手で包むようにそっと取った。
「お主、儂の失せものを拾っていったじゃろうが。あれは儂のものじゃ、儂が……
アヤリは笑う。
人形の整った笑いではない、何かを呪う嗤いでもない。
クシャッとした柔らかい、不器用な笑顔だった。
「あれは儂の罪、儂の咎、儂の罰、儂の短き生の全て。じゃから、置いて行け、お前が背負うものではない。お前が受けるものではない」
ただ、それを言うためだけに。
「綾理、我が写し見よ。お主は無価値か?」
「いいや、無価値ではない」
「形代は、お主がいなくともあり続けると思うか?」
「いいや、儂こそが形代の頂点じゃ」
「――――お主は、なんのために生きておる?」
「決まっておろう、儂は
アヤリはまぶしそうに目を閉じた。
「ああ、ああ、それでよい。儂なんぞ忘れて、どこまでも行ってしまえ」
もう、二度と動くことはない。
「アヤリ、たとえお主が己を無価値だと諦めても、儂だけは認めよう。お主の歩んだ道は紛れもなく人の道であったと。見ておるが良い、お主の写し見が歩む道を地獄の底で眺めておれ」
綾理ちゃんはそっと、アヤリの体を横たえるとしばらくその顔を眺めていた。
悲しそうではない、悼んでいるわけでもない、平坦な顔でただじっと。
アヤリが作られてからあの事件が起こるまで、二人の間に何があったのかはわからない。
だけどきっと、二人にしかわからない時間があったはずなのだ。
それは余人が入り込めるようなものではない。
フェリシアもそれはわかっているのだろう、ただ静かに二人を見守るだけ。
因縁ある相手だろうに、こういうところはやはり律儀だと思う。
やがて、綾理ちゃんは立ち上がると大きく頭を下げた。
「すまんな一真、フェリシア、言いたいことの一つもあったろうに」
首を振る、自分の中ではもう終わったことだ。
アヤリのしたことを受け入れられはしないけれど、死にゆく者に鞭打てるような立派な人間でもない。
「気にしなくていいわ。あの敗北は私の未熟、牙の抜けた獣に八つ当たりして無様の上塗りをするつもりもない」
言い方はあれだが、これでも気を使っているのだろうことはわかった。
綾理ちゃんはもう一度、深々と頭を下げる。
上げた時、そこには一つの覚悟が宿っていた。
◇
まだ覚束ない、それでも迷いない足取りで綾理は二人の小学生の元へと向かう。
そんな綾理を見て二人もまた、立ち上がった。
距離は縮まり、どうあっても見間違えることのできない場所で向かい合う。
(……何を、言うべきなのじゃろうな)
もう二度と会えぬと思っていた少女、こうして再び向き合う機会を与えられた。
だがこの場は一時の夢のようなもの、後始末として行方不明期間の記憶は消去される定め。
今、何を言ってもあまり意味がないがそれでも、もう逃げないことは決めた。
あの日、無体を働いたことへの謝罪も、これからの展望を語ることもまだ早い。
だから、綾理はもう一歩、踏み出して真壁由美の体を勢いよく抱きしめる。
「無事でよかった、お主が生きていてくれてよかった」
今はただ、心の底から湧き上がったその言葉をありのままに。
「あ……う……うああん!」
その熱に、言葉に、何もわからずとも伝わってくる思いに。
真壁はようやくその緊張を解いた。
縋りついて泣きじゃくるその存在を感じながら、綾理はあやすようにその背を撫でてやる。
「……おい、ババア。結局、これどういうことなんだよ」
その様子に村上少年も元の調子を取り戻したのか、少し居丈高気味に綾理を睨む。
声とは裏腹に、膝をすり合わせて内股気味な恰好は情けないことこの上ないが。
「気にするでない、これは夢のようなものじゃ。次に会う時には綺麗さっぱり忘れておるよ。じゃが、お主の勇姿は、うん、本当にかっこよかったよ。忘れないでいてあげる」
綾理は屈託のない顔で村上少年に笑いかける。
それがあんまりにも素直なものだから、思わず顔を背けるのも仕方があるまい。
「……なんだよ、いつもそうやって普通にしゃべってくれれば。俺だって、その。……これまで、悪かったよ。それと、たぶん、助けられたんだよな。……ありがと」
そっぽを向いて、真っ赤になって謝る横顔を見つめながら思う。
やはり人にはいろんな顔がある、そしてそれは己次第でいくらでも引き出せるのだ。
綾理は最後にひときわ強く真壁を抱きしめると、魔力を流しこんでその意識を刈り取った。
ショートした魔導管でも、抵抗力のない一般人を気絶させるぐらいは何とかなる。
この役目は、己で引き受けなければならないと思ったのだ。
村上少年も人形の手で素早く気絶させられる。
二人を人形に預けて、ようやく張っていた気を全て解いた。
「では、また今度じゃ」
ぐらりと、綾理の体が傾く。
「綾理ちゃん!」
慌てて駆け寄ってくる一真やフェリシアの姿を最後に綾理は意識を失った。
◇
それから一週間ほど、綾理はほぼ寝たきりで過ごすこととなった。
「まあ、何はともあれ三人とも無事なら最良だろうさ。助けられる奴らは連れ帰れたことだしな。後始末は私とフェリシアに任せて、ゆっくり寝ろ」
どこか浮いた足取りで去っていく游里の言葉を受け入れて久方ぶりにゴロゴロ過ごす。
世話は大体、人形に任せていたが夕方になると必ず下がらせた。
「やあ、綾理ちゃん。体の調子はどう?」
放課後になってひょっこり顔を見せては、毎度同じように尋ねてくれる。
「一真さん、いらっしゃい。今日は何を買ってきてくれたんですか?」
その柔らかいながらもブレない雰囲気は、綾理にとってやっぱり安心できるものだった。
自分の全てをさらけ出したことで完全に遠慮がなくなったこともある。
これが恋なのか、憧れなのか、ただの依存なのか。
歩き出した今の綾理にはわからなくなった、あるいは先々で変わることもあるかもしれないけれど。
「今日はね、スーパーで牛乳プリンなんぞを買ってきました。これ、おいしいんだよねえ」
「いいですね、じゃあ、あーん」
それもまた、歩きながら考えていけばいいことだ。
指が使えないことを言い訳にして、ひな鳥のように口を開けて待つ。
「はいはい」と、微笑しながら運んでもらえるプリンを味わいながら。
今は素直に甘えていようと笑う。
しばらく、そんな時間が続きその日がやってきた。
朝、起きた綾理はしばらくじっくりと体を動かし、概念的な経路に意識を潜らせる。
未だ違和感や断絶が見られるが日常生活に支障ない程度には回復した。
外出用の着物を着付けて、少し早めに家を出る。
いつも通りタクシーに乗り込んで学校への道をぼんやり流し見るのに務めた。
途中、コンビニに立ち寄りその日の朝刊を買ってページをめくる。
半ばあたりに小さなブロック、行方不明事件の記載。
【常磐市連続行方不明事件、終結か】
●日未明、常磐市内の閉店していたドライブインで、行方不明となっていた小学生十五人が発見された。
いずれも目立った外傷はなく、全員が行方不明前後の記憶を失っているという。市内では一月に入ってから行方不明事件が相次ぎ、被害が小学生にまで及んだことで付近一帯では警戒が強まっていた。
警察はストレスによる集団失踪の可能性があるとみて経緯を調べている。発見された児童に対しては、児童心理の専門家による心のケアが行われる。
依然として行方の分かっていない被害者も多いが、新たな被害は確認されておらず、事件は一応の終結を見たとみられる。
専門家は「小学校という閉鎖的になりやすい空間において、いかにして児童を保護するかがこれからの課題」と……。
綾理は新聞を座席に放り投げた。
監理庁の後始末もあっただろうが、どうやら游里とフェリシアはうまくやったらしい。
小学校はまだ警戒を解いてはいないが、行方不明だった子供たちもすでに登校を再開したと聞いている。
聞いてはいたものの、こうして新聞に載ったことを確認するとようやく一区切りがついたと実感できた。
後は綾理としての人生を歩むための最初の難関を乗り越えねばならない。
学校に到着し、いつもなら保健室に向かうところを職員室の方へ。
無機質な、傷と経年劣化で少し汚れた灰色に近い扉。
何の変哲の無いそれが巨大な石門であるかのように感じられる。
あまりにも重く、固く、重厚だ。
綾理は一度、大きく深呼吸して高鳴る心臓を鎮め。
小さくノックを二つ、勢いよく扉を開け放った。
当然ながら石門なんてものはイメージで、あっさり開いた扉はけたたましい音を響かせる。
「失礼する」
中にいた教師たちの視線が一斉に綾理に向いた。
「ひぃ!」
短い悲鳴も一つ聞こえる、綾理のクラスの担任だ。
迷わずそちらへ歩を進める、近づくにつれて担任の顔は青く、白くなっていく。
「か……形代、さん。どうしましたか?その……ここしばらく体調不良で休んでいたようですが、何か問題でも?」
目の前に立った綾理に、背もたれいっぱいにのけ反りながらそれでも精一杯、声を出す担任。
他の教師が固唾をのんでこちらを見つめているのがわかった。
ある意味で放課後の警戒状態よりなお緊張が高まるのもわかる。
自分がどれほどのことをしでかして厄介者と化していたのか理解せざるを得ない。
綾理はまず、深々と頭を下げた。
「石野先生、まずは謝らせてほしい。これまでの無礼、本当に申し訳なかった」
ざわりと、職員室がさざめく。
「あの形代さんが頭を下げた?」
「何があったんでしょうか?」
「また厄介ごとを持ち込むつもりなんじゃないだろうな?」
あまりの動揺だったのか、小声のつもりで丸聞こえだが綾理はただ頭を下げ続ける。
「あ、いや、頭を上げてください」
慌てた様子で手を振る石野先生。
「大丈夫、大丈夫ですから。その……生徒のわがまま……、あ、いえ、決して形代さんがわがままというわけでは。とにかく、生徒と向き合うのも教師の仕事なわけで。その、こちらこそ、これまで放っておいてしまい、すみませんでした」
頭を上げた綾理はその顔を正面から見やる。
どこか引きつった笑顔で、それでもこちらを見ようと努めてくれていた。
それがどれほど難しく、得難いものであるか今の綾理は知っている。
この先生のことも、やはり自分の身勝手できちんと見ていなかっただけ。
「いいや、全ては儂の責任じゃ。先生が謝ることではない。じゃが、ありがとう」
もう一度、軽く頭を下げて、顔が見られない態勢で最後の覚悟を固める。
「それで、今日は頼みがあって参った。……面倒を増やして恐縮じゃが、くらすの方へ戻りたい。どうか、力を貸してもらえんじゃろうか?」
再び職員室に衝撃走る、ひそひそざわざわと交わされる会話の中で。
高田先生だけがただ、穏やかに微笑みながら何度も頷いていた。
「わかりました、職員室前で待っていてください。一緒に行きましょう」
驚き固まっていた石野先生はやっとこさそれだけを告げて、朝の会の準備に取り掛かる。
綾理は「失礼した」と職員室を辞すと廊下の窓から校庭に目を向けた。
少しでも遠くを見て気持ちを鎮めたかったのだ。
続々と登校してくる生徒たち、行方不明事件の影響などは特に見られず表情は明るく軽い。
廊下を歩く生徒も増えてきた、綾理を見て怪訝な顔を見せる者もいる。
その全てが、今の綾理には色づいて見えた。
故にこそ痛い、過度な情報は目を、思考や感情をも摩耗させる。
これが、普通に人の和の中に入るということなのだろう。
耐性がなさすぎるだけかもしれないが、こんな世界で生きてきた者達に少なからず尊敬の念が募った。
そんな小難しいことを考えて時間を潰す、職員室の扉が開いて先生たちがそれぞれの担当へと散っていく。
「お待たせしました、じゃあ、行きましょうか」
最後に石野先生が出てきて、綾理に声をかけて歩き出した。
(ああ……逃げ出したいのう)
伊達に半引きこもりをしてきたわけではない、足は重く心は暗い。
消化しきれない黒いもやもやが綺麗さっぱり消えてくれるわけでもない。
でも、覚えている、勇気を出して立ち向かった情けない姿を。
確信している、今の自分には受け止めてくれる者達がいる、戻る場所がある。
その背を見ていてくれる者がいるのだ。
それを信じて、ただ前を向いて、向こう見ずな意志に倣おうと気合を入れ直した。
わずか二分足らず、長いような短いような間にクラスが見えてくる。
「では、少し待っていてください。呼んだら入ってきてくださいね」
綾理は黙って頷くだけ。
石野先生が教室の中に消えて、朝の会が始まる。
何事か言っている声が聞こえるが、意味ある言葉として耳に入らない。
ただじっと、どこともなく視線を固定させて緊張を誤魔化す。
「形代さん、どうぞ、入ってきてください」
扉が開いて、石野先生が顔を出す。
一歩、中へと足を踏み出した。
大量の視線が突き刺さる、見られるという行為もこれだけ増えれば暴力だ。
不躾な、冷淡な、少なからず嘲りを含んだ目、目、目。
教壇に立って教室全体に視界が開ける。
見慣れた顔は二つだけ、一つは軽薄そうに笑う村上少年。
もう一つは、驚いたような怯えたような顔をする真壁。
あの夜の記憶は失われて、ただの他人へと形を変えた。
「皆さん、形代さんは勇気を出して皆さんと一緒に学校生活を送りたいと来てくれたのです。温かく迎えてあげてくださいね」
「はーい」と、身の無い返事が響き渡る。
石野先生もそれはわかっていたが、今はどうすることもできない。
「形代さん、席は窓際の最後尾の空きを使ってくださいね」
綾理が黙って最後尾の席につくのを見届けられて朝の会は終わる。
石野先生は不安げな表情を隠しながら教室を出た。
どれだけ言い聞かせようが子供たちを完全に制御することなどできはしない。
後は、綾理の意図とクラスの子たちの態度次第。
静かだった、ほんの少しの物音が騒音に感じられるほど張り詰めた空気。
それを破ったのは、やはりというべきか村上少年だった。
クラスでは綾理をいじめる筆頭で、いわゆる一軍男子。
それがプレッシャーということもあったのかもしれない。
自分を大きく見せないといけないという少し歪みかけた動機に駆り立てられたのかもしれない。
「よう、ババア。わざわざ弄られに来るなんて馬鹿な奴だな。保健室に籠ってのじゃのじゃ言ってればよかったのによ」
クスクスと、クラス中に広がる忍び笑い。
何人かは目を逸らして黙って俯くばかり。
助ける者は誰もいない。
綾理は顔を上げて村上少年を見た、あの時のかっこいい姿はどこにもなくて。
でもやっぱり、どこかに眠っているはずなのだ。
だから、綾理は勢いよく立ち上がる。
その手を振りかぶって、思い切り村上少年の頬を打った。
バチコンと、乾いた音が鳴る。
スンと、教室中が静まった。
痛みはあった、衝撃もあった、だが村上少年の心を占めたのは驚愕一色。
これまで黙って人形のようにされるがままだった少女がいきなりの反撃だ。
振るわれた暴力への怒り、恥をかかされた羞恥で顔が真っ赤に染まる。
「てめえ、ババア!こんなことしてただで済むと――!」
「だまらっしゃい!このたわけものが!!」
衝動のままに怒鳴り散らそうとした村上少年が、教室中の全員が。
それを上回る凄まじい綾理の剣幕にあっさり臆した。
「ババアババアとうるさいんじゃこのすっとこどっこい!この口調はな、亡き祖父が残してくれた形見のようなもの。馬鹿にされる筋合いなどないんじゃ!あんまりなめた口ききよると奥歯がたがた言わせてやるぞこの大ぼけぇ!!!」
綾理の熱のこもった罵声と、それに反比例したあまりにも冷たい視線に教室の空気はジェットコースター。
死にかけの魚のようにぱくぱくしていた村上少年はその言葉を咀嚼して。
気まずそうに顔を逸らした。
「……その、悪かったよ。知らなかったんだ」
その謝罪に綾理は表情を崩して大きく頷く。
やっぱり、きちんと言うのは大事だなと思うのだった。
「ふん、まあ良いわ。これまでいじめられた分は、今のびんたで手打ちにしといてやろうぞ」
「ああ」と、村上少年は消沈したまま席に戻る。
教室の外、隙間から教室を覗いていた石野先生はそっと扉を締めた。
いざという時は止めに入ろうとスタンバイしていたのだが、この分ならもう大丈夫だろう。
足取りは心なし軽く、職員室への廊下をスキップでもするかのような勢いで歩いていく。
その気配に気づいていた綾理は内心で礼を言いながら真壁の元へ。
あまりの出来事に小動物のように縮こまっていたその姿を前に間髪を入れずに頭を下げた。
「すまん、真壁。あの時は酷いことを言った。ずっと謝りたかったのじゃ。遅くなって本当にすまん」
真壁は目を白黒させながら、何のことやらと記憶を掘り起こす。
記憶干渉の影響で時間がかかったようだが、どうも保健室でのことを言っているらしいと思いあたった。
「あの、あの事なら別に、形代さんは悪くないよ。むしろ、悪いのは私だったのに……」
「いいや、お主は悪くない、断じて悪くないぞ。鼻つまみ者だったのに、話しかけてくれて本当に嬉しかったのじゃ。自信を持て真壁、お主はいい奴じゃ」
ストッパーはもはやぶっ壊れて、マシンガンのように言い募る。
真壁は若干、引き気味ながらもその頬はほんのり赤い。
「それでじゃな、お詫びというかお礼というか、とにかくこれを受け取ってくれ」
綾理は巾着からモコロコの人形を四つ取り出すと机に並べた。
「これ、好きじゃと言っておったよな?」
「え!これ、いいの!」
よほど好きだったらしい、先までの怯えや戸惑いはどこへやら。
両手で人形を抱えると抱きしめるようにして頬ずりする。
小動物が小動物を愛でているようで何ともなごむ光景だった。
「ありがとう、形代さん!大事にするからね」
真壁の顔を綻ばせたお礼。
「……どういたしまして、じゃ!」
綾理は笑顔を返した。
蕾が花開いた刹那のようなぎこちなく、されど愛い満面の笑顔だった。
◇
その夜、綾理は夢を見た。
もうほとんど寝たきりで、目を開けている時間すらわずかだった祖父。
だがその日、布団の上で体を起こしていた姿は活力に溢れ、その目は煌々と光を宿す。
灯火将に滅せんとして光を増す、それが最後の時であることを綾理は痛いほど見抜いていた。
その傍らにしゃがみ込んで、祖父の体に寄りかかるように身を預ける。
ゆっくりと、いつものように、巌のような手からは想像できない優しさで髪を梳くように撫でてくれた。
互いに何も発さない、近いうちにこの日が来るのはわかっていた。
人形造形を通じて言葉なんぞでは伝えられない無限にも思える意を汲み交わしてきたのだ。
「……ねえ、おじいちゃん。どうして、私たちは人を模らないといけないの?」
それでも最後に一つだけ綾理は問うた。
その時は、その問いが何を示すものか自覚していたわけではなく。
ただ漫然と最後の機会に何となく思っていたことを尋ねただけだった。
それを、祖父は本当に嬉しそうに受け取った。
「そりゃあな、理解するためよ。余すことなく人を模れば、それは人を完全に理解したことになるじゃろうて。理解したのなら、より尊き何かをきっと目指せるはずじゃと、少なくとも儂はそう思ってこれまでやってきたのよ」
その言葉は、人生の全てを人形造形に捧げてきた者だからこその重み。
「でもな、儂は決して答えにはたどり着けないと理解できちまった」
それは、それでもなお届かないという諦観。
「それでも、お前ならな、綾理ならもしかしたら全ての果てへたどり着けるのかもしれん」
それが、祖父がずっと、綾理に無言のうちにかけていた期待。
わかっていた、この小さな背中に全てを背負わせることになると。
それでも綾理の才はまるで瑕疵のない本当の完璧であるかのように見えたのだ。
その期待に、綾理は全て応えてくれた。
弱音を吐かず、文句も言わず、恨み言をも持てず。
まだ十にも満たぬ齢で形代の悲願、人そのものを模る技術を体現せしめた。
本当に、己には過ぎた孫であったと何度、思ったかしれない。
その献身に応えてあげなければ、解放の道を残してやらねばならない。
最後の灯は純粋に、ただの綾理という女の子の道を照らすために。
「じゃがな、例えたどり着けんでも気にするこたあないぞ」
俯いていた綾理はようやく顔を上げた、これまで見たことのない穏やかな祖父と視線が交わる。
「確かなもんなんぞなんもなくったってなあ、それでも最後に残るもんがある。それを見つけてやることが、つけてやることが儂らの、形代の真のお役目なんじゃからな」
そう、形代はただ、形なきものに名を捧げる。
あらゆる不浄を受け止めて、それでも確かにそこにあったのだと示してやるために。
「綾理、忘れるでないぞ。形代の本質は罪や穢れを受け祓うこと。その先にある何かを信じてな。そこに辿り着くのがお前か、あるいは別の誰かのために淀みを貫き払うのか。それは綾理、お前自身が決めることじゃて」
綾理はきょとんとした顔で、ただ首を傾げるだけだった。
今はそれでいい、いつか誰かが。
隙間なく纏われてしまったこの子の鎧を剥いでくれる者が現れた時。
形代の名が呪いに変わってしまわないように、最後の祓えをこの子に与えよう。
「ほんに、ありがとうなあ、綾理」
その顔をそっと手で包み込んで、額を合わせて目を閉じる。
燃え上がった最後の熱を全て綾理に移すかのようにして。
形代
「……おやすみ、おじいちゃん」
◇
扉から差し込む陽の光で、綾理は目を覚ました。
「……ほんに、懐かしい夢を見たな」
綾理は体の調子を確かめるように全身を動かしていく、疲れは不思議とさっぱり取れていた。
布団から抜け出て客間へと、中庭へと向かう。
休憩時、祖父と共に並び眺めたその場所は昔と変わらず整っていた。
「いや、同じなわけもないな。四季の風情もあれば、自然の不規則さもある」
綾理の眼から見れば、それは明らかなことであったろうに。
これまでそんな些細な違いを意識することすらなかった。
いつもの定位置、中庭の中心軸となる縁側に腰かけて全体を視界に収める。
ときおり吹く風が縦横無尽に木の葉を揺らし、池の水面を波立たせるのが見えた。
「……おじいちゃん、結局、私にもわからなかったよ。ただ、思い通りに模れないことが分かっただけだった」
人とは、どうあがいても理解できぬものであるらしい。
そも器に収められる、収まっているようなものではないのだろう。
どんな形であれ、常に何かを求めてのたうち、苦しみ、そして笑う。
「そんな当たり前のことを理解するのに、形代は千年を要したんだ。ふふっ、あっはははっ!」
それが心底おかしくて、馬鹿らしくて、綾理はお腹を押さえて笑った。
「はあーっ。……でも、うん、一番馬鹿らしいのはやっぱり私だ」
千年の集積、その全てを分け与えられておきながらそんな簡単なことを理解するのに十年以上を要した。
「でも、それでいいのかもしれない。積み重ねた時があったから、きっとここまで腑に落ちたんだ」
綾理は立ち上がる、停滞はこじ開けられ、倦怠は払われた。
今はただ、未来への希望に満ちている。
その道の先がどれほど暗く淀み、苦痛と苦難に濡れていたとしても。
惑うことはもうないだろう、進むべき道はもう見えているのだから。
「さあ、今日も一日、頑張るとするかの!」
――私は二十三代目形代、名は綾理
――深い闇の中でそれでも、もがきあがく者達のためにこの身の全てを捧げよう
――形代の、人の歩みには価値があるのだと証明するために
――それが私の歩み始めた道、誰かと共に歩んでいく道