荒い息が夜の街に吸い込まれていく。
路地裏に身を滑らせ壁や非常階段、室外機などを伝って上へ。
屋上伝いに街の境界線へと脇目も振らずに走る。
もう少し、あと少しで街から出られるはずだった。
「……キヒッ!」
甲高い笑い声が耳に届いた、同時に腿に走る鋭い痛み。
物陰から伸びた手、握られたナイフが深々と突き刺さっている。
バランスを崩し倒れ込んだ男に飛び掛かる影は両手のナイフで肩を切り裂いた。
正確に腱板を根こそぎ切断する手腕は手慣れている証拠。
「つーかまーえたあ!さあ、お手術の時間ですよお、キヒヒ」
緑のパーカーに黒の短パンの小柄な女だった、フードの下で大口開けて独特の笑いを響かせる。
月明かりを反射して鈍く光る鋭角気味な歯先が、己が捕食者だと主張するかのような畏怖を与える。
「まて、やめろ!何が……何が欲しい!金か?情報か?できる限り用意するから……だから、これだけはやめてくれえ!」
もはや絶叫に近い男の声はただ、女の心を悪い方へと沸き立たせるだけ。
「だめえ、お金……は欲しいけど、お前なんかが用意できるはした金なんていりませんってばあ。その中身の方が高く売れるんだからさあ、ちょうだいよお!」
女はポケットから取り出した五センチ四辺の紙を両手で挟み込む。
魔法陣の描かれたそれは魔術師であれば見慣れたと言っていいもの。
魔導管譲渡の際、対象の内側から引きずり出すための汎用化した魔法。
そも、魔導管とは概念的なもの、個々人の世界観の中に息づくものだ。
故に実体はなく、しかし一時的にであれ形を与えることに成功した者がいる。
それに魔導管と名付け、譲渡可能な機構として成立させた。
千年以上前、とある魔術師が到達した偉業であった。
その魔術師が何を考えていたのか、今となっては知る者はほとんどいない。
ただ、一つだけ言えることがあるとすれば。
少なくともその意図からだいぶ外れた使われ方をしているのは確かだということ。
魔導管は影幻界に携わる者にとって一種の通貨と化している。
それ自体に価値を見出す者がいる、であれば剥奪者もいるのは自明の理。
人生の簒奪者は、影幻界では珍しくない。
紙が溶けて女の腕が淡く光る、男の胸に当てられた掌から全身へと光が流れ込み。
ずるりと、腕を引くと同時に何かが引きずり出された。
それは全身を巡る血管、血管だけが自立した人型のような魔導管。
ありきたりな形状、イメージとしてはド定番。
「ああ……あああああ!やめろ、やめてえええ!!」
全身が痛む、凄まじい激痛が精神を、遅れて体を貫く。
まるで血管の中に針でも流されたかのように満遍なく突き刺さる。
だが、それ以上に、あまりにも耐えがたい喪失感が全てを蝕んでいく。
まるで己の歴史が蟲に喰い荒らされていくような慄然。
自分が自分でなくなるかのような希薄化。
男は瞬時に老けた、三十半ば程度に見えた外見は八十近くの老人のように。
髪から色素が抜け落ち、手足は力を失い、終わりを刻み込まれたような皺顔。
その喪失の絶望が、女にとっては何よりの宝物だった。
「キヒ、キシシシシシシ!」
笑いながら空いた左手を振るうと、パーカーの袖口からやけに長い巻物が転がり出る。
筒の長さだけで女の身長をゆうに超える、どう工夫しても袖に入れられる大きさではない。
それは転がるに任せて解け広がっていく。
そこには様々な形状の何かが貼りついていた。
実体のない魔導管は本来、現実に触れることができない。
器から引きずり出されれば瞬時に揮発するはずのもの。
女はそれを巻物の空きにぺたりと、シールでも貼るかのようにくっつけた。
まるで絵画のように平面状に均された魔導管を撫であげて頬ずりする。
「うーん、特に面白くもない形状だけど、これはこれで愛着がわくよねえ。単純でかわいいっていうかあ」
「んんーっ、はあ。相変わらず変な趣味してるよねーアザミって。そんなグロいものに乙女回路全開にしてないでさあ、真のカワイイを演出しなよ。せっかく女の子に生まれたんだから」
欠伸交じりの甘ったるい声音がせっかくの清冽で冷たい夜の空気を粘ついたものに変えた。
心底、嫌悪の表情で振り返る女――アザミはその先にいる珍妙な影を睨む。
一言で表すなら、目に痛いだった。
ゆるく巻いた藍色の髪、サイドツインは内側だけ蛍光ピンクとミント色に染め分けられて暗闇で派手に存在を主張している。
喉元には黒のチョーカー、銀のハート型の南京錠が月明かりを反射して鈍く輝く、愛とでも言いたいのだろうか。
丈の極端に短い黒革のフリルボレロ、煙ったピンクのキャミの胸元には白いレース。
黒とピンクを交互に重ねた三段のティアードミニが膝上二十センチで膨らみ、その下に透ける黒のニーハイと銀のガーター。
厚底にもほどがあるブーツのくせに足音一つ立てずにのんびりと歩み寄ってくる。
歓楽街に生息していそうな珍種の生物。
うるさい、存在全てがうるさい。
「……
「はあ、わかってないなあアザミは。これからは私が時代の最先端なの、絶対にそうなるの。ギャルなんて廃れるって絶対、これからはキュートアンドハニーの到来だよーん」
言動まで痛い珍獣である。
アザミはこの生物が決して好きではないがその実力は認めていた、器用貧乏だが何でもできる万能型。
先の奇襲も琉朱の隠蔽のラブリーネックレス――そう呼ばないと効果が発揮されない――とかいう激しく面倒な魔道具のおかげだ。
「というかあ、ほんとに今までどこ行ってたのお?おかげで無駄に走り回る羽目になったじゃない」
「ごめーんね、でも遊んでたわけじゃないよ?」
目をウルウルさせて、両手を顎の下につけた上目遣い。
間違いなく遊んでやがったなとアザミは確信した。
「そんな疑り深い目で見ないでよ、本当に遊んでないって。ただ魔力補給をね」
最悪だ、遊んでいるより質が悪い。
「ほらあ、私ってカワイイじゃない?だからさー、男の人にナンパされちゃってー。ちょっとそこのピンクのホテルでひと汗かいてきたのよ。性術で魔力補給。ああー、それにしても興奮され過ぎて、激しく叩き付けられたからお尻が痛いわー。カワイイって大変だよねー」
「わかった、もういいから黙って。耳が爛れる」
いつもどこか間延びするアザミの声が鋭く平坦になる。
短い付き合いだが琉朱にもそれがガチにキレてる合図であることはわかっていた。
これ以上は関係悪化につながるなとお口チャック。
冷たい夜風が二人の間を通り抜ける、憔悴しきった男はそのまま絶命していた。
それを一顧だにせず、どちらからともなく二人は歩き出す。
「それでえ、次の獲物は決まってるんでしょお?」
「うん、黒の御旗の中枢幹部が依頼くれた。珍しいよー、あの人が直接依頼を投げてくるの。相当、重要なブイ・アイ・ピーなんだろうねー」
「そういうのいいから、誰なのお?」
「流 游、本名は流合 游里」
アザミは足を止めた、どこか陰鬱だった顔が凄惨な笑みに彩られる。
別に個人的な因縁があるわけではない、ただ一方的に思っているだけ。
それでも、向いてしまうのだからしょうがない。
「あの流、この近くにいるんだあ。あああ、楽しみだなあ、どんな形状なんだろう?きっと、面白いんだろうなあ」
(心底楽しそうでこっちも笑けてきそうだけど、魔導管は引き抜けないんだよねー)
今回の依頼、流合 游里は生け捕れと条件付き。
状態は問わず、多少傷物になっても構わないとは言われている。
彼女は生まれながらに影幻界と接点を持つ特殊な才能を持ち、後天的に師から魔導管を譲渡された二重越境者だと聞いていた。
故に魔導管を引き抜いて即死する可能性は限りなく低いが、とはいえリスクは冒せない。
(まあ、今それ言ったらアザミのテンションがダダ下がるからヒミツー。ああ、カワイイ子は気苦労が多いものだよねー)
内心でウインクしながら舌を出す、想像の中でもカワイイのが琉朱のこだわり。
夜の街を二人の魔術師は歩いていく。