「あ~はっははははは! ほら食え喰らえ! 遠慮するな!」
ご機嫌な游里さんに勧められるまま、カウンター席に腰かけた一真は豚の角煮を舌の上で溶かす。
箸であっさりと切り分けられるほど柔らかく、ほろほろでおいしい。
おいしいのだが、なぜ自分はこんなところにいるのだろうと頭を抱えたくなる。
午後十一時を過ぎた頃、場所は商店街の端にある居酒屋。
本来なら時間を度外視しても、誰といても訪れる場所ではない。
「あら? これ美味しいですね。今度、家でも作ってみようかしら」
隣ではフェリシアがカレイの煮物をお淑やかに口に運んでいた。
まったく動じることもなく、むしろ慣れた様子で馴染んでいる気さえする。
お嬢様モードのくせになんと庶民的なのか、どこにいても空間を支配するような強烈な存在感。
場違いなはずなのに自然体で当たり前ですみたいな顔が一切崩れない。
違和感を覚える方がおかしいのではという気さえしてくる。
フェリシアお嬢様はどこでもご機嫌でよろしゅうございますね。
「……まずい。まさか匂いだけで酔っ払ってきたとか?」
思考が明後日の方に流れていくのは慣れない酒の匂いの嗅ぎ過ぎか。
游里さんもクリスマスの時を除けば家で酒を飲み漁るということもないし。
「おーす、大将。今日も一杯って……一坊? なにやってんだこんなところで? 両側に女侍らせて夜遊びとは、ついにグレたか?」
見知った八百屋の親父さんが目を丸くして見てくる。
視線が痛いのは心が重いせいか。
「まあ、いいんじゃないかね。むしろこれまで良い子過ぎたんだよ。たまには羽目外せばいいさ、游ちゃんがいるんなら大丈夫だろ。それよりむしろそっちのお嬢ちゃん、最近よく並んで買い物するところを見ると思ったら、やっぱり一真のこれかい?」
魚屋の親父さんが小指を立てる。
わりと興味津々なのか、探るような下世話な笑みを見せた。
『はあー! なあに抜かしてるのこの赤ら狸! ふざけたこと言っているとノックアウトだよ!』
『シュッシュッ!』と口で風切り音を再現しつつ、回が下手なシャドーボクシングを見せながら大否定。
今日ばかりは嬉しい、もっと言ってやれ。
自分以外には聞こえないからあんまり意味はないけれど、心の清涼剤は君だけだ。
「あら、嬉しい。でも、私なんかが一真さんに釣り合うわけありませんから。游さんと一真さんのご厚意で、日本のお食事とか文化を教えてもらっているのです。自己紹介が遅れましたけれど、私、フェリシアと申します。一真さんの家にホームステイさせてもらって桜台高校に通っております」
フェリシアがわざわざ立ち上がってお辞儀すると、それだけで居酒屋の中に熱気が迸る。
優雅な振る舞いと可憐な微笑みに見とれる男ども多数。
中には知った顔の既婚者もいる、奥さんに言いつけてやろうか。
「こりゃご丁寧にどうも。一真、むしろお前の方が釣り合わん感じだぞ、大事にしてやれよ!」
すでに半分酔いつぶれてるのか、当の酔っ払い親父共はフェリシアのセリフなんかどこ吹く風。
大口開けて笑いながら勝手に邪推して、想像を膨らませながら肩を叩いてくる。
ある意味では愛妻家なのかもしれない。
ちょっと見直したけれどやかましいのは変わらず。
それにしても今のフェリシアのこの街での設定はどうなってるんだろう。
心配せずともうまくやっているとは思うのだが、その渦中にいる自分の印象がどんどんヤバくなっていく気がする。
暗示なんかも自分関係のことについては印象などを完全に記憶から消したりできないらしい。
前に翔にやった時のように関係性を誤魔化したりするのが精々とのこと。
つまり、フェリシアや游里さんと一緒にいた事実を知られたら消せないのだ。
変な噂、夜の街を歩く生徒会長とか女遊びに興じる腹黒とか。
そういうのが立ってしまうと甘んじて受け入れざるを得なくなる。
考えただけで胃が痛い。
「おい親父共! 若い二人に絡んでないで、私と勝負しないか! 今日の酒代かけて飲み比べしよう!」
「いやに決まってんだろ。酒屋の飲兵衛がやられたザル相手に勝てるかってえの」
多分まったく意図してないだろうが、游里さんの助け舟で気がそれた。
親父さんたちは游里さんの隣のカウンター席に腰かけると、三人揃ってテンション上げまくりながら高笑いを響かせる。
改めて、なぜこんなことになってしまったのか。
別段、大それた理由はない。
姿を見せておびき寄せようという何ともざっくりした作戦だった。
この街に今、どれだけ游里さんを狙う敵がいるのかわからない以上、待つだけなのは悪手。
多くとも街に強烈な印象を与えるほどの人員は導入しないだろうと読んでいるらしい。
影幻界の場の性質から戦力の大量投入は街を落とす気でもなければむしろ悪手だそう。
少数精鋭か、そこそこの練度の者達が多くても数十人程度だと。
その程度なら虎穴に入らずんば虎子を得ず、あえて敵の只中に姿を見せて釣ろうというわけ。
横に座るフェリシアをこっそり横目で窺ってみれば気負いなど微塵も感じさせず、ほうれん草のお浸しに感心している。
逆側を見れば親父さん二人と別の人たちの座敷に混ざって盛大に酒盛りをはじめていた。
こちらとしては数十と聞けばそれだけでお手上げのように思えるが二人ともまったく気にしていないのだ。
まあ、敵は游里さんのことを知っているかもしれないがフェリシアのことは知らない。
当然その強さも、游里さん曰く規格外とのことだが実際のところどうなのか。
アザミや琉朱という名前の二人組を見ても自分じゃ比べられなかった。
正直、不安は大きい。
だが、自分の体質のおかげで魔法的な探知に引っかかる可能性がほぼないこと。
故に小細工を弄されることはない、仮にあっても魔法的なものであれば見破れる。
むしろ問題になるのはそれ以外の手法。
あるいは時間をかけてじっくり街に根を張られ準備を整えられること。
だから、相手に時間を与える前に、あえて夜の襲撃されやすい時間帯に游里さんの姿を見せつける。
綾理ちゃんは屋敷で待機、朔さんは姿を隠して独自に動く。
誘われていることは向こうも早々に見破るだろう。
それでも、敵からすれば逃げるか隠れるかされた方が厄介なのだからおそらく来ると。
ここはベテランの皆の判断を信じて作戦がうまくいくようできる限りのことをしようと決めて。
万事うまくいけば数日中には大勢は決するかもしれないとすでに三日。
この三人で夜の街をひたすら練り歩いている。
一昨日は夜の歓楽街にあったダンスクラブでもみくちゃにされた。
昨日は街の外周あたりのアウトロー達の溜まり場なんかを刺激して肝を試す羽目になった。
むろん、警察のご厄介になってしまうという意味でだ。
そして居酒屋、本当に決まるのならさっさと決まってほしい。
こんなこと毎日やっていたら胃が爆散する。
「おっしゃ、二人とも行くぞ。代金は親父共が払ってくれるとよ」
頭を抱えていたら游里さんが戻ってきていた。
いつの間にかワイシャツのボタンが一つ外れている。
座敷の方では親父さん二人に他のお客さん達もまとめて突っ伏していた。
色気に屈して勝てない勝負に挑んだのだろう。
さっきの感動を返してほしい、もはやかける言葉もなし。
「それじゃあ、ごちそうさまでした」
すでに店の外に出てしまった二人に続くため、大将に礼を言って席を立つ。
「お粗末さま。何してるか知らんが、あんまり無茶はしないようにな。でもまあ、またいつでも来い。酒はだせんが料理ならいつでも作ってやるからよ」
「……はい、また来ますね」
もう一度、黙って頭を下げてから暖簾をくぐる。
陽気に鼻歌を歌いながら千鳥足の游里さんと、姿勢よく凛と歩くフェリシアを追って歩き出す。
ずっと一人だと、一人で生きていくものだと考えていた。
だけどそうじゃない、何だかんだで見守ってくれる人はいるとここ最近、実感することが多い。
何も考えず生きていくだけだった時には気付かなかったこと。
こうして仄暗い世界に身を浸して、決して縁のなさそうな皆と出会ってはじめて見えるなんて皮肉なことだと思う。
ありがたいことだ。
だから自分も皆を、游里さんを守りたいと思うのだ。
「……はじめてだな、誰かを守りたいなんて」
今思えばずっと、どこかで拒絶していた気がする。
自分は自分、他人は他人だと。
能 一真としてどうあるべきかが全てで、それ以外は二の次だった。
自分の悪癖、人付き合いが苦手なのもここら辺に原因があるとわかっている。
それでも直せなかったものだが、ここしばらく機能不全に陥っているように思えた。
何というか、他人を受け入れられる余裕が増えたというか。
少し前の自分ならどんな理由があれ、夜の居酒屋なんて絶対に足を運ばなかっただろうに。
いつからだろう、どこか撓み始めた気がするのは。
――なら一つ忠告、もしこの先に行けば一真はもう今まで通りには生きられない
そうだ、きっとあの時からだ。
回の忠告を受けてなお、路地裏へと飛び込んだあの時こそが――。
「……一真、そろそろ気を引き締めろよ。お出ましだ」
どうやらぼんやりしていたようだ、こういうこともここ最近増えた。
頭を振って雑念を追い出す、合掌して緩んだ心を引き締め直す。
いつの間にか游里さんの足取りがしっかりしたものへ変わっている。
フェリシアが少し重心を落とした。
今回、敵を引き寄せるために目立つものは何も持たずに出てきている。
自分の役目はなるべく全体を見ながら不審なものを探すこと。
しかし、こんなところで敵が襲撃してくるのだろうか。
商店街を抜けて五分ほど歩いたところにある生活道路。
夜間工事で五人の作業員と警備員が一人、ライトが周囲を照らしていてよく目立つ。
発電機や工事用の機械がそれなりに大きな重低音を周囲に振りまいていた。
警備員が事情を説明するためか、誘導灯を振りながらゆるやかにこちらに近づいて来る。
空いている手が背中側に回されて、防寒着の内側から取り出されたのは少し長めの黒い筒。
見間違いでなければ、映画なんかでよく見るお馴染みのハンドガンではないか。
「口を閉じてなさい、一真!」
フェリシアの鋭い声、間髪入れずに凄まじい力で襟首を掴まれ宙に浮く。
一瞬後、それまで立っていた場所の地面が抉れたのが見えた。
連続して響く鈍い破裂音が重低音に紛れて揉み消されていく中、建物の影へと引きずり込まれる。
「おいおい、マジか。あれソーコムだぞ、Mk23型のガチのやつ。どこぞの特殊部隊か、まさか特警を引きずり出してきたんじゃないだろうな」
一拍遅れて飛び込んできた游里さんが銃を抜きつつぼやいた。
「天網の工作員が監理庁の介入はないと断言したのでしょう? あなたの家がどのぐらいの影響力を持つのか知らないけれど、さすがに上の命令を翻すのは無理じゃないかしら。元特警ぐらいが妥当じゃない?」
「いや、そもそも特警って何さ! 魔術師が相手じゃなかったの!」
思わず声が強くなるが今回ばかりは仕方がない。
この二人は実銃で撃たれてるのになんでここまで冷静なのか。
魔法や超能力云々より画面の中とかでしか見たことのない武器の方が百倍恐い。
「特務警備隊。通称特警、境界機動隊と呼ばれることもある組織だ。この国の対影幻界戦力、監理庁の実行部隊の一つだな。魔導管を移植されて、認識を強制的に開かれた兵士で構成されてる。基礎的な汎用式の活用、魔道具とか霊的干渉可能な近代兵器で武装して、物量で影幻界由来の事件や妖異を押し潰すんだよ。個々の力量はそこまででもないから大きすぎる、あるいは異例の脅威には対処できない。あくまでも先遣隊みたいな立ち位置に過ぎないが、現実の軍隊よろしく合理的で無駄と容赦がない」
つまり、本物の兵隊さんということではないか。
「うお、本格的にヤバいかもしれん。アパートとか一軒家の中から、ガッチリ装備で固めたのがわらわら出て来た。ここら一帯は掌握されてるっぽいな。MP5SDまで持ち出してきたぞ」
「それどういうものなんですか!?」
少しだけ顔を出して様子を窺っていた游里さんの危機感を感じられない解説に声が裏返る。
「サプレッサー、消音器付きのサブマシンガンだな。静かに敵を始末する時に使う」
殺す気まんまんじゃないか。
武装した男が一人、見える位置に飛び込んできてサブマシンガンとやらを構えてこちらを狙う。
本物の兵器、冷めた目線、相手を人として捉えない切り離し。
個人としての情を押し隠した集団としての機械的な挙動。
恩寵の園の子供たちにも感じたがこういう在り方が一番、きつい。
見るべきものがない感覚は己の無力感を増大させる。
停止する思考、やけに緩やかに見える動き。
引き金を引かれるより前に、游里さんの銃から赤の魔弾が射出され男が吹き飛ぶ。
向かいの家屋の壁に叩きつけられてうめき声すら上げられず意識を飛ばしたようだ。
「さて、少々予想外だったけれど。まあ、やることは変わらないわね」
フェリシアが緩慢な動作で立ち上がると軽く体を伸ばし始める。
「二人ともここで待ってなさい」
そのまま軽快な足取りでふわりと物陰から路地へと体をさらけ出した。
「な、ちょっとフェリシ……!」
あまりの暴挙に体が自然と動く。
立ち上がって物陰に戻そうと手を伸ばす。
「……すまんな一真、許せとは言わないよ」
そんな温度の抜け落ちた声が背後から、唐突に後頭部に走る衝撃が最後の記憶。
◇
堂々と路地に姿を晒したフェリシアは物陰で倒れ込む一真と、それを支えゆっくり壁にもたれかけさせる游里を横目で確かめた。
動揺はない、非難もない、それが元より相談済みであったことをはっきり示している。
少なからず胸が痛むが事態はすでに動き出した。
後は加速させるだけ、クリスティルとの対決を前に不安要素は減らしておきたい。
視線を前に戻すと遮蔽物に身を隠す、ざっとわかる範囲でも二十はいる兵士たち。
突如、姿を晒した敵に小さな困惑を覚えているのを感じ取れた。
フェリシアは見せつけるように魔力を練り上げる。
認識を開いた兵士たちはその膨大さに息をのむことも忘れた。
元より比較する対象が存在しない、ここまで強大な力は兵士たちの戦歴の前例になく。
自分たちが知っている最大の力、御影ですら力の総量だけで言えば霞んで見えるほどの存在感。
兵士たちの目からは消えたようにしか見えなかった。
次にその姿を捉えたのはフェリシアから最も近い一軒家の塀、その裏に陣取っていた男。
腹を狙う拳の軌跡がやけにはっきりと。
形代の防護式を刻まれた防弾ベストの上から鳩尾を打ち抜かれた。
その衝撃を受け止めるには己の感覚は鈍すぎると。
男は実感するより早く腹の中の物全てを強制的に押し出されてそのまま意識を飛ばして地面に沈む。
阿鼻叫喚などという遊びは与えられない。
一人一人、次々と意識を刈り取られてすでに十人がやられた。
銃を撃つどころか構える間すら見出せない圧倒的な力の差。
それでいてフェリシアの顔はどこまでも無、ともすれば退屈そうにすら思えるだろう。
敵として見られていない、ただの障害物に過ぎないのだと刷り込まれていく。
機微を殺す兵士たちの閉じた精神をこじ開けて恐怖がねじ込まれていく。
十一人目の男があっさり気を奪われてその場に倒れ込んだ。
それとほぼ同時、木造の古いアパートの一室から無謀にも人影が飛び出してくる。
何の小細工を弄することもない、一直線にフェリシアに飛び掛かった。
「……っ!」
それを裏拳で迎撃しようとしたフェリシアの動きが急ブレーキを踏む。
見るまでもなく普通の中年の女、鍛えられた体もなければ魔力もない一般人。
アパートの住人だろう、その目は虚ろとも恍惚ともとれる濁りで霞んでいる。
抱き着くようにして動きを封じようとしてくる女の力はフェリシアからすれば微々たるもの。
だが人間としてはかなりのもの、脳の制御が追い付いてないのか限界まで力を引き出されている印象を受けた。
間違いなく操られている、おそらく意識を刈っても動き続けるタイプの心身束縛。
安易に打撃を与えれば重篤な後遺症を残しかねない。
その逡巡が兵士たちにとっては反撃の狼煙となる。
女を巻き込むことも厭わず、四方から複数の射線がフェリシアに固定された。
「こいつら――!」
フェリシアはとっさに女を片手で引きはがすと、そのまま近くの生垣に放り投げる。
ゼロに近いタイムラグで霊的存在に干渉可能な、魔言を刻まれた銃弾の一斉掃射。
顔面だけをかばいながらその全てを体で受けるフェリシア。
数秒の間、弾切れになるまで撃ち尽くされてなお立っている。
服は銃弾で所々破れて散々だが、露出した肌にはほとんど傷がない。
内出血程度、皮膚すら撃ち貫くことの叶わない圧倒的な強化魔法。
その瞳が燃えるような怒気を湛えた、それだけで歴戦の兵士たちは叱られた子供のように委縮する。
それでも次の動きへと機械的に移っていく、マガジンの装填へと駆り立てられる体。
その時間を稼ぐように別の家から、物陰から一般人と思しき者達が走り寄ってくる。
フェリシアはそれをあえて無視した。
まずは兵士たちを制圧しないと被害が増える。
「……キヒッ!」
その判断の隙間を縫うように、一般人の波に紛れて疾走するアザミ。
両手に持ったナイフが照明を反射して煌めく、瞬きすら許されぬ一瞬の隙。
フェリシアはそれを正確に捉えていた。
その一瞬を人外の反射速度と動きで無理やり埋める。
ナイフが振るわれるより速く、踏み込みと共に腹を打つ拳。
内臓が破裂しかねない衝撃で口から吐血してなお、アザミは笑みを崩さなかった。
体が後ろに流れていこうとする刹那、袖から薄っぺらい何かが滑り出てくる。
それは急速に膨張し琉朱の形を取ってフェリシアの肩を掴んだ。
「捕まえたよ~ん!」
ようやく、フェリシアの顔に驚愕が刻まれた。
それでも体だけは滑らかに拳を叩きこもうと流れ。
タイミングは紙一重、それでも琉朱の方がわずか上を行く。
「
ブチュッと、フェリシアの首筋に琉朱の肉感的な
腹に添えられた拳はそれ以上、進むことはなくその動きを完全に縛られた。
◇
何の因果か教祖モドキとなった少女は初めからそうだったのではと思えるほどに堂々と。
まさしく天職という感じで人々の懊悩や拭いきれぬ罪の記憶、本来なら晴らすこと叶わぬ悔いを濯いでいった。
弁が立つわけでもなければ厳かなオーラに包まれているわけでもない。
どこまでも自然体で、ちょっと口が悪くて、だけど率直なその在り方は人々に好まれた。
はじめのうちは肉とか野菜とかお菓子を供えられて目を輝かせ笑って齧っていた少女だが、そのうち噂が広まって金銭や貴重品を貢物として参ずる者が出始める。
少女は生活するのに必要な分は躊躇なく頂いていたが、逆に言えばそれ以上には興味もなかった。
用意してもらった空き家に陣取って日がな一日、興味深そうに誰かの話を聞いて。
そこに付随する念があればそれを汲み取り、特に考えもなく思ったことを吐き出す。
その言葉に感謝したり、泣き崩れたり、歓喜したりで何かを置いて去っていくのだ。
家の中が金や貴金属、宝石や芸術品で満ちていく。
そうなると、それを求めて取り入ろうとする不埒者も現れそうなものだが不思議とそういうことはなかった。
時に人以外の動物や植物であっても、無機物に対してまでもそこに宿った念を己に降ろして言葉に変える。
人と接する度、人外と接する度、非生命と接する度、少女は透き通る青空のごとく全ての上にあるように。
邪な企みも、矮小な欲望も、切羽詰まった自己像も、その全てを白日のもとへとさらけ出されるようで。
その少女を目の前にした瞬間に、不純な者達は全てをぶちまけて懺悔よろしく赦しを乞うた。
少女はそれを眺めながら「何を私に許してもらうことがある」と慈悲深いかのように返すのだ。
それは、どこまでも人界の情念から離れた、触れる気もない無関心に過ぎないけれど。
受け流されるということが、どこにも留まらぬということが時には薬にもなるのだと。
重く持て余した何かに足を引かれる者ほど、何の形でもない雲に何かを見出すかの如く。
その在り方に囚われ、想念は解体され、手を伸ばそうと全てを捧げるようになっていく。
あらゆるものが乖離したまま、その全てが奇跡的に噛み合っていく。
やがて、身の回りを世話する者が現れ、宝物を守る番人を自称する者が現れ。
いよいよもって小規模ながらも組織だった動きを見せ始める。
そして、少女はその場にいることに飽いて全国巡りへと繰り出した。
「おー、すごいな。世界にはもっと広々とした場所もあるってのに、これだけでも身に余る贅沢だ」
北の雄大な大地はお気に召したよう。
「なんだこりゃ。ごちゃごちゃしてて見るに耐えない。近くに置くくせに何も受け入れちゃいない、気持ち悪くないのか?肉が寄り添い合ってるだけだぞ」
中心部は少女の気性にはまったく合わなかったようだ。
「これが海か、取り込まれて沈みそうで怖いな。これだけは触れられない」
海辺の町は少女にとっては鬼門だった。
全てがはじめて己の目で見た景色、動き出した心、望んでいた生の実感。
そのはずなのに、新しいものが入ってくるたびに少女の何かが欠落していく。
それでも、少女は接心をやめることはなかった。
「あの、この子のことを見てやってくれませんか?いつもいつも、何かを潰しては変な笑い声をあげるんです。きっと、悪魔に憑かれてるに違いありません」
とある町で娘を連れた母親の相談にのった。
まだまだ小柄な、パーカーで顔を覆ってこちらを見ようともしない女の子。
少女はその頭を両手でそっと挟んで包み込むようにして、フード越しにじっとつむじあたりを凝視する。
「難儀なことだな、そんなものを抱えて生きていくのか。大変だろうが言うべきことは何もない。その欲望も嫌悪も全て、お前がお前である証。逃れられない楔だ。……羨ましいよ」
「え……あの?」
母親の困惑を意に介さず少女は背を向けもう振り返ることはなかった。
女の子はこれまでに出会ったことのない類の少女の背中を黙ったまま、ただ見つめてた。
そんなことを幾度、繰り返しただろう。
何かの目線を、淀みを、指向性を、
全てを俯瞰する神にでもならんとせんばかりに、あらゆる様をただフラットに眺め続けた。
それは既存の世界観からの乖離であり、新たな世界観の創造であり、故に宣戦布告である。
この国に根を張る者達、簒奪せんとする者達、法を敷こうとする者達はその暴挙を見逃さない。
◇
南の地、熱い日差しと乾いた海風が心地よかった。
供をしていたのは十数人、普通の人達、心離れた殉教者たち。
前触れはない、宣言なんて当然ない。
ただ、寄り添い合えば侵し合うしかないというだけの話。
足で行ける最後の到達地、崖の上に立って海の先を見ていた少女。
それを囲むようにしていた男女が何の抵抗もできずに切り裂かれて崖から海へばら撒かれた。
少女は振り返る、顔にはほんの少し笑みが見えた。
魔性だとカソックに身を包んだ男は思う。
見る者を、否、見た者をこの地から引き剝がす羽。
己にではない、元よりこの少女にはつけるべき足が、休めるべき羽が存在しない。
常に開かれた翼で飛び続けたまま、すでに帰り難くなっている。
どうでもいいことだと男は無理やり思考を切った。
思考を引き裂かれたこと自体がこの少女の異常性を示している。
これだけの感応力、表側の耐性を持たない人間であれば即座に己を見失っても仕様がない。
だが、今少女の目の前に立つ男はすでに別の世界観に埋没している。
「我が神の御世到来のため、影幻を乱す異端を討滅せん。恨むなら恨むがいい、お前にはその権利がある」
おそらくそのような機能はあるまいが、せめてもの礼儀として男は慈悲の十字を切った。
左肩から右肩へ、胸を指し額へと上がる。
影よりあらわし、果てへと至る覚悟の印。
世界は胡乱なり、故に我らが神の法を不確定な世界へ敷くのだという信仰を抱いて。
別の信仰になり得る存在は看過できぬと男は腰に帯びていた十字架を両手に握った。
太陽の下にあっていささかも衰えぬ浄化の光、断魔の刃と化して構えを取る。
少女は漫然とそれを眺めていた、そんなものは届かないと確信しているかのような態度。
男は一歩踏み込もうとして、衝撃で足元が爆ぜたことで退いた。
現れたのはこの暑さの中、真っ黒なローブで全身を覆った性別不明の何者か。
人の身でありながら影なる世界の底へと至ろうとする者達、そんな奇特な魔術師達が集まって生まれた組織の構成員。
その周囲の空間が圧縮された圧で微かに歪んでいる。
少しでも影幻界を豊かにするためにその少女が欲しいと主の代わりに猛る風。
さらにもう三人、特警の構成員が銃火器を構えて油断なく。
全体を視界に収められる位置に陣取って一同を見据えていた。
異なる三つの影響圏がそれぞれの思惑で少女を取り囲む。
その拮抗はあっさりと崩れた。
まずは目の前の疑いようのない敵を排除せんと少女を無視してぶつかり合う。
少女はただそれを眺めていた、時折足を動かして位置を調整する。
風が頬を撫で、銃弾が頭上を掠め、眩しい光に目を細めながら。
台風の目よろしく静かな場所でじっと全てが終わるのを待っている。
やがて、静かになった。
誰も動かなくなった崖の上で少女は一人、微笑むだけだ。
「やれやれ。出遅れたと思いましたが、まさかこんなことになるとは。知っていたのですか?」
少女はここに来て初めて、微かな興味に引きずられて声の方へと顔を向ける。
眼鏡をかけたスーツ姿の男がゆっくり歩いて来る。
頼りなさげな優男という風情だが、その内に宿る確固たる意志を少女はありありと感じ取った。
「……お前が私を殺す者か」
唐突な断定に、男は動じることなく頬を掻く。
「ええ、まあ、そうなりますかね」
「そうか。なぜと、一応聞いておくべきなんだろうな、こういう時は」
まるで他人事のような少女の、のびのびした言葉に男は思わず忍び笑い。
「ふふ……いや失礼。そうですね、あなたはやり過ぎました。意図していたわけではないでしょうが、無自覚に多くの者達を刺激し過ぎた。その結果がこれです」
血を流して倒れ伏す五人、海に呑まれて消えていった少女に狂わされた者達。
それは全てお前の存在に由来するのだと、男は取り繕うことなくはっきり突きつけた。
少女は思わず吹き出した、久方ぶりの自然な笑みだった。
「そうなんだな。なら、その責任を取らないといけないか。お前なら、まあ諦めもつく」
少女は目を閉じて手を大きく広げた。
男はそれを見て取って、ゆっくりと少女に近づいていく。
ほんの数センチ先に立ってこちらを見下ろしているのが少女にはわかっていた。
その手が伸びてくるのもわかっていた。
だが、それがぽんと頭を撫でるように置かれたのには虚を突かれたと認めねばなるまい。
思わず目を開いた少女は男の何とも言えない顔を見た。
それは憐みの顔であったが、それを向ける者がこれまでいなかったために少女には理解できない。
ただ、この男が自分と同じ目線に立っていることだけが少女にとっては確かな真実。
「あなたの存在は確かに毒です。しかし、そう在ることは罪ではない。それを裁く権利も、強さも私は持っていないのです。だから、依頼主には怒られそうですがしょうがありません。あなた、私の弟子におなりなさい。その力の使い方を教えてあげましょう、その後であなたを殺して差し上げます」
そんなことをあっさり言ってのける男に、少女は珍しく年相応の馬鹿面を見せつけて。
心の底からおかしいと、大きな笑い声を響かせた。
その日、少女はとある魔術師の弟子となった。