そして、世界は別たれる   作:・黒箱

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少年と魔術師達⑤

「ほら、起きて。起きろ。起きろってばこのドンガメ!」

 

 とある田舎、と言うにはいささか謙遜しているような、自然が満ち溢れている森の中の洋館。

 窓を開ければ肺いっぱいに満たされる青くさい、未だ慣れない緑の匂いに顔をしかめる。

 どちらかと言えば自然を好んでいるが、これはいささか行き過ぎだと思わなくもない。

 

 少女の一日はそんな館の主を叩き起こすため、けたたましいフライパンとお玉で一人合奏曲を奏でることから始まるのが常となっていた。

 

 当のご主人様本人はまるで何事もないかのように、革張りの肘掛け椅子で眠りこけたまま。

 「毎朝起こすのがあなたの最初の仕事です」と言われたものの一度も成功したことはない。

 

 はじめてこの男に会った時は温和な態度の内に強固な意志を、ともすれば寒々しいほどの何かを感じたもの。

 しかし、ふたを開けてみれば何のことはない、ただ時間感覚の皆無なズボラであるというだけの話。

 

 朝も夕も関係なく、寝たいときに寝て起きたい時に起きている。

 したいことをしているように見えるし、何かに心煩わされている感じもない。

 

 ある意味では大物かもしれないと少女は諦めたようにジト目を向けるばかり。

 

「まあ、これはこれで、修行ではあるのか?」

 

 自分が誰かを振り回すことはあれど、振り回されるというのは得難い経験だと無理やり理由をつけておく。

 

 とにかく、何したところでこの男が起きることはまずないので後は待つしかなく。

 少女はいつも通り床に散乱するあれやこれやの一つ、よくわからない大きな木箱の上に登って腰を下ろした。

 

 時間にルーズであれば趣味も無軌道なのだろう。

 男の執務室なのかすらわからないこの部屋は種々雑多、国籍不問なカオスの海に溺れていた。

 

 しかも増える、定期的に増殖していく。

 

「……これ、何に使うんだろう?」

 

 ここ最近、新しい住人となった木箱の横に立てかけてある謎の木彫りの仮面を拾い上げ、しげしげと眺めてみる。

 それだけで魂がどこかに飛ばされてしまいそうな、なんとも不気味な顔と装飾。

 

 棚を見れば毒々しいオーラを纏っているかのように見える壺とか。

 目玉を模した――模した物であってほしい――精巧な台座に乗った置物とか。

 

 水晶のドクロとか、毛の生えた指みたいなのとか、十字架や五芒星みたいなポピュラーな飾りとか。

 超常の世界に身を浸す者の隠れ家とはこんなものかと少女は特に気にしてはいなかったものの。

 

 趣味悪いとは常々思っている。

 

「うーん」

 

 気の抜けた欠伸に椅子の方へ顔を戻せば、男はゆっくり椅子から立ち上がって体を伸ばしていた。

 

「おはよう、師匠。相変わらず幸せそうな目覚めで何よりだよ」

 

 ほんの少し抗議の棘を込めてみるが、実際のところそこまで怒ってもいない。

 今日はむしろ早い方、時には数時間、座りっぱなしのこともある。

 慣れただけであるが、慣れてしまえばなんてことはないのだ。

 

「ええ、おはようございます。今日は森がへそを曲げているようですね。少し敵愾心が強めで目が覚めてしまいましたよ」

 

 森がおかんむりってどういうことだと少女は思うが、まあそういうこともあるだろうと受け流す。

 この男の言うことをいちいち真に受けていてはやっていけない。

 

 木箱から飛び降りるとさっさと扉の方へ退散する。

 

「早く食堂に来てくれよ、せっかくの朝食が冷める。あんたに付き合って冷たい激マズスープを飲むのはもうこりごりだ」

「あれはあなたの作り方が悪かったんですよ。具なしスープをどうやったらあそこまでまずくできるのか。案外、錬金術の才能があるかもですね」

 

 笑う男に思わずという体で、勢いつけて手の中のお玉とフライパンを投擲する少女。

 涼しい顔で軽々と片手でキャッチされてしまうのが憎たらしい。

 

 鼻を鳴らしてさっさと一階の食堂に向かう。

 足音はたたないが、どうせいつも通り男もついて来ているだろう。

 

 さて、洋館とは名ばかりでここはそこまで広くない。

 二階建てで、本館だけがこぢんまりと森の中に佇む黒を基調としたシンプルなもの。

 

 とは言うものの少女と男以外に住人はなく、二人で住むには大きすぎる場所だった。

 それでいて家主は家事や整理整頓といった俗世間の常識からは一線を引いている。

 

 この館に連れてこられ、はじめて取り掛かったのが掃除だったことは苦い思い出。

 元来、少女は育ちの良いお嬢様だったわけで、わりと綺麗好きなところがあったらしい。

 埃や水垢にまみれた空間で淑やかに寝ていられるほど我慢強くないのだ、矛盾しているが。

 

 あてがわれた部屋と、よく使うようになったキッチンやバスルームを綺麗にするために骨を折ることとなった。

 

 おまけに舌も肥えていた少女は、男の味付けも何もなしに肉や魚を丸ごと焼くだけの料理モドキ。

 青野菜をボウルにぶち込んだだけのサラダ、果肉交じりのミックスジュースといったメニューに耐えきれず。

 

 早々に机をひっくり返して自ら料理担当になることを胸を張って宣言した。

 

 そんなこんなで少女の家事スキルはほんのちょっぴりアップする。

 とりあえず、何でも焦がしてしまうことはなくなった。

 

 今日の朝食のメインは目玉焼きとベーコン、共に超ウェルダン。

 半焼けのトースト、千切られたレタスと潰れかけのトマトの破片、皮を厚く剥きすぎて歪になったリンゴ。

 男に散々、揶揄されて唯一、完璧と言っても過言ではないできとなったコンソメ顆粒のスープ。

 

 何とか見れる形ぐらいではあるが、自分の成長に少女は惚れ惚れしていた。

 男は元々、食に興味がないようなので文句を言うこともない。

 

 向き合って座ると両者、無言で口をつけていく。

 

「……それでさ、そろそろ魔法? とかいうのについて教えてくれない? それが目的で私を弟子に取ったんだろ?」

 

 トーストにジャムを塗りたくりながら少女はぶっきらぼうに口を開いた。

 

 ここに来て少女が知ったことと言えば男のだらしない生活態度が主。

 そも名前すら聞いていない、ついでに少女も名乗っていない。

 

 ――名は伏せておきなさい、尋ねることも許しません。この世界で他者に名を預けることは生殺与奪を握らせることと同じだと心得なさい

 

 とのことで、しかしこの男は自分の名を知っているのではと少女は思ったわけだが。

 

 ――知られることと、名乗り手渡すことはまた別なのですよ

 

 らしく、この洋館では師匠とあなたで呼び合っている。

 

 後は、影幻界とやらについてざっくり教わったぐらい。

 この一か月、少女は家事に四苦八苦したこと以外、ひたすら平穏な毎日を過ごしていた。

 

 いい加減、変化が欲しいと思うわけであったのだが。

 

「そうですねえ。しかし、特に教えられることもないというのが正直なところでして」

「は?」

 

 まさしく青天の霹靂、この一か月の少女の苦悩を風へと流すような一撃。

 

「いえね、あなたの能力、厳密に言えば魔法に属するものですが。それは才能一辺倒のものでして、他者がとやかく教えてどうにかなるものではないのですよ。

 成長すれば、そのうち自分で制御できるようになるかもしれませんし、そうでないかもしれない。まあ、人里に降りなければ特に害ある力でもありませんから、のんびりやりましょう」

 

 朗らかに笑う男とは裏腹に、少女の情緒は噴火寸前。

 

「なんっ――――じゃそりゃああああ! 師匠とか呼ばせておいてその言い草かこのダボ! 雰囲気詐欺! 隠れゲス野郎!」

 

 鬱憤を罵倒に変換して溢れさせ、ひたすら投げつける少女に男は頭を掻くばかり。

 疲れて息を切らした時を見計らい、男は静かに食器を置いた。

 

「まあ、そういきり立たずに。あなたの力はそれだけ希少なのです。特に人間社会にあっては、あなた自身に対しても毒となる極めて繊細な感覚機構。

 全てを俯瞰し、あらゆる念を己の中に取り込んでしまう空の視点。そうですね、俯視観(ふしかん)とでも名付けておきましょうか」

 

 己の力に名がついて、少女は内面に微かながら変化が起こったのを自覚した。

 

「俯視観……ああ、確かにそんな感覚だった気がする」

 

 見たくないもの、知りたくないものまで他者から、存在から流れ込んでくる感覚。

 それは少女の中に常識や倫理、信念や意志を形作ることを許さなかった。

 

 善悪も正邪も何もかも一緒くたに、全てを映してなお青く澄み渡る大空のように。

 

「あなたに必要なのは休養と、己を見つけてあげる時間です。そのうち、町にも連れて行ってあげますから、少しずつ慣らしていきましょう。その後に魔術師として生きるか、他の生き方を選ぶかするといいですよ」

「……それはいいけどさ、師匠はいいのかよ? 私を殺すんじゃなかったのか?」

「ええ、まあ。あなたがその力を使いこなした後に。人生の全てをかけてもできるか怪しいですが、頑張ってください」

 

 微笑みを浮かべる男に、少女は諦めたように肩の力を抜く。

 それで、これまで自分がわりかし気を張っていたことにようやく気付いた。

 

「ふん、なら迷惑かけまくってやるから覚悟しろよ」

「ええ、もう十分にかけられましたから大丈夫。これからはむしろマシになるでしょうね」

 

 憎まれ口を叩き合いながら少女は目を閉じる。

 癪だが、もの凄く悔しいが、この男の言うとおりに少し自分を見つめ直してみるかと決めた。

 

◇

 

 少女の生活は劇的に変わった、なんてことはなく相変わらず平坦な毎日を送っている。

 

 朝は男を起こし、食事や掃除にいそしみ、洗濯機がないので洗濯板を擦る。

 幸いなことに水や電気は通っているので著しい不便はないが、近代化した街と比べて何とも原始的な生活。

 ちなみに、はじめての洗濯で男のスーツを洗濯板に擦り付けていたところを見つかった時は凄い怒られたりした。

 

 時間の進みが限りなく遅く感じ、だからこそあらゆる心の動きが避けようもなく全てを知らせてくる。

 端的に言えば、生きていると実感できるのは今であるのも確か。

 

 頭と口だけを動かしていては得られない生の感覚は思いのほか色んなことを教えてくれる。

 体を動かすのは嫌いではないこと、器用さはまるでないこと、力加減を間違えて擦り過ぎた服がたまに破れること。

 

 決して力が強いわけではない。

 生地の薄いものや着古したものが破れるというだけの話。

 

 そう言い訳して木漏れ日に照らされた微笑みを演出し、たおやかな雰囲気を醸し出しながら優しく庭のたらいで服を洗う。

 巨大な虫が飛んできて元お嬢様らしからぬ潰れた悲鳴をあげながら、四捨五入すれば一メートルは飛び上がって台無しになったりするわけだが。

 意外とグロテスクなものが苦手であることもはじめての実感だった。

 

 洗濯を終えるころには太陽も真上にご到着。

 心地よい疲労感を楽しみながら昼ご飯の準備に取り掛かるためにキッチンへ。

 

 一か月の間、ずっとゴロゴロしていた男はここしばらく家を空けている。

 「今のあなたになら留守を任せてもいいでしょう」などと言って出掛けてしまった。

 

 内心を見透かされているようで非常に腹立たしいのだが、不思議とここから出ようとは思わない。

 食料や日用品は週に一度、いつの間にか段ボールに詰められて玄関先に置いてあるので困ることはないし。

 

 しかしてどういう心変わりなのか、わが心ながら度し難いと少女は眉間に皺を寄せること多数。

 師匠と呼んだのだから言いつけぐらいは守ろうと思ったのかもしれないし、そうではないかもしれない。

 

 加えてわからないことがあるとすれば。

 

「……なんか、ここに来てからなんも感じないんだよな」

 

 前は人以外の念、というほどでもないが何かしらの指向性を強制的に受け取っていた。

 それこそ、寝てる間にすら夢のような形で忍び込んでくる。

 

 前に男が言っていた森の敵愾心というのも言わんとすることは理解できる。

 怒りなどといった人間らしいものではなかったので内容はわからないが、あの男にも何かしら感じられる力があるのだと認められはする。

 

「……この場所が特別なのか? いや、たぶん、師匠がおかしいのか」

 

 自分のことを空とあの男は言った。

 なら、空を呑むあの男は何なのだろう。

 

 そんな疑問も今は脇に置いておく。

 

 わからないことはいいかと、切り替えが早いのも最近、知ったことだ。

 一人分の昼食を用意して腹に収めてからその日は自室に戻る。

 

 前に本で読んだ瞑想なんてものに最近は挑戦していた。

 自分流に、やりやすい胡坐でぼんやり天井を眺めたり目を閉じたり。

 

 そうして自身の内面に潜る。

 なんて言ったらお洒落な響きだが、実際はアホ面さげて頭を空っぽにしてるだけ。

 

 何も考えずにいると脳内に高速で回る、己とは違う存在達の情念が見えてくる。

 全国を巡り取りこんできた思い出であり、しかし不純物でもある何か。

 

 自他への投影、怒り、悲しみ、憎しみ、恨み、不幸。

 自己への埋没、赦し、喜び、慈しみ、感謝、幸せ。

 

 その全てが流れていく。

 

 定着することなく、あるいは完全に溶け込んで輪郭が消えていく。

 それは少女の自己防衛の結果だったのか、あるいはそういう性だったのか。

 

 記憶は遡り、最後に届いたそれを視る。

 

 ――これは、まともには生きられないだろう。囲っておくのが正解だ

 ――――ふざけるなっ!!!

 

 静かに頬を伝うそれに少女は気づかなかった。

 

◇

 

 とある日、少女は男と一緒にぼんやりと夕食をとっている最中。

 

「ふむ、一緒に買い物にでも行ってみますか?」

 

 脈絡なく告げられた提案に少女の口角からパスタがはみ出た。

 

「なんだ突然?」

「いえ、屋敷に籠っているのは飽きたかと思いまして。そろそろ町に降りてみるのもいいかと」

 

 まるで野生の熊に言い含めるような言い草。

 いつものように喰えない微笑みを浮かべる男に警戒心を強める少女。

 

「……まあ、行くってんならいいけどさ」

 

 だけど、お外の誘惑には抗えない。

 

 翌朝、少女が今持っている服は男から与えられた短パンとTシャツだけなのだが、心持だけは精一杯のおしゃれで男と共に森を抜けた。

 一歩抜け出した先は灼熱地獄、夏真っ盛りの炎天下の歩道。

 

「あっつい! なんだこれ!? こんなに暑くなかったぞ!」

 

 時期が夏であることは知っていたが、森や洋館の中はここまでおかしな気温ではなかった。

 あまりの落差に、少女は見る見るうちに体中の水分を放出していく。

 

「ああ、館周りは森のおかげで居心地がいいですからね。これが真夏の外ですよ、はじめてですか?」

 

 実際、はじめてだった。

 

 屋敷にいた頃は学校以外で一度も外に出たことがなく、送り迎えもほぼ車。

 その学校にしてもどこか牢獄のような特殊なもので、運動も室内で基本外に出て何かをすることがない。

 屋敷の中は常に快適で、直にじっくり外の空気を吸ったのは家出してから。

 

 それも別の存在の感覚に乱されていたものだから、本格的に四季を感じられたのはこの瞬間。

 体が真夏の熱に耐えきれず悲鳴をあげているような気がする。

 

「にしても、師匠。あんたおかしい、なんでそんなに涼し気な顔してるわけ?」

 

 少女は認めた、自分の体は意外と虚弱であると。

 少なくとも暑さには弱いようだ。

 

 しかし、それを抜きにしてもこの馬鹿みたいな暑さの中で真っ黒なスーツを着たまま。

 汗一つかかずに何でもありませんみたいな顔をしているのがおかしいのはわかる。

 

「まあ、魔法で誤魔化してるんですよ。ははは」

「ズルいぞ……そんな便利な魔法があるなら教えてくれればよかったのにい」

 

 ここに来て、切実に魔法を習っておけばよかったと肩を落とす少女。

 男は「まあ、慣れますよ」なんて軽く告げてさっさと歩きはじめた。

 

 洋館はとある田舎の町、というより村と呼ぶべきか、そこからさらに奥まったところにあった。

 周りにあるものと言えば畑や田んぼがほとんどで、炎天下の中あぜ道に近い歩道をひたすら歩く。

 

 最初のうちは息も絶え絶えだった少女も、その内に元気を取り戻していった。

 頑強なのか単純なのかわからない肉体である。

 

 男の言う通りになったのは極めて遺憾だが、慣れてくると周囲のちょっとした景色も面白いものだ。

 しばらく行くと木造の民家や個人商店などがぽつぽつと見え始めた。

 

 近代化の波もこの地には未だ浸透せず、穏やかな時間の流れが少女には心地よく感じられる。

 道中、ここいらに住む子供たちの数少ない娯楽、駄菓子屋に男は立ち寄った。

 

「はいどうぞ、よく頑張りましたね。私は少し用事があるので、あなたはこの辺りで適当に遊んでなさい。あまり遠くに行かないように。それと知らない人にホイホイ乱暴してはいけませんよ」

 

 と、ラムネと数枚の硬貨を握らせるとさっさとどこかへ行ってしまった。

 

 突然ほっぽり出された少女はとりあえずラムネの瓶を開けようとして、どうにもうまくできずに四苦八苦。

 見かねた駄菓子屋のおばあちゃんが優しく開け方を教えてくれる。

 顔を赤くして礼を言うと、ビー玉を落として口をつけた。

 

「……プハア! なんだこのしゅわしゅわ、うまいなあ!」

 

 はじめてか、印象に残らなかっただけかいまいち覚えていないものの。

 とりあえず炭酸の感触に心からの感動を全身で表現する少女。

 

 一息に飲み干してはしたなく空気を吐き出しながら、瓶をおばあちゃんに返すと弾けた体に活を入れ立ち上がる。

 

「さて、しっかしどうするかなあ」

 

 遊んでいろとは言われたものの、見渡す限りの茶と緑と凹凸。

 時期的には夏休みだろうに子供の姿も見当たらない。

 

 じっとしていても始まらないと、とりあえず歩き出す。

 時折、頬を撫でる風の心地よさに浸りながら空を眺めた。

 道脇に連なる水田の群れも独特の形をしていて目に良い。

 

 何の気なしに巡らしていた視界の端に引っかかる人影。

 中腰になりながら田んぼに足を沈めて熱心に手を動かす誰か。

 何となく気になってその場にしゃがみ込むと、それをじっと見つめ始める。

 

 見方によれば睨んでいるとも取れるぐらいの熱心な視線に気づいたらしく、人影が顔を上げた。

 まだ年若い青年だった、都会であれば新しい生活にストッパーの外れた大学生ぐらいの年頃。

 

 あの胡散臭い男のものとは違う、本当に穏やかに見える微笑みを浮かべて手を振ってくれる。

 何となく照れ臭くなって、少女はあつさで赤くなった顔を少し伏せた。

 

「……何やってるんだ?」

 

 気まずくなってどうでもいいことを聞いてみる。

 

「これかい? ヒエ抜きだよ。こうして地道に抜いてあげると、お米がおいしく取れるんだ」

 

 「へえ」と、少女は緩慢な声を返す。

 作業に戻った青年をまたじっと見つめながら、ふと思いついたように立ちあがった。

 

「なあ、私もやってみていいか?」

「え? そりゃあいいけど、結構大変だよ?」

 

 青年は田んぼから上がると、近くの小さな農具小屋から長靴を持って来てくれる。

 それを履いて田んぼの中に足を踏み入れた少女は第一歩で、予想外の粘りに盛大にズッコケた。

 

「うわ、大丈夫?」

「……だいじょうぶ」

 

 慌てて助けて起こされた少女は、服の上から水をぶっかけられて泥を落とす羽目に。

 しかし、そんなことでへこたれる繊細な羞恥心はなく、再び果敢に田んぼに突撃していく。

 青年に抜いていいものを教わりながら、最初はぎこちなく、徐々に動きは大胆になっていった。

 

「おお、筋がいいね」

「だろう? これでも家では家事とか頑張ってるんだ」

 

 何の関係があるのかわからないが、とりあえずご機嫌なことは確かな少女である。

 

◇

 

「お疲れ様、おかげで助かったよ。これ、よかったら一緒に食べよう」

 

 それから数時間、昼になるまでひたすら雑草抜きに精を出した少女は、青年の差し出してくれたおにぎりを貪り食っている。

 労働の後のエネルギー補給はこれまた格別で、壮絶な腰の痛みもそのうちに忘れるだろう。

 

 路肩のベンチに並んで腰を下ろした二人は軽く互いのことを語り合った。

 青年は地元の農家の後継ぎらしく、高校卒業後にそのまま家業を手伝うことにしたとのこと。

 少女はどこまで話していいのかわからず、まあ口止めされてないしと洋館のことなどすっかり話した。

 

「ああ、あの先生のところ」

「先生?」

「知らないのかい? お医者の先生でね、町中を回って診察とかしてくれるんだ。整体師みたいなこともできるらしくて、ご老人方からも大人気だよ。家のジジババも世話になってる」

 

 そんなこともしてたのかと、少女はますますあの男のことがわからなくなった。

 

「さてと、じゃあ僕はそろそろ次に行かないといけないんだけど、君は?」

「ああ、そのうち先生が来るから、大丈夫」

「そっか、じゃあ、本当にありがとうね」

 

 立ち上がった青年は軽く手を振ると、止めてあった軽トラの方に歩いていく。

 

「なあ、よかったらまた手伝いに来てもいいか?」

「え? そりゃあ、君が良ければね。むしろありがたいよ」

 

 青年は迷惑そうでもなく、和やかに告げて軽トラに乗り込む。

 走り去っていくそれを、少女は見えなくなるまでじっと眺めていた。

 

「……甘酸っぱいですねえ」

「うおおおお!」

 

 驚きのあまり、振り向きざまに放たれた右ストレートを男はひょいと躱した。

 

「な、な、な、突然出てくるな! 影薄いんだよ! ……というか、いつから見てた?」

「あなたがみっともなく泥んこ遊びをしてた頃からですね」

「ほぼ全部じゃないか!」

 

 振り回される両手両足を捌きながら、男は青年とは似ても似つかない腹黒い微笑みで少女をからかう。

 まともな顔を見ると、ますますこの男の得体の知れなさがわかろうというもの。

 ご老人たちのためにもここで成敗した方がいいのではと少女はわりと本気で拳を振るった。

 

「……くっそお、用事が終わったならさっさと声かけてくれよ」

「いやなに、無邪気に愉快そうで、水を差すのも悪いかなと思いまして」

 

 思いやりなのだろうか、どうもこの男からは素直に受け取れない。

 鼻を鳴らして少女は歩き出す。

 

「こらこら、どこに行くんです。これから行くのはあっち。最近、ようやく総合スーパーが近くにできましてねえ、買い物ついでにあなたの新しい服も買いましょう」

 

 出鼻をくじかれ、少女は盛大にため息をつきながら男の後についていく。

 十分も歩けば三階建ての景観をぶち壊す、この辺りにしては大型のスーパーが見えてきた。

 

 中に足を踏み入れるとそれなりに多くの人と謎の熱気を感じて忙しなく周囲を見回す。

 こういう場所もやはり、じっくりと見て回る機会がなかっただけに興味津々。

 

 山積みになった野菜や果物、トレイに詰め込まれてうず高く積まれているばらされた家畜や魚たち。

 人間の生と業が一か所に凝縮された、消費と生産の高速循環の一部。

 

 普段なら絶対に近寄りたくない場所だが、今の少女には新鮮に映った。

 男は食料や日用品を軽く買い込んだ後、二階の衣料品コーナーへ。

 

「さあ、どれにします? 自分で選んでみますか?」

 

 少女は頷くとコーナーを歩き回る。

 

 これまでは生家の屋敷で用意されたドレスや、男の用意した華も色気もへったくれもない服ばかり。

 年頃の女の子としては着飾りたいという欲求がなくもなかったりする。

 

 とは言え、そんなものとは無縁の少女にうまく見繕うことなどできず。

 それに、頭に浮かぶあの青年の顔がちらつくと、変に気取るより元気なさまを見せる方がいいのではないかと思ったり。

 

 結局、同じようなシャツや短パン、ちょっとおとなしめのワンピースなんかを選んだ。

 

 はじめてのお買い物にホクホク顔の少女は、行きとは正反対のご機嫌なスキップで帰路につく。

 森の中、涼しくなった空間で頭を冷やしながら、そういえば何かが流れ込む暇もなかったなと遅まきながら思うのだった。

 

◇

 

 それから、男は本格的に家を空けることが多くなった。

 どうも国内外問わず飛び回っているようだ。

 

 お土産を買ってきてくれたり男の部屋に物が増えたりすることと、外出日数でどちらであるかはわかる。

 二、三日で帰ってくるようなら国内、五日以上で部屋に変な物が増えたら確実に国外という感じ。

 

 国外に出て数日で帰ってこれるものなのか少女はよくわからないが、あの男なら大丈夫なのだろう。

 とにかく、そんなわけで少女は男の目を盗んでこっそり洋館を抜け出しては町に遊びに行くことが増えた。

 

 おそらく気づいているのだろうが男は何も言うことはなく。

 たまに近所の子供に混ざって野球などすることもあるが、もっぱらあの青年と一緒の時間を過ごす。

 

 二度目のお手伝いには青年の祖父母も交えて一緒に畑の手入れに没頭した。

 男に世話になっているのは本当だったらしく、本物の孫のように猫かわいがり。

 

 最初は緊張していた少女もすっかりなついて、ちょくちょくお邪魔してはお菓子や食事をご馳走になる始末。

 どこの家庭もご老人は子供に食わせるのが義務らしく、少しばかり丸くなった顔を揉んでは鏡の前で悶絶することも増えた。

 

「そういえば、今年は海、まだ行ってないな。良かったら一緒に泳ぎ納めしに行くかい?」

 

 その日もいつものように、青年の家でスイカにかぶりついていた少女は思わず種を吹き出した。

 

 考える間もなく二つ返事で了承したものの、後になってなぜか海が苦手だったことを思い出す。

 それでも、勢い任せでちょうど帰ってきていた男を引っ張って水着を買いにスーパーへ突撃。

 

 ついでにふくよかになった腹を撫でて青ざめ、少女は行くまでの三日間、森を走り回った。

 もちろん、手遅れ感満載の無駄な抵抗だったが少女は満足げ。

 

 意気揚々と、祖父母から借りたという外出用のちょっと高級な迎えの車に乗り込んでいざ海へ。

 

「お、その水着かわいいね」

 

 などと、のほほんとした青年の声に顔を赤らめながら照れ隠しに海に飛び込む。

 泳げずに救出されて恥の上塗りをする羽目になるまでがお約束。

 

 はじめて見た時には何とも言えぬ不気味さを感じた一面の藍色も、青年と共にいれば気にならなかった。

 

 一通り遊んだ帰り道には祭囃子に誘われて二人して顔を出す。

 焼きそばやらりんご飴やらを頬張りながら、人波にもみくちゃにされつつ花火を見ようと悪戦苦闘。

 

「ほら、これなら見える?」

 

 あっさり担がれて肩車された少女は思わず頭の上で暴れまわりそうになったが、夜空に舞い散る花火に全てを忘れた。

 

「……きれいだな」

「そうだね」

 

 本当に綺麗だと少女は思った。

 いつも何かに塗りつぶされている空も、人の手によって一瞬でもきらめくことができるのだと。

 

 そんな眩い夏は過ぎ去り、少し物寂しい秋が来る。

 

 農家にとってこの季節は忙しいらしかった。

 青年の家は田んぼに加え、果樹園や畑も複数持っている大農家だったこともある。

 

 手伝おうかとも思ったが、少女から見ると異次元の手際に逆に邪魔になるとすごすご退散。

 青年は稲刈りや収穫、行楽客の応対などに追われて一緒の時間はほとんど持てない。

 

 子供たちも普通に学校に通っているから、町との接点がほとんどなくなって少女は洋館に籠りがちになった。

 なのだが、触れられないということが逆に己の中に強烈な印象を残そうとは予想外。

 自室で一人、何度も何度も青年との記憶を脳内で追体験する。

 

「でへへ」

 

 机に頬を預けて緩み切った顔を、部屋の外から眺める人影。

 

「……あなたねえ、そろそろしゃんとしてくれません? 夕飯はどうしたんですか?」

 

 こっそり覗き見などいつもの少女なら怒髪天だが、今は些事が入り込む隙間がない。

 

「あん? 別にいいだろ? いつもみたいに男料理でも作って食べてくれよ」

 

 少女の素っ気ない返事に男は背中を丸めてキッチンへ向かう。

 夏からこっち、少女の家事スキルの向上は目を見張るものがあった。

 ここしばらく、わりと楽しみにしていた食事が出てこないことは思いのほかダメージだったらしい。

 

 そんな師の煤けた背中なんぞ眼中になく、少女はしばらく締まりのない顔のままだらっとしていた。

 かと思えば唐突に立ち上がると、床の籠に突っ込んである雑誌を穴が空きそうな勢いで読み始める。

 あと少しで訪れるクリスマスに向けたいじらしい準備のために、全神経を注ぎ込む不退転の乙女眼力全開だ。

 

「……まあ、お世話になってるしな、うん。じいちゃんとばあちゃんにも作ってやろう」

 

 籠の中から毛玉と編み棒を取り出してチクチクと編んでいく。

 脳内ではこれまで取りこんできた幾多のロマンスが少女と青年の顔を取って流れ続けていた。

 

 そして、全てを凍てつかせる冬が来る。

 山間部でもあるここら一帯の冬は、それはそれは厳しい物であったが、熱暴走を起こした少女にそれは通じない。

 

 紙袋を抱きしめて雪道を勢いよく走り抜ける。

 クリスマスイブでもある今日は少女にとって幾重ものはじめてとなることだろう。

 

 田んぼの前を通り過ぎ、町中を突っ切って少し高台にある青年の家へ向かう。

 ただそれだけのことが飛び跳ねたくなるほどに心をくすぐる。

 奇声を上げていても驚かないほど浮かれていた。

 

 だけれど、やっぱり少女はただの子供だった。

 

 途中、駅員すらいない小さな駅の前に見慣れた車を見つける。

 ボンネットに腰を下ろして手に息を吹きかけている青年を見つけて駆け寄ろうとして。

 

 駅から現れた清純そうな、それでいて都会的な洗練さを見せる、可愛いと美しいの中間にあるような女。

 後から知ったことだが、元々はこの田舎町の出身で青年とは長い付き合いだった女。

 

 二人は抱き合うと目を閉じて勢いよく顔を近づけた。

 少女はそれを、ただ茫然と眺めるばかりだ。

 

「……ああ、まあ、そうだよな」

 

 舞い上がっていたのは自分だけだったのはわかっていた。

 それでも、止まれないものだった、はじめての自分だけの衝動は心地よかった。

 

 顔を離した二人、青年が助手席の扉を開くためだろう、振り返ろうとする。

 少女はとっさに横っ飛び、建物の間に逃げ込んだ。

 

 自分でもなんで逃げる必要があるのかわからない。

 ただ、自分が勝手に思い込んで、暴走して、飛躍していただけなのだ。

 

 青年はきっと何とも思わないだろう、いつも通り笑顔で手招きまでしてくれるかもしれない。

 女に自分を紹介して一緒にクリスマスを楽しませてくれるかもしれない。

 

 それは、とても痛いと少女は思った。

 

「……これが、惨めってことかな。はは」

 

 車の走り去る音が聞こえて、少女はこっそり顔を出してあたりを窺う。

 誰もいないのを確かめて、重い足を引きずりながら洋館へ戻った。

 

 扉を開けると玄関にまで漂う香ばしい匂いに食堂へと立ち寄ってみる。

 

「やあ、お帰りなさい。早かったですね。どうです? 一緒にクリスマスパーティでも。せっかくのイベントごとですからねえ、多少は奮発しないと」

 

 机の上に所狭しと並ぶごちそうの数々。

 七面鳥の丸焼きなんて漫画でしか見たことないような料理がでーんと存在を主張していた。

 師匠が作ったわけではあるまい、どこかに注文していたのだろう。

 

「……あんた、全部知ってただろう?」

「はて、何のことでしょう?」

 

 この男は絶対に把握していたはずだ。

 青年のことも、その相手のことも、自分の無様な心のことも。

 

「……はっ。それでどうだった? 面白かったか? 私のピエロっぷりは」

 

 今日ばかりは口調もただ乱暴にならざるを得なくて、男はいつも通りにただ微笑むだけだ。

 

「私より、あなたはどうだったのです? 楽しかったでしょう?」

「楽しいわけが……っ!」

 

 飛び掛かりそうになって、全身が石像のように硬直する。

 

 思い返せば浮かれ切った記憶しかなく、ただ純粋にそれだけを思うことは、きっと色褪せないもので。

 

「……くそ」

 

 少女は席につくと、勢いよく目の前の料理に手を付けはじめた。

 やけ食いというやつだ、食えば大抵のもやもやは吹き飛ぶのだと少女は確信している。

 七面鳥を素手で鷲掴んでそのまま食いちぎっては胃に落としていく。

 

「ぐじゅっ、ぶふ、ふふふふふ」

 

 笑っているのか泣いているのか、えづきながらひたすらに。

 目からこぼれ出る涙も油で誤魔化して。

 

「……そうだ、師匠、これやるよ」

 

 ふと思い出して、少女は油まみれの手で紙袋を放った。

 男が封を開けてみると、中には不格好な手編みのマフラーが三つ。

 

「冬が終わるまでに、じいちゃんとばあちゃんに渡しといてくれよな。もう一つは、あんたへのプレゼントだ」

「そうですか」

 

 男は一つ、取り出して首に巻いてみた。

 編み目が荒く隙間風に弱そうだけれど、込められた情熱はその全てを吹き飛ばしてくれるかもしれない。

 

「ありがとうございます。いつものお世話代として受け取っておきましょう」

「そうかよ、そんなもんでこの快適な暮らしが買えるなら、安くていいな」

 

 この張り詰めて割れそうな痛みと、何かを思う楽しい生活の対価としては、まあ上等だと少女は思うのだった。

 

◇

 

 本当に、全てが色づいていく時間だった。

 

 虚ろな空に描かれた幾重もの紋様は、今や少女自身を形作る世界観となって結実した。

 無意味な息災に意味ある痛苦を、凪いだ安寧に吹き荒れる激情を。

 

 その全てが、己だけのものであると今ならはっきり言える。

 だから、その全てを抱えて行くべき場所に行こう。

 

 春、新たな芽吹き、全ての始まりの日。

 少女は一人、森を歩く。

 

 春風を受けて穏やかに揺れる木々も、水面を波立たせる小川も、その些細な変化の全てが今の少女の眼には確かなものとして映る。

 

 何一つ同じものなどない、何一つ留まるものなどない。

 全ては過ぎゆくもの、過去になるもの、だからこそ未来あるもの。

 

 何ものにも属せず、何かを持つことを許されなかった少女は今、己の過去と未来を手に入れた。

 だから、終わりもまたその手の中に、最後が訪れるのはきっと必然だったのだ。

 

 音もなく背後に立つ誰かを、今の少女は完璧に捉えられる。

 ゆっくりと振り向いた。

 

「ああ、やっぱりお前か。きっと、そうなんじゃないかと思ってた」

 

 あの男がそうかとも思ったが、やはり違った。

 

 元より、外様の誰かに後始末を任せるのは、何かを背負わせるのはダメだ。

 己の中にあった空虚を押し付けるわけにはいかない。

 

 だから、少女を終わらせるものがあるとすれば、その資格を持つのは一人だけだ。

 交錯する視線、己が置いてきてしまった全てを抱えた者。

 

「……游里」

 

 少女はその名を口にした。

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