地生院という名は国に広く深く根を張る巨大コングロマリットを統べる者の証明。
その複雑さ故にこれまで誰一人として全貌を窺うことはできなかった。
その正体は表と裏を跨ぐ巨大な利益追求機構に他ならない。
地生院を戴くための条件は血統でも才能でもなく結果だけ。
手にしたものだけが名乗ることを許される、それ以外の道は一つとして存在しない。
多数の分家を持つが血の繋がりはほとんどなく、地生院を中心にあらゆる手段でその地位に収まったもの達が絡み合う百物語。
今代において、その名を継いだ男を地生院
他の候補者と比べ全てにおいて突出していた男ではあったが、最大の功績は娶った妻の質かもしれないと陰で囁かれている。
「はあ? 何ふざけたこと言ってんの? くたばれ!」
嫁に来いと、上から目線で迫った男に女、
その後、文字通り三日三晩の激闘を経て二人は互いを認め合ったらしい。
結ばれた二人の間には可愛い女の子が生まれた。
名を
二人の力を、知性を、気質を、特に母方の破天荒な在り方をあますことなく受け継いだ少女はすくすくと育っていく。
一つ問題があったとすれば、あまりにも才能が豊か過ぎたこと。
それは一つの器に収まりきるようなものではなかった。
生まれたその瞬間から、少女は世界を映すことを宿命づけられたのだ。
松運は言う。
「これは、まともには生きられないだろう。囲っておくのが正解だ。自身にも世界にも、良い影響を及ぼさん」
燕は言う。
「ふざけるなっ!!! 最初から我が子の未来を諦める親がどこにいるんだこのダボが!」
二人は文字通り、七日七晩の激闘を繰り広げた後。
互いを認め合うことができず燕は勢いに任せて屋敷を飛び出すこととなる、きっちり半壊にすることも忘れずに。
松運は生まれてはじめて頭を抱えながら、真砂をなるべく屋敷の者以外に触れさせないよう育てることに決める。
それから一年の時が過ぎ、屋敷の扉を蹴破って戻って来た燕は満身創痍だった。
もはや死に体、助かる見込みは皆無。
今立っていることが奇跡に近く、それでも、どこまでも凛然と立っていられたのは母親だったからだろう。
その手に抱かれた命、もう一人の娘。
「悪いわね松運。親がどうとか言っておきながら、私の方があらゆる意味で最低の親だったわ。母を名乗るには、いろいろ足りなかったみたい。本当なら顔を見せる資格もないんでしょうけど、この子を、游里をお願い。真砂、游里、本当にごめんね」
若くしてその命を終えた燕、その血濡れた忘れ形見を松運は無表情に抱き上げた。
その後、葬儀は速やかに密やかに、誰の心にも残らぬように。
それが地生院の宿命、一度でもその名に取り込まれた者の末路。
強大な権力、確かに存在する巨大な企業群。
その内実はどこまでも空虚でなければ、そのように見せなければならない。
それから、さらに四年が過ぎた。
種違いの姉妹は体は健やかに育ったが、心はそうはいかなかったようだ。
姉の真砂は松運の読み通り膨大な才能に振り回され、母に似た気質も相まって手に負えぬ。
誰の声も届かず、誰の教えも受け付けず、何ものにも染まらぬ心。
妹の游里もまた真砂ほどではないにせよ確かな才能を備えていたが、姉とは正反対に全てのものに繋ぎ留められる流されやすさがあった。
誰の声にも反応する、誰の教えにも適応する、何ものにも染まる心。
二人は相反する気質を持ちながら、どこまでも同じく全てから遊離してしまう。
だからだろうか、唯一、姉妹が共にある時だけ安らいだ。
何か会話があるわけでもない、互いを認識しているかすら怪しい。
なのに、ただ寄り添うように並んで在るだけで、何かが繋がっているように見えた。
「……ちっ」
それを快く思わない者もいた。
真砂の世話係を務めていた若い執事は、己の見たことない真砂の顔を引き出す游里に嫉妬していたのだ。
それが直接の要因だったわけではないだろうが、何にせよ二人を引き離す力が働いたのは確か。
ある時、屋敷にやって来た者達は整然とした動きで游里を取り囲み、そのまま連れて行こうとする。
変わらぬ父の顔と、歪んだ笑みを浮かべる執事と、ぼんやり眺めていた真砂の三人だけがそれを見送った。
最後に振り向いた游里の顔は相変わらず無表情で、だけどその小さな手が真砂に伸ばされた。
「……お姉ちゃん」
はじめてだった、姉と呼ばれたことは。
はじめてだった、当たり前のようにあった妹を感じたのは。
「あ、ああ、ああああ――――」
初めての衝動の萌芽に体は余すことなく応えてくれた。
游里を囲む者達を引き千切って、そのままどこかに飛び立つことも辞さない覚悟だったはずだ。
だが、どれだけ強い激情も圧倒的な力の前には無力。
真砂の衝動は最後まで芽吹くことなく、何らかの衝撃を受けて崩れ落ちる体に力は宿らない。
最後に見たのは冷たい父の顔と、少し離れたところで声を噛み殺すように体を震わせる執事だった。
最後に流れ込んできたのは冷たい熱と、へばりつくような熱と、己を殺す者達の無の熱。
妹の存在はあっさりと、その炎熱に巻かれ灰となって消えていった。
それでも、確かに胸の奥に刻まれた、人生で二回目の大きな痛みだった。
それからの真砂はそれまでの暴れっぷりが嘘のように、ともすれば死んだように大人しくなった。
世話係の言うことをよく聞き、勉学に励み、護身術なんかを習い、目的もなく流されるままに。
地に足付けるための鎖を失ったのだから、その心はもはやどこにも見えない。
広大な空に溶けて消えてしまった。
後は語るまでもないだろう。
真砂は齢十五になるまで屋敷で生き、無と悪意だけを吸い上げて過ごしてきた。
しかしそれも真砂を戒めるにはまるで足りず、春の陽気に力を借りて家を飛び出すこととなる。
飛び出したところで己の居場所などありはしないとわかっていたはずなのに、諦めきれずに何かを求めて飛び続ける。
その飛翔の終わりに男に拾われ、己を取り戻した少女は心の中の痛みに向き合わなければならなかった。
全てを捨てて逃げ出したことの、その結果として引き起こしたことの罰を受けなければならなかったのだ。
◇
「游里、久しぶり。真砂だよ、わかるか?」
目の前に現れた妹はかつてと同じ無表情で、ただこちらを向いていた。
全身を包む黒のボディスーツには見覚えがある。
潜入、暗殺に特化した斥候用の戦闘スーツ。
屋敷にたまに訪れる者達が着ていたもの、地生院の私兵のものだ。
己を殺し、家に仕えることだけを求められる部品。
游里がこれまで、どこで何をしていたのかそれだけでわかろうというもの。
胸が痛む、光を吸い込む地の底のような視線が真砂の古傷を抉り、全てを圧迫していく。
自分と向き合ってきた者達も己の似たような顔を見ていたのかと思わずにはいられない。
こんな顔のどこに、救いを見出していたのか今の真砂にはわからない。
思わず手を伸ばす、うまく笑えているか、やはり今の真砂にはわからなくて。
何の反応も見せてくれない游里の態度が拒絶にしか感じられなかった。
「……私を殺しに来たのか?」
返事はない、それでも真砂は口を開く。
「当然だ、お前にはその権利がある。お姉ちゃんなのに、お前を助けられなかった。あまつさえ、少し前までまったく忘れてたんだ。その顔すら思い出せなかった。本当に、大事だったはずなのに」
今の自分がどんな顔をしているのか、真砂にはわからない。
游里が何も返してくれないから、己を見ることができない。
それが、とても痛い。
返されないことが、こんなにも辛いなんて知らなかった。
「でもな、今ならもう大丈夫だから。思い出せたから。絶対にもう、忘れたりしないから。だから、お前がしたいようにしていいんだ。殺したいなら殺していいんだ。でも、もし、また一緒にいられるなら、お姉ちゃん、絶対にもう離れないから。だから……」
また、手を伸ばす。
游里はそれに、腰のホルスターから銃を抜くことで答えた。
「地生院 真砂。松運様のご要請です。屋敷へ戻りなさい。勝手に家を出たことも、国中に巻き起こした混乱も、罪には問わぬと申しています」
向けられた銃口に、くしゃりと真砂の顔が歪む。
泣きわめきたくなるような衝動をぐっとこらえた。
なぜ泣けようか、目の前の妹のほうがよっぽど泣きたいはずじゃないかと我慢する。
「それはできない。あの屋敷に私の心はないからだ」
游里は首を傾げた。
「心? 私たちに心なんて不確実なものがあるはずないでしょう」
「違う!」
真砂は吼えた、それだけは違うとはっきり言えるから。
「あるんだ、あるんだよ。どれだけ見えづらくても、確かに在るんだよ游里」
胡散臭い男の不器用に踏み込んでくる厚かましさも。
青年の純朴で、隠すところのない優しさも。
この町で出会い、見てきた全てのものが今の真砂を繋ぎ留めてくれる。
「私はここにいる、私の心はここにある。私を私にしてくれるものがあるんだ。誰かと一緒に、ただ並んで座ってるだけで満たされることがあるんだよ。共にいられないだけで痛むことがあるんだ。それは、絶対に私のものだ」
真砂は一歩、足を踏み出した。
游里はそれに合わせて後ずさる、そんな己の反応に脳がショートしエラーを吐き出す。
目の前にいる少女の力強い瞳が、迸る活気が、游里の中身を搔き乱す。
「……違う、そんなものはない。私には……」
「いいや、お前にもある。誰にもないなんて言わせない、そんなこと言う奴がいたら私がぶっ飛ばしてやる」
もう一歩。
「だから、逃げないで。怒ってもいい、憎んでもいいから。お願いだから、私を見て」
それは、埋もれた游里の心を暴き出す、キャパシティを超えるノイズだった。
反射的に引き金にかかる指先、開く口が何かを絞り出そうとするその一息。
真砂の感覚が限りなく伸びた。
叫ぶ游里、その背後から迫る男、絞られた引き金、弾け飛ぶ頭――。
真砂の体はいつかのように、衝動のままに動く。
今度は、遮るものは何もない。
「――――!!」
何事かを叫ぶ游里は、背後から迫る悪寒を感じて即座に振り返り銃口を向けた。
いつの間にそこにいたのか、拳を振り下ろそうとする男は振り向いた游里の顔を捉え、驚愕にその目を見開く。
(はじめてだな。師匠のあんな顔見るの)
景色も思考も全てがスローモーションのように、ゆるやかに流れる時間を真砂は
「――よかった、今度は届いた」
男と游里の間に体を捩じ込む真砂。
その両手を游里の背中に回して強く、必死に抱きしめた。
鳴り響く銃声、轟音と共に抉れた地面。
衝撃が二人の少女の体を巻き上げ吹き飛ばす。
真砂は最後まで、その腕を離さなかった。
◇
おそらく、一分足らずの時間に過ぎない。
意識を飛ばしていた游里は目を開く。
節々が痛む、何かが体を覆っているのかやけに重く感じて身を起こせない。
視線を下げると、土に汚れた真砂の顔があった。
白いシャツは赤く、赤く染まってなお止まらず、スーツ越しにでもその熱を伝えてくる。
「……よお、起きたか? よかった、最後にどうしても言いたいことあったし」
先までの生命力はみじんも感じられない、弱々しいかすれ声に游里は耳がこそぎ落とされるような痛みを思う。
「……痛い? そんなはずはない。私は痛まない」
「バカヤロウ」
ぺちりと、真砂の平手が頬を打つ。
力のない、ただ触れただけのようなそれがものすごく痛い。
「痛いに決まってるだろ。十メートルは吹っ飛んで地面を転げまわったんだぞ。痛いときはきちんと痛いって言え。……違う違う、そんなこと言いたいわけじゃなくて」
苦笑する真砂は目を伏せて、何かを思案しているようだった。
その様だけを見れば余裕があるように見えるのに、溢れ続ける熱が游里を包みこんでいくにつれて、冷たく無機質な何かに変わっていく。
「そう、そうだな。とりあえず、人生を楽しめ。私の代わりに、もっと世界を見てほしい。それだけで、私の一生に意味があったと思えるから」
理解できない、理解したくない。
見慣れたアレに、目の前の少女がなってしまうという事実。
それは、とてもじゃないが受け入れられない、適応できないような気がする。
「それと師匠、約束は守ったぞ。最後はあんたに殺されてやったんだ、一方的に押し付けられた殺しの約束は果たしただろ? だから、今度は私の約束、游里を頼むな」
「……しょうがないですね、あなたはどこまでも、私を振り回す」
傍に立っていた男はいつものように微笑んで、少女の最後の言葉、その全てを受け取った。
「ああ、クソ。もっと言いたいこと、あるんだけどなあ。言いたい人もいるし。でも、まあ、悪くない時間だった」
もし、これが己の全うすべき天分であったとするなら、そこに一片の悔いもありはしない。
地生院 真砂は立つ鳥跡を濁さずに、静かに最後の時を受け入れる。
「游里、お姉ちゃんらしいこと何一つしてやれなかったけど、私はお前が大好きだった。一緒にいられた時間は、本当に安らいでて、私の宝物なんだ。だから、ありがとう。これで何一つ、残さず逝ける」
ギュッと、その華奢な体を抱きしめて、己の全てを游里にぶつけて。
真砂は十六年の人生に幕を下ろした。
熱を失ったその体を、游里は抱きしめ返す。
温かい、体の表面を流れる命の源が游里の中に染み込んでいく。
「ううううう、うああ、ああああああああ!!」
口から漏れ出る慟哭は止めようがなく、溢れ出る涙は堪えようがない。
はじめて心に刻まれた思いはあまりにも濃く、あまりにも純粋過ぎた。
男は真砂の最後に黙祷を捧げ、その体を游里から引き剥がす。
游里は離れていく体に弱々しく手を伸ばすことしかできない。
横たえられたその体に男は淡く光る手をかざし、真砂の体から何かが引きずり出された。
限りなく透明に近い青、天を衝かんばかりに広がるそれを手に留める。
今にもどこかに飛び出そうとするそれを何とか押し止めた。
「地生院 游里さん。あなたは選択しなければなりません。このまま地生院の屋敷に戻り、ここで起こった全てを地に投げ捨てるか。それとも、あなたのお姉さんの最後の思いを引き継ぐか」
それが今の游里にとってどれだけ残酷な選択であるかわかっていた。
それでも、今この時しかない。
真砂が残した最後の熱が残っている間に、彼女の心を引きずりだしてやらねばならない。
それが、少女との最後の
「あの子は、真砂はあなたに見てほしいと言いました、己の見れなかったものを」
泣き叫んでいた游里の声がピタリと止まる。
「これは彼女が育んだ心、彼女の人生の集大成。魔導管と呼ばれる遺産です。あなたにその意志があるのなら、これを受け継ぎなさい。そして、世界に羽ばたくのです」
游里の顔が、男と、その手から逃れんとする青を見た。
「……お姉ちゃんの、最後の願い」
――人生を楽しめ。私の代わりに、もっと世界を見てほしい。それだけで、私の人生には意味があったと思えるから
――人生を楽しんで、私の代わりに世界を見て。私の人生の意味を思わせて
「うん……生きるよ。私、お姉ちゃんの人生を、代わりに生きるから」
游里は笑った、それがどういう意味を持つのか男はよくわかっていた。
男は真砂の最後の言葉をあえて捻じ曲げた、ありもしない意図をそこに付与した。
それが死者との契約となり、呪縛となることを知りながら。
「真砂、そして游里。契約しましょう。あなた達の止まり木が見つかるその時まで、全ての災禍からあなた達を遠ざけることを」
だから、その重みを引き受ける。
男は手の中の魔導管を游里の体に突き入れた。
「ガ……ギィィィィイイイイイイ!!!!」
全身が跳ね上がる、体中の血管が沸騰するかのような感覚。
激痛と、流れこんでくる真砂の全てが游里の中で分かち難く結びついていく。
鎖が暴れまわる空を繋ぎ留めていく、それはやがてあるべき形へと収束する。
内に在る空は先までの暴れっぷりが嘘のように、ただ静かに游里の内で眠りについた。
つんざくような悲鳴も徐々に収まり、游里はゆっくり立ち上がる。
「……なんか、おかしな気分だな」
游里は己の手足の感触を確かめて、天を仰いだ。
遠いはずの空が、今はすぐ傍にある。
「なあ、お願いがあるんだ。私に、魔法を教えてくれ」
「ええ、私の弟子におなりなさい、游里さん。いえ、これからは游と名乗るといいでしょう。この世界では、本名はご法度ですから」
その日、地生院 游里は魔術師となった。
◇
ホテルの地下に凄惨な音が重なる。
地下室に現れた執事風の男は、体全体を小刻みに震わせながらひたすら游里を嬲った。
その顔に刻まれたあまりにも複雑な皺の痕跡は、もはや自分ですら何を思っていたのかわからなくなってしまった悲哀に満ちている。
「ふう、うん。殺したい、殺したいなあ。だけどダメだ、お嬢様は妹思いだからなあ。そんなことしたらまた逃げてしまわれる。もう一度、あんなことになってしまったら大変だからなあ」
執事の手にしたレンチがもう何度目か、游里の頬に打ち付けられる。
口内が裂けて飛び散った血が、頬を濡らして床にまき散らされた。
「何てこと、これは大変だ。おいたわしい。大丈夫です、私が治して差し上げますからね」
執事は游里の顔を優しく包み込むと、血の跡を舌でじっとりと舐めとっていく。
もうずっと同じところをループしている、傷つけては慈しむことを幾度となく繰り返す。
(ああ、ダメだ。こいつは壊れている)
朦朧とする頭で、游里はまとわりついてくる男の感触を受け止めていた。
ここまでの執着、執念、愛憎入り混じった、それでいて純度の高い思いは初めて見る。
これだけの何かをぶつけてくるのだ、間違いなく会っているはず。
真砂への思いだけでここまでこじれることなどあり得まい。
(でも、だめだ。どうしても思い出せない)
あの日、森で真砂の魔導管を受け入れた游里はそれ以前の記憶をほぼ失っている。
元より、その心には大したものは入っていなかった、己の意志で選択したことなどほとんどない。
唯一、真砂の人生を、真砂のように生きるというただそれだけを決意した。
自分を消して、他者として生きることが最後の選択だったのだ。
だからだろう、この執事のひねくれきった思いですら今の游里には真っ当に映った。
本当は会いたい人がいたけれど、あるいはこの男であれば、この男に裁かれるのなら。
(……それも、いいかもしれないな)
これだけ思ってくれるのなら、それもいいなんて考えてしまう。
死ぬかもと覚悟を決めてしまえば、それに流されるのもまたらしい。
游里の顔に自嘲の笑みが刻まれる。
真砂が浮かべるようなものではないが、ここに至ってはもはや良いだろう。
結局、自分には本当の意味で未来を見ることなどできはしなかったのだと突き付けられたのだから。
今この瞬間を、ただ真砂として生きることが精いっぱいだった。
それでも、少しは真砂の生き様が皆の中に残るのなら、それでいいのだ。
その脱力した体が、自分を受け入れてくれたように執事には感じられた。
「ようやく、ようやく心が通じ合ったのですね。これからはずっと一緒です。大丈夫、あなたに不必要な部位はきちんと処置して差し上げます。これからはもう、何もしなくていい、見なくていい、感じなくていい。全て私めにお任せください」
執事は歓喜に体を震わせながら愛おしそうに游里を抱きしめる。
今この瞬間、この世界には二人しかいない。
そんな幸せの絶頂、その余韻を台無しにする甲高い音が部屋に響いた。
勢いよく扉を開けて、傭兵を率いていた男が飛び込んでくる。
「……何事です? 決して邪魔をするなと言っておいたはずですが?」
游里から体を離し、冷めきった表情で男をねめつける。
あまりの迫力にたじろぎながら、それでも男は引き下がらない。
「申し訳ありません、しかし火急の要件が。陽動のために街中に散らしていた者達からの通信が次々に途絶えています。
先日、作戦遂行中に三名が殺害され装備を奪われた件も踏まえると、まず間違いなく第三者の介入があるものと思われます。流合 游里一派とは別に、我々に敵対する何者かがいる可能性が高いかと」
「そういった不測の事態も含め、対処を期待してあなた達を雇ったのですが? 今どきの傭兵というのは、金だけ掠め取ってロクに働きもしないごくつぶしを指す言葉なのですか?」
瞬間湯沸かし器のように沸騰しそうになる頭を、男は何とか冷静に保つ。
このイカれた執事は地生院の関係者だと本人から聞かされていた。
実際のところはどうかはわからないが、その名を軽々に使うことがどれほどのタブーであるか。
知らない奴はただの向こう見ずか、あるいは無知か、無知であればその名を利用しようなんて考えも浮かばないだろうからまだ安全。
この執事は狂ってはいるが、決して馬鹿でも愚かでもない、恐ろしく機転が利くことを男は知っている。
じゃなければ、監理庁に包囲されているこの街にやすやすと傭兵の一団を投入するなどできはしない。
唯一、流合 游里に関わることを除けばだが、それを踏まえてもあえて地生院の名を使う危険を冒すものか。
傭兵なんてものは平時は便利に使い潰され、非常時にはあっさり切り捨てられる立場。
どこにどれだけ踏み込むべきか、金と命の境界を敏感に察知しなければやっていけない。
知らないままに虎の尾を踏みたくはない、地生院の関係者を裏切るのは恐ろしすぎると瞬時に計算した。
プライドよりは命が惜しい男。
「全くその通りですが、ここに連れて来た者を除く十五名の内、すでに半数以上と連絡が取れません。これ以上、戦力を減らされると撤退することも困難になるでしょう。
特に、流合 游里と組んでいる魔法使いにここに来られたら終わりです。あの魔術師二人は、すでに役目を終えてますから、おそらく姿をくらますでしょうし」
「……ちっ。わかりました、ターゲットはすでにこちらの手にあるのです。この街に長居する必要もない。まずは、引き払いましょう」
執事は最後に游里の額に初々しくキスをして、男と共に部屋を去った。
再び、闇の中に取り残された游里にもはや抵抗する気力はない。
それから、十分ぐらい経っただろうか。
扉の向こうから小さなうめき声と、何かが倒れるような音が聞こえる。
ゆっくりと扉が開かれた、蛍光灯の灯を背に全身を影と化した男、もとより影より薄い男。
「……朔、なんで来た?」
合図を送るまでは何事もないから、朔もフェリシアも待機するようにと言っておいたはずなのに。
「はあ、まあ、それなりに長い付き合いっすから。游里さんの考えてることは大体わかるってだけっす」
朔は無音のまま、滑るように游里に近づくと怪我の様子や拘束を確かめていく。
「傷は……大したことない。この鎖は手持ちの道具じゃ無理か。フェリシアさんを待った方がいいっすね。合図、早く送ってください。敵の規模も大体わかりましたし、ここにいる理由はもうないでしょう?」
何も答えられない游里に朔は大きなため息を一つ。
それは、それまでの朔にはあり得ない大きな反応だった。
「まあ、游里さんがそれでいいんなら、こっちも文句はないっすよ」
朔はその場に座り込んで、ただぼんやりと開いた扉を眺めることにする。
無言の時間、いつもなら苦にならないそれも、今の游里には息苦しく感じた。
「おい……朔。もういいから帰れ、私は、大丈夫だから」
「自分から死を選ぶような状態を大丈夫とは言わないっすね。俺が言えたことでもないっすけど」
本当に、言うようになったなと游里は思う。
そして何も返せない、その通りであったから。
「朔、命令だ、帰れ。帰ってフェリシア達にも伝えておけ。……悪いが、私はここまでだって。お前はこれから、綾理のところで世話になればいい。どこでもやっていけるさ、お前ならな」
「いやっす」
游里は思わず顔を上げてしまった。
呆然と隣にいる男を見やる、いつものように目を閉じた平坦な顔。
命令という言葉に、朔は必ず従ってきた。
ある意味、魔法の言葉だった、それ故に使うことはほとんどなかったが。
あまりにも想定外すぎて、死の覚悟とか全部吹き飛んだ気がする游里である。
「……お前、本当に変わったな」
「それは、否定できないっすけど、こればっかりは違いますね。拾われたあの時から、俺の持ち主は游里さんだけっすので」
游里は複雑な表情で朔の横顔を眺める。
二年ほど前――戯れに、真砂の意志に引っ張られて死にかけの、当時は名もない男を拾った。
特に助けたいと思ったわけでもない、ただ真砂ならこうするだろうなと思って助けただけ。
それから、朔という名前を与えて使い魔代わりに連れ歩いて来た。
人を模すことは得意でも、根本的に人間味の無い男だとずっと思っていた。
だから、持ち主が変わっても問題なくやっていけると思っていたのに、まさかこんなことを言い始めるとは。
この街に来て緩い日常の中に身を置いた影響か、あるいは最初からその火種はあったのか。
「……そんな昔のこと、ずっと気にしてたのか。なんか、気持ち悪いぞ。ストーカーにはなるなよ」
「うるさいっすわ。むしろアンタは、もっとねっとりするといいんじゃないっすか」
事態は何も変わってはいないけれど、少しだけ前向きな言葉が出てきたことに朔は目を細める心持だった。
◇
ホテル上階、執事と兵士たちが集まってこれからの方針を打ち合わせていた。
その少し下で、琉朱はちょうど逃げ出す準備を終えたところだった。
地下では二人の男女が何をするでもなく留まっている。
外、二百メートルほど離れたところで、魔法使いがホテルを眺めている。
この街に巣食う救済を待つ罪人たちが、この一点に集まった。
これは天啓である、神は、行く先を見失った迷える者達に慈悲を示したのだ。
「故に、全ての罪を濯ぎましょう。憐れなる魂に――
神父は腕を振るった。
数拍遅れて、地が裂けた。
さらに一拍遅れて、ホテルが中心から二つに分かれた。