遠方からでも、ホテルが左右に分かれた様子がはっきりわかった。
まるで崩壊間際のドミノ倒しのように激しく揺れるコンクリートの塊。
中層マンションの屋上で一真は言葉を失う。
怪物事件の時も思ったがここしばらく、あまりにも現実離れしているものばかり。
雑木林を切り開くように作られているから周りに家屋がないのが救いだが、このまま倒壊すれば音なんかで間違いなくバレるだろう。
「本当に仕事を増やしてくれるわね!!」
苛立たし気な声を張り上げ、フェリシアは即座に杖を構えた。
空中に描かれた魔法陣が天蓋のように広がっていく。
「
簡易結界魔法・
フェリシアを中心に、ホテルも含めた一帯を遮るように円形の黒い幕が下りた。
それとほぼ同時に、倒壊音を轟かせながら左右に叩きつけられたホテルが粉塵を巻き上げる。
思わず腕で視界を遮ってしまう、あまりの惨状とこれから起きることに背筋が凍る思い。
だが、しばらくたっても、粉塵や轟音が収まっても辺りは静まり返ったまま、家から飛び出してくる人もいない。
「フェリシア、これ……」
混乱する頭を何とか立て直してフェリシアに向き直るも、すぐに息をのむことになる。
全力疾走した後のような荒い息、滲む脂汗、血の気が引いて真っ青な顔色。
いつも余裕を崩さないフェリシアがここまで乱れるのは珍しい。
「心配しないで、一帯を囲う結界よ。外界からの認識を遮断して、内に取り込んだ魔力耐性のない一般人には軽い催眠をかけて誤魔化すの。これでしばらくはもつはずだけれど、早く何とかしないとまずいわね」
「いや、むしろまずいのはフェリシアじゃないか」
不治の病にかかったみたいに生気が失われている。
前に言っていた魔力の使い過ぎによる不調ではないのか。
「正直、ちょっときついのは認めるわ。魔力消費量がシャレにならないのよ、前準備もなしに速度と範囲も上げたから。でも、まだ問題ない。それより見なさい」
フェリシアの険しい視線を追ってホテルがあった場所に目を向ける。
宙を舞う霊体と思われる群れ、形のないモノたちの集い、見たこともない生物が狂喜乱舞。
中には全長三メートルはあろうかという四足に長い二本角を持った獣や、それより少し小柄な灰色の、巨人としか言いようのない何かが複数体。
ここまで来ると怪獣映画のよう。
影幻界というものは、あくまでも認識の世界だと思っていた。
霊体なんかも世界の裏側でこそこそするものであると。
だがあれは、明らかに実体まで混じってるように見える。
「説明は後よ、とにかくまずは行かないと。乗って!」
フェリシアの背中に躊躇なくしがみつく、今はとやかく言っている暇も惜しい。
ホテル跡地めがけてフェリシアは夜闇を跳ねる。
◇
フェリシアの結界展開より遡ること少し前。
「何ごとー!」
思わず低い奇声をあげてしまい、琉朱は口を覆った。
「いけないいけない、こほん。いやーん、もしかして、あまりの私のカワイさにビルが真っ二つ……になるわけないじゃんよー!」
比較的、余裕がありそうな一人芝居を演じながらホテルの断面に駆け寄る。
ちょうど琉朱達の部屋と隣の部屋を遮る壁を綺麗に縦に両断した軌跡は鈍い銀色をしていた。
壁に手をかけながら身を乗り出して辺りを見回す。
階下、地上駐車場に立つ人影。
「うっそ、あれ教会のバトルファーザー? 何でこんなところに。気配を捉えられないのも納得だわ。あれはまずい」
信仰は心の内に、大仰な儀式や荘厳な場を求める者は信仰者として二流以下というのがあの気取り屋教会の基本スタンス。
心の整わない者はおしなべて神を拝謁すること叶わず、恩寵を受けない者の視線を避ける。
その信心深さに応じて己に隠蔽をかける汎用魔法式が深秘教会の正統祭服には仕込まれていた。
馬鹿篤い信仰心はカワイイを解さない天敵である。
まあ、やる気があればいけるけどと琉朱は思っているが、正直魅了してもあまり面白くない。
「あーもー、厄日が過ぎる。恨みますからねー、カワイイ私は気分の器もカワイイんですー」
再燃する不平不満を愚痴りながら、琉朱は床に手を置いた。
ピンクの魔法陣が床一面、さらに飛び越えて空中にまで展開されていく。
「さあ、出ておいで下僕たち。私のために魂の一欠けらまで捧げ尽くせ」
この世界の裏側、影幻界には多種多様な存在が蠢いている。
だが、その大半は表側には流出しない、長い時をかけて定着すれば話は別だが。
例えば魔法使いはその筆頭であろう。
その歴史を紐解けば現代において人間であると自称し始めたホモサピエンスの誕生より前。
歴史時代の遥か以前よりこの世界に根付いていたとも言われる、人と同じ形を持ちながらまったく遠い存在。
あるいは森の影に潜むといわれる植人のように、秘境に隠れ住むといわれる半獣のように、地底に潜むといわれる陽気者達のように。
確かにこの世界に息づいている幻想の住人たちも存在した。
しかし本来、この世界のあらゆる存在はきちんと住み分けるものだ。
混じり合えば己の現実に揺らぎが生まれることを承知しているが故に。
だが、中にはその境界線を侵す者もいる。
その強固な在り様によって幻想を縛る者が存在する。
琉朱もまたその一人、その真骨頂は表裏の境を打ち砕く無邪気な一撃。
「ゲート陥落、落ち窪め虚構の穴よ! 召喚魔法発動~!」
魔法陣から裏側の住人が溢れ出す。
実体のあるなしに関わらず、琉朱に魅了された者達は主にいい恰好しようと舞い上がる。
溢れ出てくる己のカワイさに服従した人外の群れを満足げに眺めながら、琉朱は床に積んでいたトランクを下僕の一体、青い小鬼に抱えさせた。
「さあ、今のうちに逃げましょっと……って、いないじゃん」
振り返った琉朱はベッドがもぬけの殻になっているのをしばらく見つめていた。
「ノォー! アザミのイノシシー!」
今度はわりと本気なオタケビをあげる。
それは分かれたホテルの右側が地面に叩きつけられる轟音に紛れて消えていった。
◇
琉朱のオタケビに同調するかのように、左上階では男たちがパニックに陥っていた。
「この、ふざけるなこの悪霊共が!」
「馬鹿よせ! こんなところで銃を乱射するな!」
「くそお、こんな依頼だって知ってれば来なかった! あの魔法使いといいなんなんだよ!」
床や壁をすり抜けて舞い踊る霊体の群れ、傾いていく部屋、飛び交う銃弾の中。
執事の男はただ、無表情に佇んでいる。
怒りも一周回ると平静に戻ってくるようで、今頭の中にあるのは全てが無駄になったという事実だけ。
「……なぜだ?」
何を間違えたのか、何を見落としたのか。
地生院の名を使い、御しやすそうだと質の悪い傭兵を、無茶をしてまで雇ったことか。
居場所を特定しただけで調べもせず、游里の周りにいる者達の下調べを怠ったことか。
あるいは、はじまりから全てが――。
「違う、それは違います。私は間違っていない、私のお嬢様への愛は本物だ」
ならば、間違っているのは自分以外の全てに決まっている。
執事は今にも真横に倒れ込みそうな部屋の壁をぶち破り外へと飛び出した。
地上駐車場へと降り立ちアンセルと対峙する。
背後でついに倒壊したホテルが撒き散らす瓦礫や轟音を気にすることもなく、ただ目の前の神父に全ての元凶だと言わんばかりの憎悪を向けた。
「貴様か、よくもやってくれたものだな」
これまでの慇懃さはもはや見られず、ただただ全てを威圧する殺意をアンセルは涼しい顔で受け流す。
「はて? 何のことやら。全ては神のご慈悲なれば、あなたの中の迷いを裁いてくださったのでしょう」
「フザケルナ!!!」
執事の体が弾丸のように疾走する。
勢いのままに突き出された拳をアンセルの剣が迎え撃った。
平で受け止められたのも構わずに押し込んでくるその力に、アンセルは微かに目を見開く。
そのまま叩き込まれる連撃は技術と力が高次元で噛み合った素晴らしいものだった。
明らかに武道の心得がある、大陸由来のものか。
だが、それも長くは続かない。
徐々に技術は抜け落ちて、代わりに膂力だけが人外の物へと上がっていく。
「ほう、人間にしては強い。あるいは、人ではないのですか?」
「ダマレ! ワタシはニンゲンだ! ワタシはお嬢様のお世話係だ!」
言葉とは裏腹に執事の体は肥大化していった。
腕は丸太のように太く岩のようなこぶを浮き立たせ、腹は鋼鉄のポールのようにシャープに引き締まり、足は細さと柔軟性を兼ね備えたものへと変わる。
執事服が千切れ飛び、全身から白銀の毛が伸びた。
顔は尖りを見せ、長くしなる尾がアスファルトを叩く。
夜闇に響き渡る咆哮は孤高の狼のように。
「なるほど、人狼とは珍しい」
アンセルはその姿にも微笑みを崩さない。
「哀れなものです。同胞の大半を失いながらこの世界にしがみつくその卑しさこそ、神が罪だと示されたのでしょう。その心根を救って差し上げます。苦しみの無い世界へお行きなさい」
「シヌノハ貴様ダ! ソノ口、切リ裂イテクレル!」
下半身が膨張し、一瞬で距離が詰まる。
振るわれる腕、伸びる爪の乱舞をアンセルは冷静に捌き、受け流す。
どこまでも悠然としたその在り様に、執事は半狼となり薄まっていく理性の警鐘を聞いた。
この神父は慣れている、人外を狩るために鍛え上げられた神を騙る者達の尖兵だと。
たとえそうだとしても、研いだ爪を引くことはもうできない。
独愛と独善の衝突は激しさを増していった。
「ひぃ……何なんだよこれえ。バ……バケモノ……」
部下を全て失い、ただ一人。
拙い強化魔法の行使でなんとか生きながらえた元傭兵のリーダーは、目の前の光景にただ身を縮こまらせて震えていた。
身を置いていた深淵、その入り口を超えた世界の実情にようやく己が場違いであることを悟った。
瓦礫で潰された脚を引きずって、その場から這いずるように逃げていく。
◇
地下、異変を察知した朔は即座に動き出す。
入り口を閉めると、部屋の中にあった机や棚をできるかぎり扉の前に積んでいく。
動きを止めたのとほぼ同時、地上から響き渡る轟音と凄まじい振動。
床下から突き上げるような揺れに思わず膝を付く朔、鎖が両手足首にめり込み顔をしかめる游里。
天井がひび割れたのには両者肝が冷えたが、幸いなことに完全に崩れることはなかった。
しかし、事態は深刻。
水道管が破裂したのか徐々に溜まり上がっていく水位、停電して再び真っ暗になった室内。
「……入り口は完全に塞がったみたいっすね」
闇の中でも関係なく周囲を視られる朔は、拉げた扉から今にも溢れんばかりの瓦礫を捉えていた。
最悪な状況に、游里は諦めたようなため息を一つ。
「まったく、なんでこうなるかな。何とか脱出の方法を考えないと、このまま生き埋めだぞ」
「心変わりでもしたんっすか? さっきまで死にたがらんばかりの弱気全開だったっすよね?」
「アホか、私だって死に様は選びたいわ。こんなところで圧死なんてごめんだ」
軽口を叩き合うも八方ふさがりだった。
鎖は外れない、脱出経路はない。
游里は魔力を練りフェリシアの使い魔を通じて合図を送ろうとするが、うまく繋がらない。
おそらく何かあったのだ、カラスをうまく制御できてない可能性がある。
「くっそ、マジでこのまま終わりか? 今はあの執事でもいいから戻って来てくれえ」
ついに錯乱したようなことを言い始める游里の耳がふと、何か小さな音を拾った。
「潰れろぉ」とか、「ぺちゃんこになぁれぇ」とか聞こえてくる気がする。
しばらくすると、扉のすぐ外から漏れ聞こえてくる声。
半ば崩壊していたバリケードを押しのけて、弾かれるように外れて飛んで来た扉を朔がはたき落とす。
「みーつけーたー、ようやくみつけたよぉ。邪魔も入らなそうだしねぇ、キヒヒ」
あまり見たくなかった姿、地上から微かに入ってくる星明りにきらめくギザッ歯。
フードは下ろされ素顔を晒していたアザミは、特に特徴もない陰気な感じの年若い娘だった。
茶色がかった長髪、目元を隠す前髪の下から覗く、あちこちに泳ぎまくり一向に定まらない瞳。
「確か、アザミだったな」
游里は虚勢を張って冷徹な声を装った。
最初に出会った時から、アザミが向けてくる情念を游里は正しく感じ取っている。
あの執事と同じ、おそらくこの女もまた真砂の関係者なのだろう。
今にも飛び掛かってきて元気にナイフでも振るいそうだと警戒したのだが、今は前ほどの勢いが感じられない。
「……お前、怪我してるだろ。あの時のフェリシアの一撃か、相当ひどいんじゃないのか?」
「まあねぇ。だけど、オマエの中身を見られるなら別に死んでもいいし」
アザミはお腹をさすりながら、卑屈な笑みを浮かべて独りごちる。
誰かに聞かせたいわけでもないのだろう、ただの決意表明。
それが、何となく自分を見ているようで游里は思わず顔を逸らした。
「とにかく、まずはここから出てもらうよお。もう少し遠くで、まずはお話したいしい。だから、約束しよう。私はオマエをここから連れ出す。だから、オマエは私の質問に全部答えて」
約束というものは、魔法に携わる者にとって重要な意味を持つ。
強固な世界観を武器とするが故に、己を欺くことは自我の枯渇を招くからだ。
端的に言えば、嘘は他者との契約破り以上に己を削ぎ落すものとなり、大抵の魔法使いや魔術師にとっては弱体化をもたらす。
ここで約束を出すのであれば、アザミはそれだけ本気ということだ。
真っすぐすぎるほどこちらを見つめてくるその姿に、游里が返せる言葉は一つしかない。
「いいだろう、約束しよう。だが、どうやってここから出る? 私はこの通り、囚われのお姫様状態だぞ?」
「うわ……」という朔の失礼な呟きを完全スルーして游里は鎖を鳴らして見せる。
アザミは動じない、ゆっくりと游里に歩み寄って傍らに膝を付いた。
警戒する朔を游里は目で制する。
「私の固有式、
游里は答えないが、その通り。
他者に影響を及ぼす魔法を十全に通すには莫大な魔力で耐魔力を無効化するか、何らかの手順や条件を満たすか、同意を取り付けるかの三つが基本だった。
もう一つ、凄まじく強固な世界観で他者の世界観を侵食するという手もあるが、これは傍から測ることができないためにあまり使われない尺度。
魔術師同士であれば相手にとって不利になる効果であるほど、通すには同意を取るのが一番の近道となる。
当然、同意する者はほとんどいない、こんな状況でなければだが。
「今から私がオマエを押し潰す、鎖を外して元に戻すからあ。同意してくれるでしょう?」
食えないアザミの笑みに、游里は不敵な笑みを返す。
約束云々は確かにあるが、それ以上にアザミをなぜか邪険にできなかった。
「ああ、同意する」
「じゃあ、潰れちゃえぇ」
間延びした声と同時、游里の顔にスタンプみたいに貼りついたアザミの手。
しぼんでいく体、それでいて一切異常の感じられない実感の乖離に游里はくすぐったいような、これまでにない奇妙な感覚を覚えた。
平らになった游里をアザミは鎖から引き抜いて、空中で立体化させる。
お尻から地面に墜落する游里は派手な水しぶきを上げた。
「いっだ! あのなあ、もう少し優しく戻してくれよ。フェリシアといい、私の尻に何か恨みでもあるのか? 心配しなくてもそのうちお前も育つぞ?」
「だまれしね。馬鹿なこと言ってないでさっさと行くよ。約束だからね」
アザミはふらふらと、入り口から外への階段を上がっていく。
付いていく二人は久方ぶりに感じられる地上の澄んだ空気を楽しむ暇もなく、周囲の光景を目の当たりにして驚きを隠せない。
瓦礫にまみれた一帯を飛び回る霊体の群れ。
影幻界から引きずり出された生物の数々。
空を覆うように展開された大規模結界。
遠くから響き渡る激しい剣戟音。
「……これは、さすがにやり過ぎだろうが。フェリシアのやつ、大丈夫か? 頭プッツンしなけりゃいいが」
「ほら、こっちだよお」
アザミはマイペースに歩き続け、ホテルから少し離れたところにある森の中、ちょっとした遊歩道から続く休憩用の広場に朔と游里を誘った。
ホテル跡地の光景や騒音が遠くなったところで、ようやく向き合う。
「さて、お前は約束を果たしてくれた。だから、今度は私の番だな。何が聞きたい?」
アザミはすぐには口を開かなかった、あるいは開けなかったのかもしれない。
泳ぎがちな目はここに来て最高潮に達し、ぐるぐると混乱でもしてるかのように回り続ける。
その回転も徐々に収まって、アザミは臨戦態勢時のような鋭く狂気に満ちた、どこか演技がかった視線で游里を見た。
それが何らかのフィルターであると游里は感じたが、ただ黙ってアザミの言葉を待つ。
「流合 游里、ずっと聞きたかったことがあるの。オマエ、あの時どんな気持ちで私に羨ましいなんて言ったの?」
切実な声だった。
「……あなたは全てを持っていた。誰よりも高みにいて、誰よりも自由だったくせに。地面でもがく虫を見て、気まぐれな憐れを恵んだつもり?」
狂ってなければ受け入れられないと言わんばかりの、心の底から引きずり出した問いだった。
できることなら答えてやりたいと思えるぐらいには揺さぶられるものがあった。
それでも、できない。
「アザミ、その質問に答えることは、私にはできないんだよ。私は、お前と会ったことはない。お前と出会い、声をかけたのは私の姉だろう。名を地生院 真砂。……七年前、私が殺した」
はっきりと覚えている、忘れられるはずもない記憶。
姉の命を刈り取ったのは己が撃ち出した銃弾だった。
それが重荷とならないように、真砂は全ての罪を師へと押し付けた。
それをすんなり受け取るぐらいには、二人の間には繋がりがあったのだろう。
その後、続けて己の師となってくれた男は一度も真砂の名を出すことはなかったし、游里も自分から聞くことはできなかった。
「……嘘だ。だって、オマエの魔導管には確かに、あの時の大空の気配が……」
「それは師が真砂から抜き出して、私に譲渡したからだ。
アザミは殴られたかのようによろめいて、数歩後ずさった。
両手で頭を抱えて、唇を震わせながら一心不乱に何かを呟く。
「そう、そうなんだあ。そっか、最初から私には、もうどこにも、何も、全部。キヒ……キヒ……」
再び回り始めたその目は、やがて色を失いどこを見ることもなく虚空を彷徨う。
パーカーの袖からナイフが転がり落ちてその手に収まった。
「朔、手を出すなよ、絶対にだ。もし出したら、私はお前を許さん」
「……なら、せめてこれぐらいは持っててください」
朔はバットパックから銃の収まったショルダーホルスターを投げ渡す。
游里はそれを掴むとワイシャツの上から装着して、目を閉じた。
自分でも、これからやろうとしていることが何なのかわからない。
罪の清算なのか、真砂としてアザミの激情と向き合うのか、別の何かなのか。
(何でもいいな、ただ逃げないって、そう思ったんだもんな)
游里が目を見開いて徒手で構えるのと、アザミがナイフを握り込んで地を蹴るのはほぼ同時だった。
振り下ろされる刃を腕を抑えることで押し止める。
至近距離で向けられる全てを游里は余すことなく受け止めた。
「あの女がいないなら、せめてその中身はもらっていくよお!!」
「悪いな! 殺されてやるのはやぶさかじゃないが、これだけは死んでも渡せないんだよ!」
◇
ホテルの残骸の上に降り立つフェリシアの背から一真はすぐに降りた。
「それで、これからどうするの?」
「決まってるでしょう、片っ端から叩いて回るのよ。あなたは霊体の方をお願い、私は実体があるのを何とかする」
彼らと呼べばいいのか。
言葉を解するのか、少なくとも害意は感じ取れるのだろう。
フェリシアの呟きに、無作為に辺りを飛び回ったり闊歩していたもの達の意識がこちらに向いたのがわかる。
明らかな敵意。
「来るわよ!」
フェリシアの発破に短刀を抜くが、猛突してくる四足獣に固まってしまう。
岩のような表皮、顔は牛に似てるようにも思うが殺気立ち充血した目から放たれる野生の威圧感は尋常ではない。
(あ、死んだ)
素直にそれだけしか思えなかった。
そんな自分の傍らから臆すことなく、正面から向かって行くフェリシアの姿を横目で捉える。
止める間もなく、その余裕もなくただ見送るしかできない己を恥じるなんて無駄なことをしながら。
地面すれすれにまで首を下げ、角で突き刺すのか
衝突の間際、直前で飛んだフェリシアがその杖で頭を思いっきり打ち据えたのだ。
まるでギャグマンガの一幕のように、首や角が瓦礫を粉砕しアスファルトを砕いて地中にめり込んだまま。
しばらく痙攣していた胴体もやがて力なくその四足を折った。
目が点になるとはこういう時に使う言葉なのだと、知りたくなかったが否が応でも心に刻まれる。
『うわあ、さすがに引くわ。どっちが魔獣なのかわからないねこれじゃあ』
回の呆気にとられたような言葉に同調する形でなんとか頭を切り替える。
見れば、少し遅れて殺到しようとしていた周りの巨人達や、小柄な鬼のようなもの達、霊体までも完全に動きを止めていた。
中には明らかに後ずさっているものもいる、気持ちはわからなくもない。
空白の時間はしかし、長くは続かなかった。
ためらう者達の目が突如、理性を飛ばしたように光を失う。
代わりに、各々の体の一部がピンク色の光を放っているのが見えた。
「一真! あの光を見ておいて! あれが魅了の魔法の印よ!」
先に言っていたキスマークの魔法というやつか。
確かに、だいぶ近くにいた小鬼の首筋に赤い痕が見えた。
その光が収まってくると先まで臆していたのが嘘のように、鼻息荒く鬨の声をあげたように思える。
周囲に響き渡る雄叫び、明らかな戦意高揚、たまに翔が雑誌のアイドルにかじりついている時のような興奮。
敵が動き出す前に機先を制しようとしたのだと思う、フェリシアは杖を掲げたが顔をしかめて動きを止めた。
手の中で杖を一回転させると、近くにいた小鬼の群れに突っ込んで薙ぎ払っていく。
余裕があるように見える、圧倒しているように見える、でもおそらく違う。
(何をやってるんだ、馬鹿か僕は!)
言っていたじゃないか、きついって。
いつもなら遠距離の広範囲魔法で焼き払ってるような場面で、あえて近接戦を選んでいるのは魔力を無駄にできないからだ。
あまりにも荒唐無稽で常軌を逸した光景にいつまでも心を砕いているわけにはいかない。
合掌、全ての雑念を遥か彼方へ。
「回、僕の死角に何か近づいてきたらすぐに教えて」
『了解! でも無理しないでね!』
短刀を握り直してフェリシアの方へ駆ける。
できることはそう多くはない、実体のある敵はおそらく、どうにもならないだろう。
だが、フェリシアに纏わりついて何かをしようとしている霊体であればどうにでもできる。
体ごと叩きつけるように霊体の群れに飛び込む、触れるだけで粒子のようなものとなって消えていく。
小鬼に対してはその攻撃をかわしつつキスマークに触れてみるとあっさり消えた。
存在自体もあるいはと思ったが、現実に実体を持つ相手は影幻界由来でも消せないようだ。
消せるのなら魔法使いのフェリシアだって消えてしまうだろうし、無理だろうとは思っていたがこれで確信できた。
魅了が解け正気を取り戻したかのように視線をさまよわせた小鬼は恐怖か狂乱か、向かってくるもののフェリシアが一発で飛ばしてくれる。
中には逃げる者もいる、そのまま見送っていいものか。
「フェリシア、これ逃がしたらまずくない!?」
「大丈夫よ! おそらく召喚魔法、まだ世界に完全には定着しきってないから術者からそんなに離れられないはず! 定着前に術者を仕留めればそれで還る!」
ならばと、去る者追わずでひたすら霊体を追いかけて消していく。
フェリシアが目の前の敵に集中できるように、なるべく敵を引き付けるように立ちまわる。
数はどんどん減っていって、最後の大型の巨人の頭をフェリシアがカチ割った。
残りは小鬼と霊体の群れだけだ。
ようやく周囲にも気を配る余裕ができて、視界の端に派手にひらつく何かを捉えた。
顔を向けてみると、地下の階段のようなところから登ってくる人影。
見間違うはずもない、あの化粧女。
たぶん琉朱という名前だと游里さんが言っていた魔術師。
フェリシアも気づいたのか、鬼のように目尻を吊り上げる。
周囲の小鬼は大柄な仲間が全滅したのと、真の鬼の剣幕を前に完全に戦意を喪失したようだった。
魅了の魔法をフェリシアの恐怖が一時的に上書きしたのかもしれない。
相手もこちらに気づいた。
やけに大げさに、わざとらしく全身で驚きを表現する。
「ゲエッ! 魔法使い、もうここまで! 結界張ってたじゃん! というか私の下僕ちゃんがあ!!」
「ようやく姿を現したわね、この大まぬけが! もう逃がさないわよ!」
「うっさい人型ブルドーザー! カワイイ私があんたみたいな野蛮人に捕まるわけないでしょー!」
女の掌にピンクの火の玉が乱舞する、あの時の煙玉みたいなやつだろう。
投擲されたそれをフェリシアが杖で弾くと案の定、派手な効果音を響かせてピンクの煙をまき散らす。
加えて、再び周囲のもの達のキスマークが光を持ち始めた。
「まずい、また逃げられたら!」
「いいえ、大丈夫よ」
焦って飛び出そうとするも、フェリシアの妙に冷静な声、意地悪そうな顔に足が止まる。
逃がすはず、逃げるはずがないと確信しているようだった。
「ねえ、魔術師、琉朱でいいのかしら? 私はあなたの秘密を知っている」
唐突に呟かれた言葉は、果たして届いているのだろうか。
「……あなた、男でしょう?」
時が、凍った。
ピンクの煙が風に吹かれて徐々に散っていく。
視界が晴れたその場所に女、フェリシアが言うには男が変わらず立っていた。
その顔は真っ赤に染まっている。
怒っているのか恥ずかしがっているのか何なのかわからないが、とにかくゆでだこのように真っ赤だ。
「……いつ?」
「最初にあなたに魔法をかけられた時、拳で触れて何となくね。その服装は男らしい骨格や特徴を隠すため、女らしさを演出するためでしょう? 喉仏、寄せた胸、骨盤、底の厚い靴、全体的なバランスを誤魔化してる。声もやけに高いしね。なんだったかしら? オカマだったかしらね?」
フェリシアの指摘が一つ届くたびに、オカマだったらしい琉朱の顔から赤みが引いていく。
表情はどんどん欠落して、ついには何を思っているのか完全に窺えなくなった。
代わりに、キスマークの赤い光はどんどん強くなっていく。
「……フェリシア、なんか、どんどん光が強まってる感じがするんだけど」
「当然でしょう? むしろ男だからこそ、あの魔術師の魔法は強力なのよ。男であってなお、可愛い己を貫けるメンタルが根幹にあるのでしょう。自分を偽らなくていいのだから、強くなるのは道理ね」
「じゃあ、なんであんなこと言ったのさ! デリカシー的にもあれだし、無茶苦茶怒ってるんじゃないの!?」
「仕方ないでしょう! 逃がさないためには!」
言い合っているうちに、光は最高潮に達した。
小鬼たちの目が充血と言うには生温い、真っ赤な光を煌めかせてこちらを睨む。
体も一回り大きくなったような気がする、筋肉が膨張でもしているのか。
霊体は何体かが重なり合って異形の姿を取り始める。
「ふ……ふふ……ふふふふ」
うつむきがちな顔色が真っ白に。
さらに化粧が汗か何かで乱れたのか、前に游里さんからダンスクラブで聞いたコープスペイントみたいな感じに進化した。
笑い声が不気味さを三割り増しぐらいに引き上げる。
「ねえ、知ってるぅ? カワイイあの子の秘密を暴いた可哀そうな人達はねぇ、ファンに全身を引き千切られて爆散して後悔する間もなく死んでいくのよォ!!!」
「うわあああ!」
思わずあげてしまった悲鳴が第二ラウンドのゴングだった。