そして、世界は別たれる   作:・黒箱

6 / 34
少年とはじめての戦い

 『さあ、覚悟を決めて飛び込んで。私の中にきてください』 

 

◇

 

 いつも通りの翌朝、登校の準備も終えた。

 

 少し違うのはいつもなら自分より早く家を出るフェリシアがまだいることだろう。

 制服に着替え、ソファで瞑想でもしているかのように目を閉じて静謐な空気を纏っている。

 

 何となく声をかけづらい、とは言え無視して学校に行くのも違うだろう。

 

 「フェリシア、珍しく今日は遅いんだね。僕はもう出るけど、君は?」

 

 声をかけるとフェリシアはゆっくりその目を開いた。

 

 「一緒に行くわ」

 

 傍に置いてあった鞄を片手に立ち上がり、キッチンに立ち寄って弁当箱を中に入れる。

 もう一つある包みを片手にこちらに近づいてくると、そっと差し出してきた。

 

 「……これ、あなたのお弁当よ」

 

 いつも通り感情の読みづらい澄んだ顔で差し出されるそれをとりあえず受け取る。

 

 「えっと、ありがとう」

 

 突然の弁当に固まってしまう、どういう風の吹きまわしだろう。

 それに夕飯を作ってもらうようになって、今度は昼の弁当まで。

 手間をかけさせるようで申し訳ないなという気持ちが先に来る。

 両親が死んでからは、できるかぎり自分で何でもやろうと気を張ってきた。

 少なくとも家のこと、自分のことだけでも。

 

 だからこうして気を使われることに慣れてなくて何だか戸惑ってしまう。

 

 「……あなたが勝手に影幻界のことに首を突っ込んで暴走しそうだからだけれど、仕事を手伝ってもらうのも確かだし。意外と役に立ちそうなことも昨日わかったし。だからその対価よ、借りを作りたくないだけ。いらないなら処分してもらっていいわ」

 

 何とも言えない表情に何かを勘違いしたのか、早口でまくし立てるフェリシア。

 

 『だって一真。迷惑なら捨てちゃえばいいんじゃない?』

 

 いじけたように投げやりな言葉が降ってくる。

 そんなことできるわけないだろう、迷惑というわけでもないし。

 慌てて首を振る。

 

 「いやいや、本当に感謝してるよ。自分だけだとあんまり食事とかに気を使わないから。ただ、手間をかけさせて悪いなと思って。フェリシアの料理はおいしいし、好きだよ。ありがたくいただかせてもらうから」

 「……別に、手間じゃない」

 

 小さくそんなことを呟いて、フェリシアはさっさと玄関に向かう。

 

◇

 

 午前中は何事もなく過ぎていく。

 

 フェリシアの暗示の力は本物で、翔は授業の間の休み時間に昨日のことなど忘れたかのように普通に話しかけてきた。

 そのまま他愛ない話をまくし立てて何事もなく去っていく。

 こうして実際に魔法やその結果を目の当たりにすると、確かに自分もまた普通の日常からは外れたのだなと、否が応でも受け入れざるを得ない。

 

 そして昼休み、もう恒例と言ってもいいだろうか。

 屋上のベンチにフェリシアと並んで腰を下ろしていた。

 朝、受け取ったお弁当を開いてみる。

 定番だけどそれが良いというおかずがきちんと整って並んでいた。

 「いただきます」と、とりあえず卵焼きを口に運ぶ。

 程よい甘さでおいしい、思わず顔がほころんだ。

 

 そのまま次々とおかずやご飯を口に運びながら、ふと視線を感じて顔を横に向ける。

 同時にふいっと、フェリシアの顔が逸らされた。

 

 「どうかした?」

 

 「何が?自意識過剰じゃない?」

 

 いつもと変わらぬ平坦な声でそんなことを口にする。

 再び弁当と向き合い中身を口に運んでいくが、やはり何となく視線を感じるのは気のせいじゃないと思う。

 とは言え、追及しても何も答えてくれないだろう。

 フェリシアのポーカーフェイスは自分では突破できまい。

 

 気にしてもしょうがないと、ただひたすらに舌鼓を打つことに集中した。

 

 「ふー、ごちそうさま。おいしかったよ」

 

 お弁当を片付けて改めて礼を述べる、フェリシアはそうと返すだけだった。

 それから思い出したかのように自分の弁当に口をつけ始めるフェリシア。

 

 ずっとこっちを見ていて食べるのを忘れていたとでも言うのか。

 まさかと、紙パックにストローを差し込んでリンゴジュースを啜る。

 そのまま無言の、しかして穏やかな午後の時間が流れていく。

 ぼうっと空を眺める。

 

 綺麗な秋晴れは裏側なんてないかのように澄んでいて、二羽のカラスが円を描くように上空を旋回していた。

 そのまま寄り添うようにこちらに降りてきて屋上のフェンスに止まる。

 

 フェリシアは顔を上げてそのカラスをじっと見つめていた。

 カラスもまた返事でもするかのように見つめているような気がする。

 

 しばらくして、そのまま飛び去って行くカラスを見送りながらフェリシアは唐突に口を開いた。

 

 「能。今夜、さっそくだけど仕事が入ったわ」

 

 「……いきなりどうしたの?」

 

 「情報が揃った。この近辺で魔法を使って表側に影響を広げ始めてる馬鹿がいて探していたの。工房も割れたから今夜、制圧しに行くわ。来たいなら来なさい」

 

 いつ情報が入ったというのだろう。

 いやまあ、あのカラスぐらいしかそれらしいのはいなかったが。

 

 「あのカラス、やっぱりそういうのなの?」

 「ええ、私の使い魔。この街を飛びまわって情報を精査、記憶して持ってきてくれるの」

 

 ますます古典的な魔法使いじみたことを隠さずするようになってきた。

 いや、逆にわかりやすいからこそいいのかもしれない。

 

 表側であっても共通する認識だからこその魔法なのか。

 

 「あと、隠しておくとフェアじゃないから先に言っておくわ。この仕事は私の私用、生活費稼ぎのバイトみたいなのも兼ねてるから。あなたが無理して手伝う必要は、本来はない」

 

 思わず笑みがこぼれた。

 

 きっと笑えるようなことではないと思うけれど、バイトという響きがどこか身近に感じられたからだろう。

 それに、こうして正直に話してくれたことが嬉しい。

 

 きちんとこちらに向き合ってくれているようで。

 

 「それでも、魔法使いが表側で悪さしているのは間違いないんだよね?」

 

 「ええ、そうね」

 

 「なら行くよ、放っておけないから」

 

 フェリシアは呆れたようにため息をついた。

 

 「何度、言ったか忘れたけれど、来るつもりなら不完全だとしても覚悟だけはしておきなさいね。

 死ぬ覚悟だけではないわ、殺すかもしれないという覚悟もしておいて。影幻界において生死は軽く、命は道具。そういう輩がひしめいて、表側とは全く違う倫理道徳やルールを敷いてる世界だから」

 

 ああそうかと、ここでその可能性にようやく思い至る。

 

 自分が死ぬ覚悟はしていた、自分の選択で何かを守って死ぬのならそれは受け入れられると思っていた。

 だけど、自分が殺すかもしれないということは考えていなかった。

 木戸とはじめて出会った時を思い出す。

 

 全力で、殺す気で噛みついてきたあの男を思い切りぶん殴って。

 あの時はそれできちんと沈んでくれた。

 

 だけど、もし、それでは止まらない者がいたとして。

 

 その者が変わらず非道を重ねようとしていたのならば――果たして自分はそれを殺してでも止めようと動けるのか。

 

 フェリシアを横目で視界に収める。

 

 いつも通り澄んだ顔で、小さな口を動かして弁当をつつくその姿。

 自然体で、その口で死ぬとか殺すなんて言葉を平然と告げたとは思えないほどに泰然としている。

 当然か、いつから魔法使いとしてこういう戦いを続けてるのかはわからないけれど。

 自分が想像もできないぐらい、きっともう何度もそういう修羅場を潜り抜けてきたのだろう。

 

 自分は、果たしてどうなのだろうか。

 そういう世界でいったいどう動くのかわからなくて。

 

 考えても無駄かと、とりあえずは午後の授業に集中した。

 放課後、文化祭の手伝いを数時間ほどこなして、フェリシアと並んで帰宅する。

 シャツを着るようになったフェリシアが料理を作るのを何をするでもなく眺めながら、これまたおいしい夕食を堪能し。

 

 瞬く間と思えるぐらいに早く、いつの間にか時間は零時を回ろうとしている。

 

 フェリシアは学校の制服の上からローブを羽織り、とんがり帽を載せて、杖だけをその手にした。

 今日は箒は持って行かないのかと尋ねれば。

 

 「まあね、だって、あなたがいたら飛べないし」

 

 と、身も蓋もないことを言われた。

 

 足手まといと言われてるようにも聞こえたのは少なからず不安があるからだろうか。

 自分でも今の自分の気持ちはいまいち判別がつかなかった。

 

 ただ行くと、行かなければという思いだけがある。

 

 家を出ると、すでにタクシーが待っていた。

 自動で空いた後部座席にフェリシアは躊躇なく身を入れたのに続いておっかなびっくり乗り込む。

 

 ドアが閉まり行き先を告げる間もなくタクシーは発進した。

 

 「……やっぱりこれも」

 「ええ、暗示。心配しなくてもちゃんと運賃は払うし、運転手もタクシー会社も普通に仕事をしてると思っているから大丈夫よ」

 

 いやそういうことじゃないのだがと小さく息をつく。

 思った以上に手広く無茶苦茶やっているなという印象がやはりぬぐえないのは、自分がまだ表の世界の住人だからだろうか。

 

 というより、やはり気づいてなかっただけで裏側の常識はこうしてそこかしこに潜んでいるのだろう。

 

 タクシーは夜の街を進んでいく、生活の明かりがほとんど灯されてない住宅街を抜け歓楽街へと滑り込む。

 

 毒々しいネオンの明かり、どこか虚無的で、だけど熱狂の渦巻く感情の掃きだめ。

 

 窓が閉まっていてもどこかから響く怒声が鼓膜を揺らし、殴り合いの喧嘩や男女が身を預け唇を貪り合う光景が映る。 

 薬だろうか、どこか壊れたような笑みを浮かべたり、逆に暗く沈んで壁に体を預ける人々が踏み越えられていく。

 中には学生にしか見えない若い男女の姿も見られた。

 これまで、こういう世界にとんと縁がなかった自分にとって、それは映画でも何でもないはじめて見る混沌とした情念の表現の一つだ。

 

 人がどのように生きるか、口を出せることではないが理解はできそうにないと思う。

 

 そのまま、タクシーは歓楽街の端で止まる。

 バブル崩壊後に中の店はほとんどつぶれ、打ち捨てられた雑居ビルがいくつか立ち並ぶ場所。

 

 車から降りる、タクシーは少し離れたところで駐車し待機状態。

 

 「さて、それじゃあ始めましょうか」

 

 フェリシアはこちらに向き直るとやはりいつもと変わらずにそう告げた。

 

 「……始めるって、何を?」

 

 自分は何をすればいいのだろうか、何も聞いていないのだが。

 

 「そうね、ところで、魔法使い同士の戦いにおいて勝敗を分けるものって何かわかる?」

 「……使える魔法の数とか?」

 

 いきなり話が飛んだがそれっぽい答えを絞り出してみる。

 相性とかあるのだろうし、使える数は多い方がいいのではないか。

 

 「まあそれもあるわね、使える手数が多い方が圧倒的に有利。だけど違う、魔法戦において真っ先に問題になるのは魔力量」

 

 「ああ、それはそうだね。魔力がないと使えないんだっけ」

 

 「そう、使えない、だけならいいのだけれど。魔力って現代においても未知の部分が多いの。自身の魔力を底上げする効果的な方法は未だ確立されてない。魔術師なんかも生まれるように、才能やそれ以外の変数で容易く揺らぐものなのよね。おまけに、魔力が欠乏すると記憶が消えたり精神に異常をきたすことも多くなる。変な方法で魔力を増大させて廃人化なんてありふれた話よ」

 

 「……それって、フェリシアは大丈夫なの?」

 

 初耳だ、万能で便利な力だと思い始めていたが、使うだけでそんな危険があるのか。

 

 「大丈夫よ、魔法使いにとって魔力は文字通り命に等しい。管理は何よりも繊細に綿密にやっているもの。私のことはいいわ、あなたに心配されるほど未熟ではないから。とにかく、魔力の分配が魔法戦においては最重要。だから専守防衛側が圧倒的に有利なのよ。工房を構えた時点で、魔法使いは必ず魔力を貯蔵する設備を作って、何かしらの手段で魔力を貯めに走る」

 

 つまり、これからやるのは不利な侵攻作戦ということか。

 

 「だから、あなたにはその貯蔵庫の破壊を頼みたいわ。私が魔法使いの気を惹きつけるから、あなたはその間に貯蔵庫をみつけてそれを壊して」

 

 それは、もの凄く責任重大な気がする。

 もしや意外と信用されていたりするのか。

 

 「もちろん、防衛機構なんかはあるでしょうけれど、こんな街中で派手なことはできない。そんな大規模なものじゃないはずよ。人払い、精神かく乱、認識挿入、後は霊体使役ぐらいのはず。あなたの体質なら問題なく突破できるものが大半だと思うから。無理そうなら逃げなさい、ビルを出れば問題ないわ。あなたには概念的な結界も意味を成さないから逃げるだけならそう難しくはないはずよ」

 

 違ったらしい、魔法使い本人と出会うより逃げやすいというだけの話なのか。

 これは、レクリエーションのようなものなのだろう。

 

 フェリシアは二階建ての小さな雑居ビルを指さした。

 

 「あそこの地下にあると思うから私が合図したらあなたも突入して、入り口を探してみてね。ああ、後、これ」

 

 フェリシアはベルトに下げていた刃渡り二十センチほどの鞘に入った短刀を投げよこした。

 

 「刃に魔言を刻んだ特注品、強度と切れ味をできるかぎり高めてある。雑に振ってもコンクリートぐらいなら切り裂けるはず。刃の部分は絶対に触らないことよ、あなたが触ると効果が解けるかもしれないから。それじゃあ、後はよろしくね」

 

 それだけ告げてフェリシアは三棟となりの、少し大きめの五階建て雑居ビルに向かっていく。

 本当に最低限の説明だけ、いきなり一人で取り残されて突っ込めとはすさまじいスパルタ。

 

 いや、そうじゃないのだろう。

 

 貯蔵庫が健在であれば不利であるのはフェリシア。

 自分の身を危険に晒すのも構わず、こちらに決断や行動を委ねてくれている。

 

 影幻界の常識に馴染めるのか、それとも逃げ出すのかを選ばせてくれているのだ。

 ますます迷惑をかけているなという念が募るも、ここに来て引くという選択はできない。

 これぐらいできないなら本当に足手まといということでもあるのだろう。

 なら、やってみせるしかない。

 

 それにしても合図って何だろうと思っていたら、十秒とたたずに一階の窓からすさまじい赤の閃光が漏れ出し路面を照らす。

 

 「……派手過ぎる」

 

 思わず辺りを見回した、人通りは少ないもののゼロではない。

 だが誰も気づいた様子がなく通り過ぎたり享楽にふけったりしているだけ。

 フェリシアが、あるいは敵の魔法使いとやらが隠蔽でもしているのだろうか。

 

 『さあ行こう!一真の力をあの破廉恥女に見せつけるの!だけど、危なくなったら即撤退!』

 

 こういう時、回の能天気さは頼りにはならないが心を落ち着ける清涼剤にはなる。

 深呼吸を一つしてもらった短刀を握りしめ、二階建ての雑居ビルに走り寄った。

 

◇

 

 一真と別れ、フェリシアは雑居ビルに足を踏み入れる。

 

 何の変哲もないロビー代わりの広々とした空間。

 待合室代わりにも使われていたのだろうか、等間隔に横長の椅子が並んでいる。

 一歩進んだ瞬間に侵入者撃退用の罠を察知したフェリシアは迷わずそれを踏む。

 数体の霊体が壁からにじみ出るように現れた。

 

 とは言え大したことはない下級霊、たまたま紛れ込んだ一般人である可能性も考慮しているのだろう。

 一応、無駄な犠牲は払わないように配慮はしているようだ。

 

 杖を構え赤い魔法陣を装填、威力は最小限、見た目だけを増幅させた魔幻術。

 

 「――炎よ」

 

 爆発を起こしたかのように閃光が広がり、炎がロビーを満たす。

 霊体だけを焼き尽くし建物には一切、影響はない。

 

 フェリシアはそのまま迷うことなく階段へと足を向ける、通路に罠はあり得ない。

 魔法使いの工房とはすなわち影幻界と表側を繋ぐためのルート。

 

 表と裏を効率的に行き来してエネルギーを循環させる橋渡し。

 それ故に必ず入り口と出口を繋ぐ通路が必要となる。

 通路それ自体に罠を張ることはできない、通路とは繋がっていなければ意味がないからだ。

 それは概念的な制約、完全に世界から離れて閉じこもるつもりでもない限り。

 あるいは高度な結界を張り続ける魔力の無駄遣いでもしない限り。

 

 必ず通路はある、ただし、通路を辿って出入りできるかは別だが。

 

 二階、再び即座に罠が作動する。

 

 考えなしに乱発し過ぎだとは思うが、あるいはそんな先入観を抱かせることが狙いということもあるだろう。

 次に現れたのもまた霊体、しかしこれは姿形が比較的、はっきりしている。

 

 何かに苦しみ、世界への怨嗟を抱いた状態で固定された誰か。

 フェリシアは眉を顰めながらも即座に白の魔法陣を装填する。

 

 「――光よ」

 

 強すぎる光は影すら薄めて世界を覆う。

 

 光という概念それ自体が影幻界の存在に対する特効となることは多い。

 断末魔の叫びもなく、消滅した影を横目に二階を横切って階段を上る。

 どうやらこの雑居ビルは階段に向かうためにいちいち階を横切る必要がある特殊な作りらしい。

 工房を設置するには向いているが、罠のレベルが低い。

 宝の持ち腐れだなとフェリシアは至極真面目に分析して。

 

 三階、柱が等間隔に設置されているだけの剥き出しのコンクリートの壁。

 寒々としたその空間の中心にその男は立っていた。

 

 この季節にタンクトップ、一応は鍛えられているのか隆起した体を見せつけるように誇示する軽薄そうな男。

 魔法使いというより質の悪いナンパ師といった風情だ。

 

 わりと伝統的な趣を重んじる魔法使いにこの手のタイプは珍しい。

 日本に来る前に少しだけ聞いていた、この国は魔法使いの在り方が特殊で人に交じることにも抵抗が少ないと。

 それをまざまざと見せつけられてフェリシアはどこか複雑な顔をみせた。

 

 対してフェリシアの姿を視界に収めた男はひどく下卑た顔を浮かべる。

 残り二階あるはずだが罠では無駄だと悟ったのか、単純に美しい少女相手に我慢がきかなくなったのか。

 フェリシア自身は無表情でその男を眺めていた。

 

 「……いきなり人の家に入ってくるなんて、礼儀のなってないお嬢さんだな」

 

 「あら、そう?きちんとノックして入ってきたじゃない。わざわざ、罠を踏んできてあげたでしょう?」

 

 蔑むように告げるフェリシアの言葉を、男は余裕の笑みで受け流した。

 

 なぜここまで自信満々なのかわからない。

 この男は魔法使いとしては三流もいいところ。

 

 かろうじて魔法の域に達したというだけ、あるいは表側の享楽に溺れて堕落したか。

 どちらにせよ今はただの有象無象に過ぎないのはこの拠点の杜撰さからすれば明確。 

 

 罠だって発動させるつもりがなければフェリシアには全て回避できた。

 仕掛けが明らか過ぎてそれ自体が罠ではないかと疑ったほどだ。

 

 あるいは軽い罠で獲物を深く招き入れること自体が目的か、それにしたってもっとうまいやり方があるだろう。

 生まれつき影幻界と接点を持ち、さらに工房まで構えてこの程度ではお話にならない。

 

 フェリシアはつまらなそうに杖を掲げる、赤の魔法陣を装填し詠唱もなく杖を振るい炎を生み出す。

 

 二十センチほどの火球が高速で男に着弾した。

 左腕でかばっていたが魔法による防御も相殺も間に合っていない。

 

 だが、男の腕は火傷一つなく綺麗なままだった。

 

 「おいおい、どうした?余裕満々って面してこの程度かよお嬢様?」

 

 腐っても、男もまた魔法使いではあった。

 

 歓楽街という人の出入りの激しい場所にわざわざ工房を構えたのは敵の派手な動きを抑制するため。

 特に歓楽街は遊び慣れた学生が密かに出入りすることもあれば、取り締まる私服警察が潜り込んでいることも当たり前。

 

 いくら認識を開かなければ露呈しづらいとはいえ、あまりにも大規模なことを行えば何らかの不信さは残るものだ。

 科学技術が発達し携帯なども普及し始めた現代において、違和感は瞬く間に広がり新しい噂は囁かれ都市伝説を生む。

 

 そういった認識の変化は影幻界を一変させることもある。

 真理の探究に熱心な魔法使いほどその力が表に出ることを嫌う。

 

 それはこれ以上、影幻界が混沌とした状況になることを厭うが故に。

 プライドが高く、自らの血統に自信を持ち、大層なお題目に執心する魔法使いほど自分の想定の外を行かれて一度崩れれば脆い。

 

 しかし、フェリシアは変わらず、平坦な顔で男を見つめるだけ。

 小さく舌打ちして男は一歩、踏み込むように足を動かした。

 

 「……ねえ、ところでね。私、日本語って大好きなの」

 

 突然、意味の分からないことを言い出すフェリシアに男は立ち止まる。

 

 「日本語って特殊じゃない?音じゃなくて視覚を重視する言語体系、言葉というよりシンボルに近いと思うのよね。それでいて表現の幅が広くて様々な想像を頭の中に展開できるし、相手に押し付けることもできる」

 

 フェリシアは杖と口を軽やかに回す。

 

 「だから、言語を使う魔法使いは結構な割合で日本語を学んで使うわよね。短い言葉に意味を込めて相手に叩きつける感じが世界に馴染む、私の魔法の使用形式とも相性がいいの。

 だから、もの凄い勉強したわ」

 

 停止した杖に再び、赤い魔法陣が装填された。

 

 「それにね、とある文化人類学者がハイコンテクスト文化という考え方を提唱したじゃない?日本語はより文脈を重視する文化から生まれた、暗黙の了解、空気という独自性で明確な表現を避けることも多い。学問的には穴だらけだと言われるけれど、印象としては世界に根強く残っている。それが定着する土台がある、つまりはこの世界を欺きやすいということよ」

 

 男はもう意味不明な言葉を聞くのに飽き飽きしていた。

 自分は傷つかないという絶対の自信から無防備に走り出し距離を詰める。

 

 「――炎よ」

 

 再び、火球が放たれる。

 今度は二つ、それは男の両腕にそれぞれ着弾し。

 

 「――ギィ、ァァァアア!!」

 

 男の腕に耐えようのない熱を感じさせた。

 皮膚が焦げ、肉は赤黒く変色し、感覚は失われてだらりと垂れ下がる。

 

 「なん、なんで!おれには……きかないはずだ!」

 

 涙と鼻水でみっともなく顔を汚しうずくまる男をフェリシアは睥睨する。

 

 「あなたのことは事前に調べてあるの。小野 大貴、二十七歳。薬の売人で歓楽街にグレーなものから完全に違法なものまで手広く撒いているわね。薬で思考が飛んでる人間に魔力で印を刻んで、体の一部を自分の中に取り込んだのでしょう?そうしてスケープゴートに使う。類感と感染は距離を欺く基本よね。魔力貯蔵庫を離れた場所に置いていることといい、距離を偽装する魔法を使うのは明白だった」

 

 フェリシアは本当に退屈そうに言葉を続けながら、意識だけは弛ませることなく部屋中に張り巡らせていた。

 

 演技である可能性、仕込みがある可能性、仲間がいる可能性、予期せぬ乱入の可能性。

 会話を通じて時間を引き延ばしつつ解析と分析を続ける。

 

 あらゆる可能性を考慮し、逆転の目を残さない。

 それは詰将棋に近い。

 

 「だけどね、薬で思考が飛んでいるということは、認識的な防御力はゼロということよ。感じないものは受け止められない。あなたも、あなたに印を刻まれた人も同じ人という姿形を持ってはいるけれど、脳の機能は同質ではない。あなたがそうした」

 

 そこまで聞いて、男はようやく思い至る。

 

 「そうか……幻術かこれは!」

 

 「そうよ、脳の認識を欺いて主観に結果だけを残す、それを体にまで派生させる。最初の火球を受けた時に無意識に刷り込まれた、これは本物で自分には効かないと。だから、無防備にその体も精神も私の前にさらし続けた。同じ魔法陣、同じ詠唱、だけど込める意味を変えれば傍目にはわからない。とは言え、物理的な現象と認識的な現象、両方を同時に対策するのは基本でしょうに」

 

 そこまで言ってフェリシアはふと、思いついたように笑った。

 

 「ああ、もしかして、自分では対策しているつもりだったの?自分に対する全ての影響を無条件に移せると勘違いしてた?だとしたらごめんなさい、あなたを過大評価し過ぎていたわ」

 

 もはや蔑むという段階を通り越して、完全な無関心へと移行したフェリシア。

 この男に策はない、本当に欲のままに魔法を使用するだけの愚物だと。

 

 男はここにきて、目の前の女がただの魔法使いではないことを理解する。

 明らかに戦い慣れている、魔法の理論を当たり前のように凶器として組み込んでいる。

 

 探求するものとして見るのではなく戦闘の道具として使用することにためらいがない。

 

 魔法使いの中には魔法使いを殺すことに特化した者たちがいると噂では聞いていた。

 無慈悲な処刑人、沈黙を守る者(サイレンサー)。

 

 「……だが、お前の攻撃で……無関係の誰かが火傷を負ったんだろうなあ。いいのか?無関係の人間を巻き込むなんて……本当に人外じみてきてるぞ」

 

 せめて、少しでも心を揺らがせられればという些細な抵抗。

 

 「……最初の火球のことを言ってるなら、あれは詐術よ。ただの幻覚。自分に不都合な感覚を全部飛ばしているからそんなことにも気づけない。痛みが大事なこともあるなんて、魔法も何も関係ない一般常識のようなものでしょうに。あるいはそんな見せかけの体を誇示してないできちんと服でも着てれば私も別の方法を考えたのだけれど。お馬鹿さんね」

 

 もう、返す言葉は何もなかった。

 

 「く……そ……がぁ!」

 

 気力を振り絞りその場に立ち上がる。

 

 最後の抵抗、男の魔力が爆発的に引き上がった。

 一真が向かった拠点にある貯蔵庫から魔力を汲み上げているのだろう。

 隠蔽工作は諦めたらしい、最大火力で建物ごと吹き飛ばす勢い。

 

 最後まで矜持を示せない三流かとフェリシアはため息をついて杖を構え、男の魔力が突如として霧散した。

 

◇

 

 一真は一人、雑居ビルの中に恐る恐る足を踏み入れた。

 幸い、何も起こることはない。

 ほっと息をついて殺風景なビルの一階をくまなく探索する。

 やはり隠されているのかなかなか見つからない。

 

 これは時間がかかりそうだと覚悟したのだが。

 

 『ねえねえ、一真。ここ、ここに何かあるよ!』

 

 回が半分崩れかけていた本棚に顔を突っ込んで、手をぶんぶん振り回している。

 近づいてどかしてみれば地下に続くハッチ、鍵はついていなかった。

 

 「おお、ありがとう回」

 

 はじめて役に立った気がする。

 

 えへへと笑う回を横目にハッチを開けると地下へと階段が伸びていた。

 そんなに長くはない、非常灯に淡く照らされた扉の壊れている入り口が見える。

 

 一度深呼吸して、ゆっくりと階段を下りた。

 

 入り口から顔を覗かせて周囲を確認する。

 何もない空間を横切った先に、また別の扉があった。

 

 そろりと、忍び足で近づいていく。

 

 その途中、何かピリッとした感覚を肌に感じた気がするが特に何も異常はなく。

 そのまま扉までたどり着いて、ドアノブをひねり中へ。

 

 そこには、ヒトガタの何かが佇んでいる。

 

 霊体ではあるのだろうが、これまで見てきたどんなものより輪郭はしっかりしている。

 激しい呼吸によって深く早く胸が上下しているように見えた。

 

 何より大きい、二メートル以上はあるだろう。

 

 ごくりと喉を鳴らした、それを敏感に察知したように。

 ゆっくり振り向くそのヒトガタ、その赤い眼光がこちらを無感動に見つめてくる。

 

 それと同時に周囲にある瓦礫や家具の破片のようなものが突如、浮き上がった。

 ポルターガイストとでもいうやつだろうか、この霊には表側の物に干渉できるだけの力があるのか。

 

 空中でゆるく回転していた様々な物がぴたりと静止し、次の瞬間にはこちらをめがけて高速で飛んでくる。

 

 「っ!」

 

 体を沈み込ませるようにしてそれを躱し、半ば這うように前の部屋へと逃げる。

 勢いよく扉を閉めるのと、何かが激しく壁や扉にぶつかる音が響くのはほぼ同時だった。

 

 それ以上は何も起こらない。

 どうやら部屋から出ることも部屋の外に干渉することもできないらしい。

 

 侵入者を迎え撃つだけのものなのだろう。

 高鳴る心臓を抑え、呼吸を整える。

 

 木戸との邂逅から二度目の相手の完全否定。

 これが殺意であることぐらいは鈍くても理解できる。

 

 ――初めて自分から触れた殺意は、思いのほか奥底の何かをさらった

 

 「……あんなことできる奴もいるのか」

 

 さてどうしよう、誤魔化すように考えているふうなことを口にする。

 

 『逃げちゃえば?あの露出狂も逃げていいって言ってたじゃない。一真がケガするのはやだな』

 

 言ってた、確かに言っていたが専守防衛が不利だとも言っていた。

 

 もし魔力貯蔵庫とやらのせいでフェリシアに何かあれば自分を許せないだろう。

 ただでさえ、彼女は自分のためにこの状況を整えてくれたのだと思うのだ。

 

 その思いを、逃げることで裏切りたくない。

 立ち上がる、それにもとより自分の命はそこまで重くないのだから。 

 

 殺意が恐いのではない、殺意を向けた相手にどうやって向き合うべきか。

 留保しなければならないのが何よりも恐ろしい。

 

 だから、自分のためではなく、彼女のために心を整えていく。

 

 目を閉じ手を合わせた、合掌。

 

 朝の水浴びは両親が死んでからのものではない。

 もっと前、小学校高学年の頃からすでに毎朝行っていた。

 手を合わせ、冷水を浴びて、体や心が引き締まる感覚。

 

 それは自分の決めたことを貫くためにその日一日を歩むという自分なりの決意の具現。

 

 魂の形を整える、否、思い出すための儀式。

 

 それが何年も欠かさず続けられた結果、それは自己暗示に近い効果をもたらす。

 心臓の音は聞こえない、恐怖も不安もなく、心身の緊張は完全にほぐれている。

 

 自分が望む動きを自分ができる範囲で完全にこなすための状態。

 

 目を開けると共に躊躇なく扉を開き、一気に駆けだした。

 

 霊体との距離は十メートルほど。

 

 こちらに気づき物が浮き上がるのに構わず、走りながら鞘から短刀を抜いた。

 飛んでくる瓦礫を躱せるだけ躱して、避けられない物には短刀の刃を向ける。

 

 フェリシアはコンクリートぐらいなら雑に切れると言っていた。

 だから斬ろうと思わなくていい、ただ合わせるだけでいい。

 

 飛来する瓦礫や木の破片の軌道に刃を合わせる。

 バターにナイフを通すかのようにあまり抵抗なく斬り裂けた。

 

 飛び散る破片や木片が体を叩くが構わず走り続ける。

 そして、あと二メートル足らずを飛び込むようにして詰めた。

 

 その手を霊体に押し付ける、しばらく拮抗するように金切り音のようなものが響き。

 

 霊体は跡形もなく消滅した。

 

 「……はああ」

 

 大きく息をついて、へたり込みそうになる足を抑える。

 まだ終わりじゃない、霊体の奥にある扉に歩み寄って開いた。

 

 そこにはビーカーを大きくしたような容器がある。

 中にはドロリと粘性がありそうな赤い液体が半分ほど満ちていた。

 

 床にはフェリシアの綺麗な魔法陣とは違う、どこかいびつな形のそれが淡く黒い光を放っている。

 

 周囲には干からびたように打ち捨てられた死体が四体ほど転がっていた。

 その顔は恐怖と苦痛に歪んでとても見られるものじゃない。

 

 命の蹂躙、何も知らぬ誰かをしゃぶる悪意の結果。

 

 その光景に全身が凍っていくような感覚に身を浸し、冷たい衝動のまま短刀を容器に突き入れた。

 乾いた音が響いてあっけなく割れた容器、流れ落ちる血液を全身に浴びながら。

 

 それをぬぐうこともなくただ、静かに立っているのみだった。

 

◇

 

 「なん……でだ」

 

 そう呟きながらも理由は一つしかないと男は理解している。

 

 貯蔵庫が破壊された、もう魔力はない。

 魔法を発動しようと練っていた魔力が突如、断ち切られ内側の何かが削れていく感覚。

 

 激しい頭痛に再びうずくまる男には目もくれず、フェリシアは二階建ての雑居ビルの方を見た。

 

 「……そう、やってくれたのね」

 

 正直に言えば期待はしていなかった、できなくともどうにでもなる程度だった。

 

 だけど、逃げずに立ち向かって、最後まで同じ場に立っていてくれた。

 

 フェリシアは見えないように小さく笑みを浮かべる。

 それは瞬きの間に冷酷なものへと変わり男を見下ろした。

 

 「終わりね、切り札の貯蔵庫は私のパートナーが破壊してくれたようだし」

 

 杖を掲げ赤い魔法陣に魔力を込める、高まるたびにそれは蒼へと変わっていく。

 

 「待って……待ってくれえ。許して……俺が何をした?そんなに大したことしてないだろ?魔法はできるかぎり隠蔽してたじゃないか……」

 

 フェリシアは呆れたようにため息をついた。

 

 「何をしたか?薬をばら撒いて廃人同然の人間を量産して、思考能力の奪われた者達を自分のスケープゴートに仕立て上げた。魔法の隠蔽という点で言えば、まあ確かにグレーゾーンよ。薬物中毒者なら不審死しても疑われにくいものね」

 

 ならと続けようとする男をフェリシアは遮った。

 

 「だけどね、数が増え過ぎればその限りではないでしょう?魔力貯蔵のためにも多くの人を使った。魔法を使って警察の目も欺いていたようだし。それに、影幻界と表側をうまく渡り歩いて、自分の欲望を満たすその在り方は目に余る。筋を通さずそういう行為に手を染めるのを嫌う者達がいること。いいとこ取りを許さない者達がいること、知っているでしょう?」

 

 「……まさか……お前は」

 

 男はフェリシアの裏に何がいるのか、この女を動かしたのかを悟った。

 

 「そ、【黒の御旗】。影幻界の裏社会の一角を占める大勢力。その下部組織のお偉方が、あなたの暴挙は目に余ると依頼をくれたの。魔法使い側からも疎まれて、黒の御旗に目を付けられて、あなたはもうどん詰まりだった。まあ、三流魔法使いを狩る程度の仕事にしてはいい実りだったわ」

 

 「……おまええええ!お前だって、自分の利益のために魔法を使ってるじゃないか!なんで、なんで俺ばっかりが!」

 

 立ち上がる力も気力も、もうない。

 それでも這うようにフェリシアに近づこうとする男を冷ややかに見下ろした。

 

 「私だって生活があるもの、働かないと生きていけないの。それに自分を善人だと言うつもりはないけれど、それでもあなたよりはましな生き方をしてると思うわよ。魔法を尊び、真理を目指し、通すべき筋は通してる。だからこうして生きているわけだし」

 

 例え汚れていても、胸に抱く誇りがある。

 それが折れない限り、フェリシアは自分の道を肯定し続ける。

 

 「くそ……なんでだ、誰も俺を認めない。魔法使いも、表側の奴らも、誰も見向きもしない。そんな奴らを陥れて何が悪い!俺は……俺はただ……」

 

 フェリシアの顔は変わらない、不自然なほどに。

 

 「……死にたく……ない」

 

 「……そうね、大抵の人はそうでしょうよ。それなのに、あなたは自分の欲のために死にたくない他人の命を弄んだ。だから、諦めなさい」

 

 杖を振るう、蒼い炎が男を一瞬で包み込み、あっさり灰となって崩れ落ちた。

 完全に制御されたそれは魔法でありながら熱の一片すら周囲に残さずに消え去る。

 

 いつも通り仕事をこなした、そういつも通りのはずだ。

 

 なのに、いつもより少し、胸が痛むのはなぜだろう。

 

 フェリシアは自分の胸に手を押し付けるように置いたまま、しばらく立ち尽くしていた。

 

◇

 

 それから数分後、二人は雑居ビルからほぼ同時に姿を現す。

 一真はフェリシアに何ごともなさそうで、それだけは安堵した。

 

 驚いたようなフェリシアが駆け寄ってくる。

 

 「あなた、それどうしたの?怪我でもしたの?」

 

 心配してくれてるのだろうか、声が少し震えている気がする。

 

 「いいや、ちょっと打ったぐらいだよ。この血は僕のじゃない」

 

 そうと呟くだけで、フェリシアは黙り込んでしまう。

 無言の時間に耐えられなくなって、そっちはどうだったと聞こうとして、やめた。

 

 地下に転がっていた死体、ああいう凄惨な出来事が裏側の本当の日常なのだろう。

 フェリシアが生きていて、他に誰もいないのなら、つまりはそういうことなのだ。

 

 なら、それでいいと思う。

 これが、裏側に足を踏み入れるということの意味なのだと納得するしかない。

 

 「フェリシア、地下に四人分の……死体があったんだ。そういうの、どうなるのかな」

 

 だから、小さな廃ビルに視線を戻してもう一つの気になることを聞いてみた。

 

 「……心配しないでいいわ。こっちで処理しておくから」

 

 処理、その言葉が胸に刺さる。

 死んだ人たち一人一人に、きっと歩むべき人生があっただろうに。

 

 影幻界での命の重さは軽い。

 

 全く違う倫理で動くと聞かされていたことではあるけれど、実際に見たらそれはやはりとても重いことで。

 

 それでも、自分はこの道に踏み入ると決めたのだ。

 ならば吞み込もう、そして先へ進む。

 

 「……帰ろうか」

 

 最後に一度だけ手を合わせて、全ての惑いをここで切り捨てるように振り返る。

 

 とは言え、どうやって帰ろう。

 さすがにこのままタクシーには乗れないなと考えながら夜空を見上げた。

 

 その血のこびりついた手を、フェリシアがそっと握ってくる。

 

 「……汚れるよ、フェリシア」

 

 「いいわ、それぐらい。あなたのおかげで本当に助かったの。だから――ありがとう」

 

 それは初めて見た、どこまでも柔らかく、素直な笑顔で。

 

 いつもみたいに疑うようなことは思えないし言えなかった、素直に嬉しいと思う。

 自分にも何かできることがあったのであれば、きっと今日あったこと、知ったことは後につながるはずだ。

 

 自分の意志で初はじめて身を投じた戦いはこうして終わりを告げた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。