そして、世界は別たれる   作:・黒箱

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⑤-1

 

『人はなぜ、自らを模すのだろうか。何であれ、それは呪いであろうことは確かだと思うの。』

 

 

 あの日から三日ほどが過ぎた。

 

 一緒に仕事をこなしたからだろうか、少しは認めてもらえたのだろうか。

 フェリシアの態度はとても柔らかくなった。

 未だに感情はよく読み取れない澄んだ顔を崩しはしないのだが。

 何というのだろう、壁を少しは取り払って素直な顔を見せてくれるようになった。

 

 「おはよう、能。」

 

 いつも通り起きて浴室へ向かえば、洗面台で鏡とにらめっこしているフェリシアが顔をこちらに向けて挨拶してくれる。

 前は完全に無関心で事務的に挨拶する感じだったのが、今ではきちんと顔を向けてくれるのだ。

 かすかに微笑みすら見える。

 変わったと言えばもう一つ、彼女はシャツの前のボタンをきちんと留めるようにもなった。

 同居人として少しは気を使ってくれるようになったのだろうと思う。

 

 いつも通りの習慣をこなして、身支度を整えて、これまた日常となった弁当を受け取って家を出る。

 フェリシアも先に出るということはなくなって、並んで登校するのが当たり前になった。

 

 他愛ない話、といっても最近はもっぱら文化祭のことばかりだ。

 開催は二週間後に迫っていて劇や出し物、展示をするクラスや部活は最後の練習や追いこみに忙しい。

 一真は生徒会の方に集中していてあまりクラスには顔を出せていないが、わりと本格的な屋台を開くので調理係は試作や試食にてんてこ舞いだと聞く。

 フェリシアもその一人で調理係に手を挙げたのは正直、意外だった。

 料理がうまいのは知っているが、こういうお祭り騒ぎにはあまり関心がないと思っていたのだが。

 

 「まあ、たまにはね。皆が騒いでいる時に冷めた態度を取っていたら雰囲気が壊れるでしょう。特に私は目立つわけだし」

 

 尋ねてみればそんな答えが返ってくる。

 こういうことをさらっと言ってのけるのは相変わらずフェリシアだなと思うがやはり嫌味は感じない。

 それに、何というのだろうか。少しかもしれないけど本当は楽しみにしているのだと思わなくもない一真である。

 

 「……まあ、そうだね。歴史ある学校じゃないからまだ手探りなことが多いけど。一緒に作るのも楽しむことも頑張ろう」

 「ええ、当日は私もぜひ楽しみたいものだわ。だから、エスコートしてもらおうかしら。私よりはあなたの方が慣れているものね?」

 

 そういっていたずらっぽく微笑む、それもまたこの頃になって見るようになったものだ。

 

 人通りが増えてくると、自然と二人は距離を離す、これもいつものこと。

 一真は生徒会長として生徒の相手をして、フェリシアはよく一緒にいるクラスメートと共に完璧なお嬢様に変貌して歩いていく。

 

 そうして、血なまぐさい世界を知ってもなお、ほんの少し色づいた気がする日常を歩むのだ。

 一真はああいう世界を知っても自分が変わることなく、こうして日常を歩めることにほっとしていた。

 

 

 授業の合間の休み時間、一真は廊下で翔と話していたのだが、ふと声を落として翔が真面目な顔をする。

 

 「なあ、知ってるか?市内で散発的に惨殺事件が起きてるの。特に小中高、学生はもの凄い狙われてるらしくてかなり騒ぎになってるって。

 あまりに被害者が多くて犯人の動機も正体の手掛かりもなんもなくて、テレビとかでも流せないらしい」

 

 噂は消せないけどなと翔は呟く。

 初耳だった、最近は影幻界のことに気を取られて表側のことはほとんど意識してなかったから。

 

 「もの凄い殺され方らしくてさ。なんか、無茶苦茶恨まれてるって言うか、まるで絶対に受け入れられない何かを相手にしてるみたいな。

 殺された学生の噂もたまに聞くんだけど。別にひどく恨まれるような生徒ってわけでもないらしい。

 特に顔がひどくて、原型を留めてるものはそうないんだと」

 

 「顔……ね」

 

 顔、フェリシアなら顔とは個人を個人として定義するための根幹。

 顔を潰すとはすなわち個人を否定することに他ならないとか言いそうだ。

 なんか、こんな考え方がさっと出てくるあたりやはり少しは毒されてるなと思う。

 

 「でな、ここからが面白いっていうと不謹慎なんだけどさ。何でも死んだ生徒たちは全員、自分自身に殺されたらしいんだよ」

 

 一真の顔が一気に冷めていく、そういうオカルトじみた事件であるとなればそれはつまり。

 

 「深夜の時間帯、電灯の明かりも届きづらい暗闇でさ。執拗に拳で顔を殴りつけるんだ。それがすごい威力らしくてさ、グシャリって音がマジで響いてくるんだと。

 で、完全に顔をぐちゃぐちゃにして立ち上がったそいつは、被害者と全く同じ顔で泣き笑いみたいな顔をして去っていくんだ」

 

 「……なんで、顔が潰れてるのに被害者と同じって見ただけでわかるの」

 

 「さあ、噂だからな」

 

 翔は笑ったりはしなかった、少なくとも被害者が結構いるということは確からしい。

 

 「……文化祭、もしかしたら無理かもな。近く、放課後居残りとか道草禁止を言い渡されそうだ。まだうちの学校に被害者はいないけど、出ないとも限らないからな。」

 

 翔の言葉に一真は宙を睨むように天井を見上げた。

 

 「……できれば、開催してほしいんだけどね。フェリシアが、結構、楽しみにしてそうなんだよ」

 

 翔がポカンとした顔で一真を見やる。

 その視線には呆れやら、なんやら複雑そうな色を覗かせて。

 

 「……何?」

 

 「いや、お前本当にフェリシアちゃんと最近、仲いいよな。一番最初に出てくるのがその名前か。それにフェリシアちゃんもお前といる時はなんか雰囲気が違うって結構、言われてるぞ。

 遠目から見てもわかるらしいな。」

 

 そうなのか、一真自身にはよくわからない。

 いやまあ、同居していつも見ている素のフェリシアの変化はわかるのだが、あのお嬢様の擬態が人前で剝がれるなんて想像し難い。

 

 「まあ、いいことだよ。そのまま仲を深めていってくれたまえ。そしていつか、もっと仲良くなったらぜひ遊びにでも誘ってくれよ」

 

 そう言って、バシバシ背中を叩く翔を「はいはい」とあしらいながら、予鈴を聞いて教室に戻る。

 

 惨殺事件、同じ顔の人間に殺される。

 

 まだ一週間も経ってない、忘れられるはずもない映自君の事件。

 ドッペルゲンガー、誰かの罪が形となって自らを模って殺しに来る。

 

 ――だからいるのでしょうね。ドッペルゲンガーに体を与えたものがいる。

 

 フェリシアのそんな言葉を思い出す。

 まだ、事件は終わっていない、あれはまだ続いている。

 

 だとしたら――もし本当に映自君を利用した誰かがいるとするなら。

 一真は無意識のうちに拳を握りしめていた。

 

 「……そうだよ、お前はもう先に進むべきなんだよ。フェリシアちゃんみたいな凄い子がお前にはお似合いだから」

 

 そんなことを考えていたものだから、翔の最後の言葉を一真は聞き逃した。

 

 

 夕飯時、フェリシアの夕飯を堪能しながら翔から聞いた話を振ってみた。

 

 「それで、実際のところどうなの?ドッペルゲンガーの事件はまだ終わってないんだよね?何か進展とかは?」

 

 フェリシアは苦い顔を隠さない。

 

 「……ないわ、まだ尻尾も掴んでない。ドッペルゲンガーが生まれる原因の情念はわりと特徴的だから、痕跡は追いやすいはずなのだけど。巧妙に隠蔽でもしてるのか、なかなか引っかからないのよね」

 

 目を閉じ、何かを思案するフェリシア。

 

 「もう、手段は選んでいられないわね。あの人に依頼することも考えないと。ああでも、もの凄くお金がかかるのよね。依頼主がいるわけでもないし、金銭的なリターンもないのに。私の私財だけであの人を頼るのは……」

 

 独り言を呟きながら眉間にしわ寄せてすさまじい葛藤を見せるフェリシア。

 どうやらお金の問題らしい。

 

 「……あの、お金なら僕も出すよ?」

 

 能家にはそれなりに多くの資産が眠っている。

 父と母が残してくれたものだが一真はそのお金にあまり頼るつもりはなかった。

 

 独り立ちするまでの生活費や学費、たまの入用な時には甘えざるを得ないが就職したら残りはどこかに寄付でもして清算しようと思っていたのだ。

 

 誰に何を頼るつもりかは知らないが、もし事件解決に役立つなら使ってもらって構わないと思う。

 父も母も許してくれるだろう。

 

 そんなことを伝えてみると、フェリシアはますます難しい顔をして眉間のしわを深め。

 

 「……そう……ね。なら少しだけお願いしてもいいかしら?きちんと返すから」

 

 そんな律儀な言葉を絞り出すものだから一真は思わず笑ってしまった。

 

 「いいよ、返さなくても。僕だって事件は解決したいんだ。それに、フェリシアにはお世話になってるんだから、何かあれば頼ってほしい」

 

 まあ、僕の力じゃなくて両親の力だけどと笑う、フェリシアも小さく微笑んだ。

 そして、スッと真剣な顔に戻る。

 

 「なら、善は急げよ。これからすぐ向かうわ。あなたも付いてきなさい」

 「え、今から?」

 「ええ。情報は鮮度が大事よ」

 

 フェリシアは部屋に戻って素早く着替えて戻ってくると、一真の手を引いて夜の街へと飛び出した。

 

 

 一真は再び歓楽街へと足を踏み入れる。

 夜も深まる時間帯の騒がしい人込みを縫うように、体を縮こまらせるように歩いていた。

 

「……あなたね、もう少し堂々としていなさいな。逆に怪しいわよ」

 

 フェリシアは制服をベースとした魔法使いスタイルで胸を張って姿勢よく歩いている。

 明らかにおかしい恰好なのに誰も見向きもしない。

 絶対に魔法を使ってなにか誤魔化しているだろう、自分はそんなことできないのだから無理言うなとつっこみたい。

 そんな心臓に悪い道中をフェリシアの後をついて歩くこと数分、とある雑居ビルの地下一階へとフェリシアは降りていく。

 その先にあったのは占いの館と書かれた小さな看板の掛けられた木製のドアだった。

 ためらいなく扉を開き中へと入っていくフェリシアに一真も続く。

 

 室内は薄暗く、何か甘ったるい、バニラのような匂いが充満していた。

 天板からベールのかかったカウンターを挟んで向かい側に、肘を付けてこちらに流し目を送っている女性が一人。

 それは現代の遊女とでも表現できる妖艶な雰囲気を醸し出していた。

 肩辺りでさっぱり切りそろえられた紫の髪、照明のせいかこちらもまたとろんとした紫に見える半眼。

 肩口までだらしなくずり下げられた大きめのシャツが体系を覆い隠している。

 若い、とは思うのだがその雰囲気のせいでいまいち年齢は判然としない。

 

「あら、いらっしゃい。久しぶりねフェリシア」

「ええ、お久しぶり、ミラさん」

 

 ミラさんと呼ばれたその女性は視線をフェリシアからその後ろへ流す。

 「どうも、能 一真です」と小さく礼をする一真、その姿を視界に収めたミラの半眼がいきなり大きく見開かれる。

 それは、何か見てはいけないものを見たかのような驚愕、と言うよりは戦慄にも近い顔。

 はじめて見るミラの表情にフェリシアも驚いたように二人を見比べている。

 数秒、時が止まったかのように室内は停滞し。

 

 「それで、フェリシア。今日はどんな御用?」

 

 何もなかったかのようにフェリシアに向き直るミラ、その顔は先ほどまでのどこか眠そうな半眼に戻っていた。

 怪訝な顔をするフェリシアはそれでも、踏み込むことはせず本題を切り出す。

 

 「……最近、この市内周辺で惨殺事件が起きてるのは知ってるでしょう」

 

 それは質問ではなく確認作業、あなたなら知っていて当然だというニュアンスを含んでいた。

 

 「その情報が欲しい。そうね、被害者の一覧とその詳細な情報が欲しいわ。それ以上はいい」

 

 フェリシアの言葉にミラはゆっくり頷き、手元にあった紙にさらさらと何かを書き込んでいく。

 

 「ええ、いいわ。なら、対価はこれぐらいね」

 

 手渡された紙を見てがっくり肩を落とすフェリシア。

 差し出された紙を受け取った一真も顔を青くする、これは確かに気軽に頼れない。

 

 「わかった、契約は成立よ。明日、お金を持ってくるから」

 

 「まいどありがとう。その時までに情報はまとめておくから、取りにいらっしゃい」

 

 短い確認作業を終えて、フェリシアはさっさと部屋から出ていく。

 一真は慌ててもう一礼してその後を追った。

 

 深くため息をつくフェリシアと並んで帰路につきながら、一真は先のミラという女性について聞いてみる。

 

 「彼女は情報屋、それも影幻界で一番有名で、腕が良くて、何よりも正体不明の女よ」

 

 その声にはどこか畏怖のようなものが混じっていた。

 

 「彼女、世界中のあらゆるところに並列的に存在してるみたいなの。

 私の故郷にもあの女の占いの館って名前の建物があって同時に誰かに対応できる。

 おまけに死んでも死なないみたいな話も聞くわ、殺しても次の日には生き返っているとか」

 

 「……魔法ってそんなこともできるの?」

 

 「普通はできないわね。そもそもあの人、魔法使いじゃなさそうだし。とにかく不明なことも多い影幻界にあってなお幻影みたいな人。だからミラージュ、ミラさんって誰かが呼び始めたのでしょう」

 

 どこにでもいて、死んでも死なず、それはすなわち終わりも始まりもない胡乱。

 幻影とはよく言ったものだ。

 

 「だけど実力は本物、情報の精度は百パーセント、誤りはあり得ない。

 その代わり、お金はかなり吸われるし、時にはお金以外を吸われることもあるし。

 逆にあっさり情報を貰えることもある。

 あるいは依頼を受けてくれないこともあるのよね。

 本当に気まぐれで、どうやって対価を決めているのか、何が依頼を受ける条件なのかもいまいちわからない。

 まあ、あなたが一人で会うことはないでしょうけど、あんまり近づかない方がいいわ。

 ドライな関係が一番よ」

 

 フェリシアの言う通りだろう、君子危うきに近寄らず。

 意味不明な人に頼らずに済むならそれが一番だ。

 

 「だけど、ならなんで今回はあの人に頼る気になったの?」

 

 ふと気になってそんなことを尋ねてみる。

 

 「それは……解決の糸口が掴めないから仕方なく。早く解決した方が犠牲者も増えずにすむじゃない?」

 

 それは全くその通りだと思う。

 

 「……それに、せっかく文化祭に力を入れてきたのだし、これまでの苦労が水の泡になったら嫌だからよ」

 

 そんなことを少し顔を赤くしながら呟くフェリシア。

 やっぱり楽しみではあるのだなと、一真は少し嬉しくなるのだった。

 

 

 一真とフェリシアが消えていったドアをミラは見つめていた。

 

 「……これで二人目」

 

 ミラには出会っただけでその人物の情報がある程度は見える。

 知ろうと思えばより深く知ることができる、それが彼女の機能であるが故に。

 しかし、あの能 一真という少年はまるで見えなかった。

 意味不明とあらゆる人間に言わしめる幻影が、それでも見通せなかった相手は二人しかいない。

 

 一人はまるで世界に穴でも開いたかのように存在感の無い男だった。

 ミラはその顔をもう思い浮かべることすらできない、距離感のわからない謎の者。

 

 そしてあの少年は、どこまでもはっきり見えるのに、その内側はがらんどうに見えた。

 

 「……本当に、世界って面白いわ」

 

 ミラは肘をつきながら目を閉じる。

 

 再び誰かがやってきて、何かを求めるその時まで。

 ただひたすらに微睡み続けるだけ。

 

 

 フェリシアの些細な願いはその日、粉々に叩き割られることとなった。

 できることなら叶えてあげたかったけれど、しかして人生とは思いもよらないことで容易く崩れ去るとはもう何度目の実感だろう。

 

 その日の朝、ホームルームが始まる前に職員室に一真は呼び出された。

 先生方は揃って深刻そうな顔で何事かを話し合っている。

 担任が一真に近づいてきて、昨夜、我が校の生徒が惨殺されたという報告を持ってきた。

 詳細は聞けなかったが、先生の渋い顔を見ればまともなものではなかったことなど推測する余地すらない。

 とりあえず、これから全校生徒を集めて体育館で全校集会を開くという。

 事件現場は学外ということで、学校の方針としては休校にはせずしばらくの間は短縮授業で午前中のみ。

 部活動は禁止、放課後の外出も無用であれば控えること、特に夜は絶対に外出しないように注意喚起。

 そして、文化祭は一応は延期扱い。だが十中八九、中止となるだろう。

 

 「ああ、それからな。事情把握のために警察も出入りすることになるだろう。

 お前もショックだろうが、できるかぎり他の生徒の様子に気を配ってもらえると助かる」

 

「……はい、わかってます。」

 

 失礼しますと、一真は職員室を後にした。

 

 それから教室に戻る間もなく、緊急の全校集会の招集アナウンスが流れ体育館に直行。

 クラス単位で体育館に入ってくる自クラスと合流した。

 フェリシアが不思議そうな顔でこちらを見てきたが、一真は顔を伏せることしか今はできない。

 そして、全校集会が始まり、小心者で有名な校長のどこか上ずった声が館内に響き渡る。

 これが影幻界にまつわることなのかはまだわからないが、もしそうならこうして明確に日常に浸食してくることもあるのだと。

 一真は認識を改めなければならなかった。

 裏側とは言うが、気づきにくいとは言うが、それは確かにこの世界の一部であるのだと。

 それは決して幻のままであろうとするほど殊勝ではなく、いつだって自分たちが正当だと叫びたがっている。

 

 

 (ああ、そう)

 

 校長の話を聞き流しながら、フェリシアは一人、静かに目を閉じた。

 別段なんてこともないことだ、裏側に潜んでいた塵念(じんねん)が溢れ出して表側の欣快(きんかい)を喰らいつくしたというだけの話。

 楽しそうなものを見たら、楽しくない者はそれを穢したいと思うのは当然の執着。

 裏側とはそういうことだ、あそこは世界が蓄積した幻想と妄念の廃棄場。

 世界の手には負えぬ人の念が吐き出すあらゆるものが不確かなまま、しかし失われることなく刻まれ続けるスケッチブック。

 

 その一部でもある自分がまともに何かを楽しむ余地などありえないと、

 そんなことはもうずっと前にわかっていたはずだとフェリシアは目を開いた。

 

 その瞳は氷のようにどこまでも冷たい。

 

 昔はどうでもよかったことが今は重い。

 それは間違いなく彼のせいで、そして自分の弱さのせいだと理解している。

 決して手に入らぬと思っていたものが例え瞬きの間だとしても近くにあると思わせた、そしてそれに縋りつきそうになっている未練がましさ。

 

 それを断ち切るにはちょうどいい機会なのかもしれないと思う。

 もとより、彼と自分は交わらない、共にいることはできても、共に居続けることは決してできない。

 だから、これは一時の夢だと諦めるために、確かに感じる無の痛みに耐える自分を被りなおそうと心に決めた。

 

 

 昼までの授業が終わり放課後となった。

 一真は再び職員室を訪れこれからの方針の詳細をある程度、詰めてから教室にカバンを取りに戻った。

 

 学内に生徒はいない、フェリシアもすでに帰ったことだろう。

 いつもは賑やかな学校がこうも静かだと、何とも言えず不気味だ。

 きっと、人の明るい思いが何かに吸い取られて咀嚼されたような気がするからだろう。

 

 廊下や教室から覗く文化祭の準備の跡が食べ残された残滓のようで目を逸らす。

 こんなことをもうできるかぎり起こしたくはない、早く帰って今後のことを話し合いたい。

 それと同時に何を話せばいいのだろうという思いが交錯して足が重いような気がする。

 

 『一真、あんまり気にしない方がいいよ。フェリシアだってそんなに気にしてないよきっと。あの冷徹お嬢さまが文化祭なんて気にするはずないって』

 

 相変わらずフェリシアには手厳しい回の言葉を聞き流しながら静かな帰路につく。

 

 そして気にしてないということはないと歩きながら思う。

 多分だが、フェリシアいろいろと我慢しているのだと一真は考えていた。

 そう在りたい何かとそうあるべき何かの狭間でどちらにも行けず苦しんでいる、そんな時に彼女は心を凍てつかせて全てに無関心を向けるのではないか。

 

 短い付き合いながらそう思わせるぐらいに、フェリシアの最初の印象と今の印象はギャップがある。

 ここ最近の彼女はどこか柔和というか穏やかな雰囲気を醸し出していて、どこか乖離していたように思えたちぐはぐな言動や仕草が統一されてきたような。

 

 そんな感じを一真に抱かせていた。

 だからもし、それがまた戻ってしまったとしたら、何かが離れていくようなことになったとしたら。

 それは、フェリシアにとって辛いことなのではないかと思うのだ。

 

 「……一応、できることはやっておこうかな」

 

 そんなことを心に決めて一真は早足に家へと戻った。

 

 

 家に戻ってリビングに入ると、フェリシアはすでにミラのところに行って受け取った情報を眺めているところだった。

 一真が帰ってきたことに気づいて「お帰りなさい」と微笑んで、しかしすぐに澄んだ顔に戻って資料を目で追いはじめる。

 

 「ただいま。……その、フェリシア、文化祭のことだけど。中止になりそうなんだ」

 

 「そう、まあ仕方ないわね。だけど、時間ができたと思えば悪くないわ。これで、この事件に集中できる」

 

 まるで何でもないことのように告げるその顔が、一真には痛々しく映った。

 依頼主がいるわけでもないと言っていたじゃないかと思わず言いたくなってしまう。

 

 無償で、私財までなげうって情報を得て、それは何のために。

 

 魔法使いとしての誇り、裏側を通じた表側への過度な無法は許されないという厳格さ。

 そういうものとは別にして、ありふれた日常を大切にしてくれていたのではないのか。

 自分の、皆の、楽しみという些細なものを守ろうとしてくれたのではないのかと。

 

 だけど、それは言うべきことではない気がした。

 彼女の心は彼女だけのものであるのだから。

 明かされないことを勝手に慮って、指摘して、それを真実にするのは違う気がした。

 だから、できることはきっと。

 その思いがあると信じて、それを無駄にしないようにできる限りをすることだけ。

 

 「……それで、どう?何かわかりそう?」

 

 一真はただ務めて平静に、とりあえずは彼女が望むように。

 そして自分の心情としても見過ごせないこの事件を解決するために尽力しようと決めて声をかける。

 

 「そうね、とりあえず根本から間違っていたのだと思う。」

 

 「間違い?」

 

 小さく頷きフェリシアは目を通していた十枚ほどの資料を差し出してくる。

 バインダーに整えられたそれをパラパラめくりながら、一真は自分の顔が引きつっていくのを止められなかった。

 凄まじく詳細だ。

 住んでいる場所、行動範囲、死亡時刻と場所、死亡時点での深い交友関係、時系列で要点だけ押さえた生まれてからこれまでの人生の軌跡。

 おまけに、一真が今日知った自校の犠牲者の情報までサービスとまとめられていた。

 

 「……ほんとに何者なんだ、あの人は」

 

 そんなことを独り言ちながら一真は資料の隅々まで目を通していくが、やはり自分では何が間違いなのかはわからない。

 

 「経歴や交友関係を見てみて。特に問題はないどころか、どちらかと言えば順風満帆で幸せそうな人生を歩んでいるでしょう?」

 

 言われてざっと確認してみれば、確かにそんなに問題のある犠牲者はこの資料の内容を見た限りではいない。

 

 「ああ、そうか。ドッペルゲンガーは恨みや憎悪、負の情念の塊なんだっけ」

 

 誰かを呪う心が形となったものがドッペルゲンガーであるというのは嫌と言うほど思い知らされたことだ。

 

 「ええ、だからそもそも、この事件はドッペルゲンガーとは無関係な可能性が高い。尻尾なんてつかめないはずだわ。そんなものはないのだから」

 

 「……つまり、振り出しに戻ったってこと?」

 

 「そうでもない、ドッペルゲンガーでないとわかったことは僥倖。この事件は人為的なものであることがはっきりした。

 意図的に犠牲者の似姿を生み出して本人を襲わせている誰かがいる。方法もそんなに多くはないはずだし、事件場所はこの市内に集中している。

 それを可能とする技術を持つ者の痕跡を見つければいい。作るにはそれなりの工房が必要なのだから容易に移動はできないはず。後は地道に探していくだけよ」

 

 技術的なことは一真には全くわからないが、かなり難解なことらしく逆にそれが痕跡となると。

 

 「とは言え、双子の時の映自という少年の体を見るかぎり相当な、いえ神がかった腕前と言ってもいいわね。痕跡を消す前に詳細に分析しておくべきだった。性急すぎたわ」

 

 失敗だったと素直に認めてフェリシアは頬を一度、軽くたたいた。

 

 「犠牲者が出るのは決まって夜。だから、これから夜間は使い魔を飛ばして私もしばらくこの街を回って見るわ。この近辺にも現れ始めたのは確かだから、何か掴めるかもしれない」

 

 「なら、僕も行くよ。フェリシアばかりに負担をかけるわけにもいかないし」

 

 「……一応言っておくけれどあなたは大抵の魔法を弾くから、認識を誤魔化したりもできない。夜間出歩きは学校の方針で禁止でしょう?見つかったら大変だけれどいいの?」

 

 一真はそうだけどと顔を歪め、それでもと頷いた。

 

 「そう、なら頼りにしているわ。相手の魔法的な誤魔化しも効かないから、私には見えない何かを掴めるかもしれないしね」

 

 

 深夜、フェリシアは能家に集っていた十二匹のカラスの群れを街に放った。

 フェリシア自身は一真と並んで夜の街を歩く。

 

 能家周辺には相変わらず人がいない。

 

 ベッドタウンであるここはその名が表すように眠りの街。

 独身や単身赴任で遊ぶ者たちは少し離れた歓楽街に集まる。

 時折タクシーが通りがかり酔っ払ったサラリーマンが千鳥足で自らの寝床に向かう以外に人は滅多に通らない。

 

 元より不気味な場所だ、計画性をあまり感じさせず乱立したアパートやマンションが織りなす迷宮のように思える路地裏、土地勘がない人間なら確実に迷う。

 表通りですら昼でも陽の光が届きずらいところも多く、夜間に灯される電灯もあまりに頼りない。

 

 襲撃するにはここまで適した場所もないだろう。

 

 「……タイミングが良すぎるわね」

 

 家を出て三十分足らず。

 特に遊具もない、だだっ広いだけの公園付近に差し掛かったのと同時。

 明かりの少ない道の先や建物の隙間、人工的に整えられた小さな木立の影から人影らしき何かが這い出てくる。 

 

 小さい影は小学生、大きい影は高校生ぐらいの幅がある。

 二人を囲むようにして距離を縮めてくる影の群れにフェリシアは顔を歪めた。

 

 「すでに捕捉され、狙われていたと見るべきでしょう。うちの学校の生徒を狙ったのはわざとね」

 

 いつから、おそらくは映自君の事件の時だろう。

 あのドッペルゲンガーを倒した時点ですでに相手方はこちらをマークしていたのだとフェリシアは即座にあたりを付けたのだ。

 

 「……つまり、宣戦布告されたということなのか」

 

 それは明確にこちらを敵と定めていたということでもある。

 

 「こっち!」

 

 フェリシアは軽く一真の手を引くと公園の中に走り込む。

 ここにはいくつか電灯が密集している、障害物はなく完全に囲まれる形となるが敵の姿を捉えられる利点をフェリシアは取った。

 

 二人は自然と背を合わせる形となって敵の姿を待つ。

 ゆっくりと、夜闇から這い出るように現れる影。

 

 その顔は資料で見た犠牲者たちと瓜二つで、ただその顔は壊れたように笑みを浮かべて虚ろな瞳がこちらを収めている。

 

 ドッペルゲンガーではないとフェリシアは言っていた、瓜二つの姿を持つ何かだ。

 それでも、あまりにも人と同じ形をしてるものだから、一真はこれからどうすべきか迷ってしまった。

 

 その隙を逃すようなことはなく、三つの人影がばね仕掛けの玩具のように勢いよく飛び掛かってくる。

 そのうちの二人をフェリシアは容赦なく風で吹き飛ばしたが、一真は緩慢に動くことしかできず組み伏せられた。

 容赦なく喉を圧迫する首筋にかけられた小さな手を何とか外そうとするが、見た目小学生の少女とは思えない力で張り付いたように離れない。

 酸素が脳に届かない、視界が明滅して手足の力が抜ける。

 ここに来て未だに表側の常識を捨てられなかった緩慢な知性に吐き気がする、これは人ではない。

 

 姿形は裏側では意味を成さない。

 

 「――風よ!」

 

 圧縮された空気の弾丸が一真に張り付いていた少女の腕を、次に脇腹を正確に射抜く。

 あまりの衝撃に、それでも離さなかった手の平だけが首に張り付いたまま。

 両手首を失った少女は数メートル吹き飛んで、それでも何事もないかのように立ち上がる。

 他の二体も四肢や首が異様な方向に曲がり前衛的なオブジェのようになりながらも何事もないかのように笑い続ける。

 

 「……しゃがんでなさい能。相性が悪いわ。」

 

 それは能力的な話か、それとも精神的な話か。

 どちらもだろうと一真は自覚している、せき込みながら首の小さな手を払い落とし、自分の不甲斐なさに唇を嚙み締めた。

 

 フェリシアが杖を高く掲げた、装填された魔法陣は紫。

 

 「――闇よ」

 

 短い詠唱、現出したゴルフボール大の小さな黒い塊が急速に広がる。

 それはドームのように公園全体を覆い、電灯の明かりも幾ばくか遮断された。

 物理的、認識的に空間を遮断する簡易結界。

 夜闇の下、さらに薄暗くなった空間の中で続けて複数の魔法陣が一気に展開される。

 それは紅く、暗闇を切り裂くように宙に展開され続け、一真たちの周囲を囲むようにざっと八つ。

 

 「――業炎よ」

 

 静かに、しかし巻き起こる炎はこれまで見たものより強い。

 荒れ狂う海のように波状する炎は周囲一帯と人影を無慈悲にさらっていく。

 叫び声はない、炎に巻かれ手足が崩れていく己の体をそれでも笑う者達。

 

 一分も経たずに人影は燃え尽き、炎は瞬時に消え去った。

 ドームは崩れ落ち、電灯の明かりが正常に闇を照らす。

 恐れをなしたのかこれが全てなのか、新手が現れることはなかった。

 

 

 フェリシアは半ば炭化し動きを止めた人影に近づいていく。

 それをじっと見つめ、ふとしゃがみ込むと何かを手に取って一真の方へ戻った。

 手足からまだ力が抜けている一真にそれを差し出す。

 

 「……歯車?」

 

 それは、ぜんまい仕掛けの絡繰りにでも使われてそうなポピュラーな鉄製の歯車に見えた。

 

 「ええそう、歯車。これではっきりした、あれは人形よ。人体に限りなく近いけれど、誰かの手で生み出された人工的な肉体。

 それを魔力を動力として動かしていたのでしょう。……敵は人形遣いよ」

 

 やっかいねとフェリシアは目を伏せた。

 

 曰く、人形とは表と裏を繋ぐうえで最も扱いやすいという。

 人型を模すが人ではなく、しかして確かに表側に実在する形。

 その型を模すための材料も基本的には実在するものだ。

 裏側の機能を持たせ、表側にそれを持ち込むうえでここまでやりやすいものもない。

 一真にとっては天敵に等しい、影幻界の法則を持ちながら表側に自然と溶け込む存在。

 

 「人形技師は相当の腕よ、少なくとも外形は全く同じに見えるし、炭化している肉は生物的な質感を残している。

 自然で、だけど人以上の膂力を持つ。ドッペルゲンガーと呼ばれるのも納得ね。犠牲者たちは本当に自分が殺しに来たと思ったことでしょう」

 

 何者かが犠牲者たちそっくりの人形を作り、それを本人にけしかけ、殺させていた。

 その動機も意図もまったくわからないがつまりはそういうこと。

 

 「とにかく、これで何をすべきかは決まった。これだけの人形を作るにはそれなりの設備が必要なはず。これからはその痕跡を探しましょう。」

 

 フェリシアは方向性を定められたことに満足し視線を鋭く細めた。

 それはすぐに崩れ、少し心配そうに一真を見やる。

 

 「だけど気を付けて、あなたにとっては厳しい相手よ。決して油断しないで。もし私が危険だと思ったら、これ以上は無理だと判断したら連れてはいかないからそのつもりでいて。」

 

 フェリシアが自然に差し出してくる手を一真は取って立ち上がる。

 人形とわかっていても人の形を容赦なく壊すことはまだ抵抗がある。

 それでも、足を引っ張るわけにはいかない。フェリシア一人に任せきるなんて許されない。

 

 次の時までに、いや、今すぐにでも覚悟を決めるべきだと一真は拳を握りしめた。

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