元アイドルの赤ペン配信 作:ひまんちゅ
その日。
彼女は、人生で一番緊張していたかもしれない。
ライブでもない。
オーディションでもない。
テレビでもない。
ただの、マンションの一室の前。
スマホを握る。
メッセージ画面。
住所ここで合ってるよ
送られてきた一文。
それを何度も見返す。
「……やばい」
小さく呟く。
心臓がうるさい。
普段は、数万人の前で歌っている。
スポットライトの中に立っている。
カメラの前で笑う。
それが仕事だ。
慣れているはずだ。
なのに。
ドア一枚の向こうにいる「一人」に、勝てない。
インターホンを押すか迷う。
手が止まる。
「帰ろうかな」
本気で思う。
その瞬間。
ドアが開く。
「来た?」
心臓が止まりそうになる。
目の前にいる。
画面の向こうにいた人。
白いTシャツ。
ラフな格好。
すっぴんに近い顔。
でも。
分かる。
「……本物だ」
思わず口に出る。
元トップアイドルは、少し笑う。
「配信と同じでしょ」
「違う」
即答だった。
「何が」
「空気」
元トップは、少しだけ驚く。
そして笑う。
「いい感性」
部屋に入る。
白い壁。
鏡。
マット。
そのままだ。
配信で見ていた場所。
「座っていいよ」
「はい」
言いながら、正座しそうになる。
「そんな緊張する?」
「する」
「なんで」
現役アイドルは、少し考える。
そして言う。
「ずっと見てたから」
少し間。
元トップは、軽くストレッチをする。
「じゃあ」
「うん?」
「踊る?」
「……え?」
予想していなかった。
「今?」
「今」
「え、いや」
「無理?」
少し笑いながら言う。
「……やる」
即答だった。
音楽が流れる。
現役アイドルが踊る。
鏡に映る自分。
そして。
後ろで見ている、元トップ。
(見られてる)
それだけで、体が少し固くなる。
分かる。
ほんの少し。
でも、分かる。
踊り終わる。
息が上がる。
振り返る。
「……どうですか」
元トップは、少しだけ間を置く。
そして言う。
「うまい」
安心する。
でも。
次の一言が来るのを、知っている。
「でも」
来た。
「0:12」
現役アイドルの背筋が伸びる。
「はい」
「守ってる」
一瞬、意味が分からない。
「……守る?」
「崩れないように踊ってる」
言葉が刺さる。
「だから、崩れない」
少し間。
「でも、跳ねない」
現役アイドルは、言葉を失う。
その通りだった。
誰にも言われたことがない。
でも。
ずっと、分かっていた。
「……どうすればいいですか」
元トップは、少し笑う。
「一回、崩してみる?」
現役アイドルは、息を吸う。
少し怖い。
でも。
「やる」
音楽が流れる。
もう一度踊る。
今度は。
少しだけ。
怖い動きをする。
少しだけ。
崩す。
終わる。
元トップが言う。
「いい」
短い言葉。
でも。
その一言で、全部報われる。
「さっきよりいい」
現役アイドルは、少しだけ笑う。
「楽しい?」
元トップが聞く。
「楽しい」
即答だった。
元トップは、少しだけ笑う。
「じゃあ、また来て」
その一言で。
すべてが決まった。
帰り道。
夜の街。
スマホを握る。
画面には、あの配信チャンネル。
「……戻りたい」
小さく呟く。
でもそれは、ステージではない。
あの白い部屋。
あの空気。
「……また行く」
その日から。
彼女は、ただの視聴者ではなくなった。