元アイドルの赤ペン配信   作:ひまんちゅ

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辞める夜

 その日。

 

 ライブは、完璧だった。

 

 少なくとも、外から見れば。

 

 照明。

 

 歓声。

 

 曲の終わり。

 

 最後のポーズ。

 

 すべてが揃っていた。

 

 拍手が降る。

 

 歓声が重なる。

 

 名前を呼ばれる。

 

 彼女は、笑っていた。

 

 いつも通り。

 

 何も間違えていない笑顔。

 

 何も崩れていない姿勢。

 

 ステージを降りる。

 

 袖に入る。

 

 空気が変わる。

 

「お疲れ!」

 

「今日よかったよ!」

 

「さすがだね」

 

 言葉が飛んでくる。

 

 全部、受け取る。

 

 全部、返す。

 

「ありがとうございます」

 

 声も、表情も、完璧だった。

 

 控室。

 

 鏡の前。

 

 椅子に座る。

 

 メイクはそのまま。

 

 衣装もそのまま。

 

 誰もいない。

 

 静かだ。

 

 そのとき。

 

 ふと、思った。

 

「……あれ」

 

 自分の顔を見る。

 

 鏡の中の自分。

 

「……私」

 

 少しだけ、首を傾げる。

 

「……歌うの、好きだっけ」

 

 言葉にした瞬間。

 

 何かが、抜けた。

 

 大きな音じゃない。

 

 壊れた感じでもない。

 

 ただ。

 

 静かに。

 

 空っぽになる。

 

 怖い。

 

 焦る。

 

「違う」

 

「そんなはずない」

 

 何度も思う。

 

 ここまで来た。

 

 努力した。

 

 選ばれた。

 

 好きじゃないはずがない。

 

 でも。

 

 思い出そうとしても。

 

 “好きだった瞬間”が、遠い。

 

 あるのに。

 

 確かにあったのに。

 

 手が届かない。

 

 その代わりにあるのは。

 

 評価。

 

 順位。

 

 期待。

 

 比較。

 

「もっとできるよね」

 

「次はセンターかな」

 

「ここ、甘かったね」

 

 言葉が浮かぶ。

 

 全部、正しい。

 

 でも。

 

「……それだけだ」

 

 小さく呟く。

 

 そのとき。

 

 ドアが開く。

 

「次の打ち合わせいい?」

 

 スタッフの声。

 

 彼女は、顔を上げる。

 

 鏡の中の自分。

 

 笑っている。

 

「はい」

 

 立ち上がる。

 

 体は動く。

 

 言葉も出る。

 

 でも。

 

 どこかが、空いている。

 

 打ち合わせ。

 

「次の構成だけど――」

 

「ここの表情、もう少し強く」

 

「ファンの期待的には――」

 

 全部、聞こえる。

 

 全部、理解できる。

 

 だから。

 

「分かりました」

 

 言える。

 

 でも。

 

 心が、動かない。

 

 終わる。

 

 夜。

 

 帰り道。

 

 スマホを見る。

 

 SNS。

 

「最高だった!」

 

「泣いた!」

 

「神」

 

 言葉が並ぶ。

 

 嬉しい。

 

 はず。

 

 でも。

 

「……軽い」

 

 自分の感情が、軽い。

 

 それが、一番怖い。

 

 家に帰る。

 

 靴を脱ぐ。

 

 床に座る。

 

 静かだ。

 

 音楽もない。

 

 照明もない。

 

 歓声もない。

 

 ただ。

 

 自分だけ。

 

 しばらくして。

 

 立ち上がる。

 

 何も考えずに。

 

 踊る。

 

 音楽はない。

 

 でも。

 

 体が動く。

 

 さっきのステージより。

 

 少しだけ。

 

 自由だ。

 

 止まる。

 

 息が上がる。

 

 そのとき。

 

「……あ」

 

 少しだけ。

 

 ほんの少しだけ。

 

 楽しい。

 

 その感覚。

 

 それだけが。

 

 残っている。

 

 彼女は、床に座る。

 

 スマホを取る。

 

 連絡先。

 

 マネージャー。

 

 画面を見つめる。

 

 少し迷う。

 

 でも。

 

 指は止まらない。

 

少し休みたいです

 

 送信。

 

 既読がつく。

 

 すぐに返信が来る。

 

体調?

 

 少し考える。

 

 違う。

 

 でも。

 

 言葉がない。

 

はい

 

 それだけ送る。

 

 画面を置く。

 

 天井を見る。

 

 静かだ。

 

 でも。

 

 さっきより、少しだけ軽い。

 

 彼女は目を閉じる。

 

 そして。

 

 そのまま、動かなかった。

 

 その夜。

 

 彼女は。

 

 ステージを、降りた。

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