元アイドルの赤ペン配信   作:ひまんちゅ

20 / 27
赤を入れない日

 > 【雑談】今日は削らない

 

 配信タイトルを見た瞬間、コメント欄が止まった。

 

 いつもなら。

 

 【赤ペン】今日も削る

 

 その文字がある。

 もう、何年も見慣れたタイトルだった。

 

 白い壁。

 鏡。

 マット。

 床に置かれた水。

 三脚に固定されたカメラ。

 

 変わらない部屋。

 変わらない距離。

 変わらない二人。

 

 なのに。

 

 > 削らない?

 > 体調悪い?

 > 何かあった?

 > 赤ペンなし回?

 > 怖い

 

 コメント欄が、ざわざわと動く。

 

「怖がりすぎ」

 

 元トップアイドルは、床に座っていた。

 ジャージ姿で、膝を抱えている。

 

 横には、現役アイドル。

 

 こちらも、いつものようにラフな服装だ。

 ステージ衣装でもない。

 レッスン着ですらない。

 

 ただ、部屋に来た人の格好だった。

 

「削らないって言っただけで事件になるの、すごいね」

 

 現役アイドルが笑う。

 

「普段が普段だからでしょ」

 

「それ、私のせい?」

 

「半分くらい」

 

「半分なんだ」

 

 二人の会話に、コメントが少し落ち着く。

 

 > よかった

 > 普通に雑談っぽい

 > でもタイトル怖い

 > 削らない日なんてあるんだ

 > 赤ペン封印回

 

 元トップアイドルは、ペンを手に取った。

 

 赤いペン。

 

 画面に線を引くためのもの。

 自分の肩に。

 目線に。

 重心に。

 逃げに。

 甘さに。

 

 何度も何度も、赤を入れてきたもの。

 

 彼女は、それをしばらく見つめる。

 

 そして。

 

 床に置いた。

 

「今日は、これ使わない」

 

 コメント欄がまた止まる。

 

 現役アイドルも、少しだけ目を細めた。

 

「本当に?」

 

「うん」

 

「何かあった?」

 

「何もない」

 

 即答だった。

 

 でも。

 その声は、少しだけ柔らかかった。

 

「何もないから、やってみる」

 

 部屋が静かになる。

 

 コメントも流れている。

 でも、いつもより遅い。

 

 誰も、うまく言葉を選べないでいる。

 

「いつもさ」

 

 元トップアイドルは、鏡を見た。

 

「踊ると、すぐ探すんだよね」

 

「何を?」

 

「ダメなところ」

 

 現役アイドルは、黙って聞いている。

 

「肩。膝。目線。呼吸。重心。指。全部」

 

「うん」

 

「それが悪いとは思ってない」

 

「うん」

 

「むしろ、それで戻ってきたし」

 

 戻ってきた。

 

 その言葉に、コメント欄が少しだけ揺れる。

 

 でも、誰も「復帰」とは言わなかった。

 もう、その言葉だけでは足りないことを知っているからだ。

 

「でもさ」

 

 元トップアイドルは、少し笑った。

 

「赤入れる前の一回って、どこ行ったんだろうって思って」

 

 現役アイドルが、顔を上げる。

 

「一回?」

 

「ただ踊った一回」

 

 元トップは、膝の上に顎を乗せる。

 

「下手でも、甘くても、崩れてても、まだ何も直してない一回」

 

「……ああ」

 

 現役アイドルが、小さく息を吐く。

 

「分かる」

 

「分かる?」

 

「分かる」

 

 彼女は、少し笑った。

 

「私も、最初から正解探すから」

 

「でしょ」

 

「失敗する前に守る」

 

「それ、前から言ってる」

 

「言われた」

 

「言った」

 

 二人は、少しだけ笑う。

 

 > 守るやつだ

 > 最初の頃の話だ

 > 泣きそう

 > 赤を入れる前の一回

 > 分かる

 

「だから今日は」

 

 元トップアイドルは立ち上がった。

 

 ゆっくりと肩を回す。

 首を回す。

 足首を鳴らす。

 

 でも、その動きは、いつものレッスン前より軽い。

 

「一回だけ、赤入れない」

 

「踊るの?」

 

「踊る」

 

「見るだけ?」

 

「一緒に」

 

 現役アイドルが、目を丸くする。

 

「私も?」

 

「一人だと絶対探すから」

 

「私がいても探すでしょ」

 

「探す」

 

「意味なくない?」

 

「でも、言わない」

 

 元トップは、カメラを見る。

 

「コメントも、今日は赤なし」

 

 > え

 > 無理

 > 言いたくなる

 > 赤なし縛り

 > 見守り回

 

「褒めなくてもいい」

 

 彼女は言う。

 

「でも、直さないで」

 

 その言葉で、コメント欄が静かになった。

 

 直さない。

 

 それは、この場所では珍しい言葉だった。

 

 この部屋は、ずっと直すための場所だった。

 甘さを見つける場所だった。

 逃げを許さない場所だった。

 削るための場所だった。

 

 けれど。

 

 今日は違う。

 

 音楽が流れる。

 

 聞き慣れたイントロ。

 

 豪華なアレンジではない。

 ドームで使ったものでもない。

 アリーナで鳴った音でもない。

 

 この部屋で、何度も踊った音。

 

 二人が並ぶ。

 

 鏡の前。

 白い壁の前。

 

 カメラは、いつもの位置。

 

 音が始まる。

 

 二人は踊った。

 

 最初の一歩。

 

 少しだけ、元トップの肩が上がる。

 現役アイドルの目線が、いつもより迷う。

 

 それに、二人とも気づいている。

 

 気づいているのに。

 

 止めない。

 

 戻さない。

 

 赤を入れない。

 

 次の動きで、現役アイドルの足が少し早く出る。

 元トップの呼吸が、ほんの少し遅れる。

 

 いつもなら、止めている。

 

 0:08。

 0:13。

 0:21。

 

 きっと、いくらでも言える。

 

 でも。

 

 言わない。

 

 二人は、そのまま踊る。

 

 ズレたまま。

 揺れたまま。

 少しだけ甘いまま。

 

 けれど、途中から。

 

 不思議と、呼吸が合っていく。

 

 修正したからではない。

 

 相手を見たから。

 相手の揺れを聞いたから。

 崩れた場所を、責めずに受け取ったから。

 

 少しずつ。

 二人の動きが重なる。

 

 完璧ではない。

 

 でも。

 

 軽い。

 

 コメント欄は、ほとんど流れていなかった。

 

 誰も、赤を入れない。

 誰も、直さない。

 誰も、急かさない。

 

 ただ、見ている。

 

 曲が終わる。

 

 二人は、しばらく動かなかった。

 

 息が上がっている。

 汗が落ちる。

 床に、小さな音がする。

 

「……どう?」

 

 現役アイドルが聞く。

 

 元トップアイドルは、鏡を見ていた。

 

 いつもなら、すぐ言う。

 

 0:03。

 0:07。

 0:12。

 

 でも今日は、言わない。

 

 赤いペンは、床に置かれたままだ。

 

「楽しかった」

 

 短い言葉だった。

 

 コメント欄が、一気に流れた。

 

 > 泣いた

 > それでいい

 > 楽しかったならいい

 > 赤なし回、神回

 > これもステージ

 > 削らない日もあっていい

 

 現役アイドルは、少しだけ笑う。

 

「珍しい」

 

「何が」

 

「感想が赤ペンじゃない」

 

「そういう日だから」

 

「またやる?」

 

 元トップアイドルは、床に座った。

 水を飲む。

 

 少し考える。

 

「たまに」

 

「出た」

 

「たまには健全」

 

「それ前も言った」

 

「便利だから」

 

 二人は笑う。

 

 コメント欄も笑う。

 

 > たまにシリーズ

 > 健全

 > でも来週には赤入れてそう

 > 明日は削るでしょ

 > 結局戻る

 

 元トップアイドルは、床の赤ペンを拾った。

 

 キャップを外す。

 少しだけ、画面に向ける。

 

「明日は削る」

 

 > 知ってた

 > 安心した

 > 戻った

 > これでこそ

 > でも今日は忘れない

 

「でも」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「今日のは、赤入れないで残す」

 

 現役アイドルが、静かに頷いた。

 

「うん」

 

 画面の向こうで、コメントが流れている。

 

 歓声ではない。

 拍手でもない。

 けれど、確かに熱がある。

 

 白い壁。

 鏡。

 マット。

 赤ペン。

 戦友。

 

 そして。

 

 赤を入れない一回。

 

 音が消える。

 画面が暗くなる。

 

 > 【雑談】今日は削らない

 

 そのタイトルは、きっと明日には戻る。

 

 でも。

 

 今日だけは。

 

 削らなかった時間も、彼女たちのステージだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。