元アイドルの赤ペン配信 作:ひまんちゅ
「……寒い」
元トップアイドルは、コンビニの自動ドアを抜けた瞬間にそう言った。
深夜だった。
ドームライブが終わって。
反省会配信も終わって。
スタッフへの挨拶も、関係者への連絡も、最低限の確認も終わって。
ようやく、外に出た。
もう日付は変わっている。
街は静かだった。
それでも、完全な静寂ではない。
遠くで車が走る音。
信号機の機械的な音。
コンビニの明るすぎる照明。
ドームの光とは、まるで違う。
「薄着すぎるからでしょ」
隣で現役アイドルが言う。
キャップ。
マスク。
大きめのパーカー。
それでも、立ち方だけで目立つ。
姿勢がいい。
歩幅が揃っている。
首の角度に癖がない。
コンビニに入るだけでも、二人は少しだけ浮いていた。
「ドームのあとにコンビニって、順番おかしくない?」
現役アイドルが笑う。
「普通」
「普通じゃないよ」
「ライブ後はお腹空く」
「そういう意味じゃなくて」
二人は店内を歩く。
雑誌コーナー。
お菓子。
飲み物。
弁当。
アイス。
ドームで何万人もの前に立った人間が、数時間後にコンビニでアイスを見ている。
それは、少し不思議な光景だった。
「どれにするの」
現役アイドルが聞く。
「迷ってる」
「珍しい」
「アイスは迷う」
「そこは迷うんだ」
元トップアイドルは、冷凍ケースを覗き込む。
真剣だった。
ライブ前のセットリスト確認よりも、少し真剣に見える。
「バニラでしょ」
現役アイドルが言う。
「決めつけないで」
「いつもバニラじゃん」
「今日は違うかもしれない」
「じゃあ何」
「バニラ」
「ほら」
現役アイドルが笑う。
元トップアイドルは、少しだけ不満そうにバニラアイスを手に取った。
「そっちは」
「チョコ」
「守ってるね」
「アイスで守るって何」
「無難」
「バニラの人に言われたくない」
二人は、小さく笑う。
その声は、ドームのマイクには乗らない声だった。
観客には届かない。
コメント欄にも流れない。
切り抜きにもならない。
ただ、深夜のコンビニに落ちるだけの声。
レジで会計を済ませる。
店員は、二人に気づいていないようだった。
あるいは、気づいていても何も言わなかった。
それが、少しありがたかった。
外に出る。
冷たい空気が、また頬に触れた。
「寒い」
「だから薄着」
「うるさい」
二人は、近くの人気のないベンチに座った。
夜の街。
街灯。
遠くの車。
ドームの熱は、もうここにはない。
けれど、身体の奥にはまだ残っている。
歓声。
照明。
床の振動。
最後の曲の呼吸。
二人の動きが揃った瞬間。
あの空気は、まだ抜けきっていなかった。
元トップアイドルは、アイスのふたを開ける。
少しだけ溶けている。
「今日さ」
現役アイドルが言う。
「うん」
「楽しかった?」
その問いに、元トップアイドルはすぐ答えなかった。
スプーンでアイスをすくう。
口に入れる。
冷たさに少しだけ目を細める。
「楽しかった」
短く答えた。
現役アイドルは、横を見る。
「即答じゃないんだ」
「考えた」
「何を」
「楽しかったって言っていいのかなって」
現役アイドルは、少し黙る。
元トップアイドルは、夜の道路を見ている。
「昔はさ」
「うん」
「楽しかったって言う前に、いろいろあったから」
ランキング。
評価。
次の仕事。
期待。
比較。
誰が上で、誰が下か。
どのポジションに立つのか。
何を求められているのか。
楽しかった。
その一言の前に、いくつもの言葉が割り込んできた。
「今日も、ちょっと来たけど」
「何が」
「重いやつ」
現役アイドルは、アイスを持つ手を止めた。
「ドームだから?」
「うん」
「怖かった?」
「ちょっと」
「いつも言うね」
「言う」
元トップアイドルは、少し笑った。
「でも、前より軽かった」
「どうして」
「白い壁があったから」
現役アイドルは、ふっと息を吐いた。
「物理的にはないけどね」
「あるよ」
「どこに」
「ここ」
元トップアイドルは、自分の胸元を軽く叩く。
「あと、そっち」
現役アイドルを見る。
「私?」
「うん」
「壁扱い?」
「違う」
「じゃあ何」
「……なんだろうね」
元トップアイドルは、少し考える。
戦友。
相方。
ライバル。
後輩。
友達。
どれも近い。
でも、少し違う。
ステージで隣に立つ人。
配信で赤を入れ合う人。
自分の怖さを知っている人。
軽い場所を、一緒に作ってくれた人。
「まあ、白い壁側の人」
「何それ」
「分からない」
「雑」
「便利」
現役アイドルは笑う。
そして、少しだけ黙った。
「私も」
「うん」
「今日、ドームなのに配信みたいだった」
「分かる」
「歓声あるのに、コメント欄みたいで」
「うん」
「遠いのに、近かった」
元トップアイドルは頷く。
ドームは大きかった。
逃げ場がないくらい大きかった。
けれど。
不思議と、見えないカメラの向こう側を感じた。
画面の向こうで見ている人。
コメントを打つ人。
何度も白い壁に帰ってきた人。
その熱が、客席の向こう側にもあった。
「変なの」
元トップアイドルが言う。
「何が」
「ドームまで行ったのに、コンビニの方が実感ある」
「それは分かる」
「分かるんだ」
「分かる」
現役アイドルは、チョコアイスを食べながら言う。
「ドームは大きすぎて、夢っぽかった」
「うん」
「でも今、寒いし、アイス冷たいし」
「うん」
「明日も足痛そうだし」
「うん」
「だから、現実」
元トップアイドルは少し笑った。
「明日、休む?」
現役アイドルが聞く。
元トップアイドルは、即答した。
「配信する」
「知ってた」
「軽く」
「軽くで済む?」
「済ませる」
「無理でしょ」
「じゃあ普通に」
「ほら」
二人はまた笑う。
明日。
白い壁。
鏡。
マット。
カメラ。
赤ペン。
きっと、いつも通りタイトルを打つ。
> 【赤ペン】今日も削る
ドームのあとでも。
ニュースになっても。
ランキングに載っても。
誰かに「時代を変えた」と言われても。
結局、戻る。
戻る場所がある。
それは、逃げ場ではなくなっていた。
隠れ家でもない。
ただの部屋でもない。
二人が、二人のままでいられる場所。
「明日さ」
現役アイドルが言う。
「うん」
「今日の映像、見る?」
「見る」
「赤入れる?」
「入れる」
「ドームにも?」
「ドームだから」
「厳しい」
「当たり前」
元トップアイドルは、アイスを食べ終える。
空の容器を見つめる。
「でも」
「うん?」
「最初に一回だけ、楽しかったって言う」
現役アイドルは、少しだけ目を丸くした。
それから、ゆっくり笑う。
「それ、いいね」
「赤入れる前に」
「うん」
「楽しかったって言ってから、削る」
「健全」
「健全」
二人は立ち上がる。
ゴミを捨てる。
コンビニの明かりが、背中に落ちる。
ドームの照明より、ずっと小さい光。
でも、今はそれで十分だった。
「帰る?」
現役アイドルが聞く。
「帰る」
「明日、何時?」
「昼」
「早くない?」
「ドーム後だから遅い」
「基準おかしい」
「普通」
「普通じゃない」
そんな会話をしながら、二人は歩き出す。
深夜の道。
冷たい空気。
少しだけ疲れた足。
特別なことは、もう何も起きない。
でも。
元トップアイドルは、ふと呟いた。
「楽しかった」
現役アイドルは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ隣を歩く距離を近づけた。
明日には、また赤が入る。
0:03。
0:07。
0:12。
甘いところも。
逃げたところも。
まだ足りないところも。
全部、見つける。
でも今夜だけは。
ドームの光よりも、コンビニの白い明かりの下で。
二人はただ、楽しかった日の帰り道を歩いていた。