元アイドルの赤ペン配信 作:ひまんちゅ
> 【相談】白い壁の件
配信タイトルを見た瞬間、コメント欄が止まった。
いつものタイトルではない。
> 【赤ペン】今日も削る
ではない。
> 何
> 白い壁の件?
> 事件?
> 怖い
> 壁、どうした
> 壁に何があった
コメントが、じわじわと流れ始める。
画面には、いつもの部屋。
白い壁。
鏡。
マット。
床に置かれたペットボトル。
三脚に固定されたカメラ。
何も変わっていない。
だからこそ、怖い。
「壁、壊れてないから」
元トップアイドルは、最初にそう言った。
コメント欄が少しだけ安心する。
> よかった
> 生きてた
> 壁無事
> 壁の安否確認配信
> 壁が主役
「壁が主役じゃない」
元トップアイドルは、床に座っている。
隣には現役アイドル。
こちらは少しだけ笑っていた。
「いや、半分くらい主役でしょ」
「違う」
「この配信、白い壁から始まったし」
「始まったのは私」
「でも背景は壁」
「背景」
元トップアイドルは、少し不満そうに白い壁を見た。
白い壁は、何も答えない。
ただ、いつものようにそこにある。
「で」
現役アイドルが言う。
「話すんでしょ」
「うん」
元トップアイドルは、少しだけ息を吸った。
「引っ越すかもしれない」
コメント欄が止まった。
止まって。
次の瞬間、爆発した。
> え
> 無理
> やめて
> 壁が
> 白い壁が
> 原点が
> 引っ越し危機
> ニュース速報
「大げさ」
元トップアイドルは言う。
だが、コメント欄は止まらない。
> 大げさじゃない
> ここは聖地
> 白い壁は文化財
> 保存しろ
> クラファンしよう
> 壁だけ剥がして持っていこう
「剥がさない」
現役アイドルが笑う。
「でも、分かる」
「何が」
「ちょっと嫌でしょ」
元トップアイドルは、黙った。
少しだけ、視線を外す。
「……まあ」
それだけで、コメント欄がまた動く。
> 嫌なんだ
> かわいい
> そりゃそう
> ここまで一緒に来た壁だもん
> 壁、聞いてるか
「壁に話しかけないで」
元トップアイドルは、白い壁を見る。
何もない壁だった。
飾りもない。
ポスターもない。
照明も最低限。
映える背景ではない。
むしろ、殺風景だった。
けれど。
ここで、何百時間も踊った。
赤を入れた。
泣きそうになった。
笑った。
初めて現役アイドルが来た。
顔を出さないまま一緒に踊った。
配信がステージになった。
小箱へ行った。
アリーナへ行った。
ドームへ行った。
そして、戻ってきた。
全部、この壁の前だった。
「理由は?」
現役アイドルが聞く。
「部屋が狭い」
「今さら?」
「機材増えたし」
「まあね」
「スタッフも来るし」
「うん」
「たまにプロデューサーも来るし」
「それは部屋のせいじゃない」
「あと、床」
元トップアイドルは、マットを軽く叩く。
「そろそろ限界」
現役アイドルは、少しだけ頷いた。
確かに。
この部屋は、もうただの個人配信部屋ではない。
視聴者数も増えた。
ライブ用の確認もする。
振り合わせもする。
カメラも増えた。
白い壁だけが変わらない。
いや。
変われずに残っている。
「広い場所にした方がいいのは、分かる」
現役アイドルが言う。
「うん」
「でも、嫌なんだ」
「……ちょっと」
元トップアイドルは、素直に言った。
コメント欄が静かになる。
この人は、大きい箱には立てる。
ドームにも立てる。
何万人の前でも踊れる。
でも。
この白い壁を手放すことには、少し迷っている。
「変だよね」
元トップアイドルは言う。
「ドームは平気だったのに」
「平気ではなかったでしょ」
「まあ」
「でも、これは別だよ」
現役アイドルは、白い壁を見る。
「ここ、帰る場所だから」
元トップアイドルは、少し黙った。
コメント欄も、少し遅くなる。
> 帰る場所
> 分かる
> ここがホーム
> 壁、泣いてる
> 壁は泣かない
「壁は泣かない」
元トップアイドルが言う。
「でも、たぶん視聴者は泣いてる」
「なんで」
「白い壁卒業配信みたいになってるから」
「まだ決まってない」
「じゃあ、見に行く?」
「どこに」
「新しい部屋」
その言葉に、コメント欄がざわつく。
> 内見回?
> まさかの物件探し
> 配信で?
> 白い壁オーディション
> 新壁選抜
「新壁選抜って何」
現役アイドルが笑う。
元トップアイドルも、少しだけ笑った。
「でも、選ぶなら大事かも」
「何を?」
「壁」
「結局壁なんだ」
「背景、大事」
「さっき背景って言われて不満そうだったのに」
「それはそれ」
二人は、しばらく真剣に話し始めた。
「広さは?」
「今の倍」
「鏡は?」
「いる」
「床は?」
「ちゃんと踊れるやつ」
「照明は?」
「最低限」
「最低限なんだ」
「明るすぎると逃げが見える」
「暗すぎても見えないでしょ」
「だから最低限」
「壁の色は?」
「白」
即答だった。
コメント欄が爆発する。
> 白確定
> 白い壁継続
> 助かった
> やっぱ白
> 白じゃないと始まらない
「でも」
現役アイドルが言う。
「真っ白すぎると、今と違うかも」
「どういうこと」
「この壁、ちょっと生活感ある」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「本当に?」
「うん」
元トップアイドルは、白い壁を見る。
よく見ると、完全に綺麗ではない。
小さな跡がある。
三脚をぶつけたような薄い傷。
何かを貼っていた名残。
光の当たり方で見える、少しの凹凸。
何もないようで、何かある。
それが、この部屋だった。
「新しい部屋、綺麗すぎたら嫌かも」
元トップアイドルが言う。
「分かる」
「分かるんだ」
「分かる」
現役アイドルは頷く。
「ここ、ただの綺麗な場所じゃないから」
少し間。
「削った跡がある」
元トップアイドルは、何も言わなかった。
その言葉が、妙にしっくりきた。
削った跡。
壁に赤ペンは入っていない。
傷もほとんどない。
でも、この部屋には確かに跡がある。
何度も止めた音。
何度も巻き戻した映像。
何度も吐いた息。
何度も言った「全然ダメ」。
何度も言われた「守ってる」。
それらは、見えないけれど残っている。
「じゃあさ」
現役アイドルが言う。
「新しい部屋に、持っていけばいいんじゃない」
「何を」
「この壁」
「剥がすの?」
「違う」
現役アイドルは笑う。
「この部屋で最後に、ちゃんと踊る」
「いつも踊ってる」
「そうじゃなくて」
現役アイドルは、少しだけ真面目な声になる。
「引っ越すって決めたら、最後に赤入れる」
「壁に?」
「違う」
「じゃあ何に」
「今までの自分に」
元トップアイドルは、黙った。
コメント欄が止まる。
「ここで踊ってきた全部に、一回赤入れて」
現役アイドルは続ける。
「それで、持っていく」
白い壁を見る。
「壁じゃなくて、削った時間を」
元トップアイドルは、しばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ笑う。
「重い」
「たまには」
「配信、軽い場所じゃなかったっけ」
「軽くするために、たまに重いこと言う」
「ずるい」
「戦友なので」
コメント欄が一気に流れる。
> 戦友
> 泣いた
> 壁じゃなくて時間を持っていく
> 名言
> 白い壁編、完
「完じゃない」
元トップアイドルは立ち上がった。
肩を回す。
首を回す。
足を伸ばす。
いつもの準備。
「とりあえず踊る」
「相談回じゃないの?」
「相談した」
「結論は?」
「保留」
「出た」
現役アイドルも立ち上がる。
二人が並ぶ。
白い壁の前。
鏡の前。
いつもの距離。
音楽が流れる。
コメント欄が少し静かになる。
二人は踊った。
何も変わらない部屋で。
でも、少しだけ違う気持ちで。
足を出す。
呼吸を合わせる。
視線を置く。
重心を落とす。
白い壁は、今日もただ背景にある。
何も言わない。
何も照らさない。
何も飾らない。
それでも。
二人の動きが、そこに映える。
曲が終わる。
元トップアイドルは、息を整えながら動画を止めた。
「0:04」
コメント欄が笑う。
> 結局赤
> 知ってた
> 安心した
> 壁の前で赤ペン
> これがホーム
「まだ引っ越さない」
元トップアイドルは、動画を巻き戻しながら言う。
「でも」
少し間。
「いつか引っ越しても、これは持ってく」
現役アイドルが頷く。
「うん」
「白い壁じゃなくても」
「うん」
「たぶん、赤入れる」
「知ってる」
「で、戻りたくなる」
「それも知ってる」
二人は笑う。
画面の中には、いつもの白い壁。
いつか、この場所ではなくなるかもしれない。
でも。
ここで削った時間は、消えない。
配信タイトルは、最後にこう変わった。
> 【赤ペン】今日も削る
コメント欄が、一斉に流れる。
> おかえり
> やっぱりこれ
> 壁、続投
> 白い壁ありがとう
> どこに行っても見る
元トップアイドルは、少しだけ白い壁を見た。
「壁、人気だね」
現役アイドルが言う。
「私の配信なんだけど」
「半分くらい壁」
「違う」
元トップアイドルは、赤ペンを持つ。
いつものように、画面に線を引く。
0:04。
左肩。
少し上がっている。
白い壁の前で。
今日も、削る。