元アイドルの赤ペン配信   作:ひまんちゅ

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赤ペン外伝・歌編

 > 【赤ペン外伝】今日は歌を見る

 

 配信タイトルを見て、コメント欄が一瞬止まった。

 

 いつもの文字ではある。

 

 赤ペン。

 

 でも、少し違う。

 

 今日は、踊りではない。

 

 > 歌?

 > 歌回きた

 > ダンスじゃないの?

 > 外伝だ

 > 怖い

 > 声にも赤が入るのか

 

「入るよ」

 

 元トップアイドルは、当然のように言った。

 

 いつもの部屋。

 

 白い壁。

 鏡。

 マット。

 カメラ。

 床に置かれた水。

 

 けれど今日は、少しだけ違う。

 

 マットの中央に立っていない。

 鏡の前でもない。

 

 二人は、床に座っている。

 

 元トップアイドルの前には、ノートパソコン。

 現役アイドルの前には、マイク。

 

 大げさな機材ではない。

 配信用の、いつものマイクだ。

 

 それでも、コメント欄はざわついている。

 

 > 現役ちゃんが歌うの?

 > これ無料でいいの?

 > 歌の赤ペン怖そう

 > ブレスとか言われるやつ

 > 声は逃げられない

 

「声は逃げられない」

 

 現役アイドルが、コメントを読んで少し笑った。

 

「怖いこと言うね」

 

「事実」

 

 元トップアイドルが即答する。

 

「踊りより?」

 

「違う怖さ」

 

「やめて」

 

「歌は、体より嘘つきにくい」

 

 コメント欄が少し静かになる。

 

 元トップアイドルは、マイクの角度を直す。

 

「踊りはさ、形だけ整えられるときがある」

 

「うん」

 

「でも声は、呼吸が出る」

 

「うん」

 

「迷いも出る」

 

「うん」

 

「守ってるのも出る」

 

「結局それ」

 

 現役アイドルが苦笑する。

 

「私、今日も守ってるって言われるの?」

 

「歌えば分かる」

 

「怖い」

 

「歌って」

 

「急」

 

 現役アイドルは、少しだけ姿勢を整えた。

 

 ステージの上なら、すぐに歌える。

 照明が当たり、音響が整い、イヤモニからクリックが聞こえ、観客の熱がある。

 

 でも、ここには何もない。

 

 白い壁。

 カメラ。

 コメント欄。

 そして、隣にいる元トップアイドル。

 

 それだけ。

 

「曲は?」

 

 元トップアイドルが聞く。

 

「いつもの」

 

「ライブでやったやつ?」

 

「うん」

 

「じゃあ、サビ前から」

 

「そこだけ?」

 

「全部やると長い」

 

「赤入れるから?」

 

「そう」

 

 現役アイドルは、深く息を吸った。

 

 コメント欄が静かになる。

 

 音源が流れる。

 

 小さな部屋に、聞き慣れたイントロが満ちる。

 

 現役アイドルが歌い始める。

 

 声は、綺麗だった。

 

 当然だった。

 

 現役トップアイドル。

 何万人もの前で歌ってきた声。

 何度もレッスンを重ね、何度も本番を越えてきた声。

 

 音程は外れない。

 リズムも安定している。

 言葉も明瞭だ。

 

 それだけで、十分にプロだった。

 

 コメント欄が流れそうになる。

 

 だが、誰も打たない。

 

 みんな知っている。

 

 ここでは、十分では終わらない。

 

 サビ前。

 

 ほんの一瞬、息を吸う音が入る。

 

 次のフレーズ。

 少しだけ、声が硬くなる。

 

 それでも、普通なら気づかない。

 

 曲が終わる。

 

 現役アイドルは、息を吐いた。

 

「どう?」

 

 元トップアイドルは、無言で動画を止めた。

 

 コメント欄が緊張する。

 

 > 来る

 > 赤ペンタイム

 > 怖い

 > 十分うまかった

 > でも来る

 

「0:06」

 

 元トップアイドルが言う。

 

「早い」

 

「ブレス浅い」

 

 赤い線が、波形の上に引かれる。

 

「吸ってるけど、入ってない」

 

「入ってない?」

 

「胸で止めてる」

 

 現役アイドルは、少しだけ眉を寄せた。

 

「それ、声で分かるの?」

 

「分かる」

 

「怖い」

 

「あと、0:08」

 

 再生する。

 

 短いフレーズ。

 

 普通なら、綺麗に聞こえる。

 

「母音、逃げてる」

 

「母音?」

 

「ここ。言葉を綺麗に置きにいってる」

 

「それダメ?」

 

「ダメじゃない」

 

 元トップアイドルは、少し考える。

 

「でも、守ってる」

 

「来た」

 

 コメント欄が一気に流れる。

 

 > 出た

 > 守ってる

 > 歌でも守る

 > 逃げられなかった

 > 安定の赤ペン

 

 現役アイドルは、少しだけ笑った。

 

「もう便利ワードでしょ、それ」

 

「便利じゃない。正確」

 

「厳しい」

 

「事実」

 

 元トップアイドルは、もう一度同じ部分を再生する。

 

「歌詞の意味より、綺麗に歌う方を優先してる」

 

 現役アイドルは、笑うのをやめた。

 

 その言葉は、少し深く刺さった。

 

「……分かる」

 

「分かるんだ」

 

「うん」

 

「ここ、感情を出すのが怖い?」

 

 現役アイドルは、少し黙った。

 

 コメント欄も止まる。

 

「怖いというか」

 

「うん」

 

「出しすぎると、崩れる気がする」

 

「うん」

 

「崩れると、歌じゃなくなる気がする」

 

「うん」

 

「だから、整える」

 

「それが守ってる」

 

 短い言葉。

 

 現役アイドルは、ゆっくり頷いた。

 

「踊りと同じだ」

 

「同じ」

 

 元トップアイドルは言う。

 

「崩れないようにしてるから、届く前に止まる」

 

 部屋が静かになる。

 

 白い壁の前で、声の話をしている。

 

 でも、それは体の話でもあった。

 

 心の話でもあった。

 

「じゃあ、どうすればいい?」

 

 現役アイドルが聞く。

 

「一回、汚く歌って」

 

「え?」

 

「綺麗にしなくていい」

 

「配信中に?」

 

「うん」

 

「嫌なんだけど」

 

「だからやる」

 

「出た」

 

 コメント欄が笑う。

 

 > だからやる

 > 白い部屋名物

 > 嫌ならやる

 > 崩す練習

 > 歌でも崩すのか

 

 現役アイドルは、少し困ったように笑った。

 

「どれくらい?」

 

「音程は外さなくていい」

 

「うん」

 

「でも、声を整えようとしない」

 

「難しい」

 

「言葉を先に置く」

 

「声じゃなくて?」

 

「うん」

 

 元トップアイドルは、歌詞の一部を指差す。

 

「ここ、綺麗に歌うところじゃなくて、言うところ」

 

「言う」

 

「うん。歌う前に、言う」

 

 現役アイドルは、歌詞を見る。

 

 何度も歌ってきた言葉だった。

 

 ライブで。

 レッスンで。

 テレビで。

 配信で。

 

 けれど、言葉として見たのは久しぶりかもしれない。

 

「じゃあ、もう一回」

 

 元トップアイドルが音源を戻す。

 

 現役アイドルは、息を吸う。

 

 今度は、少し深く。

 

 曲が流れる。

 

 歌い始める。

 

 最初のフレーズは、さっきより少し不安定だった。

 

 綺麗ではない。

 ほんの少し、声が揺れる。

 

 コメント欄は、誰も茶化さない。

 

 サビ前。

 

 息を吸う。

 

 今度は、胸で止まらない。

 

 腹の奥まで落ちる。

 

 次の言葉。

 

 少しだけ、荒い。

 でも、近い。

 

 声が、カメラの前に出る。

 

 曲が終わる。

 

 現役アイドルは、少し恥ずかしそうに目を伏せた。

 

「今の、変じゃなかった?」

 

 元トップアイドルは、動画を止める。

 

「変」

 

「やっぱり」

 

「でも、いい」

 

 現役アイドルが顔を上げる。

 

「変だけど、いい?」

 

「うん」

 

 元トップアイドルは、0:08を再生する。

 

「ここ。声、少し荒い」

 

「うん」

 

「でも、言葉が前に出た」

 

 赤い丸がつく。

 

 ダメな場所ではなく。

 

 残す場所に。

 

「ここ、残していい」

 

 現役アイドルは、画面を見る。

 

 自分の声。

 少し揺れた声。

 いつもなら直したくなる声。

 

 でも、そこに赤い丸がついている。

 

 消すためではなく、残すために。

 

「赤ペンって、丸もつけるんだ」

 

 現役アイドルが言う。

 

「つけるよ」

 

「初めて見た気がする」

 

「レア」

 

「レアなんだ」

 

 コメント欄が流れる。

 

 > 赤丸だ

 > 保存

 > 残す赤

 > 消すためじゃない赤

 > 今日すごい

 

「もう一回やる?」

 

 元トップアイドルが聞く。

 

 現役アイドルは、少し考えた。

 

 さっきまでより、怖さはある。

 

 綺麗に歌う方が簡単だった。

 整える方が楽だった。

 守る方が、安全だった。

 

 でも。

 

 今の一瞬だけ、少し楽しかった。

 

「やる」

 

 短く答える。

 

「じゃあ次、もっと言葉」

 

「もっと?」

 

「うん」

 

「崩れたら?」

 

「赤入れる」

 

「でしょうね」

 

 二人は笑う。

 

 曲がまた流れる。

 

 三回目。

 

 声は、少しずつ変わっていく。

 

 綺麗なだけではない。

 安全なだけでもない。

 

 少し揺れて。

 少し前に出て。

 少し怖い。

 

 でも、その怖さが、届く。

 

 元トップアイドルは、黙って聞いている。

 

 ダンスのときより、表情が静かだった。

 

 自分も、かつて歌っていた。

 

 歌うのが好きだったのか。

 好きではなくなったのか。

 それすら分からなくなった夜があった。

 

 でも今。

 

 誰かの声が、少しずつ守りを外していくのを聞いている。

 

 それは、少しだけ眩しかった。

 

 曲が終わる。

 

 現役アイドルは、息を切らしていた。

 

「歌って、こんな疲れたっけ」

 

「ちゃんと使うと疲れる」

 

「踊りより?」

 

「違う疲れ」

 

「今日そればっかり」

 

 元トップアイドルは、少し笑う。

 

 そして、画面に赤を入れる。

 

「0:06、まだ浅い」

 

「はい」

 

「0:08、さっきよりいい」

 

「はい」

 

「0:12、語尾逃げた」

 

「はい」

 

「0:16」

 

 少し止まる。

 

 現役アイドルが身構える。

 

「ここ、好き」

 

 コメント欄が爆発する。

 

 > 好き出た

 > 珍しい

 > 赤ペンの好き

 > これは泣く

 > 保存

 

 現役アイドルは、少しだけ耳を赤くした。

 

「急に褒めないで」

 

「褒めてない」

 

「今のは褒めたでしょ」

 

「事実」

 

「便利」

 

「便利じゃない。正確」

 

 いつものやり取り。

 

 でも、今日は少し違う。

 

 踊りではなく。

 声で。

 

 同じ場所に辿り着いた。

 

 整えるだけでは、届かない。

 崩すだけでも、届かない。

 

 削って。

 残して。

 また削る。

 

「歌も赤ペンできるんだね」

 

 現役アイドルが言う。

 

「できる」

 

「今度、そっちも歌って」

 

 元トップアイドルの手が止まった。

 

 コメント欄も止まる。

 

 > え

 > 聞きたい

 > 元トップの歌

 > これは事件

 > 歌って

 

「今日はあなたの回」

 

「次」

 

「考える」

 

「出た」

 

 現役アイドルは笑う。

 

「怖い?」

 

 元トップアイドルは、すぐには答えなかった。

 

 白い壁を見る。

 

 歌うこと。

 踊ること。

 好きだったもの。

 重くなったもの。

 それでも、まだ手放せなかったもの。

 

「ちょっと」

 

 短く答える。

 

 コメント欄が静かになる。

 

 現役アイドルは、優しく言った。

 

「じゃあ、いつか」

 

「うん」

 

「赤入れる」

 

「私に?」

 

「うん」

 

「厳しそう」

 

「戦友なので」

 

 元トップアイドルは、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、いつか」

 

 その言葉だけで、コメント欄が流れる。

 

 > 待ってる

 > いつかでいい

 > 歌回また見たい

 > 赤ペン外伝続いて

 > 声も削る二人

 

 配信の最後。

 

 現役アイドルが、もう一度だけ短く歌った。

 

 赤は入らなかった。

 

 元トップアイドルは、ただ聞いていた。

 

 白い壁の前で。

 マイク一本で。

 照明も歓声もない部屋で。

 

 声が、少しだけ自由になっていく。

 

 画面が暗くなる直前、元トップアイドルが小さく言った。

 

「今日の0:16、残して」

 

 現役アイドルは、笑った。

 

「うん」

 

 配信が終わる。

 

 > 【赤ペン外伝】今日は歌を見る

 

 その日。

 

 赤ペンは、声にも入った。

 

 でもそれは、削るためだけではなかった。

 

 消さなくていい揺れを、見つけるための赤だった。

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