元アイドルの赤ペン配信 作:ひまんちゅ
ライブハウスの楽屋は、狭かった。
白い壁ではない。
鏡はある。
だが、いつもの鏡ではない。
床も違う。
照明も違う。
空気も違う。
ドアの向こうから、人の気配がする。
まだ開演前なのに、客席のざわめきが聞こえる。
小さな箱だからこそ、その気配が近い。
近すぎる。
「……重い」
元トップアイドルは、鏡の前で小さく呟いた。
現役アイドルが、横を見る。
「また言ってる」
「言う」
「何回目?」
「三回目くらい」
「七回目」
「数えないで」
現役アイドルは、少し笑った。
その笑い方は、配信部屋のものに近かった。
ステージ上の笑顔ではない。
カメラに向けた完璧な表情でもない。
白い壁の前で、何度も見た顔だった。
「配信の方が人多いよ」
現役アイドルが言う。
「それは分かってる」
「今日、五百人」
「うん」
「配信だと何万人も見てる」
「うん」
「なのに、こっちが重い?」
「重い」
即答だった。
現役アイドルは、少し考える。
「近いから?」
「それもある」
「音が返ってくるから?」
「ある」
「視線があるから?」
「ある」
「じゃあ全部じゃん」
「全部」
元トップアイドルは、肩を回す。
いつもの配信前と同じ動き。
首。
肩。
背中。
足首。
順番も、ほとんど変わらない。
けれど、少しだけ硬い。
本人は隠しているつもりかもしれない。
でも、現役アイドルには分かる。
左肩が、ほんの少し上がっている。
呼吸が、いつもより浅い。
鏡を見る時間が長い。
白い壁の前なら、すぐに赤が入る。
0:03。
左肩。
上がりすぎ。
「肩」
現役アイドルが言った。
元トップアイドルの動きが止まる。
「何」
「左肩」
「……上がってる?」
「うん」
元トップアイドルは、鏡を見る。
そして、少しだけ眉を寄せた。
「最悪」
「本番前に赤入れられる気分は?」
「嫌」
「いつも私にしてる」
「それはそれ」
「便利」
「便利じゃない」
二人は小さく笑った。
それだけで、空気が少し軽くなる。
楽屋の外では、スタッフの足音がする。
「五分前です」
声が飛んでくる。
「はい」
現役アイドルが答える。
元トップアイドルは、鏡を見たまま返事をしなかった。
五分。
配信なら、まだコメントを読んでいる時間だった。
水を飲んで、タイトルを確認して、今日はどこを見るかを軽く話して。
それから、音楽を流す。
でも今日は違う。
客席がある。
照明がある。
袖がある。
開演時間がある。
逃げ場がない。
「帰る?」
現役アイドルが聞く。
元トップアイドルは、横を見る。
「本気?」
「少しだけ」
「帰ったら?」
「配信する」
「でしょうね」
現役アイドルは笑った。
「じゃあ同じじゃん」
「違う」
「違うけど」
現役アイドルは、少しだけ真面目な声になる。
「でも、踊るのは同じ」
元トップアイドルは、黙る。
「白い壁じゃないけど」
「うん」
「いつもの音じゃないかもしれないけど」
「うん」
「コメント欄じゃなくて、客席だけど」
「うん」
「私、横にいるよ」
その言葉に、元トップアイドルは少しだけ目を伏せた。
重い。
それは本当だった。
ステージは、今でも少し怖い。
昔の記憶が、足元から上がってくる。
歓声。
期待。
比較。
順位。
センター。
評価。
光の中に立つと、それらが勝手に戻ってくる。
でも。
横にいる。
その事実だけは、昔と違った。
昔は、一人で立っていた。
同じグループにいても、隣は競争相手だった。
同じ曲を踊っていても、同じ場所にいるとは限らなかった。
でも今は。
赤を入れてくる人がいる。
赤を入れ返してくる人がいる。
守っていると、すぐに言う人がいる。
横にいる人がいる。
「……左肩、まだ上がってる?」
元トップアイドルが聞いた。
現役アイドルは、じっと見る。
「少し」
「最悪」
「でも、さっきよりいい」
「赤丸?」
「まだ赤線」
「厳しい」
「戦友なので」
元トップアイドルは、少しだけ笑った。
スタッフが再び顔を出す。
「三分前です」
「はい」
今度は、元トップアイドルも答えた。
声は、少しだけ落ち着いていた。
現役アイドルは、衣装の袖を軽く直す。
元トップアイドルは、靴紐を確認する。
どちらも無言。
でも、沈黙は重くない。
配信部屋で何度もあった沈黙と同じだった。
踊る前。
赤を入れる前。
言葉を探す前。
必要な沈黙。
「ねえ」
元トップアイドルが言う。
「うん」
「もし固かったら」
「うん」
「前、出て」
現役アイドルは、少しだけ目を丸くした。
それは、珍しい頼みだった。
この人は、できるだけ自分で立とうとする。
自分で修正する。
自分で削る。
助けてとは、あまり言わない。
でも今、言った。
「分かった」
現役アイドルは頷く。
「視線、集める」
「うん」
「表情、大きくする」
「うん」
「少し守る」
「守るの?」
「今日は守る」
元トップアイドルは、少しだけ笑った。
「いいの?」
「いい」
「いつも怒るのに」
「今日はいい」
現役アイドルは、まっすぐ言った。
「崩すために守る」
元トップアイドルは、その言葉を聞いて黙った。
守る。
それは、ずっと悪いものだと思っていた。
逃げること。
安全にまとめること。
壊れないように閉じること。
でも、今の言葉は違った。
崩すために守る。
もう一度、動き出すために。
軽くなるために。
ステージに飲まれないために。
守る。
「便利な言葉にしたね」
元トップアイドルが言う。
「あなたが散々使ったから」
「私のせい?」
「半分」
「また半分」
二人は笑った。
外のざわめきが、少し大きくなる。
客席に人がいる。
見たい人たちがいる。
配信で見ていた二人を、目の前で見ようとしている人たちがいる。
その熱は、確かに重い。
でも。
重いだけではなかった。
「一分前です」
スタッフの声。
二人は立ち上がる。
楽屋の鏡には、二人の姿が映っている。
元トップアイドル。
現役トップアイドル。
そんな言葉は、外の人がつけたものだ。
この鏡に映っているのは、ただの二人だった。
白い壁の前で、何度も赤を入れ合った二人。
「肩」
現役アイドルが最後に言う。
「まだ?」
「今、落ちた」
「赤丸?」
「赤丸」
元トップアイドルは、息を吐いた。
「じゃあ行く」
「うん」
二人は袖へ向かう。
照明の光が、足元に落ちている。
客席の気配が、すぐそこにある。
配信ではない。
でも、配信の続きだった。
白い壁はない。
でも、白い壁の前で削ってきた時間はある。
赤ペンは持っていない。
でも、赤を入れた跡は体に残っている。
音楽が鳴る。
客席が息を呑む。
元トップアイドルは、一歩目を出す。
少し硬い。
現役アイドルが、半歩だけ前に出る。
視線を集める。
表情を大きくする。
空気を少し引き受ける。
守る。
崩すために。
元トップアイドルは、それに気づく。
そして、少しだけ笑った。
次の一歩。
肩が落ちる。
重心が沈む。
目線が鋭くなる。
ステージの重さが、少しだけ軽くなる。
客席から、誰かの声が飛ぶ。
「大丈夫!」
一瞬、元トップアイドルの表情が揺れる。
配信のコメントみたいだった。
そのままでいい。
見てる。
大丈夫。
声は、画面の文字ではない。
でも、同じ熱だった。
元トップアイドルは、マイクを持つ前に、小さく呟いた。
「……配信と同じかも」
現役アイドルが横で笑う。
「でしょ」
音楽が強くなる。
二人は並ぶ。
小さなライブハウス。
近い客席。
重い空気。
でも。
その重さの中で、確かに軽くなる瞬間があった。
白い壁の前で生まれたステージが、初めて客席の前に立ち上がる。
まだ完璧ではない。
少し固い。
少し怖い。
でも。
赤を入れるなら、きっとこうだ。
0:00。
一歩目、少し硬い。
0:05。
横の戦友を見る。
0:08。
肩が落ちる。
0:12。
空気が変わる。
そして。
0:15。
楽しい。
その瞬間だけは、赤ではなく、丸をつけたいと思った。