元アイドルの赤ペン配信 作:ひまんちゅ
「……胃が痛い」
マネージャーは、会議室の隅で小さく呟いた。
目の前のテーブルには、資料が並んでいる。
ライブ映像。
配信の切り抜き。
SNSの反応。
コメント数の推移。
視聴者数のグラフ。
どれも、数字だけを見れば完璧だった。
上がっている。
伸びている。
広がっている。
現役トップアイドルの評価は、さらに高くなった。
パフォーマンスのレビューも好意的だ。
ファンの熱量も増している。
外部メディアも興味を持ち始めている。
普通なら、喜ぶべき状況だった。
普通なら。
「顔出しなしで他人の配信に出て、しかも踊って、しかも正体がほぼバレてるのは、普通ではないんですよ……」
マネージャーは、頭を抱えた。
隣でプロデューサーが資料を見ている。
「数字はいい」
「数字だけ見ないでください」
「パフォーマンスもいい」
「それはそうですけど」
「本人も楽しそうだ」
「そこが一番困るんです」
マネージャーは即答した。
そう。
そこが、一番困る。
怒れるなら、まだよかった。
危ないことをするな。
勝手に出るな。
イメージ管理を考えろ。
そう言えば済む。
でも、映像の中の彼女は、楽しそうだった。
ステージの上では見せない顔で笑っている。
いつもの完璧な笑顔ではない。
作られた表情ではない。
素の声で笑っている。
その相手は、元トップアイドル。
しかも、ただの元アイドルではない。
今もなお異常な精度で踊り、自分自身に赤ペンを入れ続ける人間。
そんな人と、彼女は並んでいる。
マネージャーは、もう一度胃を押さえた。
「胃が痛い……」
「さっきも言ってました」
「何回でも言います」
そこへ、ドアが開いた。
「お疲れさまです」
現役アイドルが入ってくる。
帽子を被り、マスクを外しながら、いつも通りの顔で座る。
いや。
いつも通りに見せている顔で座る。
だが、マネージャーには分かる。
少し浮かれている。
「……昨日、行きましたね」
「はい」
「配信に出ましたね」
「はい」
「踊りましたね」
「はい」
「コメント欄で“現役ちゃん”って呼ばれてましたね」
「はい」
「はいじゃないんですよ」
マネージャーは机に手をついた。
「あなた、現役トップアイドルなんですよ」
「知ってます」
「知ってる人の行動じゃないんですよ」
「顔は出してません」
「声で八割バレてます」
「名前は出してません」
「動きで九割バレてます」
「公式には言ってません」
「世間は公式より先に察します」
現役アイドルは、少し黙った。
反省しているようにも見える。
だが、その目は反省だけではない。
まだ、あの部屋にいる目だった。
白い壁。
鏡。
マット。
カメラ。
赤ペン。
彼女の中に、あの場所の空気が残っている。
「……でも」
現役アイドルが言う。
「踊り、よくなったと思いませんか」
マネージャーは、言葉に詰まった。
それは。
そうだった。
悔しいくらいに、そうだった。
ここ最近の彼女は、明らかに変わっている。
守りが薄くなった。
怖がらなくなった。
完璧にまとめるだけではなくなった。
ほんの少し崩れる。
だが、その崩れが表現になる。
ステージでの説得力が増している。
「……よくなってます」
マネージャーは、渋々認めた。
「ですよね」
「その顔やめてください」
「どの顔ですか」
「勝った顔です」
現役アイドルは、少し笑った。
プロデューサーも小さく笑う。
マネージャーだけが笑えない。
「でも、問題はあります」
「はい」
「まず、スケジュールです。深夜に行くのはやめてください。睡眠時間が削れます」
「はい」
「次に、移動です。一人で行かないでください」
「はい」
「あと、配信に出るなら事前に言ってください。こっちにも心の準備があります」
「心の準備」
「大事です。私の」
現役アイドルが、今度ははっきり笑った。
「マネージャーさん、胃が弱いですよね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「すみません」
謝っている。
でも、楽しそうだった。
マネージャーは深く息を吐く。
「……やめろとは言いません」
現役アイドルの顔が、少し変わる。
「いいんですか」
「よくはないです」
「どっちですか」
「よくはないけど、止めたらもっと悪くなりそうなんです」
それは、本音だった。
彼女は、あの配信を見つけてから変わった。
あの人と踊ってから変わった。
赤を入れられて、赤を入れて、削られて、削って。
その中で、確かに軽くなった。
現役トップアイドルとして背負っていたもの。
センターとして守っていたもの。
崩れてはいけないと思っていたもの。
それらが、少しだけ動いた。
マネージャーは、それを壊したくなかった。
「ただし」
マネージャーは、指を立てる。
「条件があります」
「はい」
「無茶しない」
「はい」
「仕事に穴を開けない」
「はい」
「体調を崩さない」
「はい」
「危ない発言をしない」
「はい」
「元トップさんを困らせない」
「それは多分、向こうの方が私を困らせます」
「それは知ってます」
即答だった。
会議室に、少しだけ笑いが起きる。
現役アイドルは、ふっと肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
その声は、ステージ上のものではなかった。
マネージャーは、また少し胃が痛くなった。
こういう声を聞くと、止められなくなる。
「それで」
プロデューサーが口を開く。
「次はいつ行くんですか」
「今日です」
「今日?」
マネージャーの声が裏返った。
「レッスン終わりに」
「ちょっと待ってください。私は今、条件を出したばかりですよね」
「だから、ちゃんと言いました」
「そういう意味ではないんです」
「移動はお願いします」
「そういう意味でもないんです」
現役アイドルは、真面目な顔で言う。
「今日はライブ映像の反省会です」
「配信で?」
「はい」
「何万人も見ている前で?」
「はい」
「トップアイドルのライブ映像を、一秒ごとに止めて赤ペンを入れるんですか」
「はい」
マネージャーは、両手で顔を覆った。
「胃が痛い……」
現役アイドルは、少し申し訳なさそうにする。
でも、目は輝いていた。
「でも、たぶん」
彼女は言う。
「もっとよくなります」
その言葉は、ずるかった。
マネージャーは、止める言葉を失う。
プロデューサーが、静かに笑った。
「送ってあげてください」
「私がですか」
「一番安全です」
「胃が痛いのに」
「胃薬を持って」
マネージャーは、しばらく黙った。
そして、深く息を吐いた。
「……分かりました」
現役アイドルが、ぱっと顔を上げる。
「ありがとうございます」
「ただし、帰りは絶対に連絡してください」
「はい」
「配信が長引いたら止めます」
「たぶん無理です」
「言い切らないでください」
「赤ペン始まると、止まらないので」
「知ってます」
マネージャーは立ち上がった。
スケジュールを確認する。
移動時間を計算する。
車を手配する。
胃薬の場所を思い出す。
仕事が増えた。
でも。
会議室を出る直前、現役アイドルが小さく呟いた。
「……今日、楽しみ」
マネージャーは、振り返らなかった。
代わりに、スマホを取り出す。
検索欄に入力する。
胃薬 即効性
そして、小さく呟いた。
「本当に、胃が痛い」
だがその声は。
ほんの少しだけ、笑っていた。