もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら   作:暇人

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話数が多くなってきたので、サブタイトルをつけてみました。


十話:マラソンゲーム

 

あの日、茜色の空の下で交わした約束から一月。

カレンダーは七月に入り、京都の街は容赦のない湿気と蝉時雨(せみしぐれ)の予感に包まれ始めていた。

 

呪術師として活動を始めて、三か月。庵歌姫は、まさに破竹の勢いであった。

実戦を重ねるごとに術式の練度は上がり、何より「理央の隣に立つのに相応しくありたい」という一途な向上心が、彼女の才能を開花させていた。その実績が認められ、歌姫は正式に準二級術師へと昇級を果たしていた。

 

だが、今彼女の隣に理央の姿はない。

 

「……やっぱり、一人だと静かすぎるわね」

 

歌姫は、手に持った古びた木箱——回収したばかりの低級呪物を見つめ、小さく溜息をついた。

理央は「外せない用事」があるとのことで、数日間の休暇を取っていた。

常に呪霊を祓い、研鑽を積んでいた彼がこうして公に姿を消すのは初めてのことだった。

 

そんな彼の不在中に下されたのが、「初の()()任務」である。

 

とは言え、任務の内容は廃村に安置された低級呪物の回収と、それに群がる雑魚の掃討。拍子抜けするほどあっさりと終わり、なんともやりがいのない任務だった。

 

不気味な静寂に沈む廃村の入り口、一台の黒いセダンが停まっていた。

その傍ら、車のドアに背を預けて立っていたのは、補助監督の七海陽子だ。

 

北欧の血を引く彼女の肌は、夜闇の中でも透き通るように白く、セミロングの柔らかな金髪が、山から吹き下ろす夜風に揺れてキラキラと光を弾いている。デンマーク人と日本人のハーフという彼女の立ち姿は、この禍々しい廃村の景色の中では、切り取られた絵画のようにどこか浮世離れして見えた。

 

「お疲れ様、歌姫ちゃん。初めての単独任務を完璧にこなすなんて、すごいじゃない!」

 

近づいてくる歌姫の足音に気づくと、陽子は慈愛に満ちた瞳を細め、穏やかな微笑みで彼女を迎えた。

 

「ありがとうございます。でも、相手が相手でしたから。それに理央もいませんし……なんだか、調子が狂っちゃいます」

「ふふ、そうね。……歌姫ちゃん、入学してから理央くんと一緒に任務をしてきたもんね」

 

陽子は手慣れた手つきで運転席へと乗り込み、歌姫を助手席へ促す。

夜の帷が下りた国道。歌姫は助手席に深く腰を下ろし、窓の外を流れる街灯の光をぼんやりと眺めていた。

 

 

「ねえ、歌姫ちゃん。……歌姫ちゃんのお家って、お祖母様が術師だけど、ご両親は術師じゃない一般の方よね?」

 

 ふいに投げかけられた問いに、歌姫は少し意外そうな顔をして隣を見た。

 

「ええ、そうです。普通の、ごく一般的な両親ですよ?」

 

陽子が前を見据えたまま、穏やかな、けれどどこか重みのある声で切り出した。

 

「……そう。じゃあ、歌姫ちゃんはどうして、こんな厳しい世界を志したのか……少しだけ、聞かせてもらってもいいかしら?」

「えっ?まぁ、いいですけど……」

 

歌姫は一瞬、意外そうな表情を浮かべた。いつも明るく、けれどどこか一線を引いて接してくれる陽子が、自分の核心に触れるような問いを投げかけてきたからだ。

歌姫は窓の外、遠くに光る街の灯りを見つめながら、記憶の底にある景色を手繰り寄せた。

 

「……私、中学生の頃に、ある呪術師の方に助けられたんです。呪霊に襲われた私と友達を、その人は当たり前のように守ってくれました」

 

 歌姫の脳裏に、あの日見た「守る背中」が浮かんだのだろう。彼女の瞳に、迷いのない、凛とした光が宿る。

 

「その背中を見た時、思ったんです。ああ、私は守られるだけの側でいたくないって。

誰かの絶望を、当たり前のように払拭できる……そんな『守る側』の人間になりたい。そう思って、高専の門を叩きました」

 

真っ直ぐな、一点の曇りもない正義感。

「誰かを守りたい」というその高潔な願いは、この呪術界において、時に呪いとなり深くその身を刻む刃になる。

 

(……ああ、やっぱり。この子は「そっち側」なのね)

 

陽子は意を決したように、ゆっくりと口を開いた。

 

「そっか、素敵な志ね。………ねぇ、歌姫ちゃん。私、初めて会った時に、補助監督を辞めたことがあるって、話したよね?」

 

陽子の穏やかな、けれどどこか湿度を含んだ声が、走行音だけの車内に響いた。

歌姫は助手席で少しだけ身を固くする。 初めて会ったあの日、理央に「陽子さんは一度辞めている」と教えられた際、彼女ははぐらかして、誤魔化していたはずだ。 

その陽子が、自らその話題を掘り起こしたことを歌姫は意外に思った。

 

「ええ、聞きました。……何か、深い事情があるんだろうなって勝手に思ってましたけど」

「ふふ、そんな大層なものじゃないわよ。……今、歌姫ちゃんが呪術師になった大切なきっかけを話してくれたでしょ?」 

 

陽子は優しく、けれどどこか寂しげな視線を歌姫に送った。 

 

「だから、今度は私の話も、少しだけ聞いてくれるかしら。……一方的に聞き出しちゃうのは、フェアじゃないもの」

「陽子さんの、お話……」

「そう。私が一度、この世界から逃げ出した理由」 

 

 陽子は前を見据えたまま、口元を緩めた。 

 

「私がね、補助監督を辞めた理由は建前を言えば色々あるけれど、本音は単純よ。……ただ、辛くなって、逃げたくなった。それだけなの」 

 

呪術師を導く補助監督という職。 そこで彼女が何を見たのか。歌姫は唾を飲み込み、隣の横顔をじっと見つめる。 

 

「元を辿れば、まだ私が補助監督になるずっと前……理央くんに出会った時のことから、話さなきゃいけないわね」

 

 


 

 

今から10年前、1992年。

当時、私は東京校在籍の三年生だった。

呪術師志望ではあったけど、等級は4級術師。術師としての才能は贔屓目に見ても底辺で、同期は次々と等級を上げて、後輩にも抜かれていく。

強面な先輩からは顔を合わせるたびに「お前には向いていない」「死ぬ前に辞めろ」と心配されていた。

 

けれど、当時の私は根拠のない希望的観測と薄っぺらなヒーロー願望を捨てきれない、意固地な子供だった。

そんな時、ある任務の現場で私は「彼」と初めて会った。

加茂家期待の新星が現場に来る、という噂は聞いていた。けれど、集合場所に現れた影を見て、私は自分の目を疑ったわ。

そこにいたのは、ランドセルを背負っているべき年齢の、小さな、小さな少年。

それが、一年前から術師として活動を始めているという、当時三級術師の加茂理央くんだった。

 

御三家の人たちといえば、私のような一般家系出身の術師を虫けらのように見下すのが常。

ましてや相手は、御三家の中でも特に保守派と言われる加茂家の血筋。

どれほど尊大な子供だろうと身構えていた私に、彼はあろうことか、深々と頭を下げた。

 

『初めまして。本日、共闘させていただきます加茂理央です。……未熟者ですが、足手まといにならぬよう努めますので、よろしくお願いします、陽子さん』

 

衝撃だった。

 

私のような、純日本人じゃない『ハーフ』で『4級術師』の『女』に対して、彼は一点の曇りもない誠実さで、丁寧な敬語を使ってきた。

御三家という異常な環境で異常でない価値観を持つ、その不思議さと言えばいいのか、そんな態度に私はすごく困惑した。

だけど、理央くんが優しい子だということはわかった。

 

 

 

 

そして、そんな理央くんと望む任務の内容は、郊外の廃病院に住み着いた低級呪霊の掃討。

事前調査ではせいぜい四級呪霊の群れ。

私一人でも、苦戦はしても死ぬことはない……はずの任務。

けれど、神様は残酷だった。

あるいは、当時の私の増長を、あざ笑っていたのかもしれない。

 

「任務は簡単なはずだった。でも、そこにいたのは二級呪霊。……四級の私じゃ、指一本動かせないほどの絶望だったわ」

 

遭遇した瞬間、理解した。

これは私に祓える相手じゃない。逃げることさえ叶わない。呪霊が振り上げた腕が、私の視界を真っ暗に染め上げた。

ああ、死ぬんだ。こんなところで、何も残せないまま。

そう確信して目を閉じた私の耳に、幼い子特有の高く、けれど凛とした声が届いた。

 

『――下がってください。ここは、僕がやります』

 

死を覚悟した私の前に、一人の少年が静かに割って入った。 まだ小さな、けれど揺るぎない背中。

その後の光景は、今でも鮮明に思い出せる。

理央くんは、自分よりも遥かに巨大な二級呪霊を相手に、冷徹なまでに洗練された動きで圧倒した。そして返り血を浴びながらも、圧倒的な実力差で呪霊を穿ち、あっさりと祓った。

 

呪霊の返り血に濡れたまま、理央くんはゆっくりと私の方を振り返った。

 

『陽子さん、お怪我はありませんか』

 

あんなに激しい戦いの直後なのに、彼の声は平静で、私の身を案じた。

 

肝心の私は、呪霊が祓われた安堵感よりも、自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。

遥かに年下の子供に守られ、震えていただけの自分。

そんな私の様子を察したのか、理央くんは任務の後で少しだけ言いづらそうに、けれど真剣な眼差しで口を開いた。

 

『陽子さん。その……差し出がましいようですが、術師より、補助監督という道を考えられてみてはいかがでしょうか』

 

自身よりもずっと年下の少年に守られ、挙句には気を遣われながら引導を渡される。

その経験は、私の幼稚なプライドを粉々に砕くには十分だった。

同時に、せめて彼のように死と隣り合わせで戦う者を、後ろから支えたいという新しい願いが芽生えた瞬間でもあったわ。

 

結局私はあの日を機に術師を辞めて、補助監督への転向を決意した。

 


 

「……それが、私と理央くんの始まり」

 

陽子は信号待ちのわずかな時間、ハンドルから手を離して自身の細い指先を見つめていた。

 

「……陽子さんが術師を辞めたのは、理央に……守られたから、だったんですね」 

 

歌姫の声は、夜風に混じってしまいそうなほど小さかった。

四級術師だった当時の陽子の苦しみ、そして自分より遥かに幼い少年に命を救われ、同時に引導を渡された瞬間の心中を察すると、胸の奥がキリキリと痛んだ。 

 

陽子はハンドルを握る手に力を込め、穏やかに口角を上げた。 

 

「フフッ……情けない話でしょ?」

「そんなこと……。だって、相手は二級呪霊だったんですよね? それに、理央だって陽子さんを傷つけたくて言ったわけじゃ……」 

「ええ、分かっているわ、歌姫ちゃん。あの時理央くんに言われなければ、私は今頃どこかの現場で無意味に命を落としていたはずだわ。私の人生を繋いでくれたのは、間違いなく理央くんよ」

 

陽子の言葉には、確かな救済の響きがあった。

 

「……理央は、昔から理央だったんですね。本当、なんであんなに私たち側というか……(うやうや)しいのか、不思議です」

 

歌姫がぽつりと零した言葉に、陽子は「そうね」と短く同意し、再びアクセルを静かに踏み込んだ。

夜の帳の中、黒い車体は滑るように京都の街へと戻っていく。

陽子の告白は、まだ始まったばかりだった。 

 

 


 

 

それから数年が経ち、私は正式に高専を卒業して補助監督になった。そして、私の仕事の多くは、あの時私を救ってくれた理央くんとの任務だった。

 

理央くんはまだ小学生で、本来なら友達と放課後の校庭を走り回っているような年齢。けれど彼は既に二級術師として、大人顔負けな強さで任務をこなしていた。毎回、傷一つ負わずに淡々と呪霊を祓って戻ってくる彼の姿を見て、私はどこかで安心していた。「彼なら大丈夫だ」って、勝手に神格化していたのかもしれない。

 

けれど、あの日。

いつものように、定型文の「気をつけて」という言葉と共に彼を送り出した、その任務で全てが変わった。

結論から言えば、理央くんは瀕死の重傷を負ってしまった。

現場から戻ってきた彼を見た瞬間、私の頭の中は真っ白になった。まだランドセルが似合うような小さな身体が、ボロ布のように血に濡れて、呼吸さえ絶え絶えになっている。その光景は、あまりにショッキングで、私の脳裏に焼き付いて離れなくなった。

 

何より耐えがたかったのは、彼に同行していた加茂家の術師たちの態度だった。

彼らは血を流す子供を前に、心配の欠片も見せなかった。それどころか、「情けない」「期待外れだ」と、死にかけている理央くんを口汚く非難した。

 

その時になって、私は自分の見込みの甘さを、思い知らされることになった。

 

当時の私は高専を卒業する過程で、同級生や後輩の術師たちの死を経験していた。だから新人なりに、担当した術師が傷つくことにも、時には死ぬことにも耐性があるつもりだった。

 

実際、自分を見下していた傲慢な御三家の術師が死んだとき、曲がりなりにも人が死んだというのに、心のどこかでスッキリした感覚さえ覚えた。

そんな醜い感情を持てる自分を、私は「呪術界という修羅場を歩んでいける、強い人間」なんだと、そう思っていたの。

 

でも、理央くんは違った。

私を慕ってくれた、可愛い弟のような少年。私の甥っ子と大して歳も変わらないほど幼い彼が、冷徹な一族に囲まれながら孤独に死にかけている。その姿を見せつけられたその瞬間、私の心は崩れ去った。

 

補助監督(わたし)の仕事は、術師を死地へと送り届け続けること。

それは私が死ぬまで延々と続くマラソンゲーム。

 

……その果てに待っているのが、理央くんのように清らかで、高潔な志を抱いた子たちの屍の山だと想像したら……怖くなった。足が震えて、一歩も前へ進めなくなった。

 

その後、私は逃げるように呪術界を去った。

 

 


 

 

呪術界から離れた私は、それから数年間ビルのオフィスで書類の山と向き合う、ごく普通の社会人として生きていた。

 

 

でも、そんな平穏を壊すように転機が訪れた。

私の甥っ子——七海建人(ななみけんと)が、将来呪術高専に入学するかもしれないという報せだった。

あの子は幼い頃から術式を自覚していたし、呪霊も見えていた。

けれど私は、あんな地獄に建人を関わらせたくなくて、あえて高専側には報告しなかった。建人自身にも「見えないふりをしなさい」と、呪文のように言い聞かせ続けてきた。

 

けれど、それで隠し通せるほどこの世界は甘くなかった。

とうとう高専の関係者に建人の存在がバレて、スカウトの手が伸びてしまった。……おまけに、あの子自身も術師になることに否定的ではなかった。

建人は、寡黙で少し無愛想だけれど、適当な性格の私の甥っ子とは思えないほど、真面目で優しい子だった。そんな子が、あの血生臭い世界に足を踏み入れようとしている。

 

 

それを聞いた瞬間、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは「補助監督への復帰」だった。

いいえ、それは嘘ね。理央くんの一件から逃げ出したあの日から、本当はずっと、頭の片隅にこびりついて離れなかったこと。

呪術界は常に人手不足……。戻ろうと思えば、方法はいくらでもあった。

 

 

それで悩んだ末に、私は復帰を決めたの。

それは建人のためというのも確かにある。

けれど、もう一つ……今度こそ、理央くんから逃げずに彼を支えたい。

そんな、自分勝手な贖罪の気持ち。

それが私が今ここに補助監督としている理由の全て。

 

 


 

 

「……ごめんなさいね。任務を終えたばかりのあなたに、こんな昔話を聞かせちゃって」

「いや、そんな謝らなくても……」

 

陽子はそう言い自嘲気味に笑った。その横顔には、かつて呪術界という終わりのない連鎖から脱落した自分への、消えない悔恨が滲んでいる。

 

「あなたには知っておいて欲しかったの。……話を聞いてくれてありがとう、歌姫ちゃん」

 

 陽子は一度ハンドルから手を離し、信号待ちのわずかな時間、歌姫を真っ直ぐに見つめた。

 

「長々と話しちゃったけど、結局私が言いたいのは……理央くんを気にかけて、本当にありがとうってこと。……それと」

 

 陽子の声が、一段と優しく、けれど断固とした響きを帯びる。

 

「歌姫ちゃん。あなたの正義感はとても尊いけれど、この世界にはそれを無残に踏みにじるような現実が、いくらでも転がっている。……もし、いつかその重みに耐えられなくなったら」

 

「術師をやめたっていいのよ。逃げることは決して、恥なんかじゃないわ」

 

 夜の静寂が、車内を包み込む。陽子は、呪術師としてではなく、一人の先達として、彼女の『逃げ道』を肯定した。

 

「……逃げるのが、恥じゃない?」

 

歌姫は思わず問い返した。立ち向かうことこそが正しいと信じて、がむしゃらに階段を登り始めたばかりの彼女にとって、それは意外な言葉だった。

 

「ええ。誰にだって、自分の心を守る権利はある。……止まることなく、削られ続けることだけが唯一の道じゃない。逃げることも選択肢にあっていいって私は、そう思うの」

 

陽子の言葉は、迷いのない強さを帯びていた。

それは、死地を駆け抜ける術師たちへの彼女なりの最大限の敬意。

命を投げ打つことが美徳とされる世界で、唯一「逃走」を肯定する大人としての、毅然としたスタンスだった。

 

けれど、その直後にこぼれた微かな吐息は、どこか自分自身を刺す刃のような、鋭い懺悔の響きを孕んでいた。

 

(……それでも。あの時、あの子を一人にして逃げた私だけは、一生許されることはないけれど)

 

歌姫に説く「逃げる権利」を、陽子は自分自身には決して適用していない。

術師の杖となるべき補助監督が、ボロ布のようになった少年を見捨てて背を向けた事実。その罪の刻印は、どれほど正しい理屈を並べても消えはしないことを、彼女は誰よりも知っていた。

 

 

 

 

歌姫は、窓の外を流れていく夜の輪郭をじっと見つめる。

この三ヶ月、彼女を取り巻く景色は驚くほどの速さで色彩を変えていった。任務をこなすたびに手応えを増していく自身の成長、準二級術師という確かな証。

そして何より、あの孤独な彼の隣に立ち、映画を一緒に見て、プリクラを撮り、ジャンクフードを頬張り、歌を重ねた、あの眩しいほどに幸福な時間。 

今はまだ、その全てが愛おしく、手放したくない宝物だ。

 

けれど、陽子が語った凄惨な現実が、いつかその輝きを塗り潰しにやってくるのかもしれない。

(……逃げても、いい)

 その言葉が、不思議と重荷を解いてくれた気がした。

 

 「逃げられない」、「逃げてはダメだ」、そう思うからこそ、人は思い詰めて苦しんでしまう。背後に『逃げ道』があるのだと知るだけで、人はもっと遠くまで、もっと高くへと羽ばたけるのだと。

 

歌姫は、小さく、けれど深い呼吸をひとつ吐き出した。胸の奥で燻っていた得体の知れない緊張が、夜風にさらわれて薄まっていく。

 

「……陽子さん。ありがとうございます。少しだけ……いえ、かなり、心が軽くなりました」

 

歌姫はそう言って、ようやく陽子の方へ柔らかな笑みを向けた。

 

たとえいつか、この道の先に絶望が待っていたとしても。

 

逃げる自由を握りしめたまま、彼女は明日も、あの少年の隣に立つために歩き続けると、そう彼女は誓った。

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