もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら   作:暇人

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十二話:照魔の世界

 

領域展開ーー照魔之蝕(しょうまのしょく)虚空転(こくうてん)

 

 

 

鏡面から膨れ上がった呪印が、階段の踊り場を異質な空間へと塗り替えていく。それが領域展開だと気づいた瞬間、理央の脳裏には瞬時に二つの選択肢が浮かんだ。

 

一つは『秘伝・落下の情』を展開し、自身に降り注ぐであろう必中効果を迎撃すること。

そしてもう一つは、領域が完全に構築され必中効果が発動する前に、元凶である鏡を破壊することだ。

 

(術式の構築完了まで数秒……歌姫を確実に圏外へ逃がす時間は残されていない!)

 

理央は迷わず後者を選んだ。

それはひとえに、隣に歌姫という存在がいたからだ。自分一人の身を守るだけなら迎撃でも事足りる。しかし領域対策がない歌姫を正体不明の必中効果から確実に守り抜くには、領域の起点そのものを叩き潰す他ない。

 

(領域が完成する前に、この鏡ごと呪印を叩き割る――!!)

 

理央は地を蹴り、呪力を込めた右拳を鏡面へと叩き込もうとした。

だが、そこには致命的な誤算があった。

 

(――速すぎる……!)

 

理央の拳が鏡に届くよりも早く、視界の端々から鏡の壁がせり上がっていく。

それは手鏡のような小ぶりなものから、姿見、さらには壁一面を覆うような巨大なものまで。ありとあらゆる種類の鏡が組み合わさり、無限に続く合わせ鏡の世界を形成していく。

 

この領域は、命を確実に刈り取るような「必殺」の機能を持たない。

純粋な「必中」の領域。

故に、その構築速度は並の領域の比ではなかった。

そして、歌姫の頭上に巨大な鏡の断片が出現する。

 

「理央――っ!」

 

ドォォンッ!!

 

歌姫の声が、鏡が叩きつけられる轟音にかき消される。

凄まじい速度で落ちた鏡は、歌姫の身体を飲み込むようにして地面へと激突し、光を放った。

直後、完成したはずの領域があっさりと崩壊し、景色は元の階段の踊り場へと戻る。

静まり返った空間に、理央一人だけが取り残されていた。

 

「歌姫……?」

 

呼びかける声に応える者はいない。

壁に嵌め込まれた鏡は、何事もなかったかのように平穏な校舎の風景を映し出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌姫は底の見えない暗転から意識を浮上させた。

領域の必中効果を食らった瞬間、肉体的な衝撃や痛みといった違和感は皆無だった。ただ、目の前が真っ白な光に包まれ、次の瞬間には――

 

「……っ、痛たた……」

 

背中に伝わった、硬く冷たい床の感触。

床に打ち付けられた衝撃に、歌姫は顔を顰めながら背中をさすり、ゆっくりと上体を起こして周囲を見渡した。

 

「ここは……」

 

そこは、先ほどまで調査していたはずの階段の踊り場だった。しかし、何かが決定的に違う。

ここは右側が下へと続き、左側が上へと昇る階段であったはずだが、今はその配置が完全に反転していた。

 

「階段が……逆に?」

 

それだけではない。壁に貼られた掲示物の文字も反転し、空は禍々しいほどに暗く淀んでいた。

校舎全体が嫌な静寂に支配されている。

歌姫は困惑しながらも、自身の置かれた状況を分析し始める。

 

「鏡の中の世界……ってこと? 呪霊のくせに随分メルヘンな術式ね……」

 

強がって皮肉をこぼしてみるが、胸のざわつきは収まらない。辺りを見渡しても、頼れる同級生である理央の姿はどこにも見当たらなかった。

相手は領域を展開できたことから、特級呪霊である可能性が高い。そんな怪物を相手にたった一人、この異界に取り残された事実に歌姫は一瞬だけ足がすくむような不安を感じた。

 

(……ダメ。しっかりしなさい、私!)

 

歌姫は自身の頬を両手で強く叩き、理央に甘えようとした心に喝を入れ直す。

いつまでも守られる側のままではいられない。

呪術師として、そして理央の隣に立つ者として今の自分にできることをやるしかないのだ。

 

「とにかく、じっとしてても始まらないわね」

 

巫女装束の裾を払い、歌姫は反転した階段を一段ずつ慎重に降りていく。

すると、静まり返った廊下の奥から押し殺したような啜り泣きと、粘り気のある不気味な音が聞こえてきた。

 

(……今の泣き声……誰かが呪霊に追い詰められてる!?)

 

胸の鼓動が早まる。もし、行方不明の生徒がまだ生きているのなら一刻を争う。歌姫は理央が隣にいない不安を無理やり奥底へ押し込めた。

 

(怖がってる暇なんてないわ。助けるのよ、私が!)

 

角を曲がった先、視界に飛び込んできたのは、床にへたり込む短い黒髪の少女だった。その眼前では軟体動物のような醜悪な呪霊が、細長い舌を伸ばして獲物を品定めするように蠢いている。

 

「――そこまでよ!」

 

歌姫は思考より先に体が動いていた。鋭い踏み込みとともに跳躍し、無防備な呪霊の側頭部へ渾身の飛び蹴りをお見舞いする。

 

「はぁっ!」

 

呪力を乗せた一撃は見事に命中し、呪霊は悲鳴を上げながら壁へと叩きつけられ、黒い霧となって霧散した。

 

「……ふぅ。大丈夫? 怪我はない?」

 

歌姫は荒い呼吸を整えながら、腰を抜かしたままの少女に駆け寄り、優しく手を差し伸べた。

 

「う、あ……ああぁっ……!」

 

言葉にならない嗚咽を漏らしながら、歌姫の巫女装束を力任せに握りしめる。小さな肩が激しく震え、必死に温もりを求めるように顔を押し付けてくる少女の体温と心音が、歌姫へと伝わった。それはあまりに切実で、生々しいまでの恐怖の残響だった。

 

「……怖かったわね。でも、もう大丈夫よ」

 

歌姫は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに表情を和らげると、少女の背中を優しく包み込むように抱きしめた。

そのとき、密着した少女の顔を間近で見た歌姫の脳裏に、車内で陽子から見せられた資料の画像がフラッシュバックする。

 

「……あなた、もしかして。逆井サキちゃん?」

「……っ、ひぐっ……どうして、私の、名前……」

 

少女の声は震えていたが、その反応は間違いなかった。行方不明になっていた三人の中学生のうちの一人だ。

 

「よかった……。私は、庵歌姫。あなたたちを助けに来たの。……一人、じゃないわよね? 他の子たちはどこにいるか分かる?」

 

歌姫は努めて明るく、安心させるように微笑みかけた。

 

サキは震える手で涙を拭い、途切れ途切れに状況を話し始めた。

 

「……タクヤくんと、アイちゃんは……別のところに。私たち、数日前に突然、鏡から伸びてきた手に引きずり込まれて……気づいたら、ここにいたんです」

 

数日間。その言葉に歌姫は息を呑んだ。外の世界では一瞬の出来事でも、この領域内では永い時間が経過している可能性がある。中学生の子供たちが、食料も水もない異界でどれほどの恐怖に耐えてきたのか。

 

「化け物が……あちこちを歩き回っていて。みんなで、三階の校長室に立てこもっているんです。入り口を机で塞いで……。私は、食べ物とか、使えそうなものを探しに外に出て……」

「そっか……。あなた、一人でそんなに頑張ったのね。偉かったわ」

 

歌姫はサキの頭を優しく撫でてその勇気を称えた。同時に、状況の深刻さを再認識する。校長室にいる二人の体力も限界に近いはずだ。

 

「じゃあ今からみんなのところへ行きましょう。私が必ずみんなを連れて帰るから」

 

歌姫はサキの小さな手を力強く握りしめた。鏡の世界の不気味な静寂の中、反転した校庭からは、時折呪霊の囈言(うわごと)や何かを引きずる嫌な音が風に乗って聞こえてくる。

 

(校長室……三階ね。理央と合流するまで、何としてもこの子たちを守り抜かないと)

 

サキの案内で影のように蠢く呪霊たちの視線を避けながら、二人は薄暗い廊下を急いだ。反転した校舎の構造に眩暈を覚えそうになりながらも、ようやく辿り着いた三階の校長室。

 

重い扉を開けた先に広がる光景に、歌姫は思わず顔を歪めた。

 

「タクヤくん! アイちゃん! 助けを連れてきたよ!」

 

サキの呼びかけに、部屋の奥で力なく動く影があった。

 

「サ…キ…?」

 

ソファーで横になっている男子生徒、雲出タクヤ。その腕や足には、千切った布切れや古びた絆創膏が(つたな)く貼られ、血が滲んでいた。

 

「……ひどい傷。サキちゃん、何があったの? この怪我は……」

 

問いかける歌姫の声に、サキが消え入りそうな声で応じる。

 

「……タクヤくんは、この世界に来てからずっと私たちの代わりに物資を探して持ってきてくれてたんです。でも、数日前に化け物に襲われて……こんなことに……」

「それから、アイちゃんも一歩も動けなくなって……」

 

 

部屋の隅、デスクの陰で頭を抱えてうずくまっている茶髪の女子生徒が反田アイだった。彼女は歌姫たちの入室にさえ反応せず、自身の耳を塞ぐように強く頭を抱え、ただ小刻みに体を震わせている。その拒絶するように丸まった背中は、彼女の心がすでに限界を超えていることを物語っていた。

 

「……それで、私が、行くしかなくて」

 

サキの声が、部屋の空気をいっそう重くした。負傷したタクヤの代わりに、サキが危険を承知で外へ出なければならなかったという過酷な現実。

力もない中学生の子たちが、この地獄のような反転世界でどれほど身を削ってきたのか、その傷跡が現実として目の前に突きつけられていた。

 

「大丈夫よ、みんな。私が来たからにはもう安心だから」

 

歌姫は励ますように声を出し、タクヤの傷の状態を確認するために歩み寄った。だが、元気づけようと言葉を紡げば紡ぐほど、舌の根が乾いていくのを感じる。

 

(私は……どうすれば……)

 

傷ついた少年、心が折れた少女、そして折れそうな心を必死に保つ少女。事態の深刻さは増していくばかり。目の前の三人を守らなければならない責任の重さが、歌姫の肩にのしかかる。

自分に、この強固な結界を内側から打ち破る術などあるのだろうか。

 

もし、このまま誰にも見つけられず、一生この反転した世界から出られなかったら。

三人の子供たちと共に、鏡の世界で朽ちていく未来が脳裏をよぎり、歌姫の背中に嫌な汗が流れた。

 

だが、歌姫は自分の震える指先を隠すように、強く拳を握りしめた。

 

(――何弱気になってるのよ、私。この子たちは、ずっとこうして絶望と戦いながら、今日まで必死に生きてきたんじゃない)

 

(理央がいないから? 術式の全容が分からないから? そんな弱音は、私がここで立ち止まっていい理由にはならない)

 

(私は呪術師。もう、誰かの背中に隠れて震えてるだけの庵歌姫じゃない。きっと理央が外で出口を探してる。なら、私は中でこの子たちの『盾』になる。……それくらい、やってのけなさいよ!)

 

三人の子供たちの絶望を背負い、庵歌姫はただ一人の呪術師として、この異界に立ち向かう決意を固めた。




一応、領域展開後にも関わらず鏡の世界が維持されているのは、「領域の展開時間を極限まで短くする」という縛りによって、術式の焼き切れを防いでいるからです。真人が領域展開後に術式の焼き切れではなく使用困難になってるので、そもそも呪霊に術式の焼き切れという概念があるのかは分かりませんが……
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