もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら 作:暇人
歌姫は三人に自分の正体を明かした。
自分は「呪術師」という特殊な仕事をしていて、校内を徘徊している化け物は「呪霊」と呼ばれる人間の負の感情から生まれた存在であること。
そして、今自分たちがいる場所は、その呪霊が作り出した特殊な空間であることを。
(……とりあえず、ここに閉じこもっていても状況は変わらないわ)
「私は他にも使える物資がないか見てくるわ。タクヤくんとアイちゃん、サキちゃんはここでしっかり休んでいて」
歌姫が立ち上がると、それまで隣にいたサキが服の裾をぎゅっと掴んで顔を上げた。
「歌姫さん、私も……私も一緒に行きます」
「ダメよ。外は危ないし、あなたはここで二人の側にいてあげて」
歌姫は即座に首を振ったが、サキの瞳には強い意志が宿っていた。
「でも、この学校はすごく広いんです。反転してて構造もややこしいし、どこに何があるか分かっている案内役がいないと、歌姫さんだって迷っちゃいますよ?それに……私、非常用の備蓄品がある場所知ってます」
小さな体で必死に訴えかけるサキの言葉に、歌姫は口を
その上、今のタクヤたちの状態を考えれば、一刻も早く物資を確保し、脱出の糸口を見つける必要がある。
「ハァ……分かったわ。ただし、私の指示には絶対に従うこと。いいわね?」
「……はい!」
歌姫は渋々ながらも了承する。
二人に留守を預けて、サキと共に再び廊下へと踏み出した。
サキの案内に従い、二人は呪霊の気配に細心の注意を払って、非常時の備蓄品が貯蔵されているという特別教室を目指した。
二人は息を潜め、影に身を隠しながら進む。サキは歌姫の手をぎゅっと握り、そして不意に背後を振り返りながら小さな声で切り出した。
「……歌姫さん。さっき、助けに来たって言ってたけど……もしかして、一人で来たんですか?」
暗い廊下で、サキの瞳に不安の色が混じる。歌姫は優しく首を振り、心強い相棒の存在を口にした。
「いいえ、もう一人。理央って奴と一緒に来たわ。今は……ちょっと、はぐれちゃってるけどね」
「理央さん……? どんな人なんですか?」
サキの問いに、歌姫は少しだけ遠くを見るような目をし、自然と口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
「そうね……すごく優しい奴よ。理央は、家の関係で小さい頃からずっと術師をやってるの。だから、経験も知識も強さも、全部私なんかよりずっと上」
歌姫は、理央がどれほど冷静に戦場を見極め、迷いなく行動できるかを知っている。
「もし……もしも私がダメだったとしても、理央が外にいるから、絶対に諦めないで。理央なら何とか出口を見つけて、助け出してくれるはずだから」
「……歌姫さんがそこまで言うなら、本当にすごい人なんですね」
サキは少しだけ表情を和らげた。歌姫自身も理央のことを話すことで、張り詰めていた緊張が少し楽になるのを感じた。
そしてしばらく2人で校内を進むと、サキが廊下の先にある扉を指差す。
「……歌姫さん、あそこです。あの角を曲がった突き当たりが備蓄庫です」
サキが指を差した先には、重厚な木製の扉が佇んでいた。
二人が備蓄教室に足を踏み入れると、備蓄品が入っているであろうたくさんの段ボールが高く積み上がっていた。
「あったわ……。サキちゃん、手伝って。保存食と水、それからタクヤくんの傷に使える医療品を優先して詰め込みましょう」
「はい!」
歌姫は手際よく棚の扉を開け放ち、中身を確認していく。整然と並んでいる備品も、この世界ではラベルの文字が反転し、どこか不気味な呪具のように見えた。
(……よし、これで数日は凌げるはず。でも、私たちの目的はここで生き延びることじゃない。……脱出すること)
歌姫は重くなった袋を肩にかけ、視線を教室の全体に走らせる。
「一刻も早く出口の手掛かりを見つけないと。
……一応この教室も見てみるわよ、サキちゃん。変なものがあったらすぐに教えて」
歌姫はそう言うと、反転した教室を片っ端から調べ始めた。
サキもそれに倣い、震える手で段ボールの隙間や教卓の引き出しを覗き込んでいく。
「歌姫さん、こっちは特に変わったものは……」
サキが不安げに振り返り、歌姫の顔色を窺うように言葉を濁した。歌姫はその声に振り返り、安心させるように小さく頷く。
「そう……分かったわ。無理しなくていいから、サキちゃんはそこに――」
言いかけた歌姫の言葉が、ふと止まった。
視界の端、教室の隅にある清掃用具入れの扉が、夕闇を跳ね返すように鋭く光った。
(……あ、ここにも鏡があるわね)
教壇の脇、清掃用具入れの扉に掛けられた鏡。歌姫が何気なく遠目でその鏡を覗いた、その瞬間。
「――えっ!?」
歌姫は息を呑み、思わず鏡に駆け寄り顔を近づけた。
鏡の向こう側――そこに映っていたのは、反転したこの世界の景色ではない。文字も景色も正常なままの、現実の教室だった。それだけでなく景色の中に見覚えのある制服の影が映っていた。
「理央!? 理央なのね!?」
歌姫は慌てて鏡へ駆け寄り、その表面を叩いた。すると、鏡の向こう側の理央が、顔を上げ、こちらを凝視する。
「……歌姫! 歌姫ですか!?」
鏡を隔てて、二人の視線が重なる。
「理央、無事だったのね! そっちは今、どうなってるの?」
「……この人が、理央さん……?」
歌姫が必死に問いかけると、理央は鏡越しに苦渋の表情を浮かべた。
「あの後領域は崩壊しました。ですが……歌姫を連れ去った後の鏡を調べても何もわからなくて、正直途方に暮れていました」
理央のその言葉に、歌姫は冷や汗が流れるのを感じる。現実世界から見ても、校舎の鏡たちは完全に沈黙しているのだ。
「……こっちは鏡の中の世界よ、理央。多分術式だと思うけど、構造も文字も全部あべこべ。あと、こっちで行方不明だった三人の生徒も見つけたわ。一人は負傷してるし、一人は精神的に参ってる。一刻も早く、ここからみんなを連れ出さないと……!」
理央は歌姫の焦燥に満ちた説明を聞き、少し考え込む仕草を見せた。やがて、彼は意を決したように語り始めた。
「なるほど。歌姫、あなたの話を聞いて思い出しました。
以前、実家の書庫にある古い文献で、これと酷似した事例を読んだことがあるんです」
「……文献? じゃあ、この状況の正体が分かるの?」
理央の声には確かな理知が宿っており、その落ち着き払った様子に歌姫は身を乗り出して話を聞く。
「今回の呪霊、おそらく名は『
「雲外鏡……仮想怨霊ってやつね……。ねぇ理央、これだけの規模の術式を展開して維持してるなら、その呪霊……雲外鏡はやっぱり……『特級』ってことよね?」
歌姫の問いに、鏡の中の理央は一瞬の淀みもなく、ごく自然に頷いてみせた。
「特級……。そうですね、そのくらいだと思います。それだけの格があるからこそ、これほど精緻な『反転世界』を生成できるんでしょう」
「そして……文献によれば、引き摺り込んだ人間を、その世界で飼い慣らしている『別の呪霊』に喰らわせる……そんな性質を持つ呪霊だったと思います」
「自分じゃなくて他の呪霊に殺させるってわけ?最悪ね……」
歌姫は不快感に顔を歪めたが、すぐに気を取り直して理央に問いかける。
「ねえ理央。記録に残っているなら、何か弱点とか脱出する方法は書いてなかったの?」
「ええ。文献には、当時この世界に引き摺り込まれた術師が、内部にある『
「楔……? それが脱出の鍵ってこと?」
「はい。これほど広大な空間を維持するには、特級といえど相応の『縛り』が必要なはずです。その縛りの核となる楔を壊せば、鏡の世界は崩壊し、脱出できる……。そういう理屈だと思います」
「なるほど、理には適ってるわね。……で、その楔って具体的に何なのよ」
「数百年前の記録では、その鏡の世界で『最も巨大な鏡』が楔になっていたそうです。それを割ることで、すべてを解決した……と書いてありました」
「……一番大きい鏡。もしかして」
巨大な鏡。その言葉を聞いた瞬間、横で話を黙って聞いていたサキは何かを確信したようだった。
「歌姫さん、礼拝堂の鏡です!」
「え?礼拝堂?」
歌姫は唐突に声を出したサキに目を丸くする。
「この学校の礼拝堂には、信者の方たちが寄贈した、すっごく大きい鏡があるんです! 背丈の何倍もあるような、立派な鏡が……!」
サキの必死な訴えに、歌姫の中でバラバラだったパズルのピースが音を立てて繋がった。
(そっか、確かにあそこなら……)
反転したこの世界でも、あの礼拝堂は一際異彩を放って聳え立っている。確かにあれほど目立っている場所に楔があるのなら、これほどの術式を維持する縛りになるのだろう。
サキの言葉に、鏡の向こうの理央が深く同意するように頷く。
「なるほど。礼拝堂の鏡がそこまで大きいなら、おそらくそれが楔でしょう。それを破壊すれば、術式は解け、歌姫たちも現実世界へ戻れるはずです」
「そう、そっか。よし!……決まりね。礼拝堂へ行って、その鏡を叩き割る。これが私たちの出口!」
歌姫はサキの手を強く握り直し、鏡の中の理央を見つめた。
「理央、今からみんなを連れて礼拝堂に向かうわ。鏡の向こうで、ちゃんと待ってなさいよ!」
理央は鏡の向こうで優しく微笑み、「信じています」と短く答えた。
「……くそっ」
静まり返った階段の踊り場で、理央は毒づきながら拳を鏡面に押し当てた。
先ほどまで呪印を浮かべ、歌姫を飲み込んだはずの鏡は、今は何事もなかったかのように風景を映し出している。呪力を流し込んでも、異界への門が開く気配は微塵もない。
(……完全に、遮断された)
理央は苦渋に満ちた表情で鏡から手を離した。
おそらくこの鏡自体は、呪具でも呪霊でもない。
呪霊が術式をこの鏡に作用させているだけなのだろう。
理央は焦る心を抑えつけ、校内の鏡をしらみつぶしに確認するため、足早に階段を降りた。
すると降りた廊下の奥で倒れている人影が視界に入った。
「……?」
理央は警戒しつつも、その影へと駆け寄る。
(この子は……)
そこにいたのは、この学校の制服を着た一人の女子生徒だった。床に力なく倒れ、意識を失っている。
「大丈夫ですか? 気をしっかり持って」
理央が肩に手をかけ、穏やかに声をかける。
すると、少女はビクリと肩を震わせ、目を覚ましてゆっくりと顔を上げた。
焦点の定まらない瞳で周囲を激しく見渡すと、掠れた声でポツリと呟いた。
「ここは、元の……学校?……私、は……戻ったの?」
その言葉に含まれた「戻った」という響きに、理央は嫌な予感がした。
理央は彼女の目線に合わせ、静かに問いかけた。
「落ち着いてください。僕は、君たちを助けに来た呪術師です」
「……じゅじゅつ、し……?」
その呟きは、初めて耳にする単語をなぞるような、純粋な困惑に満ちていた。
「僕については後で説明します。……まずは、君の名前を教えてくれますか?」
理央は穏やかに問いかけた。ショック状態にある人間に対し、自己のアイデンティティを自覚させるためのごく初歩的な確認だ。
少女は震える唇を噛み締め、涙を浮かべながら答えた。
「私は……逆井サキ……です」