もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら   作:暇人

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十四話:照魔の真実

 

 

「……逆井サキ、です」 

 

振り絞るようなその声と、縋るように顔を上げた女子生徒の姿を見て、理央は彼女が資料にあった行方不明の生徒の一人であると確信した。

 

「サキさん、落ち着いて。……あなたが消えてから、今日で3日目になります。今まで、どこにいたんですか?」

 

理央の問いかけに、サキは震える唇で事の顛末を語り始めた。

補習の休憩時間にこの階段を通りかかった際、突然鏡の中へと引きずり込まれたこと。気づいた時には、文字も景色もすべてが反転した世界にいたこと。

そこで同じ境遇の「タクヤ」と「アイ」、二人の生徒と合流し、今日まで必死に生き延びてきたこと。

 

サキは仲間たちのために物資を探して校内を移動していたところ、再び鏡に引きずり込まれる感覚に襲われ、意識を失っていたという。

 

「なるほど、そういうことだったんですね……」

 

(呪霊が徘徊する鏡の世界、そしてあの呪印、間違いない……) 

 

理央の脳裏に、かつて加茂家の書庫で目にした古い文献が浮かぶ。 加茂家は代々呪術上層部と根が深く、書庫には過去に発生した仮想怨霊の記録が数多く遺されている。 幼い頃からそれらを読み解くことを義務付けられていた理央にとって、この事象の黒幕は既知のものであった。

 

(この事件の黒幕……それは、特級仮想怨霊『雲外鏡(うんがいきょう)』だ) 

 

雲外鏡は過去一度しか出現が確認されていないが、その討伐過程で甚大な被害を出した極めて危険な仮想怨霊。

術式によって構築された鏡の世界に、現実世界の鏡を接続点として人間を引きずり込む。

引きずり込まれた者は鏡世界にある『楔』を破壊すれば元の世界に戻ることができる。

 

(だけど、問題はそこだ)

 

楔を破壊すれば脱出できる、それ自体は正しい認識だ。

問題は、雲外鏡が高い知能と擬態能力を有しており、過去に取り込まれた術師たちを狡猾に欺いてきた点にある。

具体的には、かつて雲外鏡は鏡世界に取り込んだ術師に紛れ、「巨大な鏡が楔だ」という嘘を吹き込んで、術師自らにそれを破壊させたという記録がある。

 

「サキさん。聞いてばかりですみませんが、鏡の世界で巫女装束を着た女性を見かけませんでしたか?名前は庵歌姫というのですが」

 

サキは弱々しく首を横に振る。

 

「……そんな人は、知りません」

 

その言葉を聞き、理央の推測はいよいよ確信じみたものになる。

 

(やはり……雲外鏡がサキさんを現実世界に解放したのは、鏡世界でサキさんに擬態するためで間違いない)

 

雲外鏡は、一度取り込んだ物質を鏡世界で複製することができる。反転しているという点を除けば、その質感や容姿は本物と遜色がないほど精巧だ。

 

ただし、その能力には明確な縛りがある。

鏡世界において、複製する人間本体と複製体は同時に存在することができないのだ。歌姫を欺く「複製」を創るため。それこそが、サキが現実世界へ吐き出された理由だった。

 

「サキさん、もう一つだけ教えてください。あなたは鏡の世界で、どのくらいの時間を過ごしましたか?」

「えっと……たぶん、四、五日くらいだと思い、ます……」

 

理央はその返答に、明らかな違和感を覚える。サキは鏡の世界で四、五日を過ごしたと語っているが、彼女たちが行方不明になってから経過した日数は二日間ほど。今日でようやく三日目である。

 

(鏡の世界は時間の流れが早い……? 記録にはそんな情報はなかった……。マズイ、歌姫が鏡の世界に入ってから何分経った? サキさんの言っている日数が正しいなら、少なくとも向こうでは二倍程度の速度で時間が流れているはずだ。急がなければ本当に手遅れになる)

 

理央は焦燥を押し殺し、目の前の少女に尋ねる。

 

「サキさん……あなたたちは基本的に、校長室に隠れていたんですよね」

「……はい」

 

それを聞いた理央は、校長室へ向かおうと決意する。

だが、意識を取り戻したばかりのサキを、いつ呪霊が出現するかもわからないこの場所に一人残していくわけにもいかない。

 

「僕は今から校長室へ向かいます。……ついてこられそうですか?」

「は、はい、行けます……」

 

理央が問いかけると、サキは頷いて壁に手をつき、自力で立ち上がろうとした。しかし、ひどく辛そうに顔を歪めると、足に力が入らずその場に力なく崩れ落ちてしまう。

 

「ごめんなさい、すぐに……っ。すぐ立ちますから……」

 

彼女の顔色は土気色で、ひどく脂汗をかいており、呼吸も浅く荒い。無理もないことだった。長い間、濃密な呪いに直接当てられ続けていたのだ。非術師である彼女の肉体と精神が極度に衰弱しているのも仕方のないことだった。

 

「いえ、無理をさせてすみません。……冷静さを欠いていました」

 

理央は静かにそう告げると、へたり込むサキの背中と膝裏にすっと腕を回し、優しく抱え上げた。

 

「あっ……」

「少し揺れますが、我慢してくださいね」

 

驚きに小さく声を漏らすサキへ気遣うように声をかけると、理央は彼女を抱えたまま、校長室へ向かって足早に移動し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一方、鏡の世界――。

歌姫とサキは、水や非常食などの備蓄品を抱え、タクヤたちが待つ三階の校長室へと戻ってきていた。

 

「……っ!」

 

歌姫は咄嗟にサキの前に腕を出してその歩みを止めさせた。隣にいたサキは恐怖で顔を青ざめ、持っていた備蓄品の袋を落としそうになるのを必死に堪えながら、体を震わせる。

 

校長室の前に着いた歌姫たちの目に飛び込んできたのは、重厚な扉をドンドンと力任せに叩き続ける呪霊の姿だった。

ドスン、ドスンと、鈍い音が廊下に反響する。

 

「……あけ、て……あけ、てよォ……どうして、いれて、くれないのォ……」

 

数日間も同じ場所に隠れ続けていたせいで生者の気配がバレてしまったのか、それとも単なる気まぐれで扉をこじ開けようとしているだけなのか。確かな理由は分からない。

一つだけはっきりしているのは、このまま扉が破られれば、中で息を潜めているタクヤとアイの命はないということだ。

 

(……やらせるもんですか)

 

歌姫はサキにその場で待機するよう手で合図を送ると、足音を殺して呪霊の背後に忍び寄る。

扉を壊すことに執着している呪霊の意識は完全に前方へ向いており、背後からの接近には全く気づいていない。

十分な間合いに入った瞬間、歌姫は床を鋭く蹴った。

 

呪力を練り上げた拳を構え、呪霊の死角から一気に跳躍する。

 

「はぁっ!」

 

気合いと共に放たれた渾身の不意打ちが、呪霊の急所を的確に打ち抜く。

メキィッという鈍い音と共に呪霊の体勢が大きく崩れた。歌姫はその隙を見逃さず、追撃の蹴りを叩き込む。

 

「ギ、ェッ……!? あ、アガ、ガガガッ!!」

 

たまらず床に叩きつけられた呪霊は、そのまま黒い塊となって霧散し、跡形もなく消え去った。

 

急いで校長室の扉を開けると、そこには息を潜めるタクヤとアイの姿があった。

扉を叩く呪霊の脅威が去ったこと。そして、歌姫とサキが無事に帰還したこと。それらを理解したタクヤは、糸が切れたように安堵の息を吐き出す。

 

しかし、部屋の隅にうずくまるアイは違った。彼女は膝を抱えたまま、大粒の涙を流して小刻みに震えている。歌姫が心配してそっと近づいた、その時だった。

 

「なんで……っ!」

 

アイは突然顔を上げ、歌姫の胸元をポカポカと叩き始めた。

 

「なんでもっと、早く来なかったのよぉ……ッ!」

 

アイは感情を爆発させた。泣き叫びながら、救助が遅かったことへの怒りを歌姫にぶつける。

だが、歌姫に降りかかるその拳には何の勢いもない。まるで死にかけの病人のように、ひどく弱々しいものだった。

 

歌姫は降り注ぐ拳を避けることも、止めることもしない。ただ真っ直ぐにアイの怒りを受け止め、その震える体を力強く抱きしめた。

 

「ごめんね……もう大丈夫だから」

 

アイが泣き疲れて落ち着くまで、歌姫は優しく背中を撫でて宥め続けた。

 

 

 

 

その後、アイが落ち着きを取り戻したのを見計らい、歌姫は先ほど備蓄庫の鏡越しに理央から教えてもらった情報をアイとタクヤの二人に伝えた。

 

「そういうわけで、礼拝堂にある一番大きな鏡……それを壊せば、この世界から抜け出せるわ」

 

その言葉を聞いた瞬間、絶望に沈んでいた二人の顔にパッと明るい希望の光が差し込んだ。

 

「本当ですか!? じゃあ、すぐに行きましょう!」

「これで、やっと帰れる……!」

 

二人は喜びに声を弾ませる。しかし、歌姫の表情は険しいままだった。礼拝堂の鏡を壊すこと自体にはもちろん賛成だが、先ほどの状況が彼女の心に重くのしかかっていた。

 

(この校長室も、呪霊に勘付かれ始めてる。もし私が礼拝堂に行っている間に別の呪霊が来たら、戦えないこの子たちは確実に殺される)

 

歌姫は真剣な眼差しで三人の生徒たちを見渡した。

 

「サキちゃん、アイちゃん、タクヤくん。三人にも、私と一緒に礼拝堂まで来てほしい」

 

その提案に、アイとタクヤは一瞬にして顔を青ざめさせた。再び呪霊がうごめく廊下を歩く恐怖に息を呑み、互いの顔を見合わせる二人。だが、重厚な扉を叩くあの恐ろしい音を思い出し、彼らもすぐに理解した。ここにずっと留まり続けるよりも、呪霊をあっさりと祓ってみせた歌姫の側にいる方が、まだマシだということに。

 

「……分かりました。それでここから出られるなら……文句は言えません……」

 

タクヤが頷き、アイも震えながらそれに同意した。こうして四人は、共に礼拝堂へ向かう覚悟を決めた。

 

必要な物資だけを急いで詰め込み、準備を終えた歌姫が校長室の扉に手をかけた、その時だった。

 

『歌姫!!!』

 

切羽詰まった理央の声が、静まり返った校長室に唐突に響き渡った。

 

(理央?)

 

歌姫は慌てて振り返り、声の出所を探る。視線が捉えたのは、校長室に置かれていた立派な姿見だった。

 

鏡面がまるで沸騰するお湯のようにブクブクと泡立っている。

やがてその中心にぽっかりと開いた丸い穴の向こうに、理央の顔が映し出された。だが、その光景はひどく不安定だった。テレビの砂嵐のように、鏡面に映る理央の姿は激しく歪んでいる。

 

「理央!? どうしたのよ!?」

 

歌姫は鏡に駆け寄り、必死に呼びかけた。

しかし、鏡面の歪みは収まるどころか、どんどん激しさを増していく。

 

『う……め!……い……う…………をわ……で……だ……!』

 

理央の口元は必死に動いているが、ノイズに掻き消された声は途切れ途切れになり、まともに聞き取ることができない。

 

「えっ!? なに!? なんて言ってるのよ!?」

 

歌姫が鏡面に向かって叫び返した、次の瞬間。

 

パァンッ!!

 

鋭い破裂音と共に、鏡が唐突に粉々に割れ、鋭い破片が四方八方に飛び散った。

 

「キャッ!」

 

歌姫は咄嗟に腕で顔を覆い、後ずさる。

床に散らばった無残なガラスの破片を見つめながら、歌姫の胸に濃い疑念が渦巻いた。

 

(理央は何を……? さっき備蓄庫の鏡で話した時と、全然違ったし……)

 

「ねぇ、大丈夫?」

 

不意に、背後からアイの心配そうな声が聞こえてきた。歌姫がハッとして振り返ると、そこには胸を押さえ、苦しそうに荒い息を切らしているサキの姿があった。

 

「サキちゃん?どうしたの、顔色が……」

「い、いえ……急に眩暈がしただけだから……大丈夫です」

 

額に汗を浮かべながらも、サキは強張った笑顔を作って首を横に振る。

歌姫は顔をしかめた。長期間にわたって特級呪霊の領域という濃密な呪いの中に当てられ続けていたのだ。タクヤとアイ同様、非術師である彼女の身体がいよいよ呪いに蝕まれ始めているのではないかと、歌姫は強い危機感を覚える。

 

「無理しないで。少し休む?」

「大丈夫ですってば!」

 

サキは歌姫の気遣いを遮るように立ち上がった。その瞳には、どこか焦燥ともとれる切実な色が張り付いている。

 

「早く礼拝堂に行って……鏡を割りに行きましょう。ね?」

「……そうね」

 

急かすようなサキの言葉に、歌姫は微かな違和感を覚える。だが、これ以上この場に留まる危険性を考え、小さく頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同時刻、現実世界の理央は、衰弱したサキを抱えたまま現実世界の校長室へと駆け込んでいた。

サキを安全なソファーに寝かせると、理央は室内にあった鏡の前に立つ。サキの証言から、歌姫たちがまだ鏡世界の校長室を拠点にしていることに賭けたのだ。

 

本来、雲外鏡の術式によって構築された鏡世界と繋がるこの「扉」は、主である雲外鏡の呪力でしかアクティブにすることはできない。いくら外側から呪力をぶつけても、ただのガラスとして沈黙するだけだ。だが、理央にはたった一つだけ、強引に干渉するための秘策があった。

 

理央は躊躇いなく自身の人差し指を強く噛み破る。

ポタポタと滴る赤黒い血を指先に滲ませ、冷たい鏡面へと滑らせた。迷いのない指使いで、複雑怪奇な呪印を素早く描き上げていく。

 

「これで……よし」

 

描いた血の呪印を媒介とし、理央は自身の呪力を鏡へと流し込む。

領域を展開されたあの瞬間。理央の肌を撫でた雲外鏡の呪力の形質、そのおぞましい粘度や波長のうねりを、彼の鋭敏な五感は完全に記憶していた。

理央は自身の呪力の性質を極限まで捻じ曲げ、雲外鏡の呪力と寸分違わぬ波長へと寄せていく。

膨大な呪術の知識と、並外れた呪術センスと呪力操作。その全てが高い次元で融合して初めて成し得る、神業に近い即興の偽装工作だった。

 

「……『五蘊皆空(ごうんかいくう)』、『阿頼耶(あらや)の底』、『鏡花水月(きょうかすいげつ)』」

 

 

呪力を流し込んだ瞬間、硬質な鏡面がまるで沸騰する泥水のようにボコボコと不気味に泡立ち始めた。

狙い通り、鏡が理央の呪力を「雲外鏡のもの」だと誤認したのだ。

 

「開け」

 

理央の命令に従うように中心から波紋が広がり、ぽっかりと異界へ繋がる円い穴が開く。

 

歪んだ視界の向こう、薄暗い校長室の扉に手をかける歌姫の姿が見えた。

 

「歌姫!!!」

 

焦燥に駆られた理央の声が、歌姫を振り返らせる。

 

だが、まともに繋がったのはほんの数秒のことだった。

高度な偽装とはいえ、所詮は模倣。鏡に宿る強固な術式が、流れ込んでくる呪力が主のものではないと即座に看破したのだ。異物を排除しようと、開いた円が急速に閉じようとする。

 

(くそっ……閉じさせるものかッ!)

 

理央は血の滲む鏡面に両手を叩きつけ、偽装を捨てて自身の底から膨大な呪力を強引に叩き込んだ。

扉の閉鎖を呪力出力で食い止める、技術も何もない純粋な力の押し合い。全身の骨が軋む中、理央は割れゆく鏡に向かって、血を吐くような悲痛な叫びを上げた。

 

伝えなければならない。真実を。

 

雲外鏡は獲物をただ閉じ込めるのではない。「巨大な鏡を壊せば帰れる」という偽りの希望を与え、獲物自身の手でその鏡を破壊させようと誘導する。

 

だが、その鏡は「楔」などではない。

鏡世界に囚われた者の魂を、現実世界へと繋ぎ止める唯一の「命綱」なのだ。

 

自らの手で命綱を切断した瞬間、魂は現世との繋がりを完全に喪失し、脱出は不可能になる。

そして、そこから永い時間をかけて、呪いで取り込んだものたちを蝕み、やがて肉体と魂を掌握する。

掌握された者は人格を失った廃人となり、雲外鏡に取り込まれる運命にある。

 

数百年前、そうして術師を養分として肥大化したこの怪物は、当時の五条家当主――六眼持ちの無下限呪術使いの手によってようやく祓われた。

 

(歌姫も、鏡の中で数百年前と同じ轍を踏まされかけている可能性が高い……!)

 

「歌姫!礼拝堂の鏡を割らないでください!」

パァンッ!!

 

限界を迎えた鏡が甲高い音を立てて粉々に砕け散り、無数のガラスの雨が降り注いだ。

 

理央は破片が散らばる机に手をつき、肩で大きく息をする。

無理矢理に接続を維持し、力技で捻じ込んだ影響で、空間の繋がりは激しく歪んでいた。ノイズに掻き消された自分の声が、彼女に届いていなかったことは、理央自身が一番よく分かっていた。

(あの状態で、声がまともに伝わるはずがない……)

 

自分の声は届かなかった。それでも、歌姫が違和感に気づいてくれることに、今はただ祈るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌姫は、負傷して自力で歩くことが困難なタクヤの腕を首に回し、しっかりと背中に背負い込んでいた。その後ろでは、サキが足元の覚束ないアイに肩を貸している。

四人は息を潜め、呪霊の気配に細心の注意を払いながら、校舎の廊下を進んでいた。

 

「もう少しですね、歌姫さん! あと少しで元の世界に帰れますよ」

 

重苦しい空気の中、サキがどこか弾んだような、楽しげな声で歌姫の背中に語りかける。

 

「え? ……うん、そうね」

 

歌姫はタクヤの重みを背中に感じながら、上の空で生返事を返すことしかできなかった。

彼女の頭の中では、校長室で唐突に砕け散った鏡の映像が、何度も何度も反芻されていた。

 

『う……め!……い……う…………をわ……で……だ……!』

 

ノイズに塗れ、ひどく歪んだ鏡面に映っていた理央の顔。出会ってからこれまで、どんな強大な呪霊を前にしても、どんな予想外の事態が起きても、彼は常に涼しい顔で冷静に立ち回ってきた。あんなにも必死に声を荒らげ、取り乱して焦っている理央を見るのは初めてだった。

 

(あいつが、あそこまでして私に伝えたかったこと……)

 

途切れた言葉を頭の中で繋ぎ合わせようとするが、明確な答えは出ない。

本当にこのまま進んでしまっていいのだろうか。得体の知れない不安が歌姫の胸中で渦巻いていた。

 

それでも、立ち止まるわけにはいかない。一行は徘徊する呪霊たちの目を避けながら、ついに目的の場所へと辿り着いた。

 

精緻な石彫と鮮やかな天窓に彩られた礼拝堂は、反転した禍々しい世界にあっても、神々しさを感じさせるような佇まいだった。そして、その最奥の祭壇。信者たちが寄贈したという、背丈の何倍もあるような巨大な鏡が、静かに安置されている。

 

(あれが、理央の言っていた『楔』……) 

「さあ、歌姫さん! 早くその鏡を割りましょう!」

 

サキがアイを長椅子に座らせると、急かすように鋭い声を上げた。その声には衰弱した中学生とは思えないほどの、異様な熱があった。

 

しかし、歌姫は巨大な鏡を見上げるだけで、破壊しようとはしなかった。

やがて、彼女はゆっくりと鏡から背を向け、サキたちの方へと振り返る。

 

「……割らないわ」

「えっ……? 何を言ってるんですか、早くしないと呪霊が来ちゃいますよ!」

「理央があんなに焦って、必死な顔をしてたのは初めて見たの。あいつが何を伝えようとしたのか……それが分からないまま、言われた通りに先に進むのは、絶対に嫌」

 

歌姫の決然とした言葉に、サキの表情がわずかに歪む。

 

「じゃあ、どうするんですか! ここまで来て、このままここで死ぬっていうんですか!?」

 

声を荒らげるサキを、歌姫は射抜くような冷たい視線で見据えた。

 

「あなたの言い分もわかるけど……その前に三つ、ハッキリさせておきたいことがあるの」

 

歌姫はタクヤをそっとアイの隣に降ろすと、静かに息を吸い込み、ずっと胸の奥に引っかかっていた『違和感』について口を開き始めた。

 

歌姫の決然とした言葉に、礼拝堂の空気が一層張り詰めた。彼女は巨大な鏡から完全に視線を外し、言葉を失っているサキへ向かって、一つ目の疑念を静かに口にする。

 

「まず一つ目。もし本当に、この礼拝堂の巨大な鏡が雲外鏡の弱点で、この領域の楔だったら……いくらなんでも、雲外鏡が私たちに対して不干渉すぎると思うの」

「ふ、不干渉って……?」

 

サキが引きつった顔で聞き返す。

 

「ええ。いくら縛りがあるからといって、術式の要である場所に私たちが入り込んでいるのに、何の妨害もしてこない。特級呪霊にしてはあまりにも無力すぎるし、何より私たちにとって都合が良すぎるのよ」

 

歌姫は一歩、サキの方へ歩み寄った。その瞳には、最初からずっと胸の奥に抱えていた違和感の正体を暴き出す、鋭い光が宿っている。

 

「そして二つ目。……ねえ、サキちゃん。あなた、何か持病はある? 先天的なものとか」

「えっ……? いえ、特には無いですけど……」

 

困惑しながらもそう答えたサキを見て、歌姫の目つきがさらに一段、氷のように鋭く冷たくなった。

 

「……そう。……私がこの世界に引きずり込まれたとき、呪霊に襲われかけていたあなたを助けたわよね。助けた後、あなたは私に強く抱きついてきた」

 

歌姫は自身の手を、胸の左側へとそっと当てる。

 

「あの時、至近距離で私に縋り付いたあなたの心臓の鼓動が、私の左胸に伝わってきたの。……私から見て左側で鼓動を感じたということは、向かい合っていたあなたの心臓は『右側』にあったということよ」

 

息を呑むような静寂が落ちる。タクヤとアイが、信じられないものを見るような目でサキを見つめた。

 

「世の中には生まれつき、心臓が右側にある病気を持つ人もいる。でも、ついさっきあなたは、持病はないと言った」

 

歌姫は冷徹な視線をサキに向けて、自身の推理を冷酷なまでに突きつける。

 

「私が見た限りこの世界は、現実をそのまま反転して作られているわ。その精度は、恐ろしいほど高い。

それほどの術式なら、建物だけじゃなく人間だって形作れる可能性があるって思わない?……心臓とかの内臓の位置は反転した状態でね」

 

「な……何を言ってるんですか!?」

 

サキは顔を真っ赤にして声を荒らげ、必死に両手を振った。

 

「た、ただの勘違いですよ! あの時はお互いパニックになってたし…… 本気で私を疑ってるんですか、歌姫さん!?」

 

「落ち着いて、まだ話は終わってないわ」

 

歌姫はサキの強い非難を全く意に介さず、淡々と事実を並べ立てる。

 

「最後に3つ目。校長室で鏡越しに理央が現れた時……備蓄庫の時とは比べ物にならないくらい、接続が悪かった。まるで、誰かが理央の干渉を必死に拒んでいるかのように。……そして、サキちゃん。あなたはそれに呼応するように、息を切らしていたわ」

「だ、だから! あれは急に眩暈がしただけで……!」

 

サキは後ずさりながら、助けを求めるように背後のタクヤとアイを振り返った。

 

「歌姫さん、おかしいよ! ずっと一緒に頑張ってきた私を疑うなんて……タクヤくん!アイちゃん!なんとか言ってよ!」

 

しかし、タクヤとアイはサキを庇おうとはしなかった。

 

「……ごめん、サキ」

 

タクヤが、絞り出すような声で呟いた。

 

「僕たちも……少し変だなって思ってたんだ。

歌姫さんと一緒に帰ってきてから、サキちゃん、急に元気になりすぎてるって……。今日外に出て行くとき、僕たちと同じくらいボロボロで、辛そうだったのに……」

 

決定的な指摘だった。アイも無言のまま、恐怖に染まった瞳で激しく頷いている。

 

「サキちゃん……私に、あなたを信じさせて」

 

歌姫は静かに、だが呪力を全身に巡らせた臨戦態勢のまま、ゆっくりとサキへと歩み寄る。

 

「こ、来ないで……」

 

サキの口から漏れたのは、先ほどまでと同じ震える少女の声だった。しかし、この空間に彼女をか弱い少女と認識する者は一人もいない。

 

「近づかないでよォ……ッ!」

 

サキは首を激しく横に振りながら後ずさる。

ズル、ズルと靴底を擦りながら後退していたサキの背中が、ついに礼拝堂の入り口にある重厚な木製の扉へとドン、とぶつかる。

もう、彼女に退路はない。

 

 

 

しかし、次の瞬間。サキの追い詰められた表情が嘘のようにペロリと剥がれ落ちる。その顔には、隠しきれない苛立ちが浮かび上がっていた。

 

「……あーあ、惜しいところだったのに。ほんと、ムカつく。……あのクソガキも外野の分際で、余計なことばっかりしてくれちゃってさぁ」

 

言葉には毒々しいほどの殺意が乗り、礼拝堂の空気をひどく濁らせていく。歌姫は無言のまま、ただ静かに呪力を練り、目の前の『偽物』を射抜くように見据え続けた。

 

「まあ……でも、歌姫さんが私をすぐ殺さないような馬鹿で助かりました!」

 

サキの姿をした何かが、歌姫を嘲笑うようにそう吐き捨てた瞬間だった。

メキィッ!と凄まじい轟音が鳴り響き、サキの背後にあった礼拝堂の巨大な扉が外側から木端微塵に粉砕された。

吹き飛んだ扉の向こうから雪崩れ込んできたのは、無数の異形。

 

 

ひしめき合う呪霊の群れが鼓膜を破るような奇声を上げて、歌姫へと襲いかかる。背後でアイとタクヤが悲鳴を上げた。

 

 

だが、異形の雪崩を前にしても歌姫の足は一歩も下がらなかった。

 

「馬鹿はあなたよ。……私の本気も知らないくせに」

 

その静かな呟きと共に、歌姫の体内から爆発的な呪力が弾け飛ぶ。

 

「へぇっ?」

 

歌姫から放たれた呪力の圧に、余裕を浮かべていたサキの顔が文字通り凍りつく。

 

術式解放『単独禁区(ソロソロキンク)

 

入学当初、彼女の術式は掌印を結び、準備時間をかけなければまともに効果がでないという致命的な隙を抱えていた。しかし、数多の任務を潜り抜け、鍛錬を重ねてきたこの数ヶ月で、彼女は劇的な進化を遂げていた。

 

今の歌姫には、掌印も、呪詞も、舞すらも必要ない。

洗練された呪力操作により、彼女は自身の術式を完全に『ノーモーション』で発動しても、実戦投入できるレベルにまで昇華させていたのだ。

最大出力で術式を解放し、身体能力を限界以上に引き上げた歌姫は、サキの予想を遥かに凌駕している。

 

「ハァッ!」

 

地を割るような踏み込みと共に、歌姫は真正面から呪霊の群れへと突っ込んだ。

振り下ろされる醜悪な腕を紙一重の速度で躱し、呪力を高密度に纏わせた拳と蹴りで、次々と異形の巨体を軽々と吹き飛ばしていく。

圧倒的な速度と暴力で瞬く間に呪霊の大軍を突破した歌姫は、驚愕に目を見開くサキの眼前へと一気に肉薄する。

 

「は、はや……!?」

「あなたなんでしょ。この世界の『楔』は」

 

迎撃しようと振り上げられたサキの腕を力強く払い除け、歌姫は迷いなく、焦燥と恐怖に顔を歪めた『偽物のサキ』の頭部へ向けて、渾身の打撃を叩き込んだ。

 

「あ、ガッ」

 

ドゴォッ!という鈍い衝撃音に続き、パリンッ!と硬質なガラスが砕け散るような澄んだ音が礼拝堂に響き渡る。

サキの頭部には血肉ではなく、ひび割れた鏡面のような亀裂が走り、水晶が砕けるようにパラパラと崩れ落ちていく。

直後、破壊された頭部の断面から、目を焼くような光が溢れ出した。

 

「……っ!?」

 

瞬く間に膨張したその光は、周囲の空間ごと捻じ曲げるように荒れ狂い、歌姫、そして背後にいたタクヤとアイの身体を、抗う間も与えずに吸い込んでいった。

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