もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら   作:暇人

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四話:薄暮の初陣

加茂理央と庵歌姫が京都呪術高専に入学してから、まもなく一ヶ月が経とうとしていた。

5月初頭の夕方。二人は高専正門近くの駐車場に立っていた。

 

 

「初任務、か……」

 

 

歌姫は小さく呟きながら腕を組む。

胸の奥が落ち着かない。祖母のもとで修行していたとはいえ、正式な任務として呪霊を祓うのは初めてだからだ。

理央はそんな歌姫の様子を横目で見ながら、特に気負った様子もなく門の外へ視線を向けている。

 

そのとき、一台の黒い車がゆっくりと敷地へ入ってきた。

車は二人の前で止まり、運転席のドアが開く。

出てきたのは、スーツ姿の女性だった。

 

 

「お待たせ、理央くん。それに……歌姫ちゃん、で合ってるかな?今日の補助監督を務める七海陽子(ななみようこ)です。よろしくね」

 

 

軽く手を振りながらそう言う女性に、歌姫は一瞬だけ目を瞬かせた。理央の名前を迷いなく呼んだことに、小さな引っかかりを覚えたのだ。

理央は驚いた様子もなく、一歩前に出て軽く会釈する。

 

「はい、加茂理央です。こちらは」

「庵歌姫です。よろしくお願いします」

歌姫も慌てて頭を下げた。

 

「うんうん、聞いてた通り。真面目そうな子だね」

 

陽子は緊張している歌姫を見て、どこか面白そうに口元を緩め、今度は理央に視線を戻す。

 

「理央くんは、随分おっきくなったね〜。昔は理央くんが私を見上げてたのに、今じゃすっかり逆だ」

「そうですね……」

 

理央は少しだけ目を細め、懐かしそうに陽子を見つめた。

 

「……陽子さんは雰囲気が少し変わりましたけど、相変わらずお綺麗ですね」

「あら、そんなことも言えるようになったの?」

 

その親しげなやりとりに、歌姫が思わず口を挟む。

 

「えっと、二人は知り合いなの?」

「ええ。昔、何度か任務でご一緒しています」

「補助監督やってると、御三家の人と任務で一緒することも多いんだよね」

 

 

陽子はそう言いながら、車の後部座席のドアを開ける。

 

「さっ、乗って乗って。現場まで結構あるからさ」

 

女性はそう言って、車内を指し示した。

二人は軽く顔を見合わせてから後部座席へ乗り込み、ドアが閉まると車は静かに発進する。

しばらくはエンジン音だけが車内に流れていたが、バックミラー越しに、陽子がちらりと理央を見る。

 

「にしても……理央くんとこうして会うのは本当に久しぶりだねぇ」

「そうですね、本当に久しぶりです」

「……陽子さんが補助監督を辞めるって聞いた時は驚きましたよ」

 

理央の言葉に陽子は罰が悪そうに笑って誤魔化す。

 

「あはは……お恥ずかしながら結局戻ってきたけどね……」

 

歌姫は陽子の言葉に内心で首を傾げた。

呪術関係者が辞める話はそれなりに聞くものの、一度離れた人間が再び戻るというのはかなり珍しく、歌姫も聞いたことがなかった。

 

「陽子さんって一回辞めてるの?」

「ええ、理由までは僕も知りませんが」

「ちょーっと色々あってね、最近また戻ってきたの」

「へ〜珍しいですね……その、色々っていうのは……」

 

歌姫がなおも聞こうとすると、彼女は「まあまあ」とやんわり遮るように笑って、それ以上は詳しく語らなかった。

 

「私の話はそのくらいにしてさ。珍しいといえば、理央くんの方もなかなか大概なんだよ」

「私がまだ新人だったときから当たり前みたいに任務してたからね、この子。普通の子なら、まだランドセル背負ってるような歳から呪霊と向き合ってたんだよ」

 

その言葉に、歌姫は思わず理央の横顔を見た。

理央から以前、高専に入る前から術師として活動していたとは聞いていた。けれど歌姫の中では、せいぜい中学生くらいからの話だと思っていたのだ。

(小学生って……いや、本当御三家ってどういう教育してんのよ……)

 

歌姫は若干引き気味に理央を見つめる。

理央は歌姫の露骨な視線に、どこか困ったように小さく息を吐いた。

 

 

「前に話した通りです。……今となっては、あれも良い経験でした」

 

あまり多くを語るつもりはないらしいが、理央が生きてきた世界は自分とは本当に違うのだと、改めて歌姫には伝わった。

 

「後からこの界隈に入った人からすると、びっくりするよね。御三家の人たちの価値観って何というか、ちょっと変わってるから……」

「でも理央くんは、その中でもかなり珍しい方だよ。加茂家の次を継ぐ立場で、あんな年から危険な任務に出て、それでいて優しくて謙虚なんだからさ」

 

そう言うと陽子はしみじみとした口調を崩し、悪戯っぽく笑った。

 

「小学生の頃はあんな小さくて可愛い顔してたのにねぇ。今じゃこんなイケメンになっちゃって」

 

 

その言葉に、歌姫は思わず理央の顔をまじまじと見た。

改めて見てみると、確かに中性的で非常に整った顔立ちをしている。目元は柔らかく、笑えば優しげで、どこか品のある雰囲気が漂っている。

 

(……まあ、一か月くらい一緒にいて慣れてはきたけど、本当に綺麗な顔ね)

 

さっきまでの驚きが少しだけ別の方向へ逸れて、歌姫はようやくいつもの調子を取り戻す。

 

「よかったじゃん理央。こんなお姉さんに褒められて、鼻の下伸びてるんじゃないの?」

 

理央は一瞬きょとんとした顔をしてから、どこか呆れたように苦笑した。

 

「勘弁してください歌姫……陽子さん、雑談もいいですけど任務の説明をお願いしてもいいですか?」

「あっはは、照れちゃって。そういう可愛いところは昔から変わってないのね〜」

 

陽子は楽しそうに笑いながらハンドルを軽く切った。

車は信号を一つ曲がり、徐々に街の灯りが少なくなっていく。

 

 

「まあ、理央くんの言うとおり楽しい雑談も置いといて」

 

そう言って、彼女の声の調子が少しだけ仕事のものに変わった。

 

「そろそろ任務の話に入りましょうか」

 

陽子は軽く二人の様子を確かめてから続けた。

 

「今回の現場は、郊外にある孤児院の廃墟。十年以上前に閉鎖された建物なんだけど、最近になってあそこに呪いが居着いたらしいの」

「“窓”の調査では任務の危険度は三級案件。だから今回の任務は、経験を積むという意味で基本的には歌姫ちゃん中心にやってほしいかな」

「とはいえ歌姫ちゃんにとっては初任務だからね。無理はしないで。危ないと思ったら、すぐ理央くんの後ろに下がるんだよ」

 

歌姫は背筋を伸ばして頷いた。

 

「はい。わかりました」

「よし。それじゃあ――現場までもう少しだ」

 

車はそのまま、夜へと沈み始めた街を走っていった。

やがて街灯の少ない郊外へ入り、舗装された道路の先にぽつりと大きな影が浮かび上がった。

ゆっくりと減速しながら、陽子が小さく呟く。

 

「……あれだね」

 

車のヘッドライトに照らされて、建物の輪郭がはっきりと浮かび上がる。

孤児院だった建物は、かなり大きかった。

三階建ての本館に、横へ広がるように増築された棟、さらに奥には体育館らしき建物まで見える。

敷地の外周には錆びたフェンスが巡らされているが、ところどころ壊れており、雑草が隙間から伸び放題になっていた。

歌姫は車の窓から孤児院を見つめる。

 

「……思ってたより、ずっと大きい…」

 

廃墟とはいえ、建物の規模はかなり立派で金がかかっていると分かる造りだった。

 

「バブルの頃に建てられた施設らしいからね。寄付も多かったみたいで、当時は結構評判よかったんだって」

 

そう言ってから、少し声の調子を落とした。

 

「ただ、閉鎖の理由がちょっとね」

「理由?」

「職員の不祥事疑惑なんだけど。横領とか虐待とか、終いには人身売買とか……まあ色々噂はあったみたい」

「それは……気持ちのいい話ではないですね」

「結局真偽ははっきりしなかったらしいけどね」

「ただ、噂が広まるにつれて寄付も入所希望も減って、そのまま経営が立ち行かなくなって閉鎖。そんな話だよ」

 

そう言い、陽子は車のドアを開けて外へ出たため、理央と歌姫もそれに続いた。

日も落ちきり周囲はかなり暗く、廃墟となった孤児院と地面に落ちた影が、一帯の陰鬱さを強めていた。

 

「“窓”からの報告だと、この施設には三級と四級が複数体いる可能性が高いって話なんだけど、低級呪霊相手だからって気を抜かないようにね」

「はい!油断しないように頑張ります」

 

歌姫は少し緊張した面持ちだった。

陽子はそんな歌姫を見て、少しだけ声を柔らかくした。

 

「うん、いい返事。理央くんもちゃんと歌姫ちゃんをサポートするんだよ」

「わかってますよ陽子さん。そのために来たんですから」

 

陽子は二人の返事を聞き満足げに頷くと片手で印を結び帳を下ろそうとする。

 

「よし、それじゃあ準備はいいね。帳を下ろすよ」

 

【闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え】

陽子がそう唱えると、夜のように黒い結界が孤児院を中心として落ちる。

 

 

「では行きましょうか、歌姫」

「うん」

 

歌姫は理央について行き、孤児院へと足を踏み入れる。

室内は外より一層暗く、持参してきた懐中電灯で視界を確保する。

 

(やっぱ暗いわね。足元気をつけよ…)

 

明かりを壁に向けると、昔この孤児院の子供たちが描いたと思わしき落書きがあった。

 

「うわ!」

「歌姫、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから」

 

歌姫は気遣われたことが恥ずかしいのか笑いながらそう取り繕った。二人は引き続き歩きながら、どう移動するかについて話し合う。

 

「まず本館から一緒に回って行くという感じで大丈夫ですか?」

「うん。わかったわ」

 

歌姫は内心、別行動にならないことにホッとしていた。

そして理央は歌姫の返事を聞くなり歩き出して行く。歌姫も理央について行く。

足を一歩動かすたびに木製の床がギシギシと音を立てて、建物の老朽化を感じさせる。

 

「あんたどんどん行くわね…」

 

理央はやはり手慣れているのか、及び腰で歩くのが遅い歌姫と違い、躊躇せずに奥の暗闇へと足を踏み入れて行く。

 

「まあ、慣れてるので。歌姫はこのペースで大丈夫ですか?もし辛いならもう少しゆっくり歩きますが」

 

理央は歌姫の方へ振り返ってそう聞く。

「ううん、気にしないで。私ももう呪術師だし、慣れなきゃ」

「わかりました。無理はしないでくださいね」

 

 

二人が奥へ進むと、やがて広場らしき空間に出た。

そこへ足を踏み入れた瞬間、空気が少し変わる。

 

そのとき。

 

――コツン。

 

床のどこかで、小さな硬い音が鳴った。

 

コツ、コツ、コツ。

 

まるで誰かがボールをついているみたいに、硬い音が繰り返し鳴る。

歌姫の背筋がじわりと冷えた。

 

「……なに?この音?」

「ボール遊びみたいですね。でもこんなとこで遊ぶ人はいないでしょう」

 

理央の返事が言い終わると同時に、ライトの先に“それ”が転がった。

それはボールではなく、黒い球状の何かだった。

その何かが、床をひとりでに跳ねていたのだ。

 

「歌姫、早速お目当てが出てきました」

「じゃあこいつが…」

 

 

跳ねるたびに形が変わり、次第に手足のような突起が生えてきて、最後に顔が浮かび上がった。

それは幼く無邪気な顔つきだった。

その顔は奇怪な体とはアンバランスで、目や全身の穴から黒い体液が滴っていた。

 

「……あ…ああそんでぇえぇ」

呪霊から出た歪んだ子供の声が、鼓膜の奥を引っ掻くように不快だった。

 

「呪霊…!」

 

 

歌姫が一歩前に出る。理央の前に立つその足には震えはない。

 

「…理央、ここは私がやるから、手は出さないで」

「わかりました、お言葉に甘えさせてもらいます」

 

 

早鐘のように鳴る自分の心臓がうるさい。

嫌な汗が全身から出て、これでもかというほど自身の体の中で緊張や恐怖がぐちゃぐちゃに混ざっているのがわかった。

それでも歌姫は、前に出た。

あの日、自分はただ逃げ回ることしかできなかった。いつまでも同じ自分では、守られる側のままじゃ終われない。

 

(大丈夫。呪霊を相手にするのは初めてじゃない)

 

祖母のもとで修行していた頃、歌姫はほんの数度だが、呪霊と相対したことがある。

もちろん祖母の目が届く範囲で、危なくなれば即座に介入されるため、あくまでも“稽古”ではあるが。

 

 

目の前の呪霊は、禍々しい呪力を滲ませながらゆっくりと迫ってくる。床を這い、木目の隙間を爪で掻くたびに、不快な音が立つ。まるで建物自体が泣いているようだった。

 

「……あそ……あそぼおぉぉぉ……」

生理的嫌悪を引き起こす歪んだ声に、歌姫は反射的に一歩引きたい衝動を噛み殺し、腰を落として構えた。冷静に相手の動作を観察し、相手の仕掛けを読む。

 

(来る……)

 

呪霊が急に四つん這いになり跳ねた。人間の関節ではあり得ない角度で体を捻り、腕を大振りに振り払う。

歌姫は呪霊の攻撃に合わせて踏み込み、ギリギリで避ける。

 

(近…!)

 

爪先が頬を掠め、嫌な寒気が背中に走った。当たればタダでは済まないだろう。

だが、歌姫は足を止めず、呪霊にできた隙を利用して内側の至近距離まで近づく。歌姫は祖母に叩き込まれた知識を思い出す。

 

 

(相手の腕が伸びた瞬間、そこに生まれる死角が狙い目!)

 

呪力を込めて相手の死角から肘打ちを見舞う。

感触は人間の肉ではなく、濡れたゴムを殴ったような感触で、肘打ちは抉るように沈みこんだ。

呪霊は「……グウゥッ!!」と短い悲鳴を漏らし、素早く後退した。

 

(効いてはいる…けど、押し切れるかは微妙ね…なら)

 

歌姫は距離をとりながら指を組み替え、伎芸天印(ぎげいてんいん)の掌印を結ぶことで術式の準備を始める。

 

歌姫の『単独禁区』は発動までの時間が必要であり、一対一では発動自体が難しい術式だ。

加えて歌姫は掌印で両手が塞がるため、発動するまでは両手を使わず相手の攻撃に対処しなければならない。

 

(頭を冷やして、冷静に相手の動作を観察するのよ…)

 

次の瞬間、呪霊はぐにゃりと体を伏せた。足を刈り取るつもりなのか、そのまま床すれすれの低さで突進してきた。

歌姫は咄嗟に足を引いて後方に飛ぶことでそれを躱す。

 

すると呪霊が、次は抱きつくように腕を広げて突っ込んできた。

歌姫は掌印を崩さず床を滑るように呪霊の横を通り過ぎることで、再び回避に成功する。

 

 

(……よし、準備完了…)

 

攻撃を躱し、呪霊の背後に回った歌姫は掌印を解く。

そして両手を甲高く打ち鳴らした。

 

 

術式解放『単独禁区』

 

 

次の瞬間、熱が弾けるように全身を駆け抜けた。

巡る呪力が一段濃く、強く、鋭く、鮮烈に研ぎ澄まされていく。

身体は羽のように軽いのに、踏み込めば地を割れるような力が全身から湧いてくる。

視界は広く、目の前の呪霊の動きも緩慢に見えた。

 

(…やっぱり…理央と比べたら何倍も遅い)

 

この一ヶ月で理央と何度も模擬戦を繰り返した。

術式を使っても尚あの理不尽な速度、間合い、読み。

――それに比べれば、目の前の呪霊の動きは鈍く、軌道は素直すぎる。

振るわれた爪を、歌姫は肩を引くだけの最小限の動きで躱した。

振り終わった呪霊の身体には、大きな隙が生まれている。

 

「うん。見える」

 

その隙を逃さず、脇下に潜るように踏み込んで顎先を打ち上げると、鈍い手応えとともに、呪霊の顔が跳ね上がる。逃げようと後ずさるその顔面を、今度は横殴りに打ち払う。

 

「……ァ、ぎぇッ」

 

ぐにゃりと顔が歪み、呪霊の体勢が崩れる。

歌姫は大きく脚を振り上げ、その踵へ呪力を集中させる。

次の瞬間、呪霊に最大出力の踵落としを浴びせた。

 

バキィッ!!

 

頭部を叩き潰すような一撃に、呪霊の身体が床へ叩きつけられる。

床に叩きつけられた呪霊は、即座に立ち上がり反撃を試みるが、

 

「あ、そん……でぇぇぇッ!!」

 

自棄になって振った攻撃はあっさりと歌姫に避けられる。

そして振り終わり、ガラ空きになった呪霊の腹へ前蹴りを突き刺す。

 

「……がぁぁぁッぁァ!!!」

呪霊は悲鳴を吐き出しながらも、執念で爪を伸ばす。

だが、その指先が歌姫の喉元へ届くより早く――

ドゴッッ!!

歌姫の頭突きが、呪霊の顔面に叩き込まれた。

 

「ぐ、ぁ……あ゛あ……」

呪霊はその声を最後に砂のように崩れ、空中に散った。

 

「……え?」

「お疲れ様でした歌姫。あなたの勝ちですよ」

歌姫は、拳を握ったまま固まる。

あまりにも呆気なく、理央の言葉を聞いてもまだ確信が持てなかった。

 

「ね、ねえ理央……これって、ちゃんと祓えてる?」

 

歌姫は思わず理央に確認を取る。理央は当然と言った顔つきをしていた。

 

「もちろん。ちゃんと祓えてます」

理央は小さく頷いた。

 

歌姫は握っていた拳をゆっくり下ろす。確かに呪いの気配は消えている。けれど胸に残ったのは安堵よりも、「本当にこれで終わりなのか」という妙な軽さだった。

 

 

「…なんか…弱くない?」

「まあ、今の呪霊は等級で言うと準2級くらいでしたからね。術式を使った歌姫なら、物足りなく感じても不思議じゃありません」

「いや、私まだ3級術師なんですけど……というかこの任務、3級か4級が何体かいるかも、って話だったわよね?」

「ええ。ですが、窓の観測は絶対ではありません。現場で想定より強い呪霊が出ることもあります」

 

 

歌姫はまだ3級術師だ。3級呪霊ならともかく、準2級の呪霊をこうもあっさり祓えることはないはずだ。

 

「等級で言うと歌姫の実力は準2級術師くらいあると思いますよ。この1ヶ月で、体の使い方も呪力操作もだいぶ良くなりましたから」

 

急ピッチで祖母から叩き込まれた知識は、理央との模擬戦で得た経験と助言によって、持て余すものではなく実戦で使える技術へと昇華されていた。

結果的に数週間という短い時間で歌姫の実力はかなり向上していた。

 

「ただ2級や1級呪霊相手だと術式を発動するまでが厳しいでしょうし、過信は禁物ですよ」

「う、うん。わかったわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

その後も、孤児院の中には低級の呪霊がいくつか潜んでいた。

 

廊下の曲がり角に潜む者。

天井近くにへばりつき、汚れた目玉をぎょろつかせるもの。

物陰から子どもの笑い声だけを漏らし、姿を見せると同時に飛びかかってくるもの。

 

けれど、一体目を祓ったことで歌姫の中の緊張は明らかに質を変えていた。

怖さが消えたわけではないが、その恐怖に呑まれるだけではなくなった。

 

理央がライトで呪霊の位置を示して補助をする。

歌姫はそれに従い、無駄なく距離を詰め、時に術式を使い、時に術式を使わず呪力を乗せた打撃だけで祓っていった。

 

四級程度の呪霊なら、もはや相手にもならない。

歌姫が一歩踏み込めば、呪霊は反応する間もなく殴り飛ばされ、黒い煙のように霧散した。

 

三級呪霊相手でも、先ほどまでのような焦りはなかった。

相手の動きを見て躱し、自分のやりやすい間合いで戦うことができる。

 

呪霊を祓うたびに、体が少しずつ軽くなる。

最初は暗闇にいちいち肩を跳ねさせていたというのに、今は気配のする方へ自分から視線を向けられる。

そうして呪霊を前にした時にどう動けばいいかが、少しずつ体に馴染んできていた。

 

「……ふぅ、これで何体目?」

「七体目です。いいペースですよ」

「へえ、もう七体?……フフッ、私もまあまあ呪術師が板についてきたんじゃない?」

「そうですね。最初の頃とは見違えるくらい良くなってますよ」

 

軽く言い返す歌姫は少しだけ口元を緩めていた。つい最近まで、呪術師としての自分に実感などほとんどなかった。けれど今は違う。

まだ未熟で、まだ怖くて、まだ理央には遠く及ばない。それでも、自分は確かに前へ進んでいる。

そう思えたところで、歌姫たちは本館に加えて別館の内部をほぼ見終えていた。

 

廊下は静まり返っている。

先ほどまで漂っていた呪いの気配も、今はほとんど感じられない。

宙に舞っている埃だけが、懐中電灯の光に浮かび上がっていた。

 

「えーと……もうだいたい見終わったし、これで終わり?」

 

歌姫は肩に手を回してほぐしながら言う。

緊張が抜けたのか、声色もどこか気楽だった。

理央はすぐには答えず手元の懐中電灯を少しだけ上げる。

 

「いえ」

 

短く言ってから、懐中電灯の光を廊下の奥へ向けた。

 

「まだ一ヶ所、確認していない場所があります」

 

歌姫がつられてその先を見ると、廊下の突き当たりに大きな両開きの扉が見えた。その扉には少し古びたプレートが掛かっている。

【体育館】、プレートにはそう書かれていた。

 

 

「……あー」

歌姫が納得したように頷いた。

「そういえばそこ、まだだったわね」

 

その場所は外から見たとき、孤児院の中でも一番大きい造りで目立っていた。

子供たちが運動や遊びに使っていた場所なのだろう。

 

「ええ。最後にそこを確認しましょう」

 

そう言って理央は歩き出し、歌姫もその後を追う。

歌姫は廊下を進むうちに壁に貼られた色褪せたポスターや剥がれかけた掲示物が目に入るようになった。そして、それらがふと気になった。

 

 

子供たちが描いたらしい絵もいくつか残っている。

笑っている顔。走っているたくさんの棒人間。

オレンジ色で大きく描かれた太陽。

どれも色は薄れているが、まだ形は残っていた。

歌姫はそれを横目で見ながら歩く。

 

「……ここ、昔は普通に子供たちが生活してたのよね」

 

ぽつりと呟く。

 

「そうでしょうね」

 

理央は足を止めることなく答え、そのまま前へ歩く。

二人の足音だけが、人気のない廊下に乾いた音を立てる。

そうして辿り着いた先には、大きな両開きの扉が待っていた。近くで見てみると木の表面は無数の傷で荒れ、長い年月を映し出すようにところどころ黒ずんでいた。理央はその前で足を止めると、懐中電灯の光を静かに扉の中央へと向ける。

 

「着きましたね」

 

歌姫も隣に並び、ふっと息を吐いた。

 

「じゃあ……ここを確認したら、本当に終わりね」

 

そう言って、二人は扉へ手を掛けた。




歌姫の掌印で明確に描写されてるのは、私が探したところ原作の一コマにしかなかったのですが、人差し指と小指を伸ばしているので伎芸天印がモチーフっぽいんですよね。
それで気付いたのですがこの掌印、ドブカスこと直哉君の領域展開の掌印でもあるんですよね。
びっくらポンだぜ……
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