もしも庵歌姫に加茂家の同級生がいたら 作:暇人
体育館の重い扉を開け、夜の静寂が広がる屋外へと足を踏み出す。
そこには黒い結界、帳がゆっくりと上がり、夜空に溶けていく光景があった。
待ち構えていた補助監督、七海陽子が二人の姿を見て駆け寄ってくる。
「お疲れ様! どうだった……って、ちょっと待って、理央くん!?」
陽子の声が上ずった。ライトに照らされた理央の姿があまりに凄惨だったからだ。
制服の右袖はズタズタに引き裂かれ、腕には鞭で打たれたような赤黒い腫れ。
そしてそれ以上に深い、自ら抉った生々しい爪痕が血に濡れて光っていた。
「……陽子さん、そんなに慌てないでください。もう血は止まってます」
「止まってるとかそういう問題じゃないでしょ! 何があったの?三級案件のはずじゃ」
陽子は理央の腕を覗き込む。呪術師の世界で怪我は付き物だが、理央の自傷は顔を歪めてしまうほど痛々しかった。
「少し予定外のことが起こりまして、一級呪霊がいました」
「一級……!?」
「はい。呪霊は祓ったのですが、術式を使ったり攻撃をもらったので、腕を少し」
絶句する陽子に、ようやく痛みが引いてきた歌姫が、申し訳なさそうに口を開いた。
「えっと……理央が私を庇ってくれて、それで腕を傷つけられたんです。……私が動けなかったせいで、理央に無茶を……」
事実を淡々と口にするほど、自分の情けなさが浮き彫りになっていく。
陽子が向ける労わりの眼差しすら、今はかえって逃げ場のない自責の念をより強めていた。
「そう、そうだったのね。……歌姫ちゃん……自分を責めないで。一級がいたなんて、誰も――」
「分かってます。分かってはいるんですけど、やっぱり自分で言ってて情けなくて…」
理央は俯く歌姫の横顔を、鋭く冷静な眼差しで見つめた。
そして彼女がこれ以上自身を自責の檻に閉じ込めないように、理央は自分自身に課した厳格な「一級呪術師」としての役割、そこからの事実を言葉にする。
「……陽子さんの言う通り、歌姫に非はありません。僕は、こういう不測の事態に備えて一緒に来たんです。なのに歌姫に呪霊の術式を許してしまった。この任務でミスをしたのは、僕です」
理央がそう言い切ってからその瞳の奥に宿る鋭利な光がふっと和らいだ。自分を縛り上げる厳格な鎖を一時だけ解くように、理央は微かな溜息とともに、陽子へと穏やかな眼差しを向けた。
「陽子さん、とりあえず車を出しましょう。歌姫も術式の影響で腰が辛そうですし、僕も……正直、少し疲れました」
走り出した車の後部座席は、任務前の緊張感とは打って変わって、重苦しくもどこか安堵した空気に包まれていた。
「……ごめんね。私らの調査不足だわ。一級が出るなんてわかってたら、もっとやりようはあったのに」
陽子がバックミラー越しに、沈痛な面持ちで謝罪する。理央は窓の外を流れる夜景を見つめたまま、静かに返した。
「いいんですよ。呪いの強さなんて、現場に行かなければ分からないものです。それに、久しぶりに術式を使った実戦ができましたから」
「……理央」
歌姫が隣で声を漏らす。理央が自分の腕を自ら抉ったあの瞬間、歌姫は少しだけ怖かった。赤血操術がそういった術式であることは知っていたから、理央の自傷という行動そのものが怖かったわけではない。しかし、顔色ひとつ変えずに自傷ができる、その精神力が少し怖かった。
「……あんたさ、いつもやってるの? 自分の体を傷つけて、術式を使うって……怖いとか、痛いとか、そういう感覚ないわけ?」
歌姫の問いに、理央は少しだけ間を置いて答える。
「……いえ、僕も痛みは感じますし、怖いと思うときもあります。けど、その判断の遅れで失うものを考えれば我慢できます」
「そう。やっぱり強いわね、あんたは……」
「そんなことないですよ。肝心な時に体が動かなくて、そのせいで誰かが傷つく……そんなことを何度も繰り返して、やっと動いてくれるようになったんです。情けない話でしょう?」
その自嘲は、あまりに乾いていて、切なかった。歌姫は、自分の装束の裾をぎゅっと握りしめる。
自分は『助ける側』になりたいと憧れてここに来た。その結果が、年も変わらない同級生に助けられる。低級呪霊を数体祓った程度で浮かれていた自身への苛立ちが、腹から湧き上がってくるのがわかった。
「……次は、私ももっと役に立つ。いつまでもあんたに助けられる私じゃないから、そこんとこ覚えておきなさいよ」
理央は驚いたように歌姫を見た。
歌姫の瞳は、はっきりとした強い決意で理央を射抜いていた。
「……ふふっ、それは頼もしいですね。期待してますよ、歌姫」
理央はそう言うと、今日一番の、嘘偽りのない柔らかな笑みを浮かべた。
前の運転席に一人座る陽子はその光景を静かに見つめていた。
(理央くんが、あんなふうに笑うなんてね……)
陽子はハンドルを握る手に少しだけ力を込め、前方の暗い夜道を見据えた。
初任務から数日が経ち、理央の右腕に巻かれた包帯も取れた五月の中旬。
京都校の校庭には、夕闇を押し返すような鋭い気合が響いていた。
「……はぁっ、たあっ!」
歌姫の踏み込みは、以前の模擬戦とは比べものにならないほど鋭かった。一級呪霊の暴力に晒され、理央の背中に守られたあの夜の悔しさが、彼女の呪力を研ぎ澄ませていた。
理央は最小限の動きでその打撃を躱すが、歌姫の追撃は止まらない。
隙あらば呪力を集中させ、理央が教えた部位ごとの瞬発的な出力向上を、必死に実践しようとしていた。
「いいですよ歌姫。呪力の流れが前よりもずっと、読みづらくなっています」
理央は飛来する回し蹴りを腕で受け止めながら、感心したように口角を上げた。
その余裕が、今の歌姫には最高の発火剤になる。
「……当たり前でしょ! いつまでもあんたの背中ばっかり見てると思わないでよね!」
歌姫の額には汗が光り、呼吸は荒い。
それでもその瞳には、かつてないほど強い光が宿っていた。
自分が強くなれば、理央の隣に立てる。
自分が隣に立てれば、理央を一人にせずに済む。
その真っ直ぐな決意が彼女の体を動かしていた。理央は歌姫の拳から伝わる熱量に、胸の奥が微かに疼くのを感じていた。
「……じゃあ、少しだけ速度を上げますよ」
理央の瞳に一筋の楽しさが混じる。
それは呪術師として生きる彼が初めて手に入れた、誰かと高め合うという時間の輝きだった。
「望むところよ! 来なさい、理央!」
夕陽が二人の影を長く引き伸ばし、校庭に交差させる。
一人は呪縛から逃れて自由を得るために。
一人は友と並ぶための力を得るために。
重なり合う火花のような呪力は、これからの四年間が
決して孤独なものではないと物語っていた。