万能にして無力なる神   作:ひまんちゅ

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万能にして無力なる神

雲の海の上に、天界はあった。

 

それは人の目に映る星々よりも遠く、祈りよりも近い場所――と、古い神話は言う。けれど実際は、ただ静かな場所だった。光は澄み、風はやわらかく、草は揺れもしない。そこにあるのは「変わらないこと」そのものだった。

 

そして、変わらないまま、彼女は見続けていた。

 

女神の名は、リュミエル。

 

地上に初めて泣き声が満ちた日から、彼女は高みから人々の暮らしを覗き込み、胸の奥で小さく願い続けた――どうか、今日だけでも幸せであれ、と。

 

神としての力は絶大だった。雲を裂き、雨を呼び、土を肥やし、病を眠らせることができた。痛みの一部を肩代わりすることもできた。生まれ落ちた赤子の熱を少し下げ、嵐に揺れる船を一度だけ押し戻すこともできた。

 

だが、理を曲げることはできなかった。

 

死が死であること。痛みが痛みであること。冬が冬として訪れ、飢えが飢えとして口を開くこと。雷が落ちれば火が走り、山が崩れれば人が埋まること。

 

「運命」という名の軋む歯車は、神でさえ握り潰せない硬さを持っていた。

 

リュミエルの身体には、その証が刻まれていた。

 

白磁のような肌は比類なき美しさを保っているのに、腕には引き裂かれた痕、背には焼け焦げた痕、喉元には何度も結び直したような細い裂創。けれどそれらは、誰かに傷つけられたものではない。

 

人の痛みを肩代わりするたびに、彼女の肉体は少しずつ裂けた。人の涙を受け止めるたびに、彼女の心はそれ以上に裂けた。

 

それでも、願いはやめられなかった。

 

神が無力であることは、罪だろうか。

 

そう考えた者がいた。

 

人が飢えるのは神が見捨てたからだ。子が死ぬのは神が怠けたからだ。戦が終わらぬのは神が楽しんでいるからだ。疫病が蔓延るのは神が罰しているからだ。

 

ならば――神を殺せば、世界は善くなる。

 

その思想は、祈りの裏返しとして広がった。救いを求めるほど、救われない怒りが濃くなる。濃い怒りは刃となり、刃はいつしか天を指した。

 

天界へ至る方法は、いくつもあった。神話に残る梯子、禁じられた転移陣、世界樹の枝。だが最も確かな道は、絶望を燃料にすることだった。

 

四人の人間が、その道を登った。

 

最初に足を踏み入れたのは、剣士ガレイン。肩幅の広い男で、左目の下に一本の傷が走っている。村を洪水で失い、妻と子を流された。

 

次に、僧侶ミレア。白い布を纏い、祈りの言葉をあまり口にしない女だった。疫病で孤児たちを守れなかった。守れると信じていた。

 

三人目は、学匠レム。都市の書庫に眠る禁書を読み尽くした青年で、指先はインクで黒く染まっている。世界の「理由」を探して、理由のない悲劇に行き当たった。

 

最後は、娘ルカ。十五の年で、背負うには大きすぎる弓を背負っていた。飢饉の冬、弟に食べさせるため盗みを働き、弟はその夜に死んだ。盗んだパンは温かかった。弟の身体は冷たかった。

 

四人は天界の門を押し開けた。

 

そこに、玉座はなかった。

 

黄金の宮殿も、怒れる雷の神もいない。あるのは、白い野原と、光の糸が天蓋から垂れているだけ。その糸の先に、一人の女が座っていた。

 

彼女は立ち上がらなかった。

 

リュミエルはゆっくり顔を上げた。青とも銀とも言いがたい瞳が、四人を順番に見た。そこに恐れはなかった。驚きもなかった。あるのは、長い長い疲労の底に沈むような静けさだけだった。

 

ガレインが剣を抜いた。刃先が光を切り裂く音が、やけに大きく響いた。

 

「神よ。お前を殺す」

 

その宣言は、祈りの言葉の形をしていた。救いを求める者が、救いそのものへ向けて吐く最終の呪文。

 

リュミエルは頷いた。まるで、待っていたかのように。

 

「……ええ」

 

彼女は立ち上がり、ゆっくりと髪をかき上げた。首筋が露わになる。白い喉に、既に薄い裂創がある。自ら爪でつけたような、躊躇いの痕。

 

そして、膝をついた。

 

「どうぞ。ここで終わりにして」

 

その言葉は、命乞いではない。命差し出しだった。もっと正確に言えば、解放の願いだった。

 

ミレアが一歩踏み出した。彼女の目は、女神の身体の傷に釘付けになった。

 

「……それは、誰にやられたの」

 

リュミエルは微笑んだ。その微笑は、美しいのに痛々しく、ひび割れた氷のようだった。

 

「あなたたちの痛みを、少しずつ」

 

レムが息を呑んだ。

 

「……肩代わり、という権能があるのか」

 

「あります。でも全部はできない。全部を受ければ、私はすぐに壊れる。それに、受けても世界の理は変わらない。飢えが飢えであることも、死が死であることも」

 

ルカが唇を噛んだ。怒りのためにここまで来たのに、目の奥が熱くなった。

 

「じゃあ……何のために、神なの」

 

その問いは鋭く、幼かった。幼いほど残酷だった。

 

リュミエルは答えなかった。代わりに、首を差し出した。細い顎が少し上がり、喉がぴんと張る。そこに脈打つ命が見える。

 

「……私が死ねば、あなたたちは少し楽になれる? 憎む相手がいなくなるから」

 

ガレインの剣先が、女神の喉元に触れた。触れただけで、白い肌に赤が滲んだ。

 

彼は震えていた。剣士としてではない。父として、夫として、失った者として。怒りは炎だった。だが今、炎の前に水たまりがあった。そこに映るのは、敵ではなく、誰よりも苦しんでいる者の姿だった。

 

ミレアが言った。

 

「あなたを殺しても、疫病はなくならない。飢えも戦も、止まらない。……むしろ、今まであなたが肩代わりしていた痛みが、全部こちらに落ちてくる」

 

レムは、光の糸を見上げた。天蓋から垂れるその糸は、地上のありとあらゆる出来事に繋がっているように見えた。一本一本が、呼吸のように微かに震えている。

 

「もし、神が世界の理を曲げられないなら……神を殺すことは、理の外に逃げる行為だ。ただ、責任の置き場所を変えるだけだ」

 

ルカが呟いた。

 

「……私たちは、神に怒っていたんじゃない。誰にも怒れないことに、怒ってた」

 

ガレインの剣が、わずかに下がった。

 

沈黙が広がる。天界の風は相変わらずやわらかい。草は揺れない。変わらない場所で、変わるものが一つだけあった。

 

人の心。

 

リュミエルが目を閉じた。涙は落ちない。彼女は涙の出し方を、とうに忘れていた。

 

「……それでも、あなたたちは殺しに来た。だから、私はここで終わりにしたい。もう見続けるのが、怖い。救えないのに、見てしまうのが」

 

その声は、祈りの裏返しだった。救えない神の、救われたい叫び。

 

レムは一歩前に出た。剣でも杖でもなく、手のひらを差し出した。

 

「なら、別の答えを選ぶ」

 

ガレインが眉をひそめる。「別の答え?」

 

レムは頷いた。

 

「神を殺さない。代わりに――神を地上に連れ帰る」

 

ミレアが息を呑んだ。「そんなことができるの?」

 

レムは天蓋の糸を指した。

 

「見て。あの糸は地上と繋がっている。神は地上に干渉できる。ならば、地上も神に干渉できるはずだ。『招く』ことで、繋ぎ替えられる」

 

ルカが顔を上げた。「連れ帰って……どうするの」

 

レムは迷わず言った。

 

「人間の力で幸せを追求する。神に頼らない。頼れないことを、受け入れる。……その上で、彼女を苦しみから解放する方法を探す」

 

ミレアは小さく笑った。乾いた笑いだったが、そこには僅かな温度があった。

 

「神を救う、か。……皮肉ね」

 

ガレインは剣を納めた。金属が鞘に収まる音が、決断の音に聞こえた。

 

「俺は、妻と子を救えなかった。だから神を憎んだ。でも……この女も、俺と同じだ。救えなかった者だ」

 

ルカが、女神の傷だらけの腕に触れた。触れた瞬間、暖かさが指先に伝わる。神は冷たいと思っていた。けれど、彼女は熱を持っていた。痛みを持っていた。

 

「ねえ。地上に来て。……そこで、私たちが、あなたを泣かせてみせる」

 

リュミエルは目を開いた。瞳の奥で、何かが揺れた。何百年も、何千年も揺れなかったものが。

 

「……私が、地上に?」

 

「そうだ」レムは言った。「ここで見続けるより、地上で一緒に歩こう。神が万能なら、万能のまま苦しむのは終わりにしよう。無力なら――無力のまま、人と同じ場所に降りよう」

 

リュミエルは唇を震わせた。笑いとも泣きともつかない表情が、初めて彼女の顔に浮かんだ。

 

「……それは、許されるの?」

 

「許しを待つな」ガレインが言った。「俺たちは今、神を裁こうとしていた。なら、神を救う裁きも、俺たちが下す」

 

ミレアが祈るように手を組んだ。

 

「あなたが地上に降りたら、人はあなたを憎むかもしれない。崇めるかもしれない。利用しようとするかもしれない。……でも、私たちはあなたのそばにいる。少なくとも、あなたを一人にはしない」

 

ルカが頷いた。「一人にしない」

 

リュミエルは、天蓋の糸を見上げた。糸の震えが、まるで地上の鼓動のように伝わってくる。喜びも、恐怖も、怒りも、祈りも、全部。

 

彼女は、その糸に手を伸ばした。

 

指先が触れると、光が少しだけ強くなった。彼女の身体の傷が、淡く光った。肩代わりした痛みが、光として浮かび上がる。

 

「……私の中に、あなたたちがいる」

 

「俺たちの中にも、あんたがいる」ガレインが言った。「だから、繋ぎ替えられる」

 

レムが地面に膝をつき、古い言葉で陣を描き始めた。禁書にあった、天と地を繋ぐ「帰還」の儀式。神話の梯子ではなく、人間の意志で作る道。

 

ミレアが祈りを唱えた。それは神に向けた祈りではない。人に向けた祈りだった。人が人を支えるための、言葉。

 

ルカが女神の手を握った。小さな手が、傷だらけの手を包む。

 

「怖い?」

 

リュミエルは、初めて正直に答えた。

 

「……とても」

 

「なら、怖いままでいい。私も怖いまま、ずっと生きてきた」

 

その瞬間、女神の目から一滴だけ、涙が落ちた。

 

天界の白い草に、透明な雫が染み込む。変わらない場所に、変化が刻まれる。それは、とても小さな革命だった。

 

儀式が完成すると、足元の光が渦を巻いた。雲の海が割れ、地上の匂いが立ち上る。土と、煙と、パンの焼ける匂い。涙と汗の匂い。

 

リュミエルは立ち上がった。玉座からではなく、地面から。神が地面に足を置く準備をするように。

 

ガレインが言った。

 

「地上に戻ったら、俺たちはまず堤防を作る。洪水に負けない村を作る。神の奇跡じゃない。俺たちの手で」

 

ミレアが言った。

 

「疫病に負けない薬を探す。祈りだけじゃなく、知識で」

 

レムが言った。

 

「理由を探す。理の外側ではなく、理の内側で。世界を理解することが、世界を変える第一歩だ」

 

ルカが言った。

 

「……それで、あなたを幸せにする。だって、あなたはずっと私たちの幸せを願ってたんでしょ。今度は、私たちの番だ」

 

リュミエルは、四人を見た。

 

「……ありがとう」

 

その言葉は、神の宣告ではなかった。祝福でもなかった。ただの感謝だった。人の言葉だった。

 

そして五人は、光の渦へ踏み出した。

 

地上へ向かう道の途中で、天界の白い野原が遠ざかる。変わらない場所が小さくなる。代わりに、変わり続ける世界が大きくなる。

 

雲を抜けると、冬の寒さが頬を刺した。風は鋭く、土は固く、空は重い。遠くで狼が鳴き、街の灯がちらついていた。

 

その景色を見て、リュミエルは息を呑んだ。

 

美しい。恐ろしい。苦しい。生きている。

 

「ここが……あなたたちの」

 

「そうだ」ガレインが言った。「そして、今日からは――あんたの場所でもある」

 

地上に降り立った瞬間、女神の膝が少しだけ震えた。神が初めて「支えられる側」になる震え。

 

ルカがぎゅっと手を握り直した。

 

「ねえ、リュミエル。あなたの願い、教えて。『誰も苦しんでほしくない』以外の、あなた自身の願い」

 

リュミエルはしばらく黙った。長い沈黙だった。神として生きるうちに、彼女は「自分の願い」を忘れてしまっていたから。

 

やがて、彼女は小さく言った。

 

「……明日を、怖がらずに迎えたい」

 

その願いは、とても弱く、とても強かった。

 

人間の力で幸せを追求し、神を苦しみから解放する――その旅は、そこから始まった。

 

神が万能であることの意味を、世界が問い直す旅。

そして、人が無力であることの中に、力を見つけていく旅。

 

冬の空の下、五人の影は長く伸びた。

その先にあるのが救いかどうかは、まだ誰にも分からない。

 

ただ一つ分かるのは――彼女はもう、ひとりで見続けなくていいということだけだった。

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