機動戦士ガンダム ダブルバード 「Rewrite」 作:くろぷり
とある日常
「父さん! この魚、ウーイッグに持ってけば売れるかな?」
白く塗られた小さな舟は、漁船と呼ぶにはあまりに脆弱である。
木製の船体は長年の潮風と波に晒され、ところどころ茶色く錆びた染みが広がっていた。
塗装の剥げた部分から、古い木目も覗いている。
甲板は狭く二人乗るだけでいっぱいになり、舷側は波に洗われるたびに小さく軋む音を立てていた。
少年……ニコル・オレスケスは簡素な釣竿を握ったまま、たった今釣り上げた小さな魚をもう片方の手で舟底に放り投げる。
サラサラとした金色の髪が、潮の香りを帯びた強い海風に軽やかに靡く。
水平線まで広がる紺碧の海面は、午後の陽光を浴びて無数の光の粒をきらめかせている。
波頭が白く砕けるたびに、細かな水飛沫が舞い上がっていた。
「そんな小さな魚、ウーイッグじゃあ売れやしないよ! 家で食うしかないな! 焼魚にしたら、美味そうじゃないか!」
父、ロブ・オレスケスは苦笑しながら言う。
髭の生えた顔に深い皺が刻まれ、遠くを見つめる瞳には長年の海との付き合いが滲んでいる。
ここマンダリアンの浜辺の町は、小さな漁村だ。
背後に広がる緑の丘陵と点在する白壁の家々。
細い砂浜が弧を描く湾は、穏やかながらもどこか寂しげな風景だった。
ニコルは父の言葉に軽く肩をすくめ、釣り糸を垂らしたまま舟の縁に腰を下ろす。
足元では透明度の高い水が透明な青からエメラルドグリーンへと変わり、舟底に影を落としている。
遠くの水平線では薄い雲がゆっくりと流れ、時折白い海鳥が弧を描いて飛び交っていた。
「ニコル! お前もいい加減、しっかりとした仕事につかんとな。ろくな大人になれんぞ」
「こんなボロ舟で魚釣るだけが仕事の父さんに、とやかく言われたくないよ。まぁ……いまに大きなことをやって、父さんも楽させてやるからさ!」
ニコルは、明るく笑う。
しかし笑顔の奥には、胸の奥底でくすぶる焦燥と自分を変えたいという切実な願いが隠れていた。
潮風が頰を撫で、塩の匂いが鼻腔を満たす。
ロブは鼻の下の髭を指でゆっくりと撫で、困ったように目を細めた。
息子の軽やかな言葉を聞きながらも、表情には静かな心配が浮かぶ。
「まったく、お前は……」
呆れたように頭を掻き、ロブは舵を切る。
舟を湖畔へと向けて、動かし始めた。
モーターの低い振動が船体全体に響き、水を切り裂く音が規則正しく続く。
湖面は穏やかだったが、ところどころに小さな渦ができ陽光が水中に差し込んで淡い光の筋を描いていた。
「父さん……今日は、もう終わりかい?」
ニコルは慌ててリールを巻き取り、舟底に仰向けに横たわる。
頭上には果てしなく広がる青い空が広がり、眩しい太陽が白く輝いていた。
雲はほとんどなく、ただ一筋の薄い絨毯のような雲が遠く南の空に浮かぶ。
水飛沫の音やエンジンの低い唸り、時折聞こえる鳥の鳴き声……すべてが、ニコルの心を優しく包み込む。
(幸せだな。こういう生活で、別にいいんだよな。金持ちになるとか、良い生活したいとか……あんまり、興味ないし)
胸の奥が、ふんわりと温かく満たされる。
目を細め、大きくあくびをひとつ。
全身を伸ばすと、その反動で勢いよく起き上がった。
風が髪を乱し、肌に残る湖水の滴が冷たく心地よい。
「マイちゃんが、浜辺に来てるぞ。何か、用事でもあるのか? それとも、約束してたのか?」
視線を湖畔に向けると、長い黒髪を風に激しく乱されながら掻き上げる女性の姿が見える。
幼なじみの、マイ・シーナだ。
白いワンピースの裾が風に翻り、素足が柔らかな黄金色の砂浜に沈んでいる。
背後にはマンダリアンの町並みが霞み、漁具を干す小屋や網が風に揺れる様子が見えた。
ニコルは笑顔で大きく手を振り、エンジンの出力を上げる。
舟は小さな波を跳ねるように加速し、白い航跡を残して湖畔へ近づいていく。
浅瀬になると、ニコルは釣ったばかりの小さな魚を素早く掴んだ。
そして足が濡れるのも構わず、水飛沫を上げて舟から飛び降りる。
冷たい湖水が足首を包み、柔らかい砂が指の間をすり抜ける感触がした。
「マイ、見てくれよ! オレが釣ったんだぜ!」
「えーっ! ちっちゃ! こんなんで、自慢しないでよね!」
マイはわざとらしく眉をしかめたが、すぐにくすくすと笑い声を上げる。
強めの風が二人の間を吹き抜け、マイの黒髪が銀色に輝きながら舞う。
「そんな事より、ニコル聞いた? アメリアで、連邦とザンスカールが激突したらしいよ! ザンスカール帝国って、軍事国家でしょ? 地球に攻めて来ないか、心配だよ」
マイの声には、笑顔の裏に隠しきれない不安の震えがあった。
瞳の奥に、遠い宇宙の影が一瞬よぎる。
ニコルは一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにいつもの明るい声で返す。
「うーん……まぁ、大丈夫でしょ。遥か宇宙の彼方の話だしさ。けど、戦争か……確かに、巻き込まれるのはゴメンだな」
そう言いながらも、ニコルの胸には小さな棘のようなざわめきが残る。
青い湖と空の境界線を見つめると、まるでその向こうに何か巨大なものが潜んでいるような得体の知れない予感がした。
二人が軽口を叩いている横で、ロブは舟を砂浜に引き上げながら静かに湖を眺める。
遠くに見える水平線は、午後の光に霞む。
まるで別の世界と繋がっているかのように、ぼんやりと輝いた。
(何か、嫌な予感がする。宇宙だけで、収まってくれるといいんだが……)
ロブの胸に暗い靄がゆっくりと、しかし確実に広がっていく。
過去に宇宙で生き、戦争の匂いを知る者として……ただ穏やかな海を見つめることしかできない自分が、酷くもどかしかった。
青い湖は、今日も変わらず穏やかである。
しかしその奥底では、何かが静かに動き始めている……父の心は、そう告げていた。