日車法律事務所   作: 聡明 

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1話

 新宿の雑居ビルの一室、冷え切った空気が肺を突く。

 

 午前7時。日車寛見は、デスクに置かれた六法全書を指先でなぞった。かつて法廷で武器として振るったそれではなく、今彼の手元にあるのは、数年前に改訂されたばかりの「呪術事象付随条項」を含む最新版だ。

 

 日本という国は、数年前の未曾有の混乱を経て、歪な形で形を変えた。呪霊という理不尽な存在が公に認められ、法はそれらをどう定義し、どう裁くべきかという終わりのない迷走を続けている。

 

 日車は、その混乱の最前線にいた。以前と同様の弁護士そして、呪術師。それが現在の彼の肩書きだ。

 

 事務所の入り口にある曇りガラス越しに、郵便受けに何かが落ちる音が響く。

 

 彼は椅子を回し、窓の外を眺めた。冬の朝特有の、薄い皮膜のような青い空が広がっている。

 

 かつて死滅回游という地獄で、彼は法を捨て、人を殺めた。その罪が消えることはない。今こうしてスーツを纏い、他人の権利を守る立場に返り咲いていること自体、彼にとっては一種の罰に近い感覚だった。

 

 デスクの上に置かれたスマートフォンが、短く振動した。

 

 液晶に浮かび上がった通知の主は、虎杖悠仁だ。

 

 内容は表示されていない。数年前から、彼からのメッセージは常に未読のまま、アーカイブへと送られるのが常だった。

 

 虎杖悠仁という存在は、日車にとっての眩しさ、そのものだった。

 

 あの法廷で、自分の罪を認めて笑った少年。自分という壊れた大人を、最後まで人間として扱い、救い上げようとした光。

 

 彼を直視することは、今の自分にはできない。彼の瞳に映る自分を想像するだけで、日車の喉の奥には焼けた鉄のような苦みが走るのだ。

 

 不意に、事務所のドアベルが鳴った。

 

 来客の予定はない。日車はネクタイを締め直し、事務的な表情を作って席を立った。

 

 扉を開けると、そこには冬の寒さに頬を赤くした青年が立っていた。

 

 日車の依頼人ではない。だが、よく知る顔だった。

 

「日車。やっぱりここにいた」

 

 その声を聞いた瞬間、日車の視線は無意識に下を向いた。

 

 視界に入るのは、使い古されたアウトドアメーカーのブーツ。泥汚れが少しついている。虎杖悠仁だ。数年前と比べても背格好は何も変わってはいない。しかし声のトーンが落ち着いており、そこに含まれる温度だけは、かつてと何も変わっていない。

 

「……虎杖。どうしてここが分かった」

 

「高専のデータベースに載ってたよ。呪術師と弁護士なんて、他にいないから。メッセージ、全然返してくれないし、直接来たほうが早いかなって」

 

 虎杖は遠慮なく事務所の中に入り、勝手にパイプ椅子を広げて座った。

 

 日車は動けない。扉のノブを握ったまま、視線を足元に固定している。虎杖の足が、リズムを刻むように僅かに動く。その動作一つ一つが、日車の静寂をかき乱していく。

 

「用件は何だ。俺は忙しい。呪術絡みの案件が山積みなんだ」

 

「分かってる。俺も、ただ遊びに来たわけじゃないんでね」

 

 虎杖の声から、軽やかさが消えた。

 

 日車は僅かに視線を上げ、虎杖の胸元に視線を止めた。高専の制服ではない、落ち着いた灰色のコート。その襟元には、小さな傷跡が見えた。戦いの名残。それは日車が負わせたものではないが、彼の心に深く刻まれた。

 

「……高専からの依頼か。それなら手順を踏め」

 

「いや、個人としての依頼。日車にしか、頼めないことだから」

 

 虎杖は懐から一通の封筒を取り出し、デスクの上に置いた。

 

 そこには、日車がかつて救えなかった青年、岩戸継太と似た年齢の少年の写真が同封されていた。

 

「この子、呪力がないのに呪具を使ったっていう理由で、今、高専の拘束施設に送られてる。正当防衛だった。でも、上層部は『危険な呪具の不法所持と使用』を重く見て、処刑まで視野に入れてる。……これって、おかしくない?」

 

 日車は封筒に歩み寄り、写真を手に取った。

 

 少年の怯えた瞳。その背後に、かつての自分の絶望が重なる。

 

 法が救えない者を、誰が救うのか。日車はその問いに答えるために、この場所に戻ってきたはずだった。

 

「高専の決定に異議を申し立てるのは、骨が折れる。それに俺の報酬は高いぞ」

 

「金なら、バイトして貯めたんで大丈夫。それに、絶対受けてくれるって俺は信じてるから」

 

 虎杖の視線が、日車の顔を捉えようとしているのが分かる。

 

 日車はそれを避けるように、わざとらしく資料の整理を始めた。

 

 虎杖の視線を正面から受けることは、まだ、自分には許されていない。

 

「……事件の概要を説明しろ。まずは状況証拠からだ」

 

 日車がそう告げると、虎杖はパッと表情を明るくした。

 

 その眩しさから逃れるように、日車はブラインドを下ろす。

 

 冬の陽光が遮られ、事務所は再び、彼にとって心地よい、灰色の静寂に包まれた。

 

 これは、赦しの物語ではない。

 

 日車寛見という一人の男が、自分自身に下した判決を、いつか覆すための戦いだった。

 

 その隣に、自分を信じ続けている少年の視線があることを、彼はまだ、認められずにいる。

 

「……コーヒーくらいは、出してやろう。自分で淹れてくれ」

 

「あはは、了解」

 

 虎杖の笑い声が、事務所の壁に反響する。

 

 日車は足元の影を見つめたまま、深い溜息をついた。

 

 これから始まる、長く、苦しい法廷闘争。

 

 それは、彼が虎杖悠仁の瞳を、再び真っ直ぐに見つめ直すための、第一歩になるはずだった。

 

 

 

 事務所の窓から差し込む冬の光は、書類の山に鋭い陰影を落としていた。

 

 日車寛見は、虎杖が置いていった写真の中の少年、佐々木昭平の横顔を見つめた。16歳。未成熟で頼りない輪郭。

 

 だがその少年を包囲しているのは、一般社会の法ではなく、呪術界という巨大な密室が抱える不文律だった。

 

「状況を整理しよう。虎杖、君の話が事実なら、この少年は『正当防衛』を主張できるはずだ」

 

 日車はデスクの上のペンを手に取ったが、その指先はわずかに震えていた。

 

 視線を落とした先には、虎杖の組まれた両手がある。節くれ立ち、数多の死線を潜り抜けてきたその手には、いくつもの小さな傷跡が地図のように広がっていた。その生々しさから逃れるように、日車は再び書類へと意識を投げた。

 

「でも、高専の上層部はそうとは考えていない。彼らが問題にしてるのは、この子が『許可なく一級相当の呪具を所持し、それを行使して術師を殺害した』ってことそのものだから」

 

 虎杖の声には、隠しきれない憤りが混じっていた。

 

 かつて少年院で、あるいは渋谷で、彼が直面してきた理不尽。それは形を変え、今もなおこの世界の底に澱んでいる。

 

「呪術界における法は、秩序の維持を最優先とする。個人の救済はその次だ。……いや、そもそも選択肢にすら入っていないのかもしれないな」

 

 日車は自嘲気味に息を吐いた。

 

 呪具管理法、第14条。非術師による呪具の不当所持および使用は、その動機を問わず厳罰に処す。

 

 この条文こそが、今回、少年の首を絞める絞首刑の縄となる。

 

「あの子には、守りたいものがあっただけなんだ。母親を術師の嫌がらせから守るために、落ちてたナイフを拾った。それがたまたま強力な呪具だった。……それだけで死ななきゃいけないなんて、俺は、どうしても納得いかない」

 

「納得がいかない、か。……法律家が最も嫌う言葉であり、同時に、最も重んじなければならない言葉だ」

 

 日車は椅子から立ち上がり、壁際の書棚へ向かった。

 

 彼の背中越しに、虎杖の視線を感じる。それは鋭い批判ではなく、純粋な期待を含んだ熱だった。その熱が、日車の背中を焼く。

 

 自分にはその期待に応える資格があるのか。

 

 数年前、法廷で人を裁く権利を自ら放棄し、自らを断罪しようとした自分が。

 

「……虎杖。君は私に何を求めている。無罪を勝ち取ることか、それとも少年の命を繋ぐことか」

 

「両方です。日車さんなら、できると思ったから」

 

「傲慢だな。俺は法の女神ではない」

 

 日車はわざと冷淡に言い放ち、一冊の古い判例集を抜き出した。

 

 だが、その内面では激しい動揺が渦巻いていた。

 

 虎杖が自分を選んだのは、自分が術師であり弁護士だからだけではない。

 

 一度道を誤り、それでも生きることを選んだ人間、だからこそ、見つけられる死角があると信じているのだ。

 

「明日、拘置所……いや、高専の忌庫近くにある隔離結界へ向かう。少年の接見を行う。……ついてくるか」

 

「もちろん‼︎」

 

 虎杖の返事は、弾けるように明るかった。

 

 日車はつい、その顔を確認しようとして、寸前で思いとどまった。

 

 視界の端に映ったのは、虎杖が座るパイプ椅子の脚と、その横に置かれた使い古されたリュックサック。

 

 まだだ。まだ、彼の目を見てはいけない。

 

 今の自分は、過去の返り血で汚れた鏡のようなものだ。そこに虎杖の清廉な瞳を映すには、あまりにも自分という存在が不透明すぎた。

 

「それと。一つ、釘を刺しておく」

 

 日車は書棚に向いたまま、低い声で言った。

 

「これは戦いだ。暴力ではなく、言葉と理論による戦いだ。君が今までやってきたことよりも、ずっと泥臭く、卑怯で、不毛な時間が続くことになる。……耐えられるか」

 

「慣れてるよ。あの戦いを経験したんだ。それに、日車の戦い方、俺、嫌いじゃないし」

 

 虎杖は笑っていた。気配で分かる。

 

 その屈託のなさに、日車は僅かに唇を噛んだ。

 

 不平等な現実を、平等に裁く。

 

 その理想を追い求めて壊れた自分が、再びその理想の旗を掲げようとしている。

 

 救いたいわけではない。ただ、放置することができないだけだ。

 

 そんな自分自身の呪いを、日車はようやく受け入れ始めていた。

 

「……今日はもう帰ってくれ。資料を読み込む必要がある」

 

「あはは。じゃあ、また明日。朝9時に迎えにくるね」

 

 足音が遠ざかり、事務所のドアが閉まる。

 

 再び訪れた静寂の中で、日車はゆっくりと、震える手で顔を覆った。

 

 デスクの隅、少し冷めたコーヒーから、微かな湯気が立ち上っている。

 

 彼は深く、深く息を吐き出した。

 

 肺に溜まった澱を吐き出すように。

 

 そして、これから始まる戦いのために、新しい、冷たい空気を吸い込むために。

 

 日車の背後で、夕闇に紛れるようにして、ジャッジマンの天秤が僅かに揺れた。

 

 それは断罪の合図ではなく、再審の始まりを告げる、静かな鼓動のようだった。

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