転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

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別れが近づくほど、どうでもいいはずの一日一日がやけに鮮明になる。
鍬次郎たちとの軽口も、最後の立ち合いも、夜の涙も、朝の見送りも。
これは、沖田総司と四乃森蒼紫が、たった一月のあいだ確かに互いを変えてしまった話です


別れの朝、約束の夜

一月という時間は、始まる前こそ永遠のように思えたのに、終わりが見え始めるとひどく短く感じられる。

 

眠れない夜は、やはり眠れないまま通り過ぎていく。

それでも、蒼紫君がやって来てからのこの一月は、私の中で不思議なほど鮮明に区切られて残っている。

 

あの子を打ち据えた日。

初めて巡回へ連れ出した日。

 

羽織を初めて着せた日。

抜刀斎の凄絶な剣気にあてられ、手も足も出ずに震えていた夜。

 

どれもこれも血と泥に塗れた日常の中の出来事なのに、なぜかそこだけ妙に輪郭がくっきりと浮かび上がってくるのだ。

その一月も、もう幕を下ろそうとしている。

 

縁側の向こうでは、鍬次郎と周平が、帰り支度を始めた蒼紫君にまとわりついている。

 

「おいおい明後日?もう江戸へ帰っちまうのか?良いじゃねえか御庭番衆なんか辞めてこっちに残れよ!」

 

鍬次郎の雑極まりない勧誘が響く。

蒼紫君は手元の荷物をまとめる作業を一切止めない。

 

「……そういう訳にはいきません。俺には御頭としての使命がある」

 

「何だよつれないねえ!この間茶屋であんみつ奢ってやっただろーが!」

 

「……俺はあんたの酒代を五回は奢ってますけど」

 

「男は小さなことを気にしないものだ!!な!」

 

「それ自分が損してない側の台詞だよなあ」

 

「鍬次郎……お前そのうち絶対後輩から嫌われるよ」

 

「うるせー!お前に言われたかねえ!」

 

私は少し離れた柱の陰に身を潜め、その他愛のないやり取りを眺めている。

 

朝稽古の前に声をかけようと思っていたのに、鍬次郎たちに先を越されてしまい、踏み出す機を逸しただけだ。

決して寂しいわけではない。そこは絶対に譲れない。

 

ただ、蒼紫君の返す言葉の端々に、以前にはなかった柔らかな響きが混じっていることに気づく。

洛中へ来たばかりの頃なら、もっと氷のように冷たくあしらっていたはずだ。

必要以上の言葉を発さず、新選組の連中と馴れ合う気など微塵もないと、顔に書いてあった。

 

それが今は、鍬次郎のどうしようもない軽口にも律儀に付き合っている。

面倒くさそうな素振りを隠さないものの、時折その口元が微かに緩むのを私は見逃さない。

 

「……別に嫌いじゃないですけどね」

 

「え?なんだ?今なんか言ったか?」

 

蒼紫君は顔色ひとつ変えずに、涼しい声で言い直した。

 

「いや。新選組と馴れ合いはしないとそう言っただけです」

 

「全然違うじゃねえか!」

 

「気のせいですよ」

 

その瞬間、ほんの僅かに蒼紫君の唇が弧を描いた。

ただそれだけで、私の胸の奥に小さな灯りがともる。

 

この子は、血の匂いと狂騒に満ちた壬生の狼たちの群れに、いつの間にか溶け込んでしまったのだ。

 

それが彼にとって幸福なことなのかはわからない。

御頭が見れば、きっと渋面を作るだろう。

 

でもあの子が少しずつ心の扉を開いていく様を見るのは、決して悪い気分ではなかった。

 

……おそらく、その変化を誰よりも待ち望んでいたのは、私自身なのだろう。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

だからこそ、今日の立ち合いは、一切の妥協なく終わらせるつもりでいる。

 

 

鍬次郎たちもぞろぞろと後をついてきて、いつの間にか見物人の輪ができている。

近藤さんまでが上座に陣取っているのはどうかと思うが、この人は面白そうな匂いを嗅ぎつけるとすぐさま飛んでくるのだから仕方がない。

 

「総司。今日は最後の立ち合いなんだってな」

 

「そうですよ。だから近藤さん絶対に茶々入れないでくださいよ」

 

「おうわかった!」

 

あの顔は絶対にわかっていない。期待するだけ無駄というものだ。

 

私は指先から伝わる刀の重みを確かめ、静かに平正眼に構える。

蒼紫君もまた、滑らかな動作で小太刀を抜き放った。

 

間合いの測り方が、出会った頃とは比較にならないほど洗練されている。

以前はただの生意気な小僧だったのが、今は斬り結ぶ直前の最も恐ろしい位置に、自然体で立つことができるようになっている。

忍び特有の幻惑的な歩法に、私が徹底的に叩き込んだ実戦の殺気が混ざり合っていた。

 

ひどく厄介な相手に育ったものだ。

剣を教えた者としては無上の喜びであり、刃を交える者としてはひどく鬱陶しい。

 

「行くわよ」

 

「……はい」

 

呼気が白く散った瞬間、道場の空気が凍りついた。

 

蒼紫君の重心が、深く地の底へ沈み込む。

瞬きする間に、その姿が残像を引きながら変幻自在の軌道を描き始めた。

 

御庭番式拳法の極意『流水の動き』

直線ではない。単純な左右への移動でもない。

 

上半身と下半身の連動が意図的にずらされており、踏み込むその刹那まで、どこへ刃を差し込んでくるのか全く読めない。

 

「このっ!」

 

裂帛の気合いと共に刀を薙ぎ払うが、手応えは虚しい空を切るのみ。

前へ出ると思った矢先には、すでに水流のごとく横へ逸れている。

 

見事だ。

ただ「避ける」だけだった以前とは違う。

私の剣筋をいなしながら、常に視界の死角へと潜り込もうとするその動きには、私の太刀筋を徹底的に研究し尽くした痕跡があった。

 

感嘆の息が漏れそうになる。

 

「……すごい。完璧な流水の動き……!」

 

だが、感心したからといって大人しく負けてやる気など毛頭ない。

どれほど滑らかに動こうとも、守勢から転じて相手の命を刈り取ろうとする瞬間には、必ず『殺気』の淀みが生じる。

人が人を斬る時、その呪縛から逃れられる者はいない。

 

「だけど攻撃に移るその一瞬の『殺気』の起こりを逃さなければいいのよ!」

 

蒼紫君の足が床を蹴る位置を先読みし、私は渾身の刺突をその空間へ置きにいく。

普段ならば、これでバランスを崩し、彼は次の一手を迫られるはずだった。

だが。

 

「回転剣舞!!」

 

蒼紫君の裂くような叫び声に、私の身体は条件反射で反応していた。

 

「はっ!!!」

 

全力で迎撃を振り抜く。

しかし、そこには何の抵抗もなかった。

 

「……あれ?」

 

気の抜けた声が唇からこぼれ落ちる。

私の目の前にあるはずの小太刀が、存在しなかったのだ。

蒼紫君は「回転剣舞」という大技の名を叫びながら、その実、手の中の小太刀を直前で手放していた。

 

技名で私の意識を完全に絡め取り、武器そのものを囮として放り投げる。

そんな発想、以前の彼からは想像もつかない。

 

完全に虚を突かれた私の懐へ、彼は流水の動きを保ったまま、音もなく滑り込んできた。

距離が消失する。

華奢な身体のどこにこれほどの力が潜んでいたのか、全くブレのない軸のまま、私へ組みついてきた。

 

「おわっとっとっと!!」

 

見事に体勢を崩される。

私の足が宙を掻いた。

まずいと直感した時には、すでに鋭い足払いが決まっていた。

 

受け身を取る暇すら与えられず、背中が激しく道場の床へ叩きつけられる。

視界が大きく揺れ、肺から空気が弾き出された。

 

押し倒されるような形で、私の上に蒼紫君が乗りかかり、その手刀が私の頸動脈へぴたりと添えられている。

 

「そこまで!!!」

 

「ガハハハハ!!!やるじゃねえか!!!蒼紫君!!!ウチの総司から例え騙し討ちだろうと一本取れる奴なんてこの新選組の中にも五人と居ねえぞ!!!見事だ!!」

 

「近藤さん!!笑ってないで助けてください!蒼紫君の体重で私の肋骨が折れます!!」

 

「お前そんなに柔じゃねえだろうが!」

 

「女子相手に何言ってるんですかゴリラ!!」

 

「誰がゴリラだ!!」

 

周囲の騒がしいやり取りなど耳に入っていないかのように、蒼紫君だけが石像のように固まっていた。

 

自分が成し遂げた事実を、脳がまだ処理しきれていないのだ。

 

「……やった」

 

「……ん?」

 

「やった!!!あんたに……勝った!!!」

 

常に纏っていた氷のような冷静さが、熱を帯びて一気に融解していく。

 

そこにいたのは、年相応の、ただ純粋に勝利を喜ぶ十四歳の少年の顔だった。

無邪気で、嬉しくてたまらなくて、眩しい笑顔。

 

ああ、なんだ。

この子は、こんなにも綺麗に笑うことができるんじゃないか。

 

「……そうね!!蒼紫君の勝ち!!私完全に騙されたわ!!!すごい!!」

 

床に仰向けになったまま、私を組み伏せている彼の頭へ手を伸ばし、その髪を無遠慮にわしゃわしゃと撫で回した。

 

「本当によくやったわね蒼紫君」

 

「私強い人が好きよ!!だから私から一本取った蒼紫君も好き!!」

 

あ、やってしまった。

別に色恋の意味などなく、純粋に強者を尊ぶ剣士としての称賛であり、過酷な稽古に耐え抜いた彼への労いだったのだが、多感な十四歳の少年には少し刺激が強すぎたらしい。

 

「え?」

 

「えじゃないわよ。褒めてるの。そこは素直に喜びなさい」

 

「……はい!」

 

本当に、可愛い子だ。いや違う、これはあくまで師匠としての情愛だ。そこは間違えてはいけない。

 

近藤さんは相変わらず腹を抱えて笑い転げているし、鍬次郎は「見たか今の!完全に一本だよな!?」と騒ぎ立て、周平が「鍬次郎お前が勝ったわけじゃないんだから落ち着け」と宥めている。

 

手加減などしていなかった。刀を手放さなかったことだけが、かろうじて私の矜持を保たせていた。

 

「総司、悔しいか?」

 

近藤さんが、本当に嬉しそうに尋ねてくる。

 

「悔しいに決まってるじゃないですか。でも嬉しいですよ」

 

「私が叩き込んだものをちゃんと自分の剣にして返してきたんですもの。それで悔しくないわけがないし嬉しくないわけもないでしょう」

 

その言葉に、蒼紫君は再び目を丸くした。

 

「蒼紫君。今日の一本はまぐれじゃない。騙しも読みも全部含めて立派な勝ちよ。そこは胸を張りなさい」

 

「……はい」

 

私の裡で凍りついていた時間が、その瞬間だけ微かに脈打った気がした。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

私は、夜という時間がひどく嫌いだ。

目を閉じても眠れない夜は、なおさら憎たらしい。

 

酒をあおったところで眠気が訪れるわけでもないが、何かに縋っていなければ、自分の中の空洞に押し潰されそうだったから。

 

そこへ、微かな足音が近づいてくる。

振り返るまでもない。

 

「蒼紫君」

 

「……失礼します」

 

「いいわよ座りなさい」

 

背筋がぴんと伸びている。そういう律儀なところが、本当に彼らしい。

手元の盃をもう一つ取り出し、彼へ向かって差し出した。

 

「はいこれ。ご褒美よ」

 

蒼紫君は目をぱちくりとさせる。

 

「でも俺はまだ酒を飲める歳じゃ……」

 

「アンタはこの沖田総司から一本取ったのよ。ならもう一人前の『男』として扱ってあげないとね」

 

いつ命を落とすかわからない狂乱の京において、十四も十六も大した違いはない。

生きるか死ぬかの境界線に立つ者にとって、年齢などという符丁よりも、魂の覚悟こそが人を大人へと変えるのだ。

 

膝元に置いていた布包みを解き、綺麗に折り畳まれた新品の小さな浅葱色の羽織を取り出した。

彼のためだけに特別に仕立て直させたものだ。

 

江戸へ帰るというのなら、せめてこれを持たせてやりたかった。

 

「これあげる」

 

「アンタが新選組の一員として立派に戦い抜いた証拠。前の奴は血まみれでしょ?まあ正式入隊じゃないけどね。体験入隊特典みたいなものよ」

 

「……宝物にします」

 

「大げさね」

 

「大げさじゃありません」

 

返ってきた声は、不器用なほどに真剣だった。

普段から生真面目な子だが、今の眼差しは私の方がたじろいでしまうほどに熱を帯びている。

 

沈黙が降りた後、蒼紫君が静かに口を開いた。

 

「……あの。沖田さん。俺……四乃森蒼紫です」

 

「なによ急に。いつか私名前間違えた?」

 

「いえ」

 

「……俺は藤堂平助じゃありません」

 

その名前が耳を打った瞬間、私の世界から全ての音が消え去った。

心臓の鼓動すらも止まったかのように錯覚した。

 

指先から力が抜け、持っていた盃が縁側の床へ乾いた音を立てて転がり落ちる。

注がれていた酒がこぼれ、月の光を乱反射させながら黒々とした染みを作っていった。

 

息が詰まり、声が出ない。

ずっと、その事実を言葉にして突きつけられることだけを恐れていたのだ。

 

わかっていた。

初めから、そんなことは痛いほど理解していたのだ。

蒼紫君は蒼紫君であり、決して平助ではない。

失ったものの代わりなど、この世のどこにも存在しない。

 

それなのに私は、彼に平助の幻影を重ね合わせ、いつしかこの一月の間、自分の世界の中心に彼を置いてしまっていた。

 

すべては、喪失の痛みを誤魔化すための、私の身勝手な執着だった。

 

「……………………そう……そうよね」

 

「ごめんね蒼紫君。……ごめん……」

 

その瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れた。

大粒の涙が、堰を切ったようにぽろぽろとこぼれ落ちる。

奥歯を噛み締めて止めようとしても、後から後から溢れてきて視界が滲む。

 

泣くつもりなど、欠片もなかったのに。

泣き喚くような惨めな姿など、絶対に見せたくなかったのに。

 

「な…泣かないでくださいよ」

 

「俺が悪いこと言ったみたいじゃないですか」

 

「………蒼紫君は悪くないよ……」

 

両手で顔をきつく覆う。

うまく空気が吸えず、しゃくり上げる自分の泣き声がひどく浅ましく思えた。

それでも、一度決壊した感情はもう元には戻らない。

 

「でも……ダメなの。私夜になると……何かしていないと落ち着かないの……!」

 

瞼の裏に、平助の屈託のない笑顔が焼き付いている。

あの子は、最期の瞬間まであの子らしさを貫いて逝ってしまった。

 

「平助は……『今の新選組のやり方は嫌いだけど近藤さんやあんたたちが負けるのは見たくない』って……!!」

 

あの今際の際の言葉が、今もずっと私の耳元で呪いのように響き続けている。

 

「そう言って私に……わざと斬られたのよ……!!」

 

暗闇の中、彼は逃げ延びることも、刀を引くこともできたはずなのだ。

それなのにあの子は、残酷なほど優しい理由で、私の凶刃の前に自ら身を投げ出した。

 

「……なんで……あの子は……。なんで私を置いて……!!」

 

人を斬り殺す時の方が、どれほど心が静かだっただろう。

こうして喪失の痛みを自らの口でなぞることは、肉を裂かれるよりも何倍も苦痛だった。

 

その時、隣にいた蒼紫君が私の傍へと身を寄せた。

躊躇いはあった。それでも彼は、惨めに泣き崩れる私から決して逃げ出さなかった。

 

私の震える肩を、少年の細い腕がそっと抱き寄せる。

決して強引ではないが、私が拒絶して振り払うことを許さないほどの、真っ直ぐで力強い抱擁だった。

 

「俺その藤堂って人のこと知りません」

 

「俺はアンタしか知らないです。沖田総司しか知らない」

 

私は顔を上げる。

涙でぐしゃぐしゃに歪んだ視界の先に、ただひたすらに私だけを映し出す、漆黒の瞳があった。

 

ああ、この子は本当に優しい。

こんなにも優しすぎるからこそ、刃を握るその手がひどく危うく見えるのだ。

 

その相反する危うさが、狂気に満ちたこの時代に皮肉なほど似合ってしまっている。

 

「……だけど俺は……アンタのその顔に涙は似合わないと思うんです」

 

そんな真っ直ぐな言葉をぶつけられたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

蒼紫君の顔が、驚くほど近くにあった。

 

「………………蒼紫君。……一人前の男の顔になったのね」

 

「俺は男です。……アンタが俺をそうしたんです」

 

「……蒼紫君」

 

「……良いよ」

 

彼の首筋にゆっくりと両腕を回し、その耳元へ唇を寄せた。

 

「私の全部アンタに教えてあげる」

 

「……はい」

 

 

夜風が不意に縁側へ吹き込み、庭に面した障子が、まるで誰かの手によって導かれたかのように静かに閉められた。

 

外界のすべてから完全に遮断された、二人きりだけの狭く甘美な空間。

 

その夜、私たちは一度だけ、互いの魂に穿たれた深い空洞を埋め合わせるように、そして明日訪れる別離を惜しむように、深く、ひたすらに深く繋がり合った。

 

私の裡に巣食っていた罪悪感は、彼の熱情と、身を焦がすような真っ直ぐな愛によって、溶けるように消え去っていく。

 

夜の深い闇の中、私の漏らす吐息と、彼のひどく荒れた呼吸の音だけが、いつまでも静かに交じり合い、溶け合っていた。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

朝が来た。

 

空気は、肌を刺すように容赦なく冷たい。

それなのに、私の頭はひどく澄み渡り、心地よい目覚めを迎えていた。

胸を締め付けるような悪夢を見なかったのは、一体いつ以来だろう。

 

ふと隣に目をやると、そこにいる蒼紫君の顔つきが劇的に変わっていることに気づく。

たった一晩で人間がどう変わるのかと問われても困るのだが、紛れもなく彼は変わっていた。

 

ああ、この子はもう昨日までの彼ではないのだと、一目見ただけで理解できた。

 

私は先に寝床を抜け出し、いつもの浅葱色の羽織に袖を通す。

鏡の前に立つと、そこに映っているのは、一切の隙もない顔だった。

 

昨夜流した涙の痕跡など微塵もない。

あれほど女を剥き出しにした顔は、夜の闇の中だけで十分だ。

 

屯所の門前には、すでに見送りの面々が勢揃いしていた。

御庭番衆の翁さんと御頭、旅装束に身を包んだ蒼紫君、そして新選組の幹部たち。

 

鍬次郎は相変わらず朝からやかましく騒いでおり、周平がそれを必死になだめている。

永倉さんは快活に笑い、土方さんはいつも通り面倒くさそうなしかめ面で腕を組んでいた。

 

近藤さんだけが、なぜか妙に嬉しそうな顔つきをしている。

この人は昔から、人との出会いや別れといった人情話にひどく脆いのだ。

 

「すっかりお世話になってしまって。近藤局長、土方副長」

 

御頭が深々と頭を下げる。

 

「いやいや!こちらこそ若い優れた才能から良い刺激をもらいましたぞ!気をつけてお帰りくだされ!」

 

近藤さんが豪快に笑い飛ばして応じた。

 

「学びは深かったです」

 

「この京都に来た時より俺は格段に強くなったと自分でも確信しています。新選組の皆様の剣は、一生忘れません」

 

迷いのない、堂々としたその挨拶。

 

『……ほう』

 

『……たった一月で顔つきが完全に変わっている。迷いのない覚悟を決めた「大人の男」の凄みが出ているではないか。……一体この一ヶ月で何があったのかはわからんが。なら良い。この京都滞在は決して無駄ではなかったということだ』

 

鍬次郎が空気を読まずに大声を張り上げる。

 

「また来いよ!!いつでも大歓迎だぜ!!」

 

「今度来たらまた島原であんみつ奢ってやるからよ!!」

 

「だから俺の方が酒代多く払ってるって何度言えばわかるんですか」

 

この噛み合わないやり取りを聞くのも、これで最後かと思うと、少しばかり寂しさが込み上げてきた。

 

「幹部の席を一つ空けて待ってるって土方さんが昨日こっそり言ってたよ!!早く江戸での仕事終わらせて戻っておいでよ!!」

 

周平君が、とんでもない内部機密を大声で暴露してしまった。

 

「バラすな!!バカ周平!!」

 

ああいう誤魔化し下手なところ、本当にわかりやすい人だ。

本気で引き抜こうとしていたわけではないだろうが、半分くらいは本音だったに違いない。

 

蒼紫君は、新選組の鬼の副長にそう思わせるだけの鮮烈な爪痕を、この壬生に残したのだ。

 

「俺はそんなこと一言も言ってねえ!!お前は少し口を慎め!!局長のドラ息子だからって容赦しねえぞ!!」

 

「はっはっは!鬼の副長のメンツが台無しだぜ!」

 

永倉さんまでが腹を抱えて笑い出す。

 

門前の空気は、別れの朝だというのにひどく明るかった。

それでも自分の前から誰かがいなくなってしまうのは、いつだって嫌なものだ。

 

私は一歩だけ前へ進み出た。

 

「…………蒼紫君」

 

「……はい」

 

彼にかけるべき言葉は、最初からひとつしか決まっていない。

 

「死ぬんじゃないわよ」

 

それだけが、あの子に出会った日から今日まで、ただ一つ伝え続けたかった願いだった。

京の地獄のような修羅場へ連れ回し、徹底的に剣を叩き込んできたのも、結局のところ一番大事なのはその一点に尽きる。

 

「……もしアンタが無事に生き延びて、立派な御頭になって江戸で一番の男になったら。その時は……」

 

「その時はまた私に会いに来なさい。あの夜の続き……たっぷりとしてあげるから」

 

「……!!」

 

嘘をつくつもりは毛頭ない。

昨夜の出来事をただの一時的な熱病として終わらせたくなかったし、あの子にとっても、ただの慰めだったと思わせたくなかった。

 

だからこそ、未来へ繋がる約束の呪いをかけたのだ。

 

「ええ……いつか必ず」

 

これ以上は何も語らない。

言葉を重ねれば、きっとまた抑え込んでいた夜の顔が表へ出てきてしまう。

 

今は太陽が昇る朝であり、私は新選組一番隊組長の沖田総司なのだから。

これでいいのだ。

 

鍬次郎がまた何か的外れなことを叫んでいる。

周平がちぎれんばかりに手を振っている。

 

近藤さんが顔をくしゃくしゃにして大きく笑っている。

土方さんは煙管に火をつけながら、それでもその鋭い眼差しでしっかりと少年の背中を見送っている。

 

蒼紫君が最後に一度だけ振り返った。

私はもう一度、彼へ向かって軽く右手を上げた。

 

これにて、激動の一月は終わりを告げる。

 

 

 

 

 

 

 

ほんと、最悪の時代だ。

 

いともたやすく人が死ぬ。昨日まで肩を並べて笑い合っていた仲間が、明日には冷たい骸になっている。

 

それなのに、人は誰かを愛おしいと思い、誰かに救われ、そして誰かを救いたいと身勝手に願ってしまう。

 

こんな血生臭い時代に、そんな甘美な感情を抱くなんて、底抜けの馬鹿だ。どうしようもなく、救いようのない馬鹿だ。

 

けれど、だからこそ、生きているという確かな実感を得られる瞬間があるのも事実なのだ。

 

 

目の奥が少しだけ熱を帯びてじんわりと痛む。

でも、もう決して泣かない。

 

今はもう、夜ではないのだから。

 

「……さ、仕事しよ」




過去編としてはここで一区切りです。
総司にとっての小さな救いと、蒼紫にとっての一生消えない呪いみたいな約束、その両方を書きたかった回でした。
「ここが好き」「ここがしんどい」があれば、ぜひ教えてください。

第一回キャラクター人気投票(コメントもぜひ感想欄に)

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