転生して型月版・沖田総司になったけど、労咳を克服したら明神弥彦の母になっていた件 〜るろ剣世界で最強のママやってます〜   作:だいたい大丈夫

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銃を持てば天才狙撃手、持たなければ泣き虫の看板娘。
そんな危うすぎる才能を開花させた燕ちゃんに、神谷道場の大人たちは当然のように地獄の英才教育を始めた。
けれど、本当に燕を強くしたのは、砂袋でも拳銃でもなく、ただ一つの教えだった。
今回は、三条燕が守られるだけの少女を卒業する回です。


引き金を引かない強さ

早朝の神谷道場は、小鳥の囀りなどという生ぬるいBGMを一切許容しない。

 

近隣住民の安眠を切り裂くのは、脳天を叩き割るような竹刀の風切り音と、重低音の打撃音である。

 

一般家庭の朝が味噌汁の芳醇な香りと平和な欠伸で幕を開けるのだとすれば、この家は明らかに法と倫理の治外法権にあった。

 

仮に味噌汁の匂いが漂っていたとしても、そのすぐ横では誰かが宙を舞い、誰かが地面にめり込み、誰かが「次!」と死神のような歓声を上げているのだ。

 

しかも本日の生贄には、近所の牛鍋屋から拉致されてきたいたいけな娘まで混ざっている。

もはや近隣への説明責任やコンプライアンスといった概念は、この敷地内において完全に息絶えていた。

 

庭の中央では、燕が疑うような重さの砂袋を背負わされ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら走らされている。

足取りは生まれたての子鹿よりも頼りなく、肺からは血の匂いがしそうなくらい息が上がりきっていた。

髪は朝露と冷や汗で額にへばりついている。

それでも彼女が立ち止まれないのは、歩みを止めた瞬間に背後から鼓膜を突き破るような「愛の鞭」が飛んでくるからだ。

 

「いいわよー!燕ちゃん、足上がってるわよ〜!!あと二百周!!」

 

満面の笑みで竹刀を構える琴の声は、音階だけが無駄に明るい。

表情は初夏のひまわりのように朗らかなのに、吐き出しているノルマは完全に鬼軍曹のそれである。

 

しかも彼女のタチが悪いのは、一片の悪意もなく「善意」で児童虐待スレスレのシゴキを行っている点だ。

無自覚な狂気ほど回避困難なものはない。

 

「はっ……はっ……はっ!!なんで!?わたし?!なんで死に物狂いで走ってるんですか!?」

 

つい先日まで皿洗いとお茶出しを主戦場としていた可憐な少女が、何の因果か地下射撃場でトリガーハッピーの才能を開花させ、翌朝には重労働の刑に処されているのだ。

人生のカーブが急すぎて、もはや遠心力で首がもげそうであった。

 

「燕は基礎体力と筋力がなさすぎる。これじゃあ、立派な暗殺者になれない。ショットガンの反動で肩が外れる。……大丈夫でない。走れ」

 

「だから、私は暗殺者志望じゃありません〜!!弥彦君のお嫁さん志望です〜!!」

 

「それとこれとは別問題」

 

「別じゃないですぅ!!」

 

未来の夫を守るためとはいえ、なぜライフルを撃ち放つような筋肉を要求されるのか。

燕の悲鳴を他所に、薫が腕を組んで颯爽と口を挟む。

 

かつての彼女なら「可哀想だからその辺で」とストッパーの役目を果たしていたはずなのだが、銃火器の硝煙の匂いと闇組織のドンごっこの蜜の味を覚えてしまって以来、思考回路が完全にダークサイドへと堕ちていた。

 

「えーと。銃の反動に腕が耐えられないなら、腕の筋肉をつけるしかないわね。……よし、燕ちゃん。指立て伏せ百回よ。ほら、地面に這いつくばって」

 

「む、無理です!私、普通の腕立て伏せすら一回もできません!!」

 

「大丈夫よ、私も一緒にやってあげるから……そらっ」

 

言うが早いか、薫は地面へ鮮やかに伏せた。

しかも親指と人差し指の二本だけで全身を支え、ミシン針のような尋常ではない高速ピストン運動を開始する。

関節の構造を無視した妙に滑らかな動きが、見ている側の神経を逆撫でする。

 

「はい!一!二!!三!!……どう?簡単でしょ?」

 

「で、出来てる……。この道場の女の人たち、みんな人間辞めてる……。化け物の巣窟だわ……」

 

少なくともこの神谷道場に生息する女性陣に限って言えば、常識という名のストッパーを持った人間から順に淘汰され、現在残っているのは生存競争を勝ち抜いた純度百パーセントの戦闘狂のみである。

 

そこへ、縁側から音もなく蒼紫が歩み寄ってきた。

この魔境において唯一「理知的な大人の対応」を期待できそうな冷涼な美貌の持ち主であることが、かえってこの家の狂気レベルの底知れなさを浮き彫りにしている。

 

「全く……年端もいかない娘に無体なことをする。これだから女の指導は荒っぽくていかん」

 

地獄に仏、いや魔王の城に舞い降りた大天使を見るような縋る視線を、燕が向ける。

 

「そうなんです!!お父さん!!助けてください!」

 

「お父さん」という魔法の三文字が放たれた瞬間、氷の御庭番の口元がだらしなく崩壊した。

 

本人は微塵も顔に出していないつもりだろうが、毛穴という毛穴から歓喜が漏れ出ている。

 

「安心しろ。俺は優しく、そして合理的に教えよう。……まず、これを飲むんだ」

 

蒼紫が懐から勿体ぶって取り出したのは、どす黒い丸薬が詰まった小瓶であった。

どう贔屓目に見ても劇薬指定の違法ドラッグである。

燕は生存本能に従い、瞬時に後ずさる。

 

「……これは?」

 

「御庭番衆に古くから伝わる、禁断の『筋肉増強の秘薬』だ。これを毎日飲めば、過酷な訓練などせずとも、式尉のような鋼の筋肉が手に入る」

 

その言葉を合図に、背後で待機していた式尉が唐突に上半身をはだけさせ、テカテカに光る大胸筋を脈打たせながらポージングを決めた。

 

「ふんっ!おおっ!ぬおおおっ!!嬢ちゃん、俺の背中に乗るか!!?いい筋肉だろ!!」

 

「た、多分そうなったら、私……弥彦君に嫌われるのでは?ムキムキの燕ちゃんになっちゃいます……。というか、お薬って昨日の恵さんと同じパターンじゃ……」

 

燕の危機察知能力は、この数日で飛躍的に向上していた。

神谷道場で提供される「謎の薬」という時点で、それは毒殺か人体実験の二択であると疑ってかかるのが正しい生存戦略だ。

 

「そうか……?まあいい、燕。あと一回の服用で、すべてのノルマを飲み終わるんだが……」

 

「え?」

 

燕の顔から一瞬で血の気が引いた。

自分のあずかり知らぬところで、既に違法薬物を投与されていたのではないかという絶望が脳裏を過る。

無理もない。この道場ならやりかねないからだ。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

泥沼化する寸前の茶番を見かねて、左之助がようやく重い腰を上げた。

彼はこの異常者の巣窟において、最後に残された「人間の言語を解する哺乳類」として、相対的にその株をストップ高まで急上昇させていた。

 

「……仕方ねえ。これ以上見ちゃいられねえ。良いか?小さい嬢ちゃん。俺が一つだけ、本当の『喧嘩の極意』を教えてやる」

 

「え?や、やっぱり、式尉さんみたいに強くてムキムキにならないと勝てないですよ、ね?」

 

左之助は白い歯を見せ、燕の小さな頭へ無造作に手を置いた。

 

「ちげえよ。喧嘩ってのはな、『強いほうが勝つ』んじゃねえ。……『倒れないほうが勝つ』んだよ」

 

その一言に、燕は目をぱちぱちと瞬かせた。

あまりにもまともで、そして血の通った言葉だったからだ。

 

「倒れない……ほう?」

 

「ああ。いくら殴られても、蹴られても……絶対に立ち上がって、最後まで相手にガン飛ばしてやりゃあ、大抵の悪党はビビって逃げるもんさ。大事なのは、引かねえ『意地』だ」

 

筋肉至上主義でも、違法薬物でも、重火器でも、暗殺術でもない。

自分の心の在り方を説いてくれるまともな大人に、ようやく遭遇できたという安堵の表情だ。

 

「(……すごくまとも!この道場で初めて、人間の言葉を聞いた気がする!)……はい!左之助さん!!私、倒れません!」

 

「よし。俺からはこれだけだ。あとは心意気の問題だぜ。まあ、銃ぶっ放す才能があるならそれも武器だが、最後に頼りになるのは自分の芯の強さだからな」

 

「え?あの……てっきり、ドツキ合いの特訓でボコボコに殴られるかと思いました」

 

「バーカ。俺は、こんな小さい女の子を殴るほど落ちぶれちゃいねえよ」

 

燕の瞳に、感激の涙が浮かぶ。

 

「左之助さん……!本当に、普通に優しいお兄さんですね。……でも、あっちの特訓は……」

 

燕が視線を向けた先、道場の中央では阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていた。

 

明神弥彦が、連日恒例となっている「死の一歩手前フルコース」の真っ最中なのである。

 

「弥彦!あんたも特訓よ!!母さんの三段突きを躱してみなさい!!」

 

琴が満面の笑みで大地を踏み砕く。

次の瞬間、音速を超えた突きが小柄な腹部へ深々と突き刺さった。

 

「ぐほおおおおぉぉぉ!!?」

 

弥彦が木刀ごとボールのように吹っ飛ぶ。

手加減はしているのだろう。

 

しかしそれは、致死率が百パーセントから十パーセントに引き下げられただけの、極めて悪質な手加減である。

 

「弥彦ちゃん大丈夫?次は、お彦さんが優しく抜刀術で斬る。死なない程度に急所を外す」

 

「優しくの意味がおかしいんだよ!!」

 

という正論の叫びも虚しく、お彦の情け容赦ない峰打ちが炸裂する。

 

「ぐえええええぇぇぇ!!?」

 

空中できりもみ回転しながら地面へ墜落する弥彦。

皮肉なことに、毎日の落下実験のおかげで受け身の技術だけは達人クラスへと変貌を遂げていた。

 

薫も負けじと拷問の列に加わる。

 

「弥彦、甘いわよ!神谷活心流の奥義は『柄』よ!!鍔迫り合いからの柄の間合いを会得しなさい!!ほら!膝拉ぎ!!」

 

「いてええええぇぇぇ!!」

 

関節が聞いたこともない異音を発する。

やっていることはもはや剣術の指導などではなく、中世ヨーロッパの異端審問そのものであった。

 

そして大トリを飾るのは、この道場における理不尽の権化、飛天御剣流の伝承者である。

 

「弥彦……。飛天御剣流は殺人剣ゆえ、お主に直に教えることはできん。……だが、その身に『食らって』学ぶことはあろう。行くでござる!龍翔閃!!」

 

「待て待て待て待て――」

 

「ぐああああああぁぁぁぁ!!!!」

 

顎を完璧に打ち抜かれ、弥彦の体が物理法則を無視して道場の天井スレスレまで舞い上がる。

その惨状を見学させられている燕の顔面が、恐怖で青ざめるのも当然であった。

 

「……左之助さん。弥彦君、死んじゃいませんか……?」

 

「……あいつは打たれ強いからな。まあ、生きてりゃ強くなるさ」

 

「結論が雑すぎません……?」

 

だが悲しいかな、現状の弥彦を表現するのにこれ以上正確なカルテは存在しない。

「死ななければ明日は今日より強い」

それが神谷道場の掲げる、狂気に満ちた一貫教育であった。

絶対的に間違っているのに、なぜか芯が通っているのが腹立たしい。

 

それでも燕がこの魔境から全速力で逃亡しないのは、毎朝のように致死量の暴力を浴びながらも、ゴキブリ並みの生命力で這い上がってくる弥彦のしぶとさに、奇妙な説得力を感じていたからだ。

 

痛いし理不尽だし、巻き込まれれば命の保証はない。

だが、この狂人共は決して「殺す」ために暴力を振るっているのではなく、「生かしたまま限界まで強化する」という目的においてのみ、異常なまでの本気を出している。

 

ベクトルの向きが地獄の底を向いているだけで、彼らなりの愛情なのだと、燕の賢い脳は理解してしまっていた。

 

そうして、致死量の愛情にまみれた数日が過ぎ去る。

理不尽な砂袋マラソン、骨が軋む腕立て伏せ未遂、コンプライアンス違反の丸薬、そして左之助の泥臭い喧嘩哲学。

すべてがごった煮となって燕の細胞へと染み込んでいく。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

そして、その発芽を確認するかのように、夕暮れ時の路地裏へ、悪趣味な障害物が現れた。

赤べこからの帰路。

 

裏通りに入った途端、暖かな店の灯りは届かなくなり、湿った冷気が肌を刺す。

一人歩きする燕の足取りは、特訓の疲労で鉛のように重い。

道を塞ぐように立ちはだかったのは、薄汚れた野心を抱えた男、長岡であった。

 

「おい燕!!良くもこの間はヤクザのガキを嗾けてくれたな!!恥をかかされたぜ!」

 

燕の肩が微かに跳ねる。

だが彼女は、後ずさるよりも先に、相手の目を真っ向から見据えた。

その動作には、明らかな変化があった。

 

「長岡様……」

 

「今度こそ、店主の家の鍵型をよこせ!!さもなくば、ここで……!」

 

長岡の脳みそは旧石器時代からアップデートされていない。

声を荒らげて脅せば、弱い女子供はすぐに泣いてひれ伏すという、カビの生えた成功体験にすがりついているのだ。

 

燕の右手が、無意識のうちに懐へと滑り込む。

そこには、冷たい鉄の感触を持つリボルバーが眠っている。

撃鉄を起こし、引き金を引けばすべてが終わる。

 

地下射撃場で覚醒した「トリガーハッピー燕」が顔を出せば、長岡など一瞬にして風通しの良い肉塊へと変わる。

燕自身も、その絶対的な暴力のアドバンテージを理解していた。

 

『……銃を抜けば、この人を一瞬で蜂の巣にできる。……でも』

 

その瞬間、脳漿を突き破るように蘇ったのは、左之助の言葉だった。

『いくら殴られても、蹴られても、絶対に立ち上がって、最後まで相手にガン飛ばしてやりゃあ……大抵の悪党はビビって逃げるもんさ』

 

燕は、冷たい銃把からゆっくりと指を離した。

そして、夕日を背に立つ長岡を、射殺くような視線で睨みつける。

 

「…………嫌です」

 

長岡の顔面が、沸騰したヤカンのようにどす黒く染まる。

 

「なんだと!?このクソガキが!!」

 

容赦のない拳が、少女の顔面を捉える。

鈍い打撃音と共に燕の体が宙に浮き、無残に地面へと叩きつけられた。

 

だが、燕は泥にまみれたままではいなかった。

口の中に広がる鉄の味を飲み込み、視界の揺れを歯を食いしばってねじ伏せる。

両手で地面を掴み、ふらつく足で再び立ち上がった。

そして、赤く腫れ上がった頬のまま、長岡の目を真っ向から射抜く。

 

長岡が苛立ちに任せて舌打ちを鳴らす。

 

「この……!」

 

蹴りが腹をえぐる。

髪を無造作に掴まれ、硬い土へ何度も叩きつけられる。

細い四肢には容赦なく擦り傷が刻まれていく。

 

通常の女児であれば、失禁して命乞いをする局面だ。

だが燕は、頑なにリボルバーを抜かない。

抜かずに、何度地面を舐めさせられても、ゾンビのように立ち上がり続けた。

 

それでも彼女は瞬きすら惜しむように、長岡を睨み続けた。

勝敗を決するのは腕力ではない。

どちらの精神が先にぶっ壊れるかという、狂気に満ちたチキンレースであった。

 

「ゼェ……ハァ……!この!くそ!いい加減に……よこせ!!なんでお前みたいな小間使いが、そこまで意地を張る!!」

 

先に呼吸のペースを乱したのは、暴力を振るう側の長岡であった。

サンドバッグが反撃してこないにも関わらず、殴る方が精神をすり減らしていく。

何度破壊しても、その瞳に宿る光が消えない。

 

絶望を知らない相手を一方的に殴り続けるという行為は、加害者の精神をじわじわと侵食する猛毒なのだ。

 

燕は切れた唇から血の筋を垂らしながら、明確な殺意を込めて言い放つ。

 

「……絶対に、嫌です!!!!私はもう……逃げません!!」

 

声帯は恐怖で引きつっている。

痛覚は限界を突破している。

だが、その魂だけは鋼鉄のように折れていなかった。

 

長岡の中で、なけなしの理性の糸がプツリと切れる音がした。

 

「このアマ………死ね!殺してやる!!」

 

仕込み杖から、凶悪な白刃が引き抜かれる。

夕闇の残滓を反射してギラつくその刃が振り下ろされれば、満身創痍の燕を両断するのは容易い。

もはや懐の銃に手を伸ばす猶予すら残されていなかった。

 

だが、その刹那である。

 

ゴゴゴゴゴゴゴゴッ…………!!!

 

路地裏の空気が、物理的な質量を持って長岡の全身を押し潰した。

大気中の酸素が突如として致死性の毒ガスに変異したかのような、圧倒的なプレッシャー。

全方位から突き刺さる濃密な「死」の気配に、長岡の細胞が悲鳴を上げた。

 

「へ………?あ……………こ、これは……」

 

白刃を天に掲げたまま、長岡の肉体が硬直する。

重力に逆らう力を失い、膝が情けなく地面に落ちる。

上下の歯がカチカチと鳴り、肺が呼吸の仕方を忘れる。

 

人間という脆弱な生き物は、致死量の殺気を浴びるとバグを起こしてフリーズするのだという、見事な臨床データであった。

 

「……もう、私はあなたの思い通りにはなりません!!」

 

その小さな背中は、歴戦の猛者のように頼もしく見えた。

理不尽な暴力に屈することなく、己の意地を貫き通した少女の誇り高き姿であった。

 

燕は一度も後ろを振り返ることなく、堂々たる足取りで路地を去っていく。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

彼女の姿が完全に路地の角へ消えたのを確認し、薄汚れた影の中から、四体の死神が音もなく具現化した。

 

長岡は地面に顔を擦り付けたまま、恐怖で涙と鼻水を垂れ流している。

見えない脅威が、可視化された絶望へとアップグレードされたのだ。

彼の膀胱が限界を迎えるのは、もはや時間の問題であった。

 

最初に動いたのは、お彦である。

気づけば、長岡の頸動脈には氷のように冷たい刃が押し当てられていた。

 

「…………お前。ウチの可愛い燕を、何十回も殴りまくった。……許さない。三枚おろしにする」

 

「ひっ!!?」

 

長岡の喉から、カエルが潰れたような奇声が漏れる。

お彦のトーンには比喩表現という甘えが存在しない。

魚を捌くのと同じテンションで、本気で三枚におろそうとしているのが最大の恐怖であった。

 

続いて、夜叉の如き笑みを浮かべた琴が、愛刀の峰で長岡の肩をリズミカルに叩く。

とん、とん、という軽い響きに反して、長岡の肩は脱臼しそうなほど跳ね上がる。

 

「貴様の首くらい、瞬きする間に落とせるんだけどね……。燕ちゃん、本当に立派だったわ。あの子の強さと意地に免じて、今は首が繋がってると思いなさい」

 

「ああ…………あ、ああぁっ……」

 

長岡は既に言語能力を喪失していた。

ただ、自らの命が風前の灯火であることだけは骨の髄まで理解している。

 

一歩引いた立ち位置から、剣心が絶対零度の視線で長岡をゴミのように見下ろす。

そこに普段の温厚な流浪人の面影はない。

人斬りそのものの眼光であった。

 

「……我々が手を出せば、せっかく自分の意志で暴力に耐え抜いた燕殿の『心意気』に水を差すことになる。ゆえに、最後まで見届けたでござるよ」

 

「えへええ………。た、助け……」

 

「助けはもう終わったでござる。今あるのは通告だけでござる」

 

最後に、死の宣告を携えた蒼紫が歩み寄る。

長身の影が、這いつくばる長岡を完全に飲み込んだ。

 

蒼紫は一切の感情を交えず、靴の裏で長岡の顔面を無造作に踏み躙る。

小太刀の柄で顎関節をグリグリと粉砕しそうな勢いで押し上げ、地獄の底から響くような声で告げた。

 

「……貴様は今すぐ、この町……いや、東京から完全に消えろ。……そうだな。果てしなく雪深い、北海道の札幌にでも消え去れ。二度と、弥彦と燕の前にその面を晒すな」

 

「さ、札幌……!?」

 

唐突に提示された具体的な地名に、長岡の脳がバグを起こす。

「北海道の果て」「雪深い」「二度と本州へ戻るな」という、終身流刑のオプション付きである。

顔面から完全に血の気が引き、土気色へと変色した。

 

琴が冷酷に追撃する。

 

「さもなくば……次に燕ちゃんや弥彦の前にそのツラを見せたら。ここにいる『全員』で、お前に生き地獄を味わわせてやるわ」

 

「お義母さん、いいこと言う」

 

「今はそこ褒めなくていいのよ」

 

この期に及んでの内輪もめすら、長岡にとっては狂気の演出にしか見えない。

この四人は、間違いなく本気で自分をミンチにする。

その絶対的な真理が、長岡の精神構造を完全に破壊した。

 

「す………すいやせーーーーーん!!!!今すぐ!今すぐ北の果てに消えまさぁぁぁ!!!」

 

土下座の勢い余って地面に額をめり込ませながら、長岡は魂からの絶叫を上げた。

旗本のプライドは原子レベルで消滅し、残されたのは生存本能のみであった。

 

「いい返事」

 

琴がご満悦の表情で頷く。

 

「……札幌の方々には申し訳ないでござるな」

 

「今夜のうちに発て。汽車でも船でも使え。金がなければ這ってでも行け。……次に本州の土を踏んだ時は、北海道へ帰すのでは済まさん」

 

長岡は首がもげるほどの勢いで縦に振り続ける。

もうその動作しかプログラムされていない壊れた機械のようだった。

札幌に到着する頃には、燕を脅迫した記憶など完全に吹き飛び、幕末の妖怪四匹に囲まれたトラウマだけが彼の脳髄に刻み込まれていることだろう。

 

さらに蒼紫は、逃げ道を塞ぐように念を押す。

 

「見張りはつける。函館で降りても、室蘭へ逃げても、小樽へ紛れても無駄だ。札幌まで行け。そこで雪と一緒に縮こまって暮らせ」

 

「北海道の土地勘が妙に具体的なんだよ!!」

 

左之助の的確なツッコミも、長岡の耳には届いていない。

彼の脳内マップにおいて、札幌は既に脱出不可能な監獄都市として固定されていた。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

一方その頃、安全圏まで離脱した燕は、表通りの煉瓦壁に手をつき、荒い呼吸を整えていた。

打撲の傷はズキズキと熱を持ち、恐怖の余韻で膝がガクガクと震えている。

それでも、今日は決して背中を見せなかった。

 

左之助の泥臭い教えだけを頼りに、自らの足で立ち続けた。

その確かな自己肯定感だけが、痛みの中で熱く脈打っていた。

 

神谷道場の異常者たちは、そんな彼女の背中を物陰からこっそりと見守っている。

保護者ヅラにも程があるが、今夜に限って言えば、その過剰な暴力装置が燕の精神的成長の良いスパイスになったことは否めない。

 

「……立派だったわね」

 

「うん」

 

「燕、思ったより折れない。いい妾」

 

「そこだけは修正しろよ……」

 

左之助が疲れたように頭を抱える。

 

剣心は苦笑しながら肩をすくめた。

 

「まあ、少なくとも拳銃だけに頼らず、自分の足で立ったのは大きいでござる。あれなら、銃を持たぬ時でも簡単には潰れぬでござろう」

 

「弥彦の隣に立つなら、あれくらいの意地は必要だ」

 

「だから父親目線で言うなっつーの」

 

左之助のツッコミは、もはや様式美の域に達していた。

だが蒼紫の耳には入らない。彼の中では既に、燕は立派な嫁として戸籍に登録されていた。

 

「しかしまあ」

 

「結局いちばんまともな修行になってたの、俺の『倒れないほうが勝つ』だけじゃねえか?」

 

「そうでござるな」

 

「この家では、まともなことを一つ言うだけで、相対的に聖人君子として崇められるのでござる」

 

「そんなバグった基準で聖人にされても困るわね」

 

その夜、長岡はガタガタと震えながら本気で夜逃げの準備に追われることとなる。

幕末のレジェンド級の殺気を致死量まで浴びせられたのだ。本州にとどまるという選択肢は、彼の辞書から完全に抹消されていた。

 

神谷道場の過保護すぎる死神たちに見守られ、三条燕は着実に狂気と強さを身につけていく。

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

翌朝、燕は赤く腫れた頬に湿布を貼り、無駄に栄養価の高いスタミナ朝粥を前にして、赤べこの裏口で硬直していた。

昨夜の恐怖と痛みは、まだ細胞に焼き付いている。

だが不思議なことに、絶望感はなかった。自分で立ち上がれたという事実が、痛みを麻酔のように和らげていた。

 

「どうした燕ちゃん。顔、まだ痛むのかい?」

 

「い、いえ……。大丈夫、です」

 

その「大丈夫」は、神谷道場で乱用される自己暗示のようなそれとは違い、地に足のついた確かな響きを持っていた。

 

もちろん、その数時間後には神谷道場でお彦から「うん、じゃあ今日は砂袋を三つ増やす」と無慈悲な宣告を受け、「それは全然大丈夫じゃありませんー!!」と悲鳴を上げながら庭を走り回ることになるのだが、それはまた別の物語である。

 

少なくとも、生き延びた娘は、ただ泣き喚くだけの脆弱なモブキャラを完全に卒業していた。




個人的には、「倒れないほうが勝つ」と「札幌まで行け」がかなり好きです。
笑ったところ、しびれたところ、燕ちゃんの成長を感じた瞬間があれば、ぜひ感想をいただけると嬉しいです。

神谷道場はどちらにつく?

  • 志々雄一派
  • 明治政府
  • 第三勢力
  • 独自路線
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